運命 細く長い指が器用に骨で作られた骰子を弄ぶ。
武器を握れば驚くほどの重さで打ち込んでくる胼胝だらけの掌は、しかし見た目だけなら俺の親指と人差指で摘んで潰してしまえそうなほどに華奢だ、不思議なことに。
「必ず勝つ勝負が一番好きだ。負けるのが分かっている戦いなど、してもなにが楽しいのか」
そう言って骰子を眺める暁の目に、嘘は一片たりとも存在していなかった。
運命
血の気を失った頬、得物を強く握りすぎて蒼白となった指先。ぽたぽたと滴る水が地面に染みを作る。
カウラヴァの旗頭はたった一人となってなお、人を食ったような態度を崩さずそこにいる。
あいつの有力な味方はあらかた死んだ。あいつの兄弟たちは一人残らず俺が殺した。あとは料理に例えるのなら皿の上に乗った僅かな米粒を指で掬う段階で、そして皿は綺麗に空となる。
まさか五人でかかってくる気ではあるまいな、と得物に体重を預けてなんとか立ち、それでも弱みを見せぬように憎たらしく笑う満身創痍のあいつを見て、兄は何を思ったか得意な得物と戦う相手を自分で決めろと告げた。
「死んで天国に行くか、勝って王になるか、あなたが決めるといい」
正気か、と兄の背を見て目を見開く。
あれはドゥリーヨダナだ。どんなに傷ついていようが、ここにあれの味方がただの一人も居なかろうが。棍棒術においてはこの世の何処にも比類なき大戦士だ。
パーンダヴァの兄弟たちはそれぞれ名の轟く戦士で、その実力は極めて高い。それでも、棍棒術に限定するならば、誰一人としてあの男に及びはしない。
ヴァーユの子、ビーマセーナを除いては。
あの男は必ず棍棒を選ぶだろう。そしてビーマ以外を相手に選ぶ。
結果はどうなるか。火を見るよりも明らかである。
盤面がひっくり返る。賽の目がひっくり返す。
あいつとその叔父が得意としていた賭博の如く。
アビマニユのことを例に出して相手を滔々と糾弾している兄へ、今からでもいいから前言を撤回するよう進言しようと一歩踏み出しかけて、アルジュナに肩を掴まれて制止された。
大丈夫、兄ちゃん。
声を出さずに唇が動く。
何が大丈夫なものか。お前たちはみんなあいつの実力を低く見積もりすぎている。
カルナやアシュヴァッターマンを筆頭とした将たち、そして弟どもを影に隠れてけしかけるだけの小物だと侮るならばそれはほぼ正しいが、一点においてはどうしようもなく間違いだ。
あいつは強いのだ、単純に。
あいつだけを残したからほぼこちらの勝利だと油断するのは早すぎる。あいつが生きているのならまだこちらに負ける目が残っていると最大限警戒をすべきなのだ。
まだ共に戦闘の訓練を受けていた頃。持ち前の剛力から誰も相手にならず手加減しなければ相手を潰してしまいかねなかった俺が、唯一全力を出せた相手。いくら叩きのめしてやっても何度でも立ち上がってきた唯一人の王子。
兄の肩越しに男の顔を見る。
諦めてなどいない。死に瀕して引導を渡され天国へ至ることを望む往生際の目などあれがするものか。
雫のしたたる前髪の奥。暁の空に似た色をした瞳の底に、轟々と焔が燃えている。
ここまで味方が幾人倒れようと、肉親を失おうと勝ち筋を掴むためにどんな手を用いてでも最大限足掻き続けた男だ。
拳を握る。両足に力を入れて大地を踏みしめる。背筋を駆け上ったのは寒気だ、この感覚を何かに例えるならばそう、密林で虎と相対した時に似た。
薄い唇が、棍棒術で戦うことを兄に告げている。やはりそうだ、そしてこの後呼ばれる名は兄か、アルジュナか、それともナクラかサハデーヴァか。
何れにせよビーマではない。
俺は選ばれない。
俺がいままでどんな目に遭おうとどうにか生き延びてきたのは、目の前の好敵手に自らの手で堂々と引導を渡してやるこの瞬間を待っていたからだとしても!
「ビーマを」
今こいつはなんと言った。
業火の目は兄を通り越して、ひたとビーマを真っ直ぐに見据えている。
頭がおかしくなったかと思った。
「……間違えてねぇか」
「はぁ? わし様がおまえを間違えるわけがあるか、無礼であるぞ」
打てば即座に答えが返る。口が達者なこいつとやり合うのはほかの誰と言い合うより腹の底から怒りが燃え上がり、そして少しだけ小気味良かったのだと思い出す。
振り向いた兄が、険しくしていた目を少しだけ緩める。すぐ下の弟が、ほら、大丈夫。とドゥリーヨダナに聞こえぬように小さく呟く。
「それともわし様に勝つ自信がおありでないのか、風神の子よ」
俺の相手はお前だと、そう言外に告げる。真っ直ぐと視線が射抜く。
この世で一番の馬鹿を見た。
千載一遇の好機のはずだったのだ。兄は五人の誰かを選べと言った、棍棒術であれば他の四人は手傷を負っていてなお此奴にかなうはずはなかった、勝てる勝負だった、選んだのがビーマ以外であるならば。
確実に勝てる勝負が好きだと公言して憚らなかった男が、いま。必ず望みの目が出る骰子を叩き割って投げ捨てた。
「そうかよ」
兄は、そしてアルジュナも。きっと分かっていたのだ、こいつが必ずビーマを選ぶと。だからこんな条件を出した。賭博に弱いくせにこんなところでの読みは精緻を穿って正解を引き当てる。
俺は分かっちゃいなかった、今だって分からない。この男が何を考えてこの結末にたどり着いたのか、何一つ。
なんにも分かりはしないのに、それでもこれだけは確信できる。誰もこの男に及びはしない、半神であるとてビーマ以外には壊せない。追い付けない。
生涯唯一人の、他ならぬビーマを選んだ好敵手が。
この世界の終わりのような土壇場で。俺だけを、見ている。