飲み干したモヒートのグラスをそっとコースターに置くと、そいつは――グエル・ジェタークは、腑抜けて丸まっていた背筋を一直線に伸ばした。酔っぱらいとは思えぬ流麗な所作でソファに座り直して、軽く咳払いをする。
「ケレスさん。聞いてくれませんか」
ようやくか、長かったな。お前のその台詞はこれで二回目だ。一回目は約二時間前の退店後間もなくだった。
商談中いつになく眉間の皺が深かったから、気分転換にでもと気に入っているショーパブに誘ってみたのだが。ショーの最中も、キャストに話を振られても、大真面目な顔で酒を飲んではチラチラと端末を気する姿は異様としか言いようがなく、厄介事に首を突っ込んだと悟った時には離脱する機会は失われていた。
挙げ句「もう少し飲みたいので俺の家で飲み直しましょう」ときた。これは間違いなく長くなるだろうと腹をくくったが、おおかた予想通りの展開になった。
帰り道で店で購入した出来合いのローストビーフとチョップドサラダをほぼ一人で攻略し、拝借したキッチンで俺が作ってやったホタテのタブレをうまいが量が少ないと余計な一言をほざきつつ平らげ、ビールだけじゃ酒がたりないだろうと出してやったジントニック二杯とモヒート二杯を空にして、とうとう胸につかえたものを吐き出す覚悟ができたらしい。
「――で? この俺に聞いてほしいことってのは?」
俺はモヒートを手に取って足を組み直した。顎をしゃくって促す。
「……その、なんというか。人間関係の悩みなんですが」
「そういう相談にうってつけの相手がいただろ。ほら、同じジェタークの同期の、メカニックだかの」
「あっいや、あいつには、ちょっとこの話は……。内容が内容なので、身近には相談できるやつがいなくて」
ローテーブルの向こう側でグラスを揺らす俺の動きを窺うように、青い目が不安そうに瞬く。店を出た時には随分キまった目つきで有無を言わせず引っ張ってきただろうに。ここまで来たなら言葉を濁すな、面倒だ。
「ま、お前のことだから人間関係の悩みったってどうせ弟のことだろう?」
グラスを軽く呷ってからそう言うと、グエルの動きがピタリと停止した。その後すぐに整った顔がレモンやライムを丸かじりしたかのように歪み始める。そして唐突に情けない声を上げたかと思うと、勢いよく天板に突っ伏して大仰に肩を震わせはじめた。衝撃でミックスナッツの小皿が揺れてアーモンドとピスタチオが弾け出る。
「どうせなんて、そんなこと言わないでください……俺は、俺には、一生を左右するくらいの一大事なんです!」
「あー、分かった分かった」
リビングに通されてすぐに、煌々とした白い明かりの下じゃ話す気になれないだろうと、照明をいじって雰囲気のあるバーに寄せておいたが。
台無しになった美丈夫の姿をご覧ください。まるでそう言わんばかりに、上着を脱いだ白シャツの背中に琥珀色のスポットライトが当たっていた。
片付けついでにナッツの皿を空にしてから、ローテーブルの天板の裏側をルームシューズの先端で小突いた。
「泣きやめ、酔っぱらい。俺はそろそろ帰りたいんだ」
色々な水分でぐしゃぐしゃになった面が俺を見上げる。ハの字になった特徴的な眉がライトに照らされて情けなさに拍車をかけていた。
「もったいぶってないでさっさと吐け。少しなら聞いてやる」
ティッシュを二枚引き抜いて面前に差し出す。酔いどれCEOは軽く礼を言って受け取ると、身を起こして目元を軽く押さえるように拭いた。そうして「失礼」と断ってから俺に背を向けて鼻をかむ。
酒が入って諸々緩んでいるはずなのに、そういう礼儀正しいところは緩まないらしい。生真面目な性格が良く出るものだ。
「すみません……見苦しいところを」
テーブル横のダストボックスにティッシュを放ってから、グエルはソファの背もたれにかけていた上着のポケットに右手を突っ込んだ。取り出した端末を少し操作してローテーブルのこちら側にそれを置く。
「これ、ラウダとのやりとりなんですが」
組んでいた足をほどいて、画面を覗き込む。メッセージアプリに届いているのはジェターク弟からの動画だ。
「俺の返信がまずくて……あいつを困らせてしまったみたいで、丸一日返事がないんです。どうしたらいいかケレスさんに意見をもらいたくて」
「ほう」
再生マークをタップすると、コントラストの強い映像と賑やかな声が流れてきた。トングを手に鉄板とグリルの上の肉と魚介に集中している株式会社ガンダムの男性陣と、その奥のテーブルでトマト入りの大きなサラダボウルを囲んで和気あいあいとしている女性陣。ジェタークのGUND義肢のテスターと車椅子に乗ったスレッタ・マーキュリーの母親の姿もある。
「へえ。バーベキューか」
「昨日、向こうにいる皆と収穫祭という名目でしたそうです」
「……なかなか楽しそうじゃないか」
グリルからひっきりなしに立ち上る煙と時折強めに跳ねる炎、そして投光器に群がる羽虫には若干ぞくりときたが、鉄板の上に乗っている串焼きや大きな塊肉などは豪快で食欲をそそる。
『撮るのもいいけど肉裏返すの手伝えーラウダー』という男の声で動画は終わっていた。
画面を少し下にスクロールする。参加者全員の集合写真とさっきの塊肉の断面の写真があった。色合いと肉の質感からローストビーフと思われる。さっき目の前の男がほぼ一人で食べきった市販品と比べると、火入れは若干進んでしまっていた。
『シーズニングはいつものうちのレシピ通りにやったよ おいしいって皆に好評だった』
『兄さんの焼き方を思い出してホイルでしっかり包んでみたんだ』
『油断して焼き色をつける時間が長くなってしまったのが今回の反省点』
『大きいと火入れって難しいね』
『兄さんみたいにうまく作りたいから、よければ次に帰った時にコツを教えてください』
さらにスクロールする。メッセージから二時間後に、株式会社ガンダムの社屋が写り込んだ夜空の写真と、ズームアップで撮った満月の写真が送られていた。月の表面の模様がよく写っている。
『今日は満月なんだ』
『雲もなくて月見にちょうどいいよ』
弟のメッセージが続いていたが、ここではじめて兄から『月が綺麗だな』という短い返信があった。
その一文を最後に、ジェターク兄弟のやりとりは止まっている。
「――――で?」
「……で、とは」
「いや、見たが、これのどこにお前の弟を困らせる要素があるんだ? 月が綺麗は単なる感想だろ」
ジェターク弟が撮った月の写真はそこそこ良く撮れている。夜の地球では月が金色に輝いて見えるというのは、俺達スペーシアンは知識で知ってはいても馴染みのない感覚だ。
そもそも宇宙を生活拠点にしている人間にとって、月は想いを馳せたり眺めたりする物じゃない。フロントと同様に単なる居住区域やパーメットや金属類を採掘する工業区域の一つに過ぎない。そういう意味で新鮮だ。
「あの……ケレスさんは知りませんか。月が綺麗ですね、の別の意味」
「別?」
問われて端末から顔を上げる。すると意外な物が目に飛び込んできた。思わず自分の目を疑ってしまう。
そこには気恥しそうに頬を赤く染めた男の姿があった。どれほどアルコールを摂取しようと顔色一つ変えなかったあのグエル・ジェタークが、だ。
「……」
「……」
しきりに瞬きを繰り返す青色の双眼。目を丸くしている俺をただただ見つめ返して必死に訴えてくる。
いや、黙ってないで何か言え。どうして赤面したこいつと見つめ合わなきゃならない。ひたすら居心地が悪いだけだ。
そのまま無言の時間がひとしきり続いて――――先に我慢できなくなったのは俺の方だった。舌打ちして視線を外して、無造作に頭を搔いた。
目の前の男はどうしても俺から言葉を引き出したいらしい。仕方なく、酒で鈍化した脳を高速スキャンすることに努める。いつもより解像度が落ちた記憶を片っ端から漁っていると、不意に浮かんでくるものがあった。
「あー……あれか、思い出したぞ。昔の小説家の逸話のやつだな?」
西暦時代のアジア地域の有名作家の逸話、だったか。言葉での直接的な愛情表現を避ける民族が、I love youを現地の言葉に訳す際に、その想いを月に託したという奥ゆかしい話――だったと記憶している。
とはいえ何百年も昔のニッチな逸話だ。月を愛でる文化が廃れたフロントじゃ知っている奴はそう多くない。教養の高い奴や文学に精通している物好きならこの話は知っているだろうが。
「そっちの意味の月が綺麗ですねは意中の相手への告白だろ。弟にか?」
「…………」
「沈黙は肯定と受け取るぜ?」
「あぁ、いや……その、決して意図してやった訳ではないんですが……結果的に、そう、なってしまったというか」
自分から話を振ったくせに、指摘したら目を泳がせて歯切れ悪く言い訳を並べやがる。俺はまたテーブルの天板を足先で小突いた。
「まどろっこしい。はっきり言え。好きなんだろ、弟が」
「……はい」
「だけどなんの前触れもなく告白するつもりは毛頭なかった。そうだな?」
「合ってます」
でかい図体に似合わぬ蚊の鳴くような極小の肯定が返ってくる。
自分で口にして耐えられなくなったのか、両手で顔を覆ってみるみるうちに縮こまっていく。手で覆いきれない耳までもがすっかり赤くなっていた。
「おい、俺の意見がほしいってんなら恥ずかしがってないで包み隠さず全部吐け。コンサルタントに必要な情報を隠す馬鹿がどこにいる。そんなクライアントこっちから願い下げだ」
「でも……その、ケレスさんは引きませんか……実の弟相手に、そういう感情を抱いてるって」
「別に」
「……じゃあ」
「おう」
「学園にいた一時期……弟と、関係があった、って言っても」
「一切引かない。安心しろ」
いずれも即答してやる。俺は他人の色恋なんざ興味ない。そして興味もない分、偏見も持っていないつもりだ。
「こっちはお前らの重たくて湿っぽい兄弟愛をこの数年見せつけられてきたんだ。今更俺がお前らを不快に感じると思うか? むしろ今までの行動に納得したくらいだ。それに誰が誰を好きになったって構わないだろ、制限されているわけじゃあるまいし」
俺の講釈に少しは緊張が解けたらしい。すっかり小さくなっていた体がゆっくりと体積を取り戻していく。顔を覆った指の隙間からは細長く息を吐く音が聞こえた。その後両手が少しだけ下がり、再び青い目が露わになった。こちらの様子を窺うようなこわごわとした目つきだ。
「その……今回のは単純に、なんの衒いもなく、ラウダが撮った月の写真が綺麗だと思って、月が綺麗だなって返したんです」
「お前、たいがいロマンチストなくせに、その言葉が要注意だって返す時に思い至らなかったのか?」
「昨日は疲れて端末を握ったまま寝入ってしまって……ラウダのメッセージが届いた時点で、うとうとしていて」
「つまり寝ぼけてて何も考えずに反射で返したと?」
「ぅ……そう、なります」
思わず長い溜め息が出た。
ありがちな事例だ。ありがちなこととはいえ、もっと他の言葉はなかったのかと嘆きたくなる。『月が綺麗ですね』は短くさりげないフレーズのくせに、秘められた攻撃力が高すぎる。
「……まあ、やっちまったことは仕方ない。それで、朝になってから自分のやらかしに気が付いたんだな」
「はい」
「せめて弟から何か返信があればな。弟が気付いていない可能性は考えられないのか?」
「さすがにそれはないかと……。あいつは昔から古典を含めてたくさん物語に触れていたので、きっとすぐに気付いたと思います」
「まあ、そうなるよなぁ。どっかの誰かさんと違ってリアリストな割にそういう話には異常に詳しいからな」
以前弟本人が自嘲気味に語っていたことがある。御曹司である兄が色恋で道を踏み外さないように裏で色々手を回していたと。兄を守る立場として、そういったことに敏感にならざるをえなかったというべきか。
「プライベートの端末に連絡が来てないのは分かったが、社用の方はどうなんだ?」
「それが、こっちにも……」
「ったく、兄も兄なら弟も弟だな」
丸一日も無反応を貫くのはさすがに悪手だ。それ自体が動揺を示す明確なサインになる。弟の方もそれが分からないほど馬鹿ではないはずだが、それだけ衝撃的だったのだろう。
もし送った相手が教養も何もないただのお気楽なスペーシアンだったなら――言葉を額面通りに受け取って、悩むことすらなかったはずだ。
「毎日終業近くに届く日報も来てないから心配で……。今日はケレスさんにショーに誘ってもらったので、俺から連絡するタイミングが掴めなかったのもありますが」
「なんだ、俺のせいかぁ?」
「あ、ちがっ、そういう訳じゃ――」
わざと嫌味ったらしい態度をとってみせると、目の前の男はさっきとはうってかわって青褪めた顔になった。がばりと立ち上がって見捨てないでくれと懇願の視線を送ってくる。
その必死さが滑稽で、同時にやり過ぎたかと少しばかり自省する。
「はっ、冗談だ。真に受けるな」
ひらひらと手を振ってやると、張っていた糸が切れたように巨体がどさりとソファに沈みこんだ。唇はへの字に曲がり、目はどことなく潤んで、眉尻は力なく下がっている。
「っ……あまり、からかわないでください」
「お前のリアクションが面白くてつい、な。許せ」
「俺、こんなこと相談できる人、他にいなくて……本当は不安で不安で、仕方ないんですよ」
だったら素直にその情けない顔を弟に見せてやれ。本音を聞かせてやれ。
そう思うが、それができるのならとっくにやっているだろう。大事な弟のことになると、過剰なまでに臆病に慎重になる。こいつはそういう男だ。単なる家族愛を超えた感情を抱いているなら尚のことそうだろう。
「ま、お前が酒にも俺にも縋るほど弟のことで悩んでいるのは分かった。酔ってはいても、いたって真剣だということもな」
テーブル上の端末をグエルの方へと押し戻す。ソファの背もたれにゆったりと体を預けて足を組んだ。俺とは反対に神妙な顔で姿勢を正したそいつに、口の端を釣り上げてみせる。
「これも何かの縁だ。俺の力を貸してやるよ、グエル・ジェターク」