くらくて、やさしい、よるのみち「ジュンくんっ……!!」
ガタッガタガタガタッ……!
ミーティングルームの椅子二つを道連れに、ジュンは床にひっくり返った。
Edenでの打ち合わせが終わり、立ち上がったところで目眩がした。日和が慌てて駆け寄ってきて、酷く心配そうに怪我が無いかを訊ねてくる。倒れた椅子が大袈裟な音を立てただけで、ジュン自身は尻もちをついただけだというのに。
「ははっ、大丈夫ですって」
「……ジュン」
「ジュン!」
凪砂と茨もジュンの側に跪いて顔を覗き込む。ジュンからしては感情の読みにくい二人であったが、心配してくれていることは伝わってきた。
日和が手を差し出した。
凪砂からも茨からも、ジュンを起こそうと手が伸ばされる。だが三人の誰の手も取らず、ジュンは身体を起こした。
「医務室に――」
「本当にっ、大丈夫ですからっ!」
茨の言葉を遮った声は思ったよりキツく響いた。
「大丈夫ですから、昨日あまり寝てなくて」
ジュンは三人を見回し、声の硬さを解いてなんでもないことのように笑う。
「いや〜、昨日読んだ漫画が面白くてつい夜更かしを。心配かけてすんませんでした」
三人が納得していないことは分かったが、ジュンは話を打ち切った。同室の日和ならなおさら、ジュンの言葉が嘘を含んでいることに気づいているはずだった。だが何も言わず、ただ静かな視線をジュンの横顔に向けていた。
『昨日あまり寝てなくて』
理由は嘘だがこれは事実だった。昨夜に限らず最近あまり眠れていない。原因は自分でも分かっている。先日の握手会で日和のファンから投げつけられた言葉だ。
「あんたなんか日和様に釣り合ってない!」
おそらく旧fine時代からの日和のファンなのだろう。目の前の少女は、目に涙を浮かべて言った。
そんなことジュンだって重々承知している。それでも必死に足掻いて、踏ん張って、何とか食らいついているところだ。自分がダメだと罵られる分には良かった。多分に真実を含んでいるんだから。ただ頑張って這い上がってやるだけだ。
だけどそのあとに続けられた言葉――
「あんたのせいで日和様までレベルが落ちた!」
この言葉はジュンの心を凍えさせた。恐らくは笑顔も保てていなかったと思う。周りのファンがジュンへの暴言を聞きつけ騒ぎ始めた。自分がなんとかしないといけないのに声が出ない。少女へ差し出した手は虚しく宙に浮かんだまま、指の一本さえ動かなかった。
「きみはぼくのファンなんだね?」
騒ぎに気づいた日和が現れた。少女はヒッと息を呑んで涙を溢れさせた。
「ふふっじゃあ、ジュンくんとはぼくが握手しちゃおうね!」
日和は両手でジュンの強ばった手を握り、優しくポンと叩いた。「きゃ〜〜!!」とファンたちの黄色い悲鳴があがる。
「並ぶ列を間違えちゃったみたいだね。さぁこっちにおいで」
暴言を吐いた少女を優しくエスコートし、スタッフへと送り届ける。そのあとの握手会は、ギクシャクとした雰囲気ながらも、無事最後の一人まで行うことができた。
これまでにもまれに、『日和様のためにももっと頑張ってくださいね』などと揶揄され『はい、頑張りますよぉ』と躱すこともあった。傷つきはしたが、奮起する材料にもなった。
けれど何故かこのときの言葉は、重くジュンの心にのしかかった。
『あんたのせいで日和様までレベルが落ちた!』
――おひいさんが、オレのせいで……?
オレがいなかったら、おひいさんはもっといい相方を見つけて、もっと難易度の高いパフォーマンスができる。EveもEdenも、もっと、もっと……!!
ジュンのうちに以前から巣食っていた焦りは、ファンの言葉で急速に膨らんでしまった。それから夜に眠れない。練習に身が入らない。悪循環に陥っていた。
✤✤✤
「おひいさん……」
ジュンが話を切り出したのは、あまり眠れなくなって一週間ほど経った夜のことだった。
宿泊先のホテルの部屋で、ジュンはバスタブに湯を溜めている間に荷解きをしていた。手を動かしながら意識の端で日和の様子を窺う。ソファに座っていた日和は、雑誌を眺めながら時折うつらうつらしていた。声をかけて反応がなければ、今夜話すのは止めて明日にしよう。そう思いながら小声で呼びかけた。
日和はすぐに目を開けるとジュンを一瞥して、また雑誌に視線を落とした。
「……なぁに?」
「えっと……話があって……」
彼の目を見ないで済むなら好都合だ。一気に言うべきことを言ってしまおう。そう思うのに、「あの」とか「ええと……」ばかりで肝心な言葉は出てこない。代わりに日和が口を開いた。
「『アイドル辞めます』」
「えっ?」
「それとも『EveとEdenを辞めます』かな?」
「な、んで……」
ジュンの言おうとした言葉が日和の口から放たれる。自分で用意していたくせに、いざ彼の音声で聴かされれば心がギュッと痛んだ。
「あんたも――」
――そうして欲しい。オレなんかいらない。そう思ってたってことですか?
ジュンを見ないまま、日和はパタンと音を立てて雑誌を閉じた。
「いいんじゃない?」
「……え」
「悪いけどぼくはまだアイドルを辞める訳にはいかないから、ジュンくんが抜けるのなら他の子を見つけさせてもらうね」
「は、い……」
ジュンは拳を握りしめる。分かりきっていたことだ自分の代わり、自分よりもずっと出来のいい代わりはいくらでもいる。
……だけど、日和は口ではなんと言おうと、ジュンを特別に思ってくれている気がしていたから。もしかしたら『ジュンくんじゃなきゃ嫌』って、そう言ってくれるかもしれないなんて、ほんの少し期待していたんだ。
このまま自分のほうを見ないでくれ、と思う。勝手に滲んできた涙が引っ込むまで、あと少しだけ――。
「ジュンくん、最後にぼくと思い出作ろう?」
「思い出、ですか?」
日和はソファを立ち上がり、ジュンへと距離を詰める。吐息がかかるほどに近づいた顔にドキリとした。
「そう、アイドルだったらできない“ワルイコト”。ぼくときみの二人でしよう?」
日和は珍しく声を潜めて言うと悪戯っぽく笑った。
✤✤✤
「ジュンくん、もういらないね!」
ほんのり肌寒い夜気に日和の大きな声が響いた。店内にまで聴こえたのか、コンビニの店員がこちらを見ている気がする。せめて制服は着替えてくるべきだったかも。ジュンがそんなことを気にしているうちに、日和がジュンの手に食べかけのアイスを押し付けてきた。
「はぁっ?」
「寒くなっちゃったから、残りはジュンくんにあげるね♪」
「だ〜か〜ら〜! アイスなんて食べたら冷えますよって言ったじゃないすか」
「ふん……」
「それにトラブルを避けるために、夜間の外出は禁止でしょうが」
「もうっ分かってないね、ジュンくんは! 禁止されていることをするから“ワルイコト”なんじゃない」
“ワルイコト”などと言うから何事かと思えば、『夜にコンビニの前でアイスを食べる』とは随分と可愛いらしいものである。
「へいへい、すんませんでしたねぇ。気が済んだならホテルに帰りましょう。……というか寮に帰れる距離なのに、何でわざわざホテルに泊まるんです?」
「連続で同じ現場で仕事なんだから、近くに泊まれば少しでも長く眠れるよね」
だったらなおさら早くホテルに帰ればいいのに。日和にそのつもりはないようで、ホテルとは逆方向へ歩いていく。
「はぁ〜〜」
ジュンは日和に聴こえるように、わざとらしく大きなため息をついた。
「……で? 次はどちらへ、お姫様?」
「ぼくについてくるといいね♪」
✤✤✤
二人がタクシーを降りたのは、通い慣れた玲明学園の前だった。時折車は通るけれど、歩行者とは誰とも行き合わない。暗闇に呑み込まれ、街中すべてが息を潜めているかのようだ。聴こえるのは日和とジュン、二人の足音だけ。
「学校……? 校門閉まってますけど」
試しに門を押してみるが、やはり内側から施錠されているようだ。煌々と輝く街灯に照らされ、鉄製の門は暗闇の中でもはっきりと見える。誰かが通ればすぐに見咎められてしまうだろう。
「帰りましょ――」
踵を返したジュンの背後で、カシャンと門が擦れる音がした。
「ちょっ……!!」
振り返れば日和が門によじ登っていた。フワリと軽い跳躍で、日和は門の内側へ舞い降りた。
「早く! ジュンくんも!」
「戻って! 見つかったらどうするんです? いくらEveだって処分されるかも!」
「きみには関係ないよね? もうアイドル辞めるんだし」
「……ったくもぉ〜」
自分の言葉などで日和の気持ちが変わらないことを、ジュンはよく知っていた。言い争うだけ時間と労力の無駄である。
日和に倣い門を登った。ジュンの体重がかかると、門が頼りなく揺れる。
「うぉっ……!」
「ジュンくん! おいで!」
下では日和が手を広げて待ち受けているが、彼に飛びかかるわけにはいかない。ジュンは靴底で門を蹴って飛び降りる。静寂の夜にガッシャンと大きな音が響いた。
「……っ、と、あぶっ! ねぇ」
日和の前に着地したが、勢い余って彼の腕の中に倒れ込み、結局抱き留められる形になった。
「ふふふっ。ジュンくんドキドキしてる」
「うっせぇ、これは高いところから飛び降りたからで……」
「“ワルイコト”ってドキドキするね!」
ね、ジュンくん――と日和は意味深に笑ってジュンに顔を近づけた。鼻先が、唇が触れ合うほどに。
「なっ、なんです!?」
「もっとぼくと“ワルイコト”しようね――」
ジュンの身体はカッと熱くなった。鼓動は静かになるどころかさらに勢いを増していく。
「――最後、なんだから」
『最後』
日和に縋りそうになる手をギュッと拳にした。
日和はジュンの頬をひと撫ですると身体を離した。身体も心も急速に冷えていく。この熱さを手放すと決めたのは自分なのに。
日和と作る『最後』の思い出は、確実にジュンの心を苦しくさせていた。
「校舎には入れねぇでしょう?」
「残業している先生もいらっしゃるから、職員玄関は遅くまで開いているんだって。クラスメイトから聴いたことがあるね」
日和がクラスメイトから直接聴いたのか、小耳に挟んだのかは知らないが、その情報の通りに職員玄関の扉は施錠されていなかった。
「大丈夫かよ、玲明のセキュリティ……」
ジュンは呆れたように呟く。小さな声すらも妙に反響して、思ったより大きく聴こえた。
「……と言うか、先生がまだ校舎内に居るってことですよね? 会ったらまずいでしょうが」
「明かりが消えているところには居ないはずだね」
廊下の角をひとつ曲がれば、上も下も分からぬほどの真っ暗闇に包まれた。足が竦み、鼓動が速くなる。ジュンはスマホのライトをつけた。薄くなった闇に日和の顔が浮かぶ。それが意外にも強ばっているのを見て少し落ち着きを取り戻した。
「怖いんすか〜?」
「そ、そんなわけないよね!」
「じゃあ行きましょうか」
「……待って! ……手、優しいおひいさんが繋いであげるね」
「はぁ〜〜?」
日和が手探りにジュンを探す。ジュンの肩に触れ、二の腕を辿ってからしっかりと手を繋がれた。
キツく握った手から日和の体温が伝わってくる。いつもより少し速い吐息が重なる。まるで二人でひとつの生き物のようにして寄り添って歩いていた。
「職員室……誰も居ないみたいっすね」
職員室も真っ暗だったが、扉は特に施錠はされていなかった。
ずっと繋いでいた手が解かれた。それをほんの少し寂しいなんて思ってしまったのは、きっとジュンのほうだけだ。日和はスマホのライトを頼りに懐中電灯をふたつ見つけ出してきて、自分の顎下から顔に明かりを向けて「ふふん♪」と笑っている。
「あんた意外とお約束みたいの好きですねぇ」
苦笑しながら懐中電灯のひとつを受け取り、職員室の中を歩いた。
壁にはEveの写真の他、玲明で特に知名度のあるユニットの写真が掲げられている。その中にはジュンのクラスメイトも何人か写っていた。
立ち止まって写真を見上げるジュンの隣に日和も立つ。
「どうしたの?」
「……いやこのクラスメイト、ああこの人も。何度も『Eveになりたかった』『巴先輩とユニット組みたかった』って言ってたんすよね」
「おや? 見た顔だね。確か茨がぼくの相方候補に挙げていた子たちだね」
「そうだったんすね。もし、この人たちがEveだったら……」
ジュンは頭の中で、クラスメイトと日和を並べてみる。胸がザワザワと騒がしく、上手く想像できなかった。でもこれからはそういうEveを見ることになるのだろう。ジュンが相方でなくなれば、日和の横に立つのは自分ではない別の、誰か。
「この子たちがEveだったら? そうだね、ぼくと足して二、くらいにはなっていたかもね」
「……そうっすね」
懐中電灯の明かりを慌てて別のところへ向けた。大丈夫、傷ついた表情はきっと日和には見えなかったはずだ。何でもない風を装って、ジュンは話題を変えた。
「……オレ、こんなに職員室の奥まで入ったの初めてかもしれないです」
「学園長室でお茶を振る舞われたことは何度もあったけどね」
「そうでしたね。あんたに拾われてから、オレの世界は一変しましたよ」
非特待生だった頃のジュンに目を掛けていた教師などいたのだろうか。その他の非特待生と十把一絡げ、有象無象でしかなかっただろう。それが日和に拾われ、Eve、Edenとしてデビューすると手のひらを返したように称賛の言葉が向けられた。
今ジュンの目の前にあるデスクの持ち主は、とりわけそれがあからさまだった。一、二年のジュンの担任であり、ボイストレーニングの先生でもある。
「この先生から、非特待生の頃は散々注意を受けましたよ。どうやっても先生の言うようにはできなくて。今は逆に何やっても褒められてこそばゆいですね」
「ふぅん……その先生、ジュンくんのお陰で特待生のクラス担任になれたんだから、ジュンくんには恩があるはずだね」
「そうなんすか?」
「非特待生をトップアイドルに押し上げた、そう評価されたんだね」
「へぇ…………。オレがEveを辞めたら、来年この人はどうなっちまうんでしょう。先生にもあんたの相方候補にも“ワルイコト”……、しちまいましたねぇ……」
「…………ジュンくん、」
✤✤✤
「わぁっっ!! おひいさん止まって! また心臓が飛び出しました!」
「えぇっ!?」
ジュンは薄暗い廊下に落ちた心臓を拾い上げた。元の場所へ収めようとすると、日和の手が伸びてくる。
「ぼくが心臓預かるね」
二人で運んでいるのは、理科室から拝借した子供サイズの人体模型だった。「せーの」の掛け声でジュンは頭側、日和は足側を持って再び歩き出す。どうやらこれも“ワルイコト”のひとつであるらしい。
月明かりの差すこの廊下は、懐中電灯なしでも歩けるくらいには明るい。遠目に見たら、遺体を運んでいるように見えるんじゃないだろうか。最悪通報されるかも……。ジュンは内心ヒヤヒヤしながら廊下を歩いていった。
日和に言われて人体模型を運んだ先は、ジュンの担任がレッスンを行う音楽室だった。
「ふぅ……」
人体模型を座学室の教壇の前に立たせた。ジュンの担任が毎日立つ場所である。明日の朝一番に教室に入った先生なり生徒はかなり驚くだろう。
「おひいさん心臓を……」
日和は手にした心臓の模型をまじまじと見つめた。
「ねぇ、心はココに宿っているのかな?」
「どうですかね。まぁそう表現しますよね」
「きみの心臓も、こうやって取り出したら本心が見えるのかね?」
「ちょっと物騒なこと言わねぇでくださいよぉ」
「だって、痛いとか苦しいとか助けてとか、ジュンくん何も言わないじゃない?」
「……奴隷に何も言う権利ねぇでしょう? オレの人生なんて、あんたが力を込めればいくらだって握り潰せるんですから、言うだけ無駄です」
「……それが嫌で離れていくの?」
「は?」
「なんてね! 今日まではきみの心はぼくが握っていてあげるね。でもそのあとは……ちゃんとジュンくんに返してあげるから」
日和は自身のブレザーの内側に手を入れると、胸ポケットに人体模型の心臓をしまった。
職員室から拝借した鍵を使い、座学室から続く演奏室を開けた。
指揮者の譜面台に懐中電灯を立てかけると、まっすぐな光が教室の天井に丸い輪を映し出す。暗闇に置かれたスノードームみたいに、閉じられた静謐な世界だ。昼とはまるで違う幻想的な教室で、束の間、二人は言葉もなく天井を見つめていた。
レッスンで使う楽器が何種類も置かれているなか、日和はグランドピアノの鍵盤蓋を開けた。
ポン……鍵盤がひとつ鳴らされた。
ポロン……ポロン……♪
日和の指先で瑞々しい音が跳ねる。
ただの音遊びだ。それでも日和によって紡がれた音は、特別な光を伴っているような気がした。
いつだったかのバラエティで花を生けたとき。
コズプロのオーディションの特別講師として、参加者にレッスンをつけたとき。
あのときも日和に触れられたものたちが、輝きを増して眩しく見えたことをぼんやりと思い出した。
じゃあ日和と足して二、にも及ばない自分はどうだろう。日和の光の反射だとしても、少しくらいは輝けていただろうか。
ジャン――――!
強く鍵盤が叩かれ、ジュンの意識は日和に戻る。日和はいつの間にかピアノ椅子に座っていた。すうっと息を吸ったかと思えば、吐き出すのと同時に演奏が始まった。
ジュンも知っている曲だった。いや知っているどころか、身体の奥底にこびりついている。非特待生だった頃、散々歌う練習をした曲だった。転校してきたときから特待生である日和が、何故この歌を知っているのだろう。
日和がジュンを見て「ほら、歌って」というように目配せをした。
「…………♪」
ジュンから出たのはピアノの音に掻き消されるほどの小さな声だったが、日和は満足そうに頷いた。
「〜〜〜〜♪」
日和の笑顔のせいか、弾むような伴奏のせいか。ジュンも段々と声を張り、リズムに乗ってくる。
あの頃はどう歌うのが正解なのか少しも分からなかった。練習場所も練習時間も満足にとれず、こっそりと中庭で歌ったりしていたっけ。技術的に未熟なうえ歌を楽しむ余裕もなく、誰かに届けたい思いを乗せることもなかった。
「〜♪〜♪〜♪」
伴奏がふっと小さくなり日和も歌い始める。
そう、誰かと声を重ね合わせる心地よさも知らなかった。
目が合えば、日和は優しく目を細めた。ジュンも自然と笑顔になる。
日和の歌声がジュンに寄り添い、二人の歌声がひとつになる。今度は先導する日和をジュンが追いかけて、またひとつになった。
日和との歌声が重なったとき、ジュンの胸の奥はジンと熱くなり、震えるほどの幸せで満たされた。その恍惚とした瞬間は今回初めてのことではなく、今までに何度も何度も訪れていた。
ポロン、ポロロン……ポロロロ……ン――――♪
日和の指が鍵盤から離れ、糸で吊られたように宙に留まる。やがてゆっくりと鍵盤蓋を下ろした。
「はぁ……、はぁ……」
身体が火照り、息があがる。目の前で光の粒がチカチカと瞬いているようだった。二人の歌声とピアノの余韻が、いつまでも耳に残っている気がした。
「やっぱり、いい声してるね」
日和の声は静かで温かで、そして――どこか誇らしげだった。
「漣ジュンくん、きみは歌うことが……好き?」
ジュンは自分の喉に手をやった。
「オレ……」
日和に褒められたこの声が好きだ。日和の歌声と融けていくあの高揚感が好きだ。
――オレは、歌うことが好きだ。
始めは自分の意思で目指したことではなくとも、煌々しいだけの偶像でないことが分かっていても。ジュンはきっとアイドルでいることを辞められない。
「……そろそろ、終わりにしないと」
心なしか声を詰まらせて日和が言う。先程の質問の答えも待たずに、日和はジュンに背を向けると座学室へ戻ってしまった。ジュンも懐中電灯を持ってあとに続いた。
「ジュンくんは何か最後にしたい“ワルイコト”ない?」
「さい、ご……」
「そう、本当に最後。だからとびきりの“ワルイコト”も相方でいる最後に一緒にやってあげるね!」
日和とジュンが共に歩んできた『Eve』はここで終焉を迎えるのだろうか。
日和の我儘に腹を立てることも、彼を慰めるために手を尽くすこともない。
――そして、「ジュンくん!」と屈託なく笑う顔を間近で見ることも、全て無くなってしまう……?
心臓を直接握りしめられているみたいに、ジュンの胸はきつく痛んだ。
「何でも言ってみるといいね」
日和はジュンの間近に立った。ジュンの言葉を待つようにちょっと首を傾けている。
「しっ……!」
突然、日和が小さく鋭い声を発した。
「物音しなかった?」
「や、やめてくださいよぉ……」
耳を澄ませば、キュキュッ、廊下を鳴らすような音が聞こえた。
「足音……? 足があるってことは幽霊じゃないっすよねぇ!?」
「何言ってるの! 人に見つかったってまずいよね!?」
日和に腕を引かれてしゃがみ込む。ジュンは慌てて懐中電灯の明かりを胸に抱え込んだ。
足音が近づいて来る。キュッと高い音を鳴らして教室の前で止まった。カラリ……、前の扉が開く音がした。
「うわああっっ!!」
野太い悲鳴があがった。恐らくは人体模型に驚いたのだろう。哀れな闖入者はバタバタと足音を立て、すぐに教室を出ていってしまった。
「…………クッ」
「…………ふ、」
「……ククッ、オレの担任の声でしたよ?」
「あはっ、大っ成功だね!」
ひとしきり腹が捩れるほど笑い転げた。笑い声が教室に溶けきって静寂が戻る。ふと、髪が混ざり合うほどに日和の顔が近くにあることを意識した。
「キスしたいです」
自分でも気づかないうちに、ひそやかに芽吹いていた望みが、勝手に口から転げ落ちていた。
日和の瞳が困惑したように揺れた。動揺を見たのは、ここへ来てから初めてかもしれない。自分の存在は、少しでも彼の心を乱すことができた。
何も言わず立ち上がった日和を追ってジュンも立ち上がる。
「おひいさんと、キスがしたいです」
ジュンから一歩近づいていく。肩に手を置けば日和は机に尻をついた。ジュンよりも頭ひとつ分小さい位置になった彼の顔を、両手で掬うように上向ける。
神聖なものに触れるように、唇をそっと重ねた。
シンとした教室に、ジュンの鼓動だけがバクバクと響いている気がする。
実のところ唇同士が触れるのは初めて、というわけでもなかった。Eveの曲の振り付けで何度か掠めてしまったことがあった。ジュンはそれをファーストキスにカウントしていたけれど、実際に唇を合わせた今となっては、あれはまがい物だったと分かる。
日和の髪に通した指先に少しの湿気を感じた瞬間、込み上げてくる愛しさに身体が震えた。ずっと勘違いだと言い聞かせ続けた心は、箍が外れたように『おひいさんが好きだ』と喚きだす。もっと……と強く唇を押し付ける。日和の身体がビクリと震え、「ん……」と小さな声が洩れた。それを抵抗ととったジュンは、思わず身体を引いた。
「すんませ……っんッ!?」
日和が追いかけるように立ち上がって、ジュンの唇をふにと食む。見開いたジュンの瞳に映るのは、切なげに眉を寄せる日和の表情だった。
「……おひいさんっ!!」
日和を強く抱きしめた。制服の上から彼の背中を撫でおろして、細く締まった腰を抱き寄せる。
「オレっ……! あんたのことっ――」
「やめて、ジュンくん……!」
「おひいさん……!」
「言わないでっ!!」
悲痛な叫びに、ジュンはハッと身体を離した。日和のブレザーの隙間から人体模型の心臓が転がり落ち、カツンと甲高い音を響かせた。
「なん、で……?」
ジュンを見上げる菫色の瞳は、薄闇のなか、いつもよりずっと暗い色に揺れている。日和の声も表情も、怒りというよりは寧ろ哀しげだった。
「そんな酷いことっ、言わないで……」
「酷い? オレはおひいさんのことが――」
「だってっ……! ジュンくんはぼくから離れていくんだよね!? なのに気持ちを残していかないで……!」
日和はジュンに甘え、心を許しているようでいて、結局自身が良しとした『巴日和』しか見せていないのだと感じるときがある。
だけど今覗いたのは、間違いなく日和のむき出しの心。
ジュンのなかに、都合のいい解釈とそれを打ち消そうとする心が交互に現れる。
――だって、まさかそんな訳ない。このおひいさんが……? オレが離れていくことに深く傷ついていただなんて。
「お、ひいさ――」
「誰かいるのかっ!?」
怒鳴り声と同時に教室の前扉が開かれた。先程の教師が声を聞きつけて戻ってきたのだろう。荒々しい足音が教室に踏み込んでくる。
「出てこいっ!」
「こっち!」
ジュンは日和の手を引いて走り出した。後ろ扉から暗い廊下に飛び出す。ジュンの持つ懐中電灯の明かりが、レーザービームのようにあちこちへはね回った。
一階の入ってきた職員玄関から外へ出た。校舎内に比べれば、月明かりと外灯のある外のほうが明るい。ジュンは懐中電灯を草むらに放った。
「あそこの塀、登りましょう!」
キツく掴んでいた日和の手を離した。ジュンは入ってきた門とは別の手近な塀によじ登ろうとしたが、塀は高く上部にはジャンプをしても手が届かない。
「くそっ……」
教師はまだ追いついてはいないようだ。焦りに背中がジリジリするのを感じながら、数歩後ろに下がる。今度は助走を長く、地面を勢いよく蹴って塀に手を伸ばした。それも空振りだった。
「ジュンくん、他の登りやすいところから……」
「いや、もう一回……!」
「……っジュンくんっ! ぼくが……」
「大丈夫です! ……オレッ、こんなとこじゃ終われないんすよっ!」
思わず声を荒らげたジュンに、日和はふぅと息を吐き出して頷いた。
「分かったね……スタートの場所もう一歩下がって。そう、その辺りだね。踏み切りはさっきより半歩先でやってみて」
「――はい」
普段ジュンにレッスンをつけるような冷静な声だった。ジュンの焦っていた心が凪いでくる。
「きみなら、できるね」
その声がスタートの合図だった。ジュンは地面を蹴った。腕を振って、わずかな距離を全力で駆ける。助走は全力で、踏み切りは焦らずに。ジャンプは高く高く、腕を思いっきり伸ばして。
「くっ……ぅっ」
辛うじて引っかかった指先に力を込める。そうなればどんなにみっともなくても、痛みが伴おうと構わない。絶対に手を離さずに食らいついててっぺんまで登るだけだ。
その泥臭いまっすぐさこそ、未熟な自分が誇れる強み――。
「はぁ……はぁ……やりましたよぉ!」
ジュンは塀の上で屈むと、目いっぱい日和へ手を差し出した。
「おひいさん! オレの手に掴まってください!」
日和は少しも躊躇う様子なく、塀へ向かって駆けてきた。軽く跳躍し、ジュンの片手をしっかりと握る。その手を頼りに軽々と塀の上に登った。
塀の上に立った二人の目の前に広がるのは、輝かしい別世界なんかじゃない。先程までと同じ、暗く静かな夜の街の風景。ただの日常。苦労して塀を乗り越えたって、ジュンの足元に続くのは今まで歩いてきた道の延長だった。
それでもジュンの気持ちは晴れやかだった。
「おひいさん、もう一度、オレと一緒に――」
ジュンは繋いだままの手をグッと握って日和を見た。日和の瞳は月明かりを映して、普段より一層キラキラと輝いている。みなまで言わずともすべてを理解したように、日和も手を握り返して頷いた。
「ジュンくん、飛ぼう……!」
ふたりは同時に塀を蹴り出した。塀から植栽を越えて一メートル程先の地面に着地した。
「おっ……と」
「あぶね……」
ジュンは勢い余って車道へ飛び出しそうな日和の手を引いて止める。日和はよろけたジュンを抱き留めて腰に腕を回した。そのまま日和のリードでくるりとターンする。
「あははっ……」
「ははっ……」
笑い声が静かな夜の町にジンジンと響いている。
「楽しいね、ジュンくん! ぼくときみが一緒なら、色んなことが百にも千にもなるね!」
「……ッ」
「あはははっ……!」
日和が飛びつくようにジュンを抱きしめた。ギュッと力を込めて、痛いくらいにキツく、キツく。
笑い声が止んでも、血潮が全身を巡っていく音はなかなか止みはしなかった。
「……きみが使えないときは、ぼくが取り替えてあげるから。安心するといいね」
「なん、すか……、それ」
鼻の奥がツンと痛む。日和の肩に顔を埋めて腰に腕を回した。
身体を離すきっかけを失い、ジュンと日和はしばらく抱きしめ合っていた。やがて日和が居心地悪そうにもぞもぞと身じろいだ。
「〜〜っジュンくん……! その、さっきから当たってるね……!」
「何がです?」
「だからきみの、あ、アレが腿に……」
「アレって……? ……はぁっ!? 違います! これは人体模型の心臓ですよ!」
教室を飛び出す最中、無意識にスラックスのポケットに突っ込んでいた心臓を取り出してみせた。
「ま、紛らわしいね!?」
「んなヘンタイじゃねぇ。……まぁでもオレはおひいさんのこと、そういう意味で好きみたいなんすけど」
「……」
日和は風に靡く髪を押さえながら顔を逸らした。
「オレの心臓、このまま預かっていてください」
髪の隙間から覗く、ほんのり赤く染まった耳を見つめてジュンは続ける。
「誰が見ても漣ジュンは最高のアイドルで、おひいさんとオレの二人だからこそ最高のEveなんだって。そう思ってもらえるように全力を尽くします。だけどあんたのことも諦めるつもりないんで――」
ジュンは日和の手を取って心臓の模型を握らせる。パッとこちらを向いた日和へ意地悪く笑いかけた。
「覚悟、しておいてくださいねぇ?」
「ぅ……ぅ……」
顔を赤くした日和は、意味を持たない音を喉奥で鳴らしている。
「はぁっ……? そんなかわいい反応されると、もう一回キスしたくなるんすけど」
「ダ、ダメ! ……ジュンくんのくせに〜〜っ生意気だね!」
静かな夜に日和の大きな声がこだました。
「ぼくと帰ろう。ね、……ジュンくん?」
ジュンの心の内を確かめるように、日和は赤い顔のままジュンを見つめる。
日和が手を差し出した。
ジュンは今度こそ迷わずその手を掴んだ。
日和は見える形で、またはひどく分かりにくい形で、何度もジュンに手を差し伸べていたのだろう。
「手、あったけぇ。眠いんすか?」
「ん……。ふわぁ〜〜……、」
「ふぁ〜〜」
日和につられてジュンからも大きな欠伸が出る。緊張が解れ、心地よい疲れがどっと襲いかかってきた。
「……眠くなっちゃった。こっちの心臓は明日にでも持ち主に返そうね」
日和は人体模型の心臓を、存外丁寧な仕草で胸ポケットへ収めた。
「はい、ふぁ……、今夜は久しぶりによく眠れそうですよぉ」
「ぼくもだね……ふぁ……」
「え、なんで? おひいさんも……?」
日和のとろんと落ちかけた瞼を見つめた。聴こえなかったようで、「なぁに?」というように日和は首を傾げている。
「いえ……」
ジュンは日和の横に並び立った。
ここが、日和の隣がジュンの居る場所だ。相応しいかどうかでなく、ジュンが居ると決めた場所。
「絶対譲りませんから」
誓うように、口の中で小さく呟いた。
「さぁ帰りましょう、おひいさん」
暗く、未だ明けない夜の道を、二人は並んで歩きはじめた。