二度、恋をする。1
【喫茶 ミチクサ】
コーヒーの香りが漂う店内にマスターの宮本とカウンター奥に座る女性が1人。宮本はコーヒーカップを拭きながら女性へと視線を向けた。女性は真剣な眼差しを左手の文庫へと落とし、その世界にのめり込んでいるようだ。宮本にはどんな物語を楽しんでいるのかまではわ分からなかったが、女性の真剣な表情を見ているこの時間が嫌いではなかった。ふと、文庫のページが残りわずかな事に気付き、宮本の口から小さなため息が漏れた。ペラ…ペラ…と読み進められていく物語。そして女性は最後の行を読み終えると静かにそれを閉じると『ふぅ…』と息を漏らした。どうやら今、体験し終えた物語に満足しているようだ。しばらくのあいだ、余韻に浸っていたが文庫を鞄の中へ戻すとカップに残った僅かなコーヒーを飲み干しカウンターから腰をあげる。そしてレジでコーヒー代を払うと女性は『ごちそうさま』と礼を告げ、ミチクサを後にした。女性の名前は、【ミョウジ ナマエ】。帝丹高校で国語を教えており、生徒からは親しみを込めて【アダ名】ちゃん先生と呼ばれる事もあった。趣味は、静かな喫茶店を見つけてはそこで読書する事。先程まで居た【喫茶 ミチクサ】はここ最近贔屓にしている店だった。雰囲気も良く、コーヒーが美味しい。学校が休みの日はこうして米花町の喫茶店を渡り歩いている。なので、帝丹高校の学生と出会う事も少なくはない。
帝丹高校2年生の毛利蘭と鈴木園子は明日から始まるテストの勉強をするべく【喫茶 ポアロ】を訪れていた。入口から一番近い窓際のテーブル席を陣取り、ありとあらゆる勉強道具を広げる園子と勉強している教科だけを置いている蘭。そしてオレンジジュースを飲みながらそれを見守るコナン。「もぅ!わけわかんない!」園子は持っていたシャーペンを放り出し、テーブルへ突っ伏した。「園子…テストは明日からだよ?ちゃんと勉強しなきゃ…。」「だってわけがわからなくなってきちゃったんだもの!あー!もぅ!こんな時、アダ名ちゃん先生がいたらなぁー!」「もぅ…園子はミョウジ先生をアテにしすぎだよ。」蘭は呆れた顔で園子を見るが当の本人はこちらにやって来た安室透へと視線を向けていた。「盛り上がってますね。」「安室さん!」「テスト勉強ですか?」テーブルに広げられた教科書やノートを指差し、安室は首を傾げる。「明日からテストなんですけど、はかどらなくて…こんな事ならちゃんとアダ名ちゃん先生の話聞いとけばよかった…。」はぁー…と再びテーブルに突っ伏す園子に蘭とコナンは苦笑いを浮かべた。「その“アダ名ちゃん先生”とは?」「私達、2年B組の副担任でミョウジナマエ先生って言って、園子はアダ名ちゃん先生って呼んでるんです。」「ほぉー…」「アダ名ちゃん先生は優しくて、美人って言うより可愛い小動物系って感じで、男子にも女子にも人気の先生なんでs…って!今そこ通った人、アダ名ちゃん先生じゃなかった?!」蘭の隣に座るコナンには良く見えなかったが、窓側に座る蘭もミョウジ先生だったと頷くところを見ると見間違いではないようだ。「神は私達を見捨てなかった!」園子はそう叫ぶとポアロを飛び出して行く。蘭とコナンは再び苦笑いを浮かべた。
ナマエは名前を呼ばれたような気がして振り返った。髪とロングスカートがふわりと風に舞う。「あーよかった!アダ名ちゃん先生だった!」『鈴木さん?どうしたの?』「そこの喫茶店で蘭とテスト勉強してたらアダ名ちゃん先生の姿が見えて…あの~それでもしよかったら~…」園子の言わんとしている事に気付いたナマエは少し困った顔をしたが、すぐに微笑み『今回だけ特別ですよ?』と答える。園子はナマエの腕に腕を絡ませ、ポアロまでの道を戻り始めた。
「たっだいまー!」ポアロの入口が勢い良く開かれ、ドアベルがカランコロンと鳴り響く。「おかえりなさい、園子さん。」安室は帰って来た園子を笑顔で迎えると園子の後ろにいるナマエにも声を掛けた。「いらっしゃいませ!」いつもと変わらず微笑む安室に何故か驚いた表情を浮かべるナマエをコナンは見落とさなかった。『………ふ「初めまして!ここポアロでバイトしてる安室透と言います。」何かを言いかけたようなナマエの言葉を遮り、安室はにこにこと笑顔を浮かべ、自己紹介を始める。『あむろ、とおる…さん、ですか…。』「安室さんは探偵で、蘭のおじさまに弟子入りしてるのよねー!」「はい!何か困り事がありましたら気軽に声を掛けて下さいね!」安室と園子の勢いに圧倒されながらナマエは蘭とコナンの座るテーブル席へと案内され、腰をおろした。「メニュー表どうぞ!」安室から手渡されたメニュー表を受け取り、軽く会釈する。そして「注文が決まったら声掛けて下さいね。」と言い残し、テーブル席を離れて行く安室の後ろ姿をチラリと盗み見した。「ねぇ、お姉さん!」ふいに可愛らしい声に呼ばれ、ナマエは視線を安室から目の前に座る少年へと向けた。『え…とボクは?』「ボクは江戸川コナン!蘭姉ちゃんの家でお世話になってるんだぁ!」コナンはそう言って「えへへ」と笑う。『江戸川コナンくんね!初めまして、私はミョウジナマエです。帝丹高校で毛利さんと鈴木さんのクラスの副担任をしています。よろしくね。』「うん!よろしくね!(はは…俺の副担任でもあるつーの…)」心の中でそんな事を考えながらコナンは再び口を開く。「ねぇねぇナマエお姉さん!」『何かな?江戸川くん。』「ナマエお姉さんさ、さっき安室さんの事を見て驚いてたよね?ねぇーどうして?」コナンの問い掛けに対して、心なしか蘭と園子も前のめりになってナマエの返答を待つ。「はっ!もしかして安室さんにビビビと来ちゃったんじゃあ?!」「ビビビって…園子…。」『ち、違いますよ!』園子の早とちりに慌てて口を挟むナマエの頬が赤らみ、増々怪しいと睨む園子。ナマエは園子からメニュー表へ視線を落とし口を開いた。『高校の時の…同級生に似てたものだから、驚いちゃって…。』「もしかして!その人の事が好きだったとか?!それで淡い恋心を思い出しちゃったのね!アダ名ちゃん先生…カワイイー!!」園子はそう言って隣に座るナマエの身体に抱き着く。ナマエは『そんなんじゃない』と弁解するも、まったく話を聞こうとしない園子に『さっさとテスト勉強しましょう!』と言い、教科書で火照った頬を隠してしまい、園子はつまらなさそうに「はーい」と返事を返す。そんなやり取りを背中越しに感じていた安室の口角が上がっている事には誰も気付いていなかった。
2
テスト期間中と言う事もあり、早めに仕事を終えたナマエは【喫茶 ポアロ】に向かっていた。グレーのジャケットに白色のニット、黒のパンツに身を包んでいるため寒くはないが、時折吹く冷たい風が頬を撫でる。髪が風に舞い上がり、前が見えにくくて仕方がなく思わず目を瞑った。『わっ?!』目を瞑った瞬間、額に何かが当たり思わず声が漏れる。ナマエは慌ててその何かをキャッチすると、それはタクシーのレシートだった。『何だ、レシートか…。』変な物が当たったのではなくてよかったと胸を撫でおろしていると前方より聞き覚えのある声に呼び止められた。「ナマエさん!」『あ、安室さん?』今から行こうとしていた店【ポアロ】で働く安室が駆け寄って来る。「すみません!それ僕のなんです。」安室はそう言うとナマエの手の中にあるレシートを指差した。『え?あ、どうぞ。』ナマエはレシートを安室に渡すため、手を伸ばした。安室もそれを受け取るために手を伸ばす。互いの指がレシートを掴んだその時、ナマエは後方より大きな衝撃を受け、身体が前へと押し出された。そしてその力に逆らう事が出来ないまま、安室の腕の中へとおさまる。どうやら後方より歩いて来た人とぶつかってしまったようだがその光景は、傍から見ればまるでナマエから抱きついているようにも見えた。『ご、ごめんなさい!痛くなかったですか?』慌てて離れようとするナマエの肩に優しく触れ、安室は「大丈夫ですよ」と微笑む。「ナマエさんこそ痛いところはないですか?」『大丈夫です。』ナマエはそう答えると今度こそ安室から離れ、改めてレシートを見た。『そのレシート…大切な物なんですか?』「え?…あぁ、まぁ。」安室はそう返事を返すとレシートに視線を落とす。そしてしばらくのあいだそれを見つめていたかと思うとおもむろに顔をあげ、にっこり微笑んだ。「ナマエさん…あなたのおかげで助かりました!」『どう致しまして?』何をどうやって安室を助ける事が出来たのか理解できないナマエはやや疑問形で返事を返した。「ところでこれから時間あります?」『はい?』
「ちょうど観たかった映画のペアチケットを貰ってどうしようかと思ってたんですよ!」安室は愛車であるRX-7のハンドルを握り、住宅街を抜ける。『私もその映画観たいと思ってましたが、ご一緒するのが私なんかで本当にいいんですか?』「“私なんか”なんて言わないで下さいよ。あなただから誘ったのですから…。」そう言ってウインクを飛ばす安室の様になっている動作にナマエの頬が思わず赤らんだ。「ところでナマエさんはこの映画の原作を読まれた事はあるんですか?」『学生の頃に読んだ事ありますよ。安室さんは?』「僕も学生の頃に読みました。ラストが衝撃的で…って…困ったな…。」安室はそう言うとクラクションを2回鳴らす。狭い路地の真ん中にチーター宅配のクール便が止まっているのが確認出来た。「すみません。道を譲ってもらうのでちょっと待ってて下さい。」安室はそう言って車から降りると宅配車の近くにいる業者の男達に声を掛ける。車内からその様子を窺っていると宅配車のコンテナ部分に数人の子どもの姿が確認できた。どう言う事か理解出来ないでいると、今度は安室の放ったパンチが男のみぞおちにヒットする。目の前で繰り広げられる光景にナマエの空いた口が塞がらない。気付けば安室の手によってガムテープで拘束された二人の男が地面へと座らされていた。
「でも今日は遠慮しておくよ…用もあるし………さて、お待たせしました。」安室はRX-7に乗り込むとシートベルトを締め直した。『あの……子ども達は大丈夫なんですか?』拘束された男達を前に笑顔で会話をする子ども達を見ながら眉をひそめる。「えぇ。大丈夫ですよ。警察にも連絡を入れました。それにコナンくんが居ますしね。…さて、この道は通れなさそうなので一旦大通りに戻りますね。」そう言うと安室はハンドルを握り、シフトレバーをReverseへと入れ、RX-7をバックさせる。
コナンとフードを深く被った灰原はその様子をじっと見つめていた。「隣に女の人を乗せてたみたいだけど…誰なの?」「帝丹高校の教師で、俺や蘭の副担任だ。名前はミョウジナマエ。」先日のポアロでのやり取りを灰原に説明する。灰原は顎に手を当てしばらく考えた後に顔をあげ、口を開いた。「話を聞く感じ組織の人間ではなさそうだけど…。」「あぁ…あの驚き方も本当に知り合いに似てた可能性が高い。」「自分に似た人間は世の中に3人はいるって言うしね…。まぁ気にかけておく事にこした事はないわね。」灰原の言葉にコナンは小さく頷き、「あぁ」と呟いた。
午後10時過ぎ。ナマエが住むマンションの近くに車を寄せ、ハザードを焚く。街灯がRX-7を照らし、お互いの顔の輪郭が浮かびあがる。「今日は急に誘ったにも関わらず、ありがとうございました。」『こちらこそ!映画とっても楽しかったです。夕食もご馳走になってしまって…。』「いえいえ。僕も映画の感想を語りながら食事が出来て楽しかったです。」先程の事を思い出しながら安室は目を細め、肩の力を緩める。そんな安室の隣でナマエは出会ったばかりにも関わらず、昔からの友人といるような心地良さを感じていた。元同級生である彼に似ているからなのか、それとも安室の人柄なのか…。「またポアロにも来て下さいね。」『はい、必ず。』ナマエはそう返事を返すとシートベルトを外し、インナーハンドルへと手をかける。そしてドアを開け、再度お礼を告げた。軽く頭をさげ、安室に『おやすみなさい』と伝える。安室も「おやすみなさい」と返し、ナマエが無事にマンションの中へ入るのを確認すると愛車を発進させた。ハンドルを握りながら今日の事を思い出す。「(ふっ…映画を見ながら表情をコロコロかえるところはまったくかわってなかったな。)」降谷は久々に心が穏やかな気持ちで満たされていると感じていた。ナマエとポアロで再会した時、一瞬自身の今の状況を忘れ、気持ちを曝け出してしまいそうになった事に苦笑いを浮かべながら降谷はさらにスピードをあげる。近日決行されるバーボンとしての仕事にため息を漏らしそうになるのを堪え、アクセルを踏む。次々と車を追い越し、安室名義で借りているマンションに向けてRX-7を滑らすように走らせた。
○名前変換サイトで連載していた作品です○