原作雑土で連載してみる13 あまりにも意外な光景だった。
「は?」
思わず口から漏れた呟きに、土井が不審そうな顔をする。彼は尊奈門にしっかりと腕を掴まれており、無理に連れて来られたのは明らかだ。頭が痛くなってきた。
尊奈門は雑渡と土井の反応を気にもせず、
「それでは、私は任務に戻ります。夕方前には戻りますので!」
ぱっと土井から腕を離し、入って来たのと同じくらいの勢いで行ってしまう。
賑やかな気配が消えると、後には状況をよく飲み込めていない男が二人残された。
「土井殿、何故ここに?」
「……それを聞きたいのは、私なのですが」
尊奈門に無理矢理連れて来られた不機嫌を隠しもせず、それでも土井は事情を話し始めた。
彼は雑渡たちと同じく、この辺りでドクタケの事情を調べに来ていた。単身で。
尊奈門とは、偶然顔を合わせたという。互いの状況を察する事はできたから、一度はそのまま素知らぬ顔ですれ違った。
が、すぐに、尊奈門は土井を追いかけて来た。いきなり腕を掴まれたという。尊奈門は周りを気にしたのか、低い声で土井に言った。
「おい、顔を貸せ」
「え、今?」
「話がある」
喧嘩腰でもなく、殺気立っている訳でもない。ただやけに切実な顔をした尊奈門は、真っ直ぐに土井を見る。
「逃げたら、おまえの名を大声で呼んで追いかける」
真面目な顔で言われた。
目立つのも困るし、罠という風でもない。とりあえず来てみたら、雑渡がいたという訳だ。
「あなたの命令ではないようですね」
「もちろんだ。申し訳ない。尊奈門は後で叱っておく」
雑渡は素直に謝罪した。
土井の表情から、少しだけ険しさが消える。どうやら、雑渡の言葉を信じてくれた様子だ。
「それで、尊奈門はどうして私をここに連れて来たのです」
「私たちを会わせたかったのだろうな」
土井は「ああ」と小さく呟く。尊奈門がどんな誤解をしているか、土井も理解しているらしい。
「私に何か御用事でもあるのですか?」
雑渡が呼んだのではないとわかっても、土井の態度は固い。
それも仕方がない。それくらいの間、土井の事を放っていたのは雑渡だ。
「手の怪我は治ったかな?」
「……とっくに」
素っ気ない答えが投げられる。握られた拳に跡が残っているか、この距離では確認できなかった。
「話がしたい。こちらへ来てくれないか」
促しても、土井は動かない。だが、出ていく様子もない。躊躇っている。
雑渡は動かずに待った。無理矢理引きずり込んでも仕方がない。
沈黙の末、
「……あまり時間は取れませんよ」
渋々という様子で、土井はそう答えた。
話をする事には応じたものの、長居する気はないようだ。文机のある奥の部屋まで戻って、雑渡が中に入るよう促しても、土井は部屋の入り口から奥には来ようとしない。
「私は座りたいのだがね」
「どうぞ。私の事はお気になさらず」
やれやれ、と呟きながら、雑渡は座る。向かいに土井が座っても支障のない位置で。土井は一歩中に入ったが、それ以上進もうとはせず、立ったままだ。
先に言葉を発したのは、土井だった。
「尊奈門に何を話したのですか?」
何を聞かれているか、確認するまでもない。
「いいや。何も言っていない。私たちが最近会っていないのを、心配していたらしい」
「……そうですか」
あまり信じていない様子だ。
「あの子が私の看病をしていた話を聞いた事はあるか?」
「存じております」
「そのせいで、私の様子を見るのが癖のようになっていてね。時々、誰よりも早く、私の様子に気付く」
下手をすれば、雑渡自身よりも鋭い時がある。助かる時もあれば、困る時もあった。今回がどちらかは、まだ判断しかねた。
「それで私が巻き込まれたと」
返す土井の声は、冷たいものだ。彼の不機嫌の原因は、尊奈門だけではないだろう。雑渡にも怒っている。
「で、用件は?」
尋ねる声が尖っていた。
いつもなら、お決まりのように「以前と同じだ」と答えていた質問。だが、今日の雑渡は違う言葉を返した。
「私が土井殿を呼ぶ理由について、思い当たったか聞きたい」
土井は、少しだけ驚いた顔をした。
「……気まぐれでしょう」
やや間を置いて、答えらしきものを口にする。その言葉に自信を持っていないのは、声の調子で分かった。
「他には?」
「生徒の話がしたいから」
「ないとは言わないが、理由としては弱い」
「尊奈門の」
「それは済んだと言ったはずだが」
「欲求不満ですか」
「そこまで相手に不自由はしていない」
ひとつひとつ、土井の答えを潰していく。正しいものに辿り着くまで。
「嫌がらせかと思った事はありますよ」
「何のために」
「理由などいくらでも思いつきます」
「なるほど。悪意の理由は思い付くか」
それはそれで、仕方がない。雑渡は素直で優しい人間ではないのだ。
雑渡は土井の目を見た。
「だが、悪意で土井殿を弄ぶほど暇だと思われているのは、心外だ」
「暇な時だけ、私に声を掛けているのでしょう?」
「耳が痛い」
「私は、暇潰しの相手で構いませんよ」
「なるほど。放っておいたのは悪かったが、私は暇潰しとは思っていない。次の答えを頼む」
土井はあからさまに嫌な顔をした。雑渡の求める答えに辿りつかない限り、問答は終わらないと気付いたのだ。
「私の答えは、もう終わりです」
「いや。まだ触れていない可能性がある」
「……ありません」
何かを堪えるような表情で、声だった。
良かった。雑渡は思った。
まるっきり伝わっていない訳ではなさそうだ。
「逢引の理由など、もっと単純に考えれば良いものを」
「嫌です」
「何故」
「それは、あってはならない事だ」
「どうして」
「いちいち口に出さねばわからないか!?」
怒鳴り付けられ、雑渡は目を細める。珍しい。今までは雑渡が何をしても、土井はここまで感情を露わにはしなかった。
彼の内側で、何かが剥がれかけている。
「わからないとも」
雑渡の声は静かだが、低く響いた。
「どうして目を逸らす? 求めているものを、みすみす見逃す人とは思えないが」
「私は何も求めていない」
「では、何故来る?」
「それは……!」
言いかけた言葉を飲み込み、土井は息を吐く。
「あなたの、見込み違いだ」
そう口にした土井は、すぐに「違うな」と呟いて、首を振る。
「相手があなたでなければ、求めたかもしれない」
「私の信頼の問題か」
「立場も」
「今更」
「最初に言ったでしょう。面倒事は御免だ」
「それも今更だ」
「そのうち、後腐れなく捨ててくれると思っていたんですよ。雑渡さんは、そういうのが得意な方に見えたのでね」
「そんな酷い男には惚れないだろう?」
返ってきたのは、舌打ちだった。土井の苛立ちが伝わってくるが、雑渡は動じなかった。
「私は趣味が悪いんです」
「私もだ」
「あなたは素直な人が好きなのでは? 尊奈門のような」
尊奈門の名を出されても、雑渡は怒らなかった。可愛らしい嫌味を言う、と思っただけだ。
「これまでも、そうやって人の好意を無視してきたのか?」
笑いを含んだ声を、土井へ投げる。きつい目で睨みつけられた。
土井は雑渡に近付こうとはしなかったが、背を向ける事もない。向き合ったまま、息を吐いて、落ち着こうとしていた。
「……そうですね。私は無意識に、人の心を無視していたのかもしれない」
かろうじての肯定だった。何を思い出しているのか知らないが、振り返れば心当たりはあるようだ。
「でも、それの何が悪いのです? 私は忍者だ。忍務でもない色恋など、無視するのが正解でしょう」
「それは、私に応えた事実と矛盾する」
「だからもう会わないと言ったはずです」
「私は終わるつもりはない」
「勝手な事を」
「お互い様だろう」
「どうして私に手を伸ばす?」
土井の顔が歪んでいく。言葉も口調も、どんどん荒くなる。
「遊びだろうと本気だろうと、あなたならいくらでも他にいるはずだ。どうして、私を捨てておいてくれない?」
「土井殿が私を求めているから」
「私はあんたを手に入れることなど望んでいない!」
「何を怖がっている?」
土井は、一瞬詰まった。反論が来る前に、雑渡が言葉を続ける。
「私はもう悩むのをやめた。忍者など、どうせ碌な死に方はしない。いつ死ぬかもわからない。ならば、欲しいものには、早めに手を伸ばしておくべきと思った」
雑渡は土井を見据える。
「手に入りそうな所にあるものなら、余計に」
土井は目を逸らさなかった。否定も肯定もせず、雑渡の視線を跳ね返すように見返す。
その強い目が揺れているように見えるのが、自分の願望でなければ良いが。願うように思いながら、雑渡は言葉を重ねる。
「土井殿。死にかけた経験は?」
「ありますよ」
「ならば、命の儚さも知っているだろう」
はっきりと、土井の瞳が揺れる。拳を握り締めて、雑渡から目を逸らして、少しだけ俯く。雑渡ほどでないにしても大柄な男が、いつもより小さく見えた。
「……私といて、あなたに何の利がある?」
「土井殿の側にいたいという、私の欲望が満たされる」
「……はは」
乾いた笑い声と共に、土井が顔を上げて雑渡を見る。引き攣った顔は、かろうじて笑っているようにも見えた。
「それだけのために、私を引き止めるのですか? 面倒事を背負い込むのですか?」
「面倒事、か」
「そうでしょう? あなたの立場からすれば、裏切りにさえ当たるのでは?」
「うちの殿はそれを裏切りと思うタイプではないかな」
楽しげに雑渡をからかう甚兵衛の顔が浮かぶ。今浮かべたい顔ではなかった。主人の顔を振り払いながら、雑渡は「それに」と言葉を続けた。
「殿は、もうご存知だ」
「はぁぁ!?」
目を剥く土井に、苦笑いする。
「私が話した訳ではないがな」
「タソガレドキの情報網ですか?」
正確には黄昏甚兵衛と大川平次渦正の情報網だが、それは言わなかった。代わりに、
「知っているのは、殿と尊奈門だけだ」
そう伝えれば、土井は、ほっと息をついた。
「安心したか?」
「まさか」
じろりと睨まれる。
「誰にも話していないのに、上司と部下の両方にバレたという事でしょう。タソガレドキの組頭殿は、隠し事が苦手なようだ」
「そこは申し訳ないと思っている」
雑渡は素直に降参した。
張り詰めた空気が、少し緩む。しかし、土井との距離はそのままだ。
彼から、こちらに来て欲しい。
「土井半助殿」
雑渡が土井を呼ぶ。柔らかい声で。
「私はあなたが欲しい」
つられるように、土井の足が動いた。
一歩一歩、静かに、ゆっくりと近づいてくる。
座ったままの雑渡の前に、土井が立つ。いつもとは逆に、土井が雑渡を見下ろした。
「何もかも私のものになる必要はない。すべては望まない。ただ、互いの気持ちを合わせたい。それだけだ」
静かな声に対して、土井の返答は、乾いた笑い声だった。
「どうして、あなたがそれを言えるんですか」
「何か不思議かな?」
「私は忍術学園の教師です。後から面倒になるとは思わないのですか」
「なるかもしれないな」
「ならば、やめておいた方が良いでしょう。私よりも、あなたの方が、失うものが多い」
比べられるものではないと思うが、抱えるものの量で言えば、確かに雑渡の方が多いかもしれない。
「その分、私は土井殿よりも器用なつもりだが」
「器用?」
嘲るような声が、降ってきた。
「あなたが本当に器用だったら、私とこんな事になっている訳がないだろう」
見上げた土井の表情は、歪んでいた。笑っているのか、怒っているのか、泣きたいのか。彼の感情が、すべてが剥き出しになった顔だ。
もっと近くで見たいと雑渡が手を伸ばすより、土井が抱きついて来る方が早かった。土井は雑渡の首に手を回し、首筋に顔を埋める。
「私もあなたが欲しい」
食いしばった歯の隙間から漏れたような、微かな囁き。それは、苦しみながら、かろうじて絞り出した、土井の本心だった。
その顔を無理に上げさせる事はせず、雑渡は土井の背中に置いた。
そのまま背中を撫でる。泣いている子供にするように。荒かった土井の息遣いが、少しずつ静まっていく。
「もう知っておられるでしょうが」
次に聞こえた声は、もう震えてはいなかった。
「私はまともに恋などした事がない。だから、仕事のような冷静さは、求めないで頂きたい」
雑渡は土井の髪に手を絡めた。ごわついた髪は指に絡みつき、思うように撫でさせてくれない。土井らしくて、おかしくなった。
「知っている」
「物好きな方だ」
山田と同じ事を言う。雑渡は土井に気付かれないよう笑った。
しがみつく土井の腕から、少しずつ力が抜けていく。もう離れてしまうのか。残念に思った。
土井は雑渡の肩に手を乗せて、身体を離す。その顔に、もう先ほどの激情は残っていない。
代わりに、睨みつけるような強い目が、雑渡の隻眼を見据える。
「なかった事には、しませんよ」
まだ、そんな言葉を向けてくる。雑渡は堪えきれずに、笑いを浮かべた。
「されたら困る」
「本当に?」
「疑り深いな」
「あなたは本心が分かりにくいんです」
「よく言われる」
だが同時に、わかりやすいと言われる事も多い。どうやら近しい人間にとっては、雑渡は割と分かりやすい男であるらしい。
「早く慣れてくれ」
早く、私を分かりやすい男だと言うようになってくれ。
胸の内で続けた。
「慣れられる気がしません」
ぼやいた土井に、手を伸ばす。少し力を入れただけで、彼はまた雑渡の腕の中に戻った。
雑渡は、土井の左手に手を伸ばす。抵抗はない。雑渡よりも少しだけ小さい手を、じっと見た。
「ああ。もう消えているな」
土井の左手をいじりながら、雑渡が残念そうに呟きを漏らす。土井は傷の治りが早いのか、あまり目の良くない雑渡には、もう自分がつけた痕跡を見つけられなかった。
「もう少し早く会いに来て頂ければ、跡が残っていたのに」
「忙しかった」
「そればかり言う男は、振られやすいそうですよ。くの一教室の子たちが言っていました」
「耳が痛い」
土井は少し笑って、もう一度顔を上げる。
「いちおう、確認しておきます。黄昏甚兵衛様が私と切れるよう仰ったら、どうしますか?」
「切れる」
殿は言わないだろうな、と思いながらも答える。そして、反対に尋ねた。
「では、私からも。土井先生。学園長が私と別れろと仰ったらなら、どうする?」
「もちろん別れますよ」
「山田先生では?」
「別れますね」
「良い子たちなら?」
「……あの子らに気付かれるような真似はしません」
「それでも、もし知られて反対されたら?」
「……別れます、ね……」
さすがの土井も、気まずそうに目を逸らす。要は、周囲の反対を乗り越えるつもりはないという事だ。責めるつもりはない。お互い様だ。
「……雑渡さんはどうなんです。尊奈門が反対したら」
「ここへ土井殿を連れて来たのは、尊奈門だが?」
「なら、他の部下の方々は」
「殿が何も言わないのに、部下たちが何か言うはずがない。それでも心配なら、そうだな……陣左辺りまでなら、言いくるめられる。陣内は話の持って行き方次第。あとはーーー」
「いや、もういいです」
指折り部下を数え始めた雑渡を、「胃が痛くなって来た」と土井が止める。
「つまり、我々はいつ崩れてもおかしくない関係という訳だ」
「ええ、実感しました」
「大事にする気になっただろう」
「……言われなくても、大事にするつもりですよ」
怪しい答えだ。
雑渡は彼のすべてを手に入れた訳ではない。
けれど、土井半助の心の一部分は、確かに手に入れた。
今はそれでいい。すべてを手に入れたいとは、思っていない。互いに、抱えているものが多すぎる。
「もうひとつ、確認を」
土井が真面目な顔をするから、雑渡も釣られて真顔で向き直る。
「何かな?」
土井はかなり言いにくそうな顔で、それでも雑渡から目を逸らさず、口を開く。
「これからは……会いたくなれば、私から、あなたを呼んでもいいのですよね」
少し赤くなった顔が、いつになく可愛らしく見えた。これは重症だな、と内心で呆れつつ、雑渡は土井の顔に手を寄せ、甘く微笑んだ。
「もちろん、いつでも」
土井も笑い返して、そのまま、自然と唇が重なる。
これが、二人が始まったもう一つの日だった。
尊奈門は、意外とすぐに戻って来た。
「早かったな」
「はい。途中で、土井半助を見かけたので、話は終わったのかと思いまして」
尊奈門は、しばらく前にここから出た土井を見かけたらしい。一人になった雑渡が気になったのか。
もしくは、雑渡が消えていないか気になったかもしれない。雑渡が文机の前に座っていたのを見た尊奈門は、明らかに安心した顔をした。
「やつとは話せたのですか?」
「ああ。私との話が終わったからと、忍務に戻った」
土井の切り替えは早かった。幾度目かの口付けが終わると、早々に雑渡の腕から抜け出したのだ。
尊奈門に声を掛けられたから、忍務を中断してしまった。すぐに戻らなければ帰りが遅れるし、そのぶん授業が遅れる。
そう言われれば、引き止める術はない。
雑渡がそのまま彼を放したのは、次の約束を取り付ける事ができたからだ。
「尊奈門」
「はい」
手招きする雑渡の前に、尊奈門が座る。ぽん、とその頭に手を置けば、尊奈門は少し照れたような顔をして、
「私はもう子供ではありません」
と文句を言った。雑渡は目を細め、意地の悪い声で尋ねた。
「で、おまえに頼んだ忍務はどうなった?」
「うっ……」
尊奈門がたちまち言葉に詰まる。そんな余裕はなかったのだろう。
「申し訳ありません。これからまた戻りますので」
「いや、戻らなくていい。ちょうど良かった」
身体を文机に戻しながら、雑渡が言う。
「尊奈門、おつかいを頼む」
雑渡は目の前にある文を折り畳んだ。土井が去ってから急いで書いたそれには、宛名がない。
「これを忍術学園の山田先生に届けてくれ」
「はっ。お急ぎですか?」
「ああ」
雑渡は口の端を上げて、尊奈門を見た。
「土井半助が忍術学園に戻るより先に、届けられるか?」
尊奈門は少し驚いたが、すぐに、にっと笑い返した。
「無論です」
言うが早いか、文を持った尊奈門は立ち上がる。
「では、行って参ります!」
元気な声を残して出ていく尊奈門を見送る。あの勢いならば、早めに着くだろう。先手を打てた、と言ってもいいか。
雑渡は立ち上がって、出掛ける準備を始めた。忍術学園とここの往復は、それなりに時間がかかる。どんなに尊奈門が急いでも、戻るまでには日が暮れるだろう。
つまり、その間は、ドクタケの動きを探れる。
そこまで深追いはしないし無理もしない、すぐに帰る、と心の中で部下たちに言い訳しながら、雑渡は外に出た。
昼頃に見かけた雲は、もう去っていた。
土井半助は、学園への帰り道を歩いていた。
雑渡と別れてからすぐ、土井は帰路に着いた。雑渡には忍務の続きを言い訳にしたが、実を言えば、もうそれは終わっている。土井は昨日からドクタケ領にいたからだ。
ドクタケ忍者が頻繁に出入りする温泉を調べよ、というのが土井に任された調査だ。
「とはいえ、単なる慰安旅行かもしれんがのぉ」
予想なのか冗談なのか、そんな学園長の言葉が事実だった。家族連れでのんびり過ごすドクタケ忍者の顔を見ながら、ドクタケも福利厚生に力を入れ始めたのか、と土井は思った。なかなかプライベートの遠出ができない忍術学園の教師にとっては、少し羨ましい話だ。
ともあれ、何の裏もないのなら、その方が良いに決まっている。
一泊した土井が、次の予定まで少し時間を潰してから出発しよう、と考えていた最中だった。尊奈門に捕まったのは。
彼から逃げるのは面倒だから、着いて行った。そこに嘘はない。
ただ、尊奈門があれほど真剣な顔をするのは雑渡絡みの用件しかないと、そう思ったのも事実だ。まさか、本人がいるとは思っていなかったが。
土井の早すぎる出発に、渋い顔をした雑渡を思い出す。
雑渡を受け入れた。身体でなく、心で。
もうその時点で、土井の処理能力は限界だった。あれ以上一緒にいて、表向きだけでも冷静でいられる自信はない。
我ながら、可愛くないものだと思う。
しかし、土井は素直に浮かれる気持ちにはなれなかった。雑渡を完全に信じ切る事ができなかった。
雑渡の問題ではない。土井自身の問題だ。
己の心を、そして向けられる誰かの心を無視してきた時間が長過ぎた。相対する雑渡の言葉が真実であると頭では分かっていても、心が付いてこない。自分自身の本心さえも、掴みかねているのだ。
想う相手に想われる。それは土井にとって、お伽話に等しい事だ。確かに手にした今さえ、その実感はない。
雑渡と離れたくないのは確かだが、同じくらいに、離れた方が良いとも思う。
相手を想う気持ちが同じ。それだけで距離を縮めて良いのか。身体を繋げても心を渡さなかったのは、土井の矜持でもあった。それを捨てて良いのか。
頭の中で、どんどん疑問が積み重なっていく。
なかった事にはしない。
雑渡にそう言ったにも関わらず、土井自身はともすれば、そちらの道に進みたくなる。
雑渡への想いを自覚してから、何度も思った。雑渡を忘れられたら、どれほど楽だろうと。だが、できなかった。
ならばと、進む決意をした。今日、雑渡が伸ばしてくれた手を、掴んだ。
足踏みしていた所から、一歩進んだ。が、悩み事が減る気配はない。恋というのは、成就をしたらしたで、面倒らしい。
「はぁ……」
難儀な事だ。雑渡との関係、それに雑渡自身も。あえて問題点を掘り起こして、浮かれた気分を鎮めようと足掻く自分も。
重い足取りで歩く土井の耳に、
「あっ、土井先生ー」
聞き覚えのある明るい声が届く。
「おお。乱太郎、伊作」
乱太郎と、それから伊作が、道の先で土井へ手を振っている。大きめの籠を背負って並んだ二人の元へ、土井が足早に近付いた。
「すまん。少し遅れたな」
「いえ。僕たちも、今さっき着いた所です」
伊作が言うと、
「ちょっと色々ありましてぇ……」
乱太郎が付け加えて、気まずそうに笑う。二人は、薬草摘みに出てきたはずだ。が、にしては、全身が汚れている。詳細を聞かなくても、何らかの不運にあったのだろうと理解できた。
「おまえたち、怪我はないんだな?」
土井が尋ねると、
「はい」
「はーい」
と声を揃えて頷くから、ほっとした。
「なら、いい」
土井は任務帰りに、この二人を拾って帰る事になっていた。タイミングが合えばの話で、もしどちらかが遅れたら別行動にしよう、という程度の待ち合わせだ。
「さ、行くぞ」
土井に促されて、乱太郎が笑顔になる。
「新しいお団子、楽しみですねー」
三人の目的は、最近話題の新しい団子屋だった。美味しくて斬新な商品があるという事で、噂になっている。土井は、帰りに時間があれば団子を買って来てくれ、と学園長から頼まれていた。
そして昨日、出発前にたまたま伊作と乱太郎に会った。二人は明日薬草を摘みに出るついでに、新しい団子屋で保健委員へのお土産を買う話をしていた。
帰りの予定は同じくらいだった。では合流しよう。そういう話になった。
他愛のない用件だ。それに土井の優先は忍務だから、待ち合わせの時刻を過ぎても来なかったら、先に二人で行くよう伝えてあった。
あのまま雑渡といるのが、どうしても無理だった訳ではない。だが、生徒との約束よりも雑渡を優先する事はできない。
この用件を、雑渡に話しても良かった。二人と合流する話をすれば、雑渡は一緒に来たがったかもしれない。もし本当に雑渡が来たとしても、早々に別れれば、たいした問題にはならない。
ただ一つだけ、土井が気恥ずかしくて居た堪れない、という点を除けば。
「土井先生、忍務はどうでしたか?」
「聞くな聞くな往来で!」
乱太郎の明るい問いを、土井が叱りつける。
「そうだよ、乱太郎。それは見ればわかるだろう?」
伊作が笑いながら言うのに、ひやりとした。実際、忍務は上手くいった。六年生の伊作なら、余裕のある土井の様子から、それを推察してもおかしくない。
それだけの事だが、必死で抑えている浮かれた心で見抜かれたようで、動揺しかけた。
まったく、自分はまだまだ未熟者だ。
そして、こんな男が良いと言う雑渡は、やはり物好きだ。
団子屋は話題だけあって、三人はギリギリで必要な分を手に入れられた。
「良かった〜。善法寺先輩が一緒だから、売り切れも覚悟してました」
「はは、僕もだよ」
「珍しくラッキーでしたね!」
「さっき崖から落ちた事で、今日の不運はなくなったのかもしれないな」
「崖!?」
支払いを終えた土井は、保健委員の呑気な会話に割って入る。
「あ、たいした高さではなかったんですよ」
伊作は動じずに笑う。乱太郎も、
「籠はちょっと壊れちゃいましたけどね」
と端の割れた籠を見せてくる。不運慣れして、危機感がなくなっているようだ。胃が痛くなってきたが、怪我がないなら良いと、無理矢理に考え直す。そんな土井の心境も知らず、保健委員は団子を手に入れてご機嫌だった。
「また留三郎に直してもらおう」
「あ、じゃあ食満先輩にもお団子買った方がいいでしょうか」
「うん、もう買っておいた」
「さすが先輩!」
やはり胃が痛い。
「はぁ……本当に気をつけろよ、おまえたち」
それぞれに包まれた団子を持つ。乱太郎が土井の手元を覗き込んで、
「土井先生も、たくさん買われたんですね。全部、学園長先生の分ですか?」
と尋ねてきた。
「いや。こっちは山田先生にな」
帰ったら、何をおいても、まずは山田に報告しなければならない。きっとまた渋い顔をされて、でも、土井の話をちゃんと聞いてくれるだろう。
雑渡との縁が続く以上、これまで土井を心配してくれた山田に、これからも心配をかけてしまう。申し訳ない。そう思ったら、つい、買ってしまった。
「さ、帰るぞ」
「はい」
「はーい」
日が暮れかけた道を、生徒たちと歩く。この毎日が何よりも大事で、守りたいもの。それさえ忘れなければ、何とかなるような気がしてきた。
乱太郎と伊作と歩きながら、まずは山田に何をどこから話そうか考える。雑渡との顛末を話して、それから今の気持ちを話して、素直に助けを求めよう。
どうしたら素直に人を愛せるのかと、今更な質問をしよう。
怒られる事も、呆れられる事も、叱責も、すべて覚悟の上で。
忍術学園が見える頃には、土井の決意は固まっていた。自分では、かなりの覚悟をしていたつもりだった。
だが。
結果から言えば、その覚悟はまるで足りていなかった。
土井は知らなかったのだ。
三人でのんびり歩いているその間に、尊奈門が忍術学園に到着し、雑渡からの用事を済ませていた事を。
尊奈門から文を受け取った山田伝蔵は、そのまま学園長室へ向かった。
そして日が落ちる頃。土井半助が学園に戻った時には、学園長と山田、それに他の教師まで交えた本人不在の話し合いは終わっていた。
「あの時は、本当に肝が冷えました」
土井がそうやって口に出せるようになったのは、幾日かが経ってからだ。
久しぶりに山田と土井の二人で外出した目的は、学園長のおつかいだった。おそらく学園ではしにくい話をしておけという、学園長なりの気遣いであると、山田は勝手に思っている。
そして、
「肝が冷えたのは私の方だ」
人気のない山道を歩きながら、話に上がるのはやはり、あの日についてだった。
あの日。尊奈門が自分を訪ねてきた時の嫌な予感を、山田は今でも思い出せる。
雑渡からの文は簡潔で、分かりやすいものだった。わざわざ「学園長は知っている事だが」と前置きして、土井と恋仲になったと報告してきた。
山田の胸に納めておいても良い、と書いてあった。できる訳がない。遊びのうちならともかく、二人共に本気であるのならば。
そして山田は、すぐ学園長室へと向かった。
幾人かの教師を巻き込んだ話し合いの末、学園が出した結論は、現状維持だ。要は、見逃された。今のところは。
「おまえに対する信用は損なわれた。そこは、忘れるなよ」
「無論です。学園から追い出されないだけでも、感謝しております」
「よく言うわ。足元を見おって」
山田が呆れた顔をする。
土井に血縁はいない。所属する場所は、忍術学園だけしかない。
今の状態で、もしも土井を学園から放てば、行き先は恋仲である雑渡昆奈門。つまりは、タソガレドキ忍軍となる可能性が高い。
タソガレドキは、明確な敵対勢力ではない。とはいえ、油断ならない相手だ。そこへ教師を差し出すような事はできない。それが忍術学園の決定だ。
ご丁寧にも、雑渡はその点にも文で触れていた。忍者学園で持て余すようなら、自分が土井半助を引き取ると。
それは雑渡が勝手に言っている事であり、土井の考えではないと、その場の誰もが分かっていた。
年若い土井を、学園の教師たちは見守ってきた。教師としての彼を育てた自負は、多かれ少なかれ、誰もが持っている。であるから、簡単に寄越せと言われれば、誰もが反発を覚える。それが雑渡の術だと、分かった上でも。
「私には、タソガレドキへ行くつもりなど全くないのですが」
土井が頬を掻く。そこに疑いはない。だが。
「おまえにはなくても、向こうにはあるだろう」
優秀な忍者は、どこの城も欲しがっている。土井が一人になれば、雑渡が放っておくはずがない。タソガレドキ忍軍の組頭として。
土井もその辺りは読んでいる。少なくとも、しばらくは現状のままでいられるだろう。
ただ、いつまでも安泰な訳ではない。この先は、土井の行動次第だ。忍術学園に害のない言動が、これまで以上に求められる。
「頼みますよ、本当に。私一人では、あいつらの面倒は見切れませんからね」
山田と土井の頭に、は組の顔が浮かぶ。
同僚の口調に戻った山田に、土井は頷いた。
「無論です。私にできるだけの努力を致します。せめて、あいつらが卒業するまでは」
「あいつらの卒業……」
山田は遠くを見るような目をして、それから、悲しげに呟いた。
「あいつらの場合、卒業の前に進級が心配なんですがね……」
「そうなんですよねぇ……」
胃を押さえる土井の横顔を見ながら、山田は胸の中でため息をつく。
まあ、雑渡との関係を知っていながら、止めなかった責任もある。自分くらいは、土井の味方でいるとしよう。土井が、生徒たちのために胃を痛めている間は。
「さ、急いで帰りますよ。明日も授業と補習がありますからね」
「はい……」
土井が不在の、教師たちの話し合いの場。自分を庇う最後の一手になったのが山田だった事を、土井は知らない。
「山田先生はどう思う?」
学園長の問いに、山田は答えた。
「これまで、土井先生が学園や生徒をおろそかにした事はありません」
雑渡と関係を持ちながらも、土井はそれまでと変わりなく過ごしていた。教師として忍者として、どの仕事にも穴は開けていない。
問題はこれからだろう、という意見もあった。とはいえ、そこを考えた所で、予想にしかならない。
心情的にも戦力的にも、土井半助を学園から出すべきではない。それで一致した。
山田も、結論に否はない。ただ他の教師たちと山田では、少し考えが違っていた。
土井が雑渡と離れて、学園に残る事が最良。その点は、同じである。
違うのは、土井がタソガレドキに寝返る事が、山田にとっての最悪ではないという事だ。
山田の中で一番恐ろしい結末は、彼が忍術学園からも雑渡の元からも去り、「土井半助」という存在を消してしまう事だった。与えた名前と得た生活を捨て、彼が一人で闇の中へ戻ってしまう事だった。
同僚として残ってくれるのならば、それで良い。自分と妻と息子、それに生徒たちの前から消えないのなら、それで良い。
そんな本音を、山田はもちろん誰にも話さない。仕方なく現状を受け入れたと、他の教師たちと同じ表情を浮かべていた。今も。
「だから、反対はしませんがねぇ……」
口の中で呟く。
それはそれとして、もっと相手は選んで欲しかった、という気持ちはある。
手に入れたばかりの恋に戸惑い、それでも向き合うとする土井の努力は応援したい。だが相手の男はあまりにも曲者で、素直に喜ぶ事はできていない。
「土井先生」
「はい」
「何かあれば、私に言うように」
「もちろんです」
土井は素直に頷く。山田にとって、土井は身内だ。息子のようなものだ。
「それからね」
であるから、続けて山田の発した言葉は、純粋な親心だった。
「あの男は厄介だから、別れたくなったら、すぐ私に相談しなさいよ」
土井はきょとんとした後、笑い出した。そして、
「はい、そうします」
明るい声で、そう返した。
終