6月のお題 図書館病院内で最も人が集まるのは、ランチタイムの食堂だ。
忙しいスタッフはもちろん、入院患者の家族や見舞客も解放されている時間であれば、飲食できる憩いの場でもある。
管理栄養士がカロリーと塩分を抑え、栄養バランスの良い献立を日替わりで立て、調理師が美味しい料理を手頃な価格で提供してくれる。日によっては満員になる程だ。
もちろん、ヴァッシュとウルフウッドもこの食堂の常連だった。
どんな仕事でも体が資本だ。
特に医師である二人は、患者に「バランスの良い食事を取ってください」と栄養指導を欠かさない。それなのに、それを促す本人がずさんな食事では示しが付かない。
だからこそ時間が合う時は、一緒にこの食堂で食事を共にしていた。
「野菜って、ちゃんと食うたら美味いんやな」
「一度にこんなに、副菜作れないよ。本当に助かる」
二人は一番の人気メニュー「一日分の野菜がとれるランチ」をすっかりと食べ終えた所だった。
緑黄色野菜、根菜を中心にたっぷり三百五十グラムが入っている。
キッシュ、キャロットラペ、キノコたっぷりのスープ、ほとんどが野菜だというキーマカレーの上には素焼きの野菜が並ぶ。
これらの料理を、自分たちで作れと言われたら相当に骨が折れる。
「これで、今日のノルマは終わりや。夜は肉やな!」
美味しく義務を果たしたことで、ウルフウッドは上機嫌で席を立つ。食堂はセルフサービスなので、ふたりは揃って食器を返却口に戻した。
「あ、そうだ。ちょっと寄りたい所がある」
食堂を出た所で、ヴァッシュはあっと思い出したように声をあげた。
「どこや」
ウルフウッドが腕時計を確認すると、二人の休憩時間はまだ三十分近く残っている。
「すぐそこ、隣の図書室」
この病院には、院内図書室が設けられている。ここでは図書室は二種類に分けられており、併設されていた。
『ようこそ、患者図書室へ』
小児科病棟を思い出させるような、カラフルな壁飾りが入り口には施されている。誘われるように中に入ると、そこはとても病院とは思えない作りになっていた。
まず入ってすぐは、子ども向けの絵本や児童書が並ぶ。書棚の背丈も、ふたりの腰ほどしかなく子どもでも本が取りやすい並びになっている。
その奥に一般書籍が並ぶ書架がずらりと並んでいた。実用書から小説、話題の新刊、コミックなどあらかた網羅されており、ほとんど一般の図書館に見劣りしないラインナップだった。
唯一、普通の図書館と違うのは本を読むためのベンチや机などが設置されていないことだ。感染症のリスクを抑えるために、ここは本を借りるだけの場所になっている。
借りた本を読むのは、自分の病室に戻ってからというのがルールだった。
「ヴァッシュ先生、ご希望の雑誌が届いていましたよ」
図書室だけあって、平日の昼間の間は司書も在籍している。本の貸し出し返却の手続きはもちろん、書籍に関する様々な相談に乗ってくれる。
「ありがとう、それじゃ奥で受け取ります」
ヴァッシュはにこやかに礼を言うと、首から下げていたIDカードを図書室奥にあるドアにかざす。
『医学図書室』
無機質なアルミ製のドアに黒いプレートが掲げられている。ヴァッシュは重たいドアを開くと、先にどうぞとウルフウッドへ入室を促す。ウルフウッドも自分のIDをかざすと、エスコートされるままその扉をくぐった。
医学図書室とは、その名の通り専門医学書のみが蔵書されている図書室のことで、この病院で一般公開はされていない。
扉一枚向こう側の患者図書室に比べると、ここはただの書庫に近い。分類された書物がずらりと可動式の本棚に並んでいた。
書物の閲覧、貸し出しはスタッフのみに許されている。
というのも、医学書は一般的に流通していない物が多く希少だ。発行部数が少なく、高額で手に入れるのが難しい。
それに加えて、この病院で扱った過去の手術や珍しい症例のカルテなどが一部閲覧できる。そのため、IDを所持している病院関係者のみが入室できる部屋となっていた。
「外科のヴァッシュです、依頼していた本が届いたと聞いて」
「あぁ、随分待たせてわるかったねぇ。ヴァッシュ先生。用意しますので、少し待ってください」
受付カウンターに座るグレーヘアの年配の男性司書は、ヴァッシュの顔を見るなり気難しそうだった顔を穏やかに崩した。
真後ろにある大きな書棚は、一時取り置きの書籍の管理用らしく、ヴァッシュが依頼した専門書雑誌もそこに置かれていた。
小柄な司書の身長倍近くある巨大な書架には、可動式タイプの脚立が取り付けられている。一般的図書館に比べて規模は小さいが、この部屋にあるのは医学の専門書ばかりだ。
その全てをここの主の彼は、把握しているのだろう。
「他に、借りたい本はござませんか?」
「ひとまずは、こちらだけお願いします」
「はい、わかりました」
ヴァッシュが頼んでいたのは、アメリカの大学病院が学会向けに発行した小冊子で日本から手に入れることはほぼ不可能なものだった。
どういうわけか、入手難易度が高い書籍でもこの初老の司書はルートを駆使して用意してくるのだ。
「よく、これが手に入りましたね」
「この病院でも“借りている”かたちですので、くれぐれも紛失と毀損にご注意ください」
穏やかな口調だが、しっかりと釘を刺されヴァッシュは貸し出しされた雑誌をしっかりと携え頷いた。
「ところで、珍しいですねウルフウッド先生」
突然名前を呼ばれて、ウルフウッドは驚く。ウルフウッドは、研修医以来、この医学図書室を利用していない。
この古顔の司書が総合病院の末端医師の顔を覚えているとは思いも寄らなかったからだ。
「あ、今日はちょっと付き添いで」
「先生も、何か借りられて生きませんか? 小児科の書架はあちらですよ」
名前だけでなく担当している診療科目までピタリと当てられて、目を丸くする。
「それやったら、ヴァッシュ先生がこの本を返しに来る時に、一緒に……来させてもらいます。な、なぁ、ヴァッシュ先生!」
「それは残念。それじゃ次も、ご一緒にお越し下さい」
助けを求めるように、ウルフウッドが名前を呼ぶ。珍しくしどろもどろになる姿にヴァッシュは楽しそうに頷いた。
用事を済ませ、医学図書室の重たい扉を開いた。
「あー、ウルフウッドせんせ!」
扉から出てきたふたりを目敏く見つけた、小児科の患者である子どもたちが駆け寄ってくる。手には絵本が数冊大事そうに抱えられていた。
「お、お前らも来とったんか」
生活のほぼ全てを院内で過ごす彼らにとって、少しでも外部の世界を感じられるこの場は社会性を育む場所としても大切だった。
「せんせい、見て」
それぞれが、借りようとしている絵本や図鑑を次々にウルフウッドに差し出す。同僚や保護者のみならず、子ども達からも大人気のウルフウッドはあっという間に囲まれてしまう。
絨毯敷きの床に膝を突いて、ひとりひとりの子どもとウルフウッドは視線を合わせる。
「わかった、ちゃんと見るから順番や」
「わたしこれ、もうね5回借りた」
少女は小さな掌を精一杯に開いて、五回を強調する。ニット帽をかぶった頭をウルフウッドは撫でる。小さな頭が大きな掌にすっぽりと包まれる。
「すごいな、たくさん読んだなぁ」
ウルフウッドの言葉に、少女は誇らしそうに頬を紅潮させて絵本を抱きしめる。その場に居た小児科の子ども達が、自分の選んだ本を片手に列を作り始めた。
「ぼくも! ぼくもみて!」
「こんな難しいの読むんか、偉いなぁ」
「わたしはね、こっちとこっち」
「大人の本やんか、もう漢字も読めるんか、かしこいなぁ」
「せんせ、見て」
子ども達に囲まれたウルフウッドを嬉しそうに見つめていると、不意にヴァッシュの白衣が引かれる。
「ヴァッシュせんせいも、見たい?」
最初にウルフウッドに褒められた少女が、ひとりぽつんと待っていたヴァッシュが寂しそうに見えたのだろう。
「え、僕にも見せてくれるの? ありがとう」
ウルフウッドを習って、膝を突いて子ども達の視線に合わせてしゃがみ込む。
「うん、ヴァッシュ先生にならいいよ」
そういって、選んだ絵本の表紙をヴァッシュに向けて掲げる。小さな手でぎゅっと大切そうに握られている。
その細い腕には、点滴ルートを確保するためのカテーテルがガーゼテープで固定されていた。もちろん、子供用に小型化されているが、あまりにも痛々しい。
少しでも気持ちが軽くなればと願いが込められたように、そのテープには可愛いキャラクターが描かれている。
「あ、この絵本僕も大好きな本だよ」
「ほんとう?」
「うん、小さい頃によく読んだよ」
「ちいさい? せんせい、ちいさかったの?」
眼をまん丸にした子どもの問いに、思わずヴァッシュは吹き出してしまう。あまりにも純粋で無垢な問いに、柔らかく笑いかえす。
「信じられないでしょ?」
「うん、ずっとおおきいのかとおもってた」
楽しげに話すふたりの元に、ウルフウッドに頭をたっぷりと撫でられ終えた子ども達が引き寄せられる。
「なにしてるの?」
「僕のも見る?」
ウルフウッドも小児科の子ども達とヴァッシュが楽しそうにしている様子を珍しそうに見つめて笑う。
「ヴァッシュ先生、ひとりで待ってて寂しかったんやて。みんなが選んだ本、見せたってくれるか?」
そう焚きつけるので、子ども達はヴァッシュを取り囲んで自分の選んだ一冊を提示し始める。
「わぁ、ありがとう、ちゃんと見るから。順番に、……あっ、えっと、ウルフウッド! ちょっと、見てないで手伝ってよ」
子ども達の扱いになれていないヴァッシュが揉みくちゃになるのをウルフウッドは楽しそうに見ているだけだ。
ちょっとした騒動は、引率の病棟保育士が貸し出しの手続きを終えるまで続いた。
「すまんな、うちの子らが」
自分の患者のことを、まるで身内のように詫びるウルフウッドにヴァッシュは口元を緩める。
「まさか、とっても可愛かった」
そう言うヴァッシュの脳裏には、子ども達の体の至る所に残る治療の痕跡がよぎる。あんなに小さな体で頑張っているのかと思うと、鼻の奥がつんとしてしまう。
「ここに来られる子は、まだ元気な方なんや」
「うん」
「来られん子も、なんか出来たらええのに……あ!」
すんと鼻をすすっていたヴァッシュは、ウルフウッドの大声に驚いて、出かかっていた涙も引っ込んでしまう。
「わるい、ちいと忘れもんや。おどれ、先にもどっとき」
「僕も付き合うよ?」
「あかん、もう昼休み終わるで」
腕時計を見ると、休憩時間を五分も過ぎている。この後ヴァッシュはカンファレンスが入っているので、遅刻は出来ない。
「本当だ、遅刻しちゃう」
青ざめたヴァッシュは、ウルフウッドに詫びを入れるとエレベータホールへと走って向かう。ウルフウッドも時間は過ぎているが、図書館で子ども達と一緒に過ごしていたと言えば、きっと許されるだろう。
ヴァッシュの姿が見えなくなると、くるりときびすを返し再度図書室に戻った。
「すみません、探して欲しい本があるんやけど」
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
その日小児科のプレイルームには、子ども達が集まっていた。割合に体の自由のきく子達から、車椅子に乗った子、ベッドから起き上がることが難しい子まで様々だ。
クリスマス等、長期入院している子ども達に向けてイベントを開くことがあった。そのときには、今日のように普段は病室にこもりがちな子も集まってくる。
「ねぇ、今日何があるの?」
入院歴の長い女の子が、無邪気に付き添いの看護師に問う。この場所に集まる時には、いつも楽しいことが待っているので心なしか声音も弾んでいる。
「今日はね、ウルフウッド先生が絵本読んでくれるんだって」
「せんせーが?」
少女は嬉しそうに笑うと、プレイルームに用意された小さな椅子に腰をかけた。次々に集まる子ども達も、我先にと集まりあっという間に部屋は満員御礼となった。
「ちょっと、集まりすぎやないか」
定刻、その場に現れたウルフウッドは集まった子どもの数に驚いて声をあげた。
「ウルフウッド先生が読み聞かせしてくれると聞いたら、みんな集まってきちゃって」
「いや、五、六人集まってくれたらええかなって……」
図書室へ来られない子ども達にも、少しでも本の楽しさを知って欲しいと思ったからだ。医大生時代から、アルバイト先を小児科に選ぶほどウルフウッドにとって、子ども達は身近な存在だ。
病院は治療する場所だが、彼らにとっては親元を離れて生活する場でもあり、普通の子ども達が当たり前に享受している日常を少しでも感じ取って欲しかった。
辛いだけの場所としての記憶を残して欲しくなかった。
「先生のこと、みんな好きですから」
絵本を読んであげると決めたのは自分だ。こうなる事は全く予想していなかったが、やり遂げなくては収まりが付かない状態になってしまった。
「ほんまにそうなら……嬉しいわ」
ウルフウッドが珍しく、自分の気持ちを吐露したので看護師は目を丸くした。
「お話の途中でも、しんどなった子はすぐに手あげてな。続きはまた、読んだるから無理したらあかんで。守れるか?」
本を読む前に、ウルフウッドが子ども達に声をかける。皆は声をそろえ「はーい」と手を上げあり、声を出したりして応えた。
「ええ返事やな。それじゃはじめるで」
ウルフウッドは、気合いを入れる様に腕まくりをすると絵本を取り出した。
子ども達は真剣な眼差しを向ける。普段は様々な事情から、集中することが難しい子もじっと聞き入った。
普段は少しぶっきらぼうで、粗っぽく聞こえる関西弁のウルフウッドだが、絵本を読み始めると驚くほど優しく柔らかい声音だった。
子ども達はもちろんだが、付き添っていた保護者や看護師達までも、引き込まれてしまう。
ページがめくられる度に、子ども達の瞬きの回数が減り前のめりになる。一方、穏やかな声に包まれて、安心したのか中には瞼をとろんとさせる子もいた。
「おしまい」
最後のページが閉じられると、子ども達は驚いた様にはっと顔を上げる。すっかり、絵本の世界に引き込まれていた様だ。
「みんな、ええ子で聞いとったな、えらいな」
最後まで、全員が話を聞き終えるとは思っていなかったウルフウッドが、驚いた様に声をあげる。
次々に子どもたちが感想を競うように、言い合うのをウルフウッドは嬉しそうに受け止めていた。
「……すっごく良かった」
小児科病棟の中央にある、大きな円柱の陰に隠れてヴァッシュは胸を押さえる。
ウルフウッドが絵本の読み聞かせをすると、看護師にこっそり教えられてから、居ても立っても居られずこっそりと聞きに来たのだった。
ほんとうなら、もっと近くで聞きたかったのだが、今日の主役はあくまでも子どもたち。
それに、ウルフウッドは恥ずかしがってヴァッシュが参加する事を許してくれなかっただろう。
かといって、こんなチャンスを逃すこともヴァッシュには出来ず、こっそりと柱の陰から見守っていたのだった。
手にしていたスマートフォンの録画を止めて、大切にポケットにしまう。包み込むようなウルフウッドの朗読の余韻に、うっとりとため息を漏らす。
「良かったですね、ヴァッシュ先生」
ヴァッシュにそう声をかけるのは、このイベントを教えてくれた看護師だ。
「ねぇ、ウルフウッドってあんなに優しい声で、絵本読むの?」
「ヴァッシュ先生が知らないことは、私たちが知っている訳ないじゃないですか」
「だって、あんな顔見たこと無かったもん」
ヴァッシュは、まだ知らないウルフウッドに出会えたことに心から嬉しそうに応える。夢を叶えて、子ども達に囲まれた彼の姿を見ると、思わず自分の背筋も伸びた。
「ねぇ、またこんな機会があったらさ……」
「もちろん、ヴァッシュ先生にはこっそりお知らせしますよ」
頼もしい確約を貰ったタイミングで、ヴァッシュの白衣のポケットの中で連絡用のPHSが震える。外科病棟からの呼び出しだ。急いで戻らなければならない。
「また、みんなにおすすめスイーツ差し入れするからね。ありがとう」
とびきりの笑顔を小児科病棟にまき散らしながら、ヴァッシュはスキップで自分の持ち場へと戻った。