原作雑土で連載してみる09 終わったと思った。
あれで終わらない方がおかしい。
なのに、終わらなかった。
意味がわからない。
雑渡との関係が終わった、と土井が思って、しばらく経った頃。土井は表向き、前と変わりなく日々を送っていた。
山田は何も聞いてこなかったから、土井は雑渡と切れた事を言っていなかった。
心の整理がついたら言おうと思いつつ、日々の生活に流されて、機を逃していたのだ。
心配されているのは分かっているから、腹を括って話そうと、思った矢先。
届いた。
雑渡からの呼び出しが。
一体何事かと思いながらも、誰にも黙って指定された場所に行ってしまった己が、土井には理解しきれていない。
しかもそれは、一度ではなかった。
「何のご用ですか」
呼ばれるたびに、会うたびに、土井は雑渡へ同じ事を尋ねた。
今夜も同じだ。待ち合わせの小屋に入ってくるなり問う土井に、雑渡はやはりいつものように笑う。
「用件は、前と特に変わっていないが」
「もう呼ばないで欲しいと、前にも言ったはずです。私の言葉を、聞いておられないのですか?」
「聞いた覚えはあるが、承知した覚えはない」
「屁理屈を……!」
「ならば、来なければいいものを」
笑いを含んだ声で言われ、思わず雑渡を睨み付ける。
そう、来なければいい。土井だって、そんな事はわかっている。
雑渡が本当に土井へ用事があるのならば、忍術学園に来る。こっそりと呼び出したりしない。
「……もう私に用はないはずでは?」
「そもそも、私の用などとっくに終わっていた」
「はぁ?」
咄嗟に出たのは、疑問の声。
だが、言われてみれば、確かにそうだ。土井の尊奈門への感情など、何度も会わなくても分かったはずだ。土井にそれを隠す気はなかったのだから。
「……何を企んでいるんです?」
不信感を露わにした土井を、雑渡は見る。じっと、黙ったままで。
先に居心地の悪さを感じ始めたのは、土井の方だった。
「わからないなら、調べればいい」
「は?」
「土井殿は忍者だろう?」
つまりは、雑渡は答える気がないという事だ。
これは単に、面白がられているのでは?
不愉快な考えが頭に浮かぶ。
「いつまでこのような事を続けるのですか」
「あなたが、呼べば来るうちは」
そう返されたら、土井は言い返せない。そう、雑渡は土井を一方的に呼ぶだけで、迎えに来る訳ではない。土井が無視すればいいだけの話なのだ。
一度、本当に無視をした事もある。けれど、用事もないのに彼を無視するのは、落ち着かなかった。
一方的な約束の刻限が近付くと、そわそわと落ち着かない気持ちになる。本当に待っているのか、考えてしまう。
ぐっと堪えて、行かずに終わったとする。
そうすると、その数日後に雑渡が忍術学園を訪れた。あえて土井の所までは来ないが、遠目に顔を合わせる。
雑渡と約束をした事はない。常に雑渡からの一方的な呼び出しだ。けれど、約束をすっぽかしたような引け目を感じてしまった。
雑渡は何も言ってこなかった。そして幾日か経った後、何事もなかったかのように再度誘いを寄越した。
土井はそれを無視できなかった。そして気付けば、雑渡との関係は振り出しに戻っていた。
土井は後悔した。別れたと、山田に話しておけば良かった。
そうすれば、少なくとも易々と戻ったりはしなかっただろう。
だが、今更だ。後悔しても、遅い。
一旦思考を切り上げて、土井は雑渡に目を向けた。彼は土井が黙って考え込む間、何も言わずに土井を見ていた。どこか、面白そうな顔で。
追求は諦めよう。今日のところは。
「考え事は終わったかな?」
「終わってはいません。続きは明日にしようと思っただけです」
腹が立っても、雑渡との時間を味わう事をせず帰る選択肢はない。
毎回会える訳ではない。土井に、あるいは雑渡に予定ができてしまい、待ちぼうけになる事はある。お互いに。
会える時間は、触れていたい。
土井の望みはいつも同じだ。雑渡の望みは分からない。が、身体を重ねている間は、余計な事を考えなくて済む。
肌に触れて思考が焼き切れるような感覚があるうちは、この関係を断てない気がした。少なくとも、土井からは。
土井はそう暇ではない。であるから、気になったとしても、一日中、雑渡の事ばかり考えたりはしない。
隙間の時間があると、考えてしまうだけだ。
まさに今、内職のために黙々と手を動かしている時の様な。
今日は学園が休みで、土井はきり丸と長屋に帰っていた。
だが土井は一人で内職に勤しんでおり、きり丸は出掛けている。もちろん、アルバイトだ。
今回、きり丸は、アルバイトを引き受けすぎるというミスをした。そして、土井に内職を任せて、乱太郎としんべえヱを連れて別のアルバイト先へと向かい、帰ってきたら三人で内職に入るという忙しいスケジュールが組まれた。
きり丸たち三人が帰ってくるまで、まだしばらくあるだろう。
内職はとても一人で終わる量ではないから、早く帰ってきて欲しい。
土井はもう内職に慣れてしまい、手を動かしながら他の事を考える余裕がある。考えてしまうのだ、雑渡について。
相変わらず、土井の中で「雑渡の考えている事」はわからない。
そもそも、雑渡に土井への好意はない。それは最初から分かっていた事で、騙された訳ではない。
最初の起点が尊奈門絡みだったとしても、それだけにしては関係が長く続きすぎている。気まぐれなのか、単なる欲の処理なのか。
単純に考えれば、雑渡は土井との関係が気に入ったのだろうと、そういう結論になる。
彼は、意外と相手に不自由しているのかもしれない。
山田からは、時折、雑渡との事を尋ねられる。終わったと思った時に報告していれば良かったのだが、今更その辺りの経緯をするのも躊躇われる。
結局、いつも、「変わりありません」と答えている。
雑渡の目的を伝えれば、切れろと返されるのは、分かりきっていた。
この辺りになると、土井も自覚せざるを得なかった。
どんな形でもいいから、雑渡といたい。
己の中に、そんな殊勝な感情があったのが驚きだ。
恋情があったとしても、身体だけでも繋げていれば、いずれは満足するか飽きるかして、薄れるのだと思っていた。
どうにも自分は、本当に恋というものがわかっていなかったとみえる。
手を止めて、息を吐く。考え事をしながらだと内職は捗るが、気分は重くなった。
一度休憩しようかと思う頃。外から足音と、聞き覚えのある声がした。四人分の。
「ただいまぁ〜」
「遅くなってすみません〜」
「土井せんせぇ〜」
情けない生徒たちの声と共に、ぜぇぜぇと息を切らせた尊奈門が入ってきた。
「つ、着いたぞ! もう降りろ!」
尊奈門はしんべヱを背負い、乱太郎を小脇に抱えている。きり丸は乱太郎を反対側から支えており、子ども達は全員、全身汚れてぼろぼろだった。
「何があったんだ、おまえたち!?」
おかえりと返すのも忘れて土井が尋ねると、四人が一斉に話し出す。
耳から得た言葉を頭の中で整理して、
「……つまり、タソガレドキが張っていた場所に、おまえたちが入って行って、罠にかかって、助けられて手当までしてもらった上に、送ってもらったと」
簡潔にまとめれば、生徒たちからは「そうです〜」という声が上がる。
まだ乱太郎としんべヱを抱えた尊奈門は、土井を睨んだ。
「こいつら、全部の罠に引っかかったぞ! 助けるの大変だったんだからな!」
「うん……ごめんね……」
土井は謝りながら、三人を尊奈門から引き取る。
乱太郎は足を捻っている。
きり丸は少し左腕を切った。
しんべヱは大した怪我はないが、空腹で動けない。
という状態で、尊奈門が三人を土井の元へ送り届ける役目を負わされたとの事だ。
「尊奈門さん、何のお仕事だったんですか?」
「女の人が、怪我してそうな男の人と歩いてましたけど、あの人たちが目的ですか?」
「食べ物持ってますか?」
三人組が尊奈門に付き纏うのを、土井が引き剥がす。
「おまえたちは外で汚れを落として来い! それから内職! 終わったら宿題!」
えぇ〜と声を上げながらも、よい子たちは教師には逆らわない。お互いに手を貸しながら、長屋の外へ汚れを落としに行く。
尊奈門は彼らの後ろ姿を見ながら、ぼやくように言った。
「まったく……何で全員同時に罠に引っ掛かるんだ」
「あの子たちは、特に引っかかりやすいんだ……」
胃が痛い。タソガレドキに妙な借りを作ってしまった。大した事がないとはいえ、怪我をしてきたのも問題だ。
「仕事の邪魔をしてすまないね」
「ふん。私は命じられたから、送ってきただけだ」
誰に、と聞く必要はない。三人組を受け取る時、尊奈門から覚えのある匂いがした。微かな薬の匂い。雑渡と同じものだ。
雑渡の匂いは、よほど側に近付かなければわからない程度には薄い。肌を合わせるまで、土井も知らなかった。なのに今はもう、微かな移り香わかるようになってしまった。
「お詫びと礼を言っておいてくれ。そのうち、学園長からも行くだろうがね」
土井も、誰にとは言わなかった。尊奈門もあっさり頷く。
「伝えておく。他には?」
「ん?」
「ついでに、何かないのか」
言葉の意味を掴むのに、少しかかった。そういえば、前にも似たような事があった気がする。
少し考えて、思い当たる。
まさか尊奈門は、まだ土井が雑渡と恋仲だと誤解しているのか。
「あのなぁ、君……」
誤解を否定しようとして、口を閉じる。こんな所で下手な会話をしたら、生徒たちに聞かれる。
代わりに声を潜めて、尊奈門にしか聞こえない声で尋ねた。
「……聞きたいんだが」
「何だ」
「君は、あの人の私が相手でいいと思っているのか?」
「もちろん嫌だ」
即答だ。だが土井が何か言う前に、尊奈門は続けて言う。
「でも、あの方が望まれるなら、それでいい」
なるほど、心酔というのは厄介なものだ。
土井は実感をもって理解した。
雑渡の相手として、土井は良いとは言えない。恋仲は無論のこと、遊び相手としても。
どう考えても止めるべきなのに、雑渡の気持ちを優先するという。
「君が言えば、私の相手などやめるだろうに」
思わず漏れた呟きは、本心だった。だが尊奈門は眉を吊り上げて、抗議してきた。
「バカを言え。そんな軽薄なお方ではない」
そうか?
一番最初に雑渡と寝た経緯を思い出すと、とても信じられない。
だが思えば、あれも結局は遊び心ではなかった。今、目の前にいる男への過保護から来ているのだ。
腹の奥から、嫌なものが湧いてくる。
土井は話を打ち切った。声量を戻して、尊奈門に笑いかける。
「とにかく、ありがとう。で、君は内職も手伝ってくれるのか?」
「する訳ないだろう! 何でおまえは私に手伝わせようとするんだ!」
「では、お仲間の所に帰るわけか」
「おまえには関係ない」
さすがにそこまで口が軽くはないか。と思った時、
「戻りました〜」
乱太郎の声と共に、三人が戻ってきた。
立ちっぱなしで会話をしていた土井と尊奈門を見て、きり丸が声を上げる。
「先生、いつまで話してるんですか! 内職しますよ! 尊奈門さんも!」
「巻き込もうとするな! 私は帰る!」
尊奈門は「変な所が似てる」と呟いて、さっさと出て行った。
土井は後を追いかけない。その必要はなかった。
尊奈門はあの三人を抱えながら、彼らのアルバイト先付近から土井の長屋まで来た。道順的に、忍術学園の近くを通っただろう。
あれだけ目立つ連中が通って、しかも生徒が抱えられているとあらば、誰かが気付く。必要があるなら、誰かが尾行している。
だから土井は尊奈門を見送って、内職の輪に入った。
「きり丸、怪我大丈夫?」
乱太郎が尋ねると、きり丸は笑う。
「内職くらい平気だって〜」
だが、
「じゃあ宿題もできるの?」
しんべヱが尋ねた途端、顔を顰めた。
「アッイタイ! 宿題はムリ!!」
「おいッ!」
土井以外の皆が笑い、土井は胃を押さえる。生徒たちといると、気分は変わるが、胃の痛みは変わらない。
内職をしながら、三人にタソガレドキとのやり取りを尋ねる。その場にいた顔見知りの数や、彼らのやりとり、その場の雰囲気について。
一年は組の中でもトラブル遭遇率が高いだけあって、驚き怯えながらも三人はそれなりに周りを見ていた。
怪我の手当てをしてくれたのは、尊奈門だったようだ。
「尊奈門さん、手当が上手でした」
「だろうな。彼は……」
慣れているからな、と続ける言葉に棘が出そうで、土井は言葉を変えた。
「プロだからな。手当の技術はあるだろう」
乱太郎は素直に納得する。
「そうなんですね。新野先生や伊作先輩とも、少し手順が違っていました」
「手当の方法も色々あるからな。今度、教えてもらうといい」
「はい!」
ちゃっかりと教え役を尊奈門に押し付ける。そして尊奈門は子どもは苦手と言いつつも、生徒に教えを乞われれば、素直に応えてくれる。元来、面倒見がいいのだろう。
「でも、次いつ会えるかわからないですよね」
「そうかなあ? すぐ会えるんじゃない?」
「そうそう。どうせまた、土井先生の所に挑戦しに来るだろ」
「それは来なくていいんだがな……」
尊奈門は、来るたびに着実に強くなっている。そう易々と追い抜かれるつもりはないが、いつまで狙われるのかと思う事はある。
雑渡との関係の始まりは、尊奈門だ。
彼が土井に付き纏って来なければ、そもそもこんなややこしい関係にはならなかった。雑渡とは、あくまで部外者同士の薄い関係でいられたはずだ。
今の状況と、どちらが良かったか?
己の内から湧いた問いに、土井は答えられない。
「土井先生、手が止まってますよ!」
きり丸の声が飛ぶ。
「はいはい」
子どもたちの前だ。今は考えるのをやめよう。
タソガレドキに対する思考を振り払い、土井は手を動かし始めた。生徒たちの顔を見れば、彼らの事は遠くへ行く。
雑渡が忍術学園内で土井に声を掛けて来ないのは、そのせいだろうか。
ふと、そう思った。
そんな出来事から間をおかずに、雑渡からの呼び出しがあった。
「先日は、うちの生徒がご迷惑をおかけしました」
「うん」
顔を合わせてすぐに、土井は頭を下げた。雑渡は簡単に答えて、そこからは三人組の事には触れなかった。
土井から深掘りしたい話でもない。正式な礼と詫びは、学園長を通じてもう済んでいる。
それ以上触れずに済むかと内心で安堵していたが、事が終わると、雑渡は早速その時の事を話し出した。
生徒たちに迷惑をかけられた話を、雑渡は楽しそうに話す。土井は呆れた。様々な意味で。
尊奈門が迷惑そうにしていたのを思い出す。あちらが普通の反応だろう。
「あの」
「何」
言いたい事は色々あったが、まず一番に思った事を素直に口に出す。
「情事の後に話すことではないでしょう」
「おや。する前に話したら萎えるかと思って、気を遣ったんだが」
「それは……」
生徒たちの顔を思い浮かべてしまったら、雑渡に抱かれるのは抵抗がある。それは確かだが、後なら良いというものでもない。
「それは、あなたがその気にさせてくれれば良いだけでしょうよ」
「ほお」
「違いますか?」
「いや」
おかしな会話だなと思う。まるで雑渡が土井を求めて、土井が焦らしているかのようだ。
「まぁ、萎えたら私はそのまま帰るだけですがね」
「呼んだ私の事は無視か」
「別のお相手でも呼べばいいでしょう」
実際にされたら不愉快になるくせに、土井はそんな事を口にする。
雑渡に対して、頑なに意地を張る癖がついてしまった。素直になってしまったら、惚れている分、こちらが不利なのだ。
雑渡は言葉を切った。戯言のやり取りが不自然に途切れたから、土井はどうかしたのかと雑渡を見る。
彼は呆れたような顔で、土井を見ていた。
「私に呼ばれる理由を、まだわかっていない様だ」
挑発するような言葉には、反応しないようにしている。雑渡との言い合いほど不毛なものはない。まず勝てないし、勝とうと焦れば墓穴を掘る。
そう思うが、なかなか上手くはいかない。
「あなたが教えてくれれば早いんですがねぇ」
土井はそう返した。
「それでは詰まらない」
何が詰まらないだ。人をおちょくって。
苛立ちを隠しながら、土井は身支度を始める。どれだけ遅くなろうと、土井は雑渡と丸々一晩は過ごさない。彼の側では、眠れないからだ。
「もう少し付き合ってくれても良いのでは?」
「生徒の話はしません」
「残念。先日の怪我の具合を聞きたかったのだけどね」
「……おかげさまで、怪我はもう治っていますよ。三人とも毎日元気に飛び回っていますので、ご心配なく」
「それは良かった。尊奈門にも伝えておこう」
「嫌がるのでは?」
尊奈門が子供好きとは思えない。面倒見はいいが、好んで生徒に絡んできたりはしない。雑渡と違って。
「あれは苦手なものを減らした方がいい」
「……なるほど」
忍玉に弱い、くのいちに弱いでは、忍者としては困るだろう。
話をしながら、雑渡も身支度を始めていた。土井は事が終わればさっさと帰るから、その後で雑渡がどう過ごしているかは知らない。
ただ、彼が土井の前で帰り支度をするのは珍しかった。
「ご用事でもあるんですか?」
「こう見えて私も忙しくてね」
忙しい理由は、と問おうとして、やめた。時間の無駄だ。
雑渡は解いてしまった包帯を撒き直している。
「手伝いますか?」
身支度を終えた土井が、断られるだろうと思いながらも一応聞いてみると、
「頼む」
と返ってきた。これまた珍しいと思いながら、床に座ったままの雑渡の側に、膝をつく。
土井も教師になってそれなりが経つし、忍者になっても長い。酷い怪我も、その手当も、慣れている。
雑渡の身体には薬の匂いが染み付いている。その匂いに、先日の尊奈門を思い出した。同時に、腹の底の嫌な気持ちも。
ふと、雑渡を動揺させてやりたくなった。
包帯を巻き終えた土井は、雑渡の顔を覗き込む。
「ところで、前々からお聞きしたかったのですが」
「何かな」
「あなたに遊ばれた私が気持ちを拗らせて、あなたを害するとはお考えにならないので?」
「私を?」
「あるいは、尊奈門を」
雑渡の隻眼が、土井に向けられる。土井は続けた。
「どうして彼を無防備に私の元へ来させるのですか? 私に彼への下心がなかったとしても、あなたのせいで私が尊奈門に悪意を持つとは、考えなかったのですか?」
雑渡が尊奈門に向けているのは、恋情ではない。もっと深い。
雑渡にとって、尊奈門は庇護する対象だ。尊奈門だって、雑渡に心酔はしても恋をしている訳ではない。
わかっている。
それでも、何も思わないでいるのは不可能だった。
雑渡に愛されて、その愛情にどこか無頓着な尊奈門へ、薄暗い感情を抱いてしまう。
尊奈門は何も悪くない。だから、彼にそれをぶつけるような真似はしない。
だが、雑渡には遠慮なくぶつけていいだろう。何もかも、この男が原因なのだから。
「悪意を持ったとして、どうするつもりだ?」
雑渡の声から揶揄うような色が消えたから、少しだけ溜飲が下がる。同時に、腹の底にどす黒いものが落ちる。
「痛めつけたりはしませんよ。さすがに、タソガレドキを敵に回すつもりはありませんからね。そうですね、例えば」
雑渡に顔を近づける。彼の目を覗き込んで、低い声で言う。
「あなたが私にした事を、そのまま彼に返す」
言い終わるが早いか、腕を掴まれて引き倒される。
「例えば、このように?」
目元は笑っているが、土井の手首を掴む力は常よりも強い。
わかりやすい事だ。
「ええ。彼をこうするのは、力で叩きのめすよりも簡単に見えますから」
「あまり挑発するものではない」
「それは無理な相談ですね」
「ほう」
「挑発でもしなければ、あなたは私を見ないでしょう」
雑渡は片手は手首を掴んだまま、もう片手を土井の首へかける。
「土井殿」
首に力がかかる。
「どうにもあなたは私を買い被っているようだが、私も人間でね」
何の話だ。問おうにも、声が出せない。かろうじて細い息ができるギリギリの力で、締められる。
「そう熱烈に想いを告げられれば、心も揺れる」
土井は手を伸ばし、雑渡の手首を掴む。びくともしない。
身体を起こそうにも、いつの間にか雑渡の足が巻きつき、身動きが取れない。視界が、思考が、ぼやけてくる。
雑渡は面白そうに目を細めて、ぐいと力を入れて更に締めてから、急に手を離した。
土井は床に崩れ落ち、激しく咳き込む。急に喉に流れ込んできた空気が、上手く身体に入っていかない。苦しい息の中でも、どうにか雑渡を睨むが、目は涙で滲んで、彼の表情は見えなかった。
雑渡は立ち上がり、素早く着替えを済ませた。
「では、また。土井先生」
起き上がれない土井を覗き込んだ目元は、笑うように細められていた。
「こ、のッ……」
まだろくに声が出せない土井は、その先を続けられない。忍び笑いを残した雑渡は、土井に背を向けて、のんびりと出て行く。
何度も咳き込み、荒い息を整えながら、土井は思う。
あの男、どうにか殺せないかな。
息の足りない頭で考えても、結論はひとつだった。
無理だな。
もう何の気配もなくなり、ならいいかと、大の字に転がる。仰向けになって、息を吸って、吐く。段々と落ち着いて来た。
息も、心も。
あの男は訳が分からない。心が動いた相手にするのが、首を絞める事なのか?
苛立ちが湧き上がる。
もう二度と会うか、と幾度も思った事をまた思う。
心が言う事を聞かない。心が聞かなければ、身体も聞かない。
雑渡を殺せたら楽だろうか。時々、思う。別に報われない想いに絶望したとか、雑渡を殺して独り占めしたいとか、そんな切ない動機ではない。
ただこの心を占めて、にやついた顔をするあの男が、単純に邪魔だった。
「くそ……」
内心が漏れた。
息を大きく吸って、吐く。
一気に膨れ上がった激情は、鎮火するのも早かった。
しかし、まあ。
そんな理由で人を殺すなんて良くないな。教師としては。
土井は息を整えると、起き上がった。
「はぁ。まだ続くのか」
うんざりが九割を占める。残りの一割は苛立ちと、浮き立つ心が半分ずつ。
もう一度ため息をつきながら、跡になっているであろう首筋をさすった。
また山田先生に怒られる。
それに生徒たちにどう隠すか。帰り道で考えよう。
そうして忍術学園に帰った土井は、山田に散々怒られた。
「二人ともいい歳をして、何をしているのやら」
最後には呆れられて、土井は小さくなるしかない。もうしません、と子どものように言う土井に、山田は苦笑いしていた。
首筋の物騒な跡が消えて、しばらくした頃だった。
土井の耳に、雑渡昆奈門が妻を娶るという噂が入ってきたのは。