こぼれた雫のすくい方② 両引きの自動ドアを抜けると、ブラウンを基調としたシックで落ち着いた雰囲気のエントランスが広がっている。その中を目的地であるフロントに向かって、迷いなく足を進める。
「いらっしゃいませ、乾様」
俺がフロントに到着したと同時にコンシェルジュから声を掛けられる。
「最上階の九井に繋いでくれ」
「承知いたしました」
事前に連絡をせず来てしまったが、この様子だとココは帰宅しているようだ。といっても、別に不在だからといって追い返されることはない。ココには自分が不在の時でも、勝手に上がって好きにしていいと言われている。先程の対応から分かるように、最上階の住人の親友としてコンシェルジュにしっかりと認識されている。おそらくココにも通していいと言われているだろう。それでも俺は、不在時に上がり込んだことはないし、在宅時も必ず取り次いでもらうようにしている。
「九井様、フロントに乾様がお見えです。……はい、かしこまりました」
コンシェルジュが受話器を置く。ココに話が通ったようだ。
「ご案内いたします」
いくつかのセキュリティを抜け、最上階直通のエレベーターから降りると、エレベーターホールを抜けてすぐにある玄関へと向かう。インターホンを押そうとすると、押す前にドアが開いた。
「よう、イヌピー」
「ココ。急に悪い」
「そんなのいいって。それよりどうした?」
笑顔で迎え入れてくれたココに早速問われるが、簡単に説明できることじゃない。
「ちょっとな」
「まあ、上がれよ」
ココに付いて部屋の奥へと進む。
「久しぶりに来たけど、相変わらずすごい部屋だな」
一人で過ごすには持て余しているとしか思えない広々としたリビング。窓の外には、眼下に鮮やかな東京の夜景が広がっている。リビングの真ん中に設置されたローテーブルには、既に水が2つ用意されていた。その周りを囲むL字型ソファに勧められるまま腰を下ろすと、ココも斜め向かいに座った。
「煩わしいもん排除できるし、快適だぞ。オマエらももっといいとこ住めよ」
親友のココこと九井一は、金を稼ぐ天才だった。そんなココには、昔からその才能を利用しようと下心を持った連中が山程寄ってきた。金という魔力に狂わされた人間は、それを手にするためなら手段を選ばない。手を貸せと家やアジトまで強引に押し入ってきた奴もいた。
そういう奴等にうんざりした結果、武道の幼馴染である稀咲鉄太と共に立ち上げた会社が大成功したココは、セキュリティが最高水準であるこのマンションの最上階を居住地として選んだ。おそらくこの家に入ることを許されているのはほんの数人。ココの認めた者以外、一歩も立ち入ることのできない鉄壁の城だった。
「オレとタケミチの給料じゃ、あそこが精一杯だ」
「援助ならオレがいくらでもするし、なんなら買ってもいいんだぜ?」
「それは前も断ったろ」
俺と武道が一緒に住むことを決めたと話した時にも出された話だ。
「だからなんでだよ。金なら腐るほど持ってんだ。別にいいじゃねぇか」
拗ねたような表情でココがぼやく。ココは金を稼ぐ才能に恵まれてはいるが、本人はビジネス以外では金に対して無頓着なところがある。常に金がある状態なので、使う額を欠片も気にしない。学生の頃は俺が管理していることもあったが、会社を立ち上げてからは専門家に任せているようだ。あまりに任せっきりで、扱う金額の桁が増えた今でも、個人の資産や支出額に関して、あまり把握していなさそうなのは心配なところだ。
ココが俺たちに家を買ってくれたとして、ココ本人は恩を着せるつもりなど全くなく1、微塵も気にしないのだろう。だが、俺は違う。
「もしその申し出を受けちまったら、オレは一生オマエを殴れなくなる」
「は?殴る?」
きょとんとした顔で、ココがこちらを見る。
「オマエがなんか道を間違った時も、意見が食い違った時もオマエにものを言えなくなる。どんなに環境が違っても、オレはオマエとはずっと対等でいたいんだよ、ココ」
俺の言葉を聞いたココは驚いたように目を見開く。そのまましばらく固まっていたが、はっとしたように慌てて目を逸らす。
「……そうかよ」
不貞腐れたようにそっぽを向く。組んだ膝の上に肘をついて、顎に添えた手で表情を隠してはいるが、照れくささが滲み出ている。ココはこういうストレートな言葉に弱い。普段から人を食ったような態度で掴みどころのない人間を装っているから、こうやって戸惑う姿を見るのはちょっと楽しい。
「あー……何飲む?いい酒があんだけど」
「いや、酒はいい」
「じゃあ、コーヒーでいいか?飯は?」
「そういや食ってねぇな」
食事のことなんて全く頭になかったが、認識すると少し空腹感を感じた。
「んじゃ、何か頼むわ」
ココが電話をかけるため、席を立つ。そんなココの姿をなんとなく目で追いながら水に口をつけた。
「で、花垣と何があった?」
戻ったココは、開口一番そう聞いてきた。
「……アイツとってオレ言ったか?」
「いや、言ってねぇけど。花垣と暮らし始めてからのイヌピーがこの時間に来るのは、経験から言って一〇〇パーセント花垣絡みだ」
「そうだったか?」
「そうだって」
言いながらココが苦笑する。確かに武道と何かない限り、わざわざ夜ひとりで出かけたりしないかもしれない。
「正直、オレもあんま頭整理できてねぇんだ」
「なら、ゆっくり話してけ。オレが整理するの手伝ってやるよ」
デリバリーの料理が届き、食事をしながら今日あったことを話していった。
「なるほどな」
「ホントなんでこんなことになってんのかわかんねぇんだ。朝出るときはいつも通りで、帰るまでにアイツにしたことっていったら、帰るってメッセージ一通送っただけだ。それでこんなに気持ちが変わるもんか?」
「そうだなぁ……」
ココは酒の入ったグラスに口をつけ、少し思案するような様子で言葉を切る。
「オレが話聞いてまず思ったのは〝らしくねぇ〟ってことだな」
考えがまとまったのか、ココが話し始めた。
「らしくねぇ?オレが?」
「いや、花垣だよ。たとえホントに別れたくなったとしても、そんな真綿で首絞めるようなやり方するヤツじゃねぇだろアイツ」
「まわたで……?」
「ああ、いや、相手を遠回しにじわじわと追い詰めるより、真正面からぶつかってくるヤツだろって」
「確かに。全然らしくねぇ」
そうだ。武道は出会った時からずっと、どんな苦境であってもまっすぐ立ち向かっていく奴だった。本当に別れたいのだとしたら、どれだけ言い辛くとも、長く付き合ってきたからこそ真摯に向き合ってくれる気がする。
「これは推測だけどよ。気持ちが変わったんじゃなく、記憶が変わったんじゃねぇか?」
「記憶?」
「ああ。何かしらの原因で、記憶障害に陥ってる可能性はねぇか?例えば事故なんかの外傷でとか。強いストレスなんかで記憶が欠けることもあるらしいが」
「ケガはしてなかったと思う……」
今日出先で事故になんて遭っていたら、マイキーが真一郎君への連絡で報告しただろうし、どんな理由があろうと武道をひとりで帰らせたりしなかっただろう。ケンカにしても、東卍解散直後こそ不良に絡まれることも多かったが、さすがにここ十年は遠ざかっているので可能性は低い。あと考えられるとすれば、通り魔のような輩に頭を殴打されたといった可能性だろうか。
「話聞く限り、イヌピーのこと忘れてるとかじゃねぇんだよな。ただ付き合ってることはスッポリ抜けてるってことは、ここ十年くらいの記憶が飛んでんのかも」
付き合っている記憶が飛んでいる。ふたりで積み重ねてきた十年が、武道の中でなかったことになっているかもしれない。その可能性を突き付けられ、胸がズキリと痛んだ。
「あと気になるのは橘日向の話。花垣と橘は付き合ったことねぇだろ?それを〝彼女〟と言ってるなら記憶の喪失というより記憶の改竄かもしれねぇ」
「どう違うんだ?」
「喪失ってのはあったもんがなくなってる状態。改竄は妄想やらなんやらで記憶を書き換えちまってる状態。忘れてるだけじゃなく事実誤認してるとなると、話が噛み合わない可能性もあるな。イヌピー以外の周りに対する認識も確認した方がいいかもしれねぇ」
「記憶の、書き換え…」
そう聞いて、あの力のことが頭をかすめた。
「どうした?イヌピー」
「いや、なんでもねぇ」
とにかく、武道と話して状況を確認するしかないようだ。
翌日、仕事を終えて自宅に戻る。見慣れた自宅のドアだというのに、少し緊張する。ひとつ大きく深呼吸をして鍵を回した。
「ただいま」
突然入っていくと驚くかもしれないと、家の奥まで届くように声を発する。
「あっ、おかえりなさい!」
武道がパタパタと迎えに出てくる。
「あの、昨日、夜大丈夫でしたか?」
「ココん家に泊めてもらったから平気だ。気にすんな」
「そっか、ココ君がいますもんね」
あの後俺がどうしていたのか気になっていたらしい武道は、少しほっとしたようだった。
「えっと……とりあえず飯にしません?スーパーで調達してきたんスけど、何がいいかわかんなくて適当に選んじゃいました」
そう言う武道にコクリと頷いて、リビングへと足を進めた。ダイニングテーブルには、武道が買ってきたのであろう料理がすでに並べられていた。それを見て俺は息を飲む。
「……」
「イ、イヌピー君どうしました?嫌いなもんとかありました?」
嫌いなもん、苦手なもんなんてひとつもなかった。むしろ、
「いや……好きなもんばっかりだ」
「それならよかったっス!」
この笑顔が嘘だとは思えない。知らないふりを続けるなんて、そんな器用な奴じゃないはずだ。本当に忘れてしまったのだろうか。だとしたら、記憶がないまま無意識で俺の好物を選んでくれたということだ。じんわりと胸があたたかくなり、込み上げてくるものを必死で堪えた。
「ありがとな……花垣」
「いいえ!じゃあ、食べましょう!」
テーブルにつき、お互い黙々と食事を進める。先程のやりとりで空気はやわらいだものの、話をどう切り出すべきかわからず、考えあぐねているうちに時間が過ぎていく。おそらく武道も同じなのだろう。話してはいないが、こちらの様子をうかがっているのが感じられる。
「あの……イヌピー君」
気まずい沈黙を破ったのは武道だった。
「昨日あの後、家の中を見せてもらって、本当に一緒に住んでるってことがわかりました。それに、自分のスマホを見て……付き合ってるっていうのも理解しました」
「そうか」
俺達は日常で頻繁に写真を撮るようなタイプではないが、遠出をした時や特別な日ぐらいは写真を撮ったりもする。そういった思い出だけでも、十年分となればそれなりの量になる。それらを見れば、俺たちの関係など一目瞭然だろう。
「確認なんですけど、今って二〇一七年で間違いないですよね?」
「ああ、間違いねぇ」
「そうですか」
武道は思案するようにしばし黙り込む。
「イヌピー君!」
何か意を決したように、俺の目をまっすぐに見据える。
「なんだ」
「急にこんなこと言ったら変なヤツだと思われると思うんですけど、なんかオレここ十年ぐらいの記憶が曖昧みたいで。良ければ色々教えてもらえねぇっスか?」
「わかった」
俺は武道の要求に応え、俺達の出会いから順を追って話していくことにした。
「そんな感じだ。どうだ?思い出したか?」
話を終え、武道に問う。
「あ、いや……」
どうやら話を聞いても、釈然としないらしい。
「タイムリープで未来に戻ったと思ったんだろ?」
「えっ」
武道が勢いよく顔をあげ、目を見張る。
「話を聞けばフラッシュバックが起こると思った。でも、起こらなかったし、オマエの知ってる過去でもなかった」
「なんでタイムリープのことを」
「オマエに聞いてたからな」
「そう、なんですね……」
昔、付き合って一年ほど経った頃だっただろうか。武道とマイキーのあまりに親密な関係を訝しんだ俺と喧嘩になった時、武道がその力について話してくれたのだ。信じがたい思いと同時に、どこか胸の奥にストンと落ちるものがあったのを覚えている。どうして武道が手の届かないところに行くと不安になるのか。どうしてマイキーと引き離したいのか。そして、どうして俺が武道に惹かれたのか。違う世界線の自分なのだから記憶は共有していない。けれど、心に深く刻まれた思いだけは共有しているんじゃないかと、そんな気がした。
「ここは、オマエにとってはタイムリープした先の〝過去〟だから、戻ってきたわけじゃねぇよ」
「ん?どういうことっスか?」
「オマエは小学生時代にタイムリープして、そのまま未来に戻らず、二十年ここで過ごしてんだよ」
「な……」
信じられないという顔をした武道は、驚きのあまり声を失ってしまったようだ。そりゃそうだ。武道にとっての起点は未来の方なのだ。過去に戻るのは、あくまで自分の本来の居場所である未来を良いものに変えるため。その未来に帰らない選択をとるなんて考えもしなかっただろう。そもそも最後のタイムリープが、それまでの十二年前にしか戻れないというルールから大きく逸脱し、二十年も前に戻れたからこそとれた選択。武道にそんな考えが浮かばないのは当然だ。
「だから、今オレが話した話とオマエの記憶が違うなら、たぶん他の理由だと思う」
「記憶が違う?」
「オマエの中にある記憶がいつのもんなのか、それはオレには確認できねぇから」
「オレの記憶……」
自分の中の記憶を追っているのだろうか。武道はゆっくりと語り出す。
「今、オレの中にある最後の記憶は……関東卍會を率いるマイキー君と戦ってる記憶です」
そんな武道を促すように、俺はただ見つめる。それを受けた武道は、遠い目で宙を見つめながらポツリポツリと話していく。
「マイキー君を助けたかった。けど、やっぱマイキー君は強くて。刀で刺されて意識が遠くなってく間、ずっとマイキー君の声が聞こえてた。あのままオレが死んだら、マイキー君は自分を責める。余計苦しむのわかってたから、死にたくはなかったんスけど、もうダメだって。死んだって思って……目が覚めたら、ここにいたんです」
「それが昨日か」
「はい。気が付いたらリビングの床で寝てて。起き上がろうとしたけど、目が回って立てなかった。仕方なくしばらく寝てたらマシになったんで起きたけど、全く見覚えのない部屋だったんで途方に暮れてました。そしたら、イヌピー君が帰ってきた」
昨日の呆けたように立ち尽くす武道の姿が浮かぶ。
「話聞く限り、ひとつ前の記憶みたいだ。マイキーが死にかけのオマエの手を握って、二人で今の世界にタイムリープしたみたいだから」
「マイキー君と?そうなんですね」
一つはっきりさせたいことがある。
「ホントにオレと別れたくてわざと距離取ろうとしてるわけじゃねぇんだな?」
「え、それはもちろん!ただ、その、タイムリープのこと知ってるならもうぶっちゃけますけど、これまでオレがタイムリープしてきた中で、イヌピー君と付き合ってた世界はないんです。だから、わざととかじゃないんスけど、仲間以上の距離感で接することはできないと言いますか……」
「そうか」
覚悟はしていたつもりだが、こうはっきり言われるとやはり苦しい。心臓を握り潰される心地がする。
「なんでかわかんねぇけど、オマエの中から〝今〟の記憶が消えちまったんだな」
「そういうことみたいっスね……」
それだけはあってほしくなかった。今武道が話したように、他の世界線で俺達が恋人だったことはない。親友でも相棒でもなく、あくまで数いる仲間のうちの一人でしかない存在。わざとであれば、まだ良かった。話し合って元の鞘に収められる可能性がある。でも、記憶がないのであればどうすることもできない。戻る鞘を失ったのだから。
「わかった……少し時間をくれねぇか」
「えっ、時間って何の時間?」
「オレ達の関係についてもそうだし、オマエの状況についても考えてみる。だから、答えが出るまではここにいてほしい」
「でも……」
「ここはオマエの家でもあるし、答えが出るまで友達の範囲を出たことは絶対にしねぇ。だから頼む」
記憶のない武道に“今”の関係に適応しろと言っても無理だろう。大体、感情のない見せかけの関係など俺自身も望んでいない。それならば、付き合う前の関係へと戻ることに俺が適応するしかない。
「わかりました。イヌピー君がそれでいいなら」
「ああ。ありがとう」