菜の花🌼『菜の花や 月は東に 日は西に』
与謝蕪村の詠んだ短歌だが、彼が見たのもこんな景色だったんだろうか。
眼前に広がる一面の菜の花畑を前に思う。
今日はまっすぐ家に帰る気になれず、ふらふらと寄り道をした挙句にここにたどり着いた。
子供のように膝を立てて小さくなりながら、ぼんやり揺れる黄色の花々をずいぶん長い間眺めていた。
ふと、背後から走ってくる音に気付いて振り返ると、よく見知った姿が手を振っていた。
「ぼっちゃん、一松坊ちゃん、こんなところに居たんですか」
「……うるさい」
地方からやってきた松野カラ松は、勉強はそこそこだし空回ることも多いが、掃除や簡単なお遣い等嫌がらずに励むので、家の者からも好かれている奴だ。
高等学校卒業後は大学に進むつもりで家に来たが、郷里の父親が病に倒れ、長男であるこいつは家に戻らなければならなくなった。
おれも、この春から外交官の父について大英帝国へ留学することになっている。
もう二度と会えなくなるのかもしれないと、こいつは分かっているんだろうか。
「――きれいな場所ですね」
隣に立ち、カラ松がほうとため息をついた。
そのまま、何も言わずに並んで景色を眺めている。
何を言われるんだろうと待ってみたがいっこうに話す気配がない。
仕方がないので、何しに来たのか問うと、びっくりしたような顔で振り返った。
「帰ってこないから探しに来たんですよ」
「また誰かに探してくるよう押し付けられたんでしょ」
「いや、オレが心配だったから、飛び出してきた」
坊ちゃん最近、塞ぎこんでたでしょうと言われ、鈍いこいつもさすがに気づいてたか、という思いと心配されたというほのかな喜びで少し気持ちが浮つく。そんな自分に嫌悪した。
「外国に行くのがそんなに嫌なんですか」
「……気が重い」
「オレは……坊ちゃんがうらやましいよ」
寂しそうな顔に、ぐっと唇を噛む。
本当は、おれが恵まれているんだってことくらい、分かってる。
こいつは外交官になりたくて、家に来た。英語だってすごく勉強していて、努力していたのは知ってる。
カラ松にも留学の話はもちあがっていたし、何より外国に行きたかったはずだ。
郷里へ戻るよう電報が届いた日からしばらく、目の周りを真っ赤に腫らしていたのを知ってる。
おれは外交官なんて向いてないし、なりたくもない。代われるものなら代わってやりたいが、そう思うこともきっと傲慢なんだろう。
「日本に帰ってきたら、きっとオレの郷里に遊びに来てください」
帝都みたいに発展してないけど、のどかでいいところなんだ、と笑う。
おれに力がないことが、こいつに何もしてやれないことが、歯がゆく悔しい。
大人になれば、そう思うことも減っていくんだろうか。
「帰りましょう、坊ちゃん」
兄のような、友のような顔をして笑う男に手を伸べられ、その手をつかんで立ち上がった。
お人好しで、間が抜けていて、とびきり優しい奴だ。
いつか、物事を思い通りにできるほどの力を手に入れたら、迎えに行こう。
お前が似合うと言ってくれた、白い服で。
その後、留学し見聞を広めたおれが、田舎で教鞭をとっていた松野カラ松を、オーダーメイドの白いスーツ姿でさらいに来るのは、また別の話。