体不43 ──38.5度。
体温計が指した数字は明らかに異常を示していた。どうやって言い訳しようか悩む間もなく、隣から伸びてきた手に奪い取られてしまう。
「風邪だな」
「う……ごめん」
ベッドに横たわる三宙を熱のない視線で見下げながら、四季は傍らで体温計を見る。平熱が高いだとか言い訳する必要もなく、紛れもない高熱だった。
最近の過酷なスケジュールによるものか、はたまた季節の変わり目に起因する何かか、流行り病か。何にせよ、今日の予定はキャンセルせざるを得ないだろう。
「熱以外に体調は?」
「大丈夫」
「言っといた方が身のためだぞ」
「……喉が痛いのと、頭痛デス」
冷ややかな視線と共に何やら不穏な指の音を立てられ、白状するしかなかった。せめて四季に感染っていないことを願うばかりだ。
四季が立ち上がり枕元の机に水差しと携帯を置き、既に完食したお粥の椀と薬のゴミを片付けられる。冷ややかな表情ながらも、何だかんだで行動には優しさを感じた。
「なんかあったら連絡しろよ」
その言葉に三宙は一つ頷いて、笑顔を無理やり作って見せた。ありがとう、という言葉は、喉のひきつれる痛みに遮られて吐き出せなかった。
何の名残も残さずに、四季は部屋を出ていく。今日も本当は、三宙が付き添って夜まで撮影の予定だった。それが、単独での仕事に代わってしまった。
撮影中の四季を見られないこと、仕事を反故にしてしまうこと、心配をかけてしまったこと──と反省を並べて、最後のは違うかと三宙は嘆息した。四季の仕草は至って平時通りで、それが彼なりの優しさだとも思う。
「……引き留めるのもガラじゃないっしょ」
いつかの時、志献官だった頃だ。今と同じように三宙が風邪を引いて、部屋に来た彼が放った一言は「うつすなよ」だった。そういう人なのだ。
最低限の面倒だけ見て、過度な心配をくれないから、こちらも気負わないで済む。それくらいが三宙にとってもちょうど良かった。
喉の痛みが増していく。ベッド脇のテーブルに置かれた水を手に取ろうとして、手元が狂った。グラスが床に転がり手が届かなくなる。途端に、肺がズシリと重くなったような気がした。何とかベッドから降りてグラスを拾う。
「……はぁ」
気が弱ると一番に脳裏に浮かぶのはやはり恋人の顔で。朝一番に顔を赤くして部屋を出てきた三宙を見た時の、四季の驚いた顔が忘れられない。呆れよりも、面倒よりも、心配が先に出ていたように見えたのは自惚だろうか。
迷惑はかけたくない。けれど、与えてくれる心配がどうしようもなく嬉しい。口をつけば下手なことを言ってしまいそうになるから、四季が早々に部屋を出てくれて助かった。水を、こぼれそうになった本音と一緒に飲み込んだ。喉奥がひりつく。
───早く帰ってきてくんねーかな。
喉の奥につかえた言葉はついぞ外に出なかった。
***
カチャリと鍵を回して帰宅する。家の中は人の気配がしなくて、ああ寝ているのだなと直感した。まだ日は高く、時刻は昼過ぎだった。
帰宅のルーティンを済ませた後、四季は買い物袋からいくつかを取り出してまっすぐに三宙の部屋に向かう。
「入るぞ」
寝ていると思っていたから、ただいまより先にその言葉を言った。案の定返事はなく、沈黙を破るように部屋に入る。
机の上には空の水差しと少しだけ動いた携帯が置かれている。三宙は扉に背中を向けて寝ているようで、表情は伺えなかった。手に持った色々を机に出しながら、四季は声をかける。
「三宙」
いつもなら少しの音で三宙は目が覚めるから、声は控えめに名前を投げた。反応はない。聞こえていなかったのか、体を動かすのが億劫なのか判断はつかない。
「三宙、起きれるか」
布団を少しだけ捲って、表情を伺うように四季は顔を覗き込んだ。朝よりも顔色はマシになっているものの、まだ辛そうだ。
「ん、四季……?」
「ただいま」
今度こそその言葉を口にして、布団から顔を出した三宙の頭を撫でる。まだ熱は下がっていない。
氷嚢を取り出して、三宙の前髪を掻き上げた。まだ覚醒しきっていないのか、三宙はされるがままにされている。
「昼飯買ってきたけど、食えるか」
「……昼?」
投げかけた質問には答えず、三宙はその単語だけを反芻する。頭は意外と動いているようだった。
「今日、仕事夜までじゃなかった」
「早く切り上げてきた」
「何で……っ」
三宙が起き上がった拍子に、身体が思い切り傾いた。手を伸ばして支えてやれば、痛々しくこめかみを抑えながら三宙がこちらを見上げる。
「オレのせい?」
「……」
「なん、何で。朝、仕事行ったのに」
「言いたいことは分かったから、とりあえず寝てろ」
言葉を詰まらせながらも焦りが見て取れる三宙を、四季は軽く小突きながらベッドに押し倒す。起き上がった時よりも、横になったほうが幾分か姿勢は楽そうだった。
「お前がいないと進まない仕事は後回しにしてもらったんだよ」
「やっぱりオレのせいだ」
「話を聞け」
風邪でだいぶ心が弱っているのか、口をつけば泣きそうな声でそんなことを言うものだから下手なことも言えない。いつもなら軽口が飛んでくるところをそんな言葉で返されては、こちらも調子が狂ってしまった。
頭を撫でてやりながら宥めつつ、四季は慎重に言葉を選ぶ。
「お前なあ……そもそも何で体調崩したか分かってんのか」
「……オレの、体調管理が」
「馬鹿」
もう一度四季は三宙の額を小突く。本当にこの恋人は、自分を大事にするのが下手らしい。
「最近働き詰めだっただろ。慣れない夜更かししやがって」
「う……」
「ちょっとは休めってことだよ」
分かったか、と念を押せば流石に返す言葉もないようで、素直に頷いて押し黙った。四季は満足そうに三宙から手を離す。その手を三宙が名残惜しげに見ていたことには気づかない。