スノーフレイクス 今回の出張には、グリップ力の高いソールの靴を選んでおいて正解だった。歩幅はいつもより小さく慎重に、足裏全体を地面に付け、重心は少し前気味に、手の振りも控えめに。
いわゆる『ペンギン歩き』という歩き方だ。初等部五年生のとき、家族で訪れたウィンタースポーツのリゾートで、南半球に生息する飛べない鳥の名がついた歩き方があると兄に教えてもらったのだ。
常日頃から自信に満ちた歩き方をする兄が、小またでちょこちょこと歩いている。そのギャップがかわいらしくて、つい笑みを漏らしてしまったことを今でも覚えている。
そして、そのペンギン歩きがもっとも雪道に適しているのだと、ラウダは尻もちの痛みでもってすぐさま理解することになったのだが。
「ラウダ」
ツイード素材のチェスターコートについた雪を手で払っていると、隣を歩く兄から名前を呼ばれた。兄は白い息を吐きながら、建物の隙間から見える薄灰色の雲に覆われた空へと目を向けている。
「本当にお前の言うとおりだったな」
感心したようにつぶやいた兄の肩は、雪化粧した路面のようにうっすらと白くなっている。革の手袋をつけた手を伸ばして、ラウダは丁寧にその雪を払う。
「雪のこと?」
「ああ。雪を降らせる雲は、輪郭がぼやけてはっきりしないって」
コートに積もった雪は隙間が多くふわふわとした質感だ。少し目を凝らすと、一つ一つの雪の粒が数え切れないほど数多の六角形の結晶を含んでいるのが分かる。
兄の地球出張に帯同して工場視察などを手配する秘書のラウダにとって、天候の予測は至極当然のことだ。人間の完全な制御下に置かれたフロントとは異なり、どれだけ観測精度や演算技術が向上しようとも、地球の天気予報はあくまで予報にしか過ぎない。数時間先の天気はどうしても確率論の話になってしまう。
一年以上にわたる地球出向の経験で、ラウダはそう認識していた。だから最終的な判断は、西側の空と雲を見て下すしかない。
「素直に傘を持ってくるべきだったな」
視察が終わる二時間後には雪が降っているだろうから、念のため傘を持っていった方がいい。そう進言したラウダに、大丈夫だろうと言ったのは兄であるグエルだ。工場の入り口に近い場所に駐車しようとしたラウダに、場内の様子を歩いてよく見たいからと、あえて遠い駐車場に駐めるよう指示したのも兄である。
「水っぽくてすぐに解ける雪じゃないから、これくらいなら問題ないよ」
雪を払い終えたラウダは、次は黒茶色の柔らかな髪へと手を伸ばす。問題ないとは言ったが、万が一にでもCEOである兄の健康を損なうことがあってはならない。
手で梳くように雪を落としていると、「お前は本当に心配性だなあ」と兄が軽やかに笑う。そしてふと足を止めたかと思うと、こちらに向き直って、揃いの革手袋をした大きな左手でラウダの頭のてっぺんから後頭部までをさっと撫でていった。
「兄さんこそ、心配性だよ」
手袋越しに前髪にも触れられる。額を撫でられるくすぐったさに首をすくめていると、兄は「似たもの同士ってことだろう」と満足そうに目を細め、また静かに歩き始めた。
しばらくは工場の建屋沿いに歩いていたが、開けた場所に出た。駐車場までもう少しだ。
立ち並ぶもみの木の向こうには、工場の敷地と外を区切るフェンスがある。さらにその向こう側には、雪を被った広大な畑が広がっていた。
「なんだかガトーショコラみたいだな」
不意に立ち止まった兄のその一言は、なんの脈略もなく、あまりに突然で。しかし、どうして兄がそのお菓子の名前を上げたのか察しがついてしまうのが兄弟というもので。
ガトーショコラは、実家にいた頃、ジェターク家の使用人や兄と一緒によく作っていたお菓子だ。兄はラウダがレシピ通りきっちり計量した粉糖を、そんなのお構いなしとばかりにいつも豪快に気前よく振るってしまう。だからレシピ通りでは足りなくなってしまうのが常で、そのうち前もって倍量を準備するようになっていたほどだ。
かけすぎじゃないかと指摘すれば、「たくさんかかってるほうが嬉しいだろ!」と言ってきかない頑固者の兄だ。ジェターク家特製のガトーショコラは、いつも雪化粧したように真っ白だった。
「――うん。粉砂糖まみれなところが、兄さんが作ったのにそっくりだ」
兄の見立てによれば、黒土を白く染める雪が、チョコレート生地にかかった粉砂糖ということだろう。
「なんでだよ、たくさんかかってるほうが嬉しいだろ」
「それにしたって限度ってものがあるでしょ」
幼い頃と寸分違わない台詞とともに、兄が一際大きな白い息を吐いて笑う。
兄の頬と鼻は、寒さのためほんのりと赤く色付いている。それが大人びた顔の奥に隠していた、年相応の無邪気さを引き出しているように見えて。
つい先程、「滑りやすいのでお足元にお気をつけてください」と恐縮しながら自分たちを見送った工場長と副工場長は、若くしてジェターク社のCEOを務めるこの青年が、こんな子どものような純粋さを秘めているとはつゆほども思わないだろう。
どこか嬉しそうな兄の横顔を眺めているうちに、そういえば、とふと気が付く。兄が地球で雪を――人工降雪ではない、本物の雪を見たのはこれが初めてなのだと。
CEOに就任してからの兄は学園の再開や本社の業務で手いっぱいで、地球に出張する機会は数えるほどしかなかったはずだ。そのいずれも、雪のない季節だったように記憶している。
初めて見る本物の雪なのだから、内心浮足立ちもするだろう。この場に着いてからの兄の発言も指示も、いろいろと合点がいった。なぜなら一年前の冬、ラウダも同じように初めて見る地球の雪に浮足立っていたのだから。兄が言うとおり、やはり自分たちは「似たもの同士」に違いない。
「……ねえ兄さん。ホテルにチェックインしたらクリスマスマーケットに行かない?」
本物の雪をまだまだ楽しみたいであろう兄に、さりげない提案を。
ホリデーシーズンの今時期は、北半球のこの地域は冷たい雪に覆われてしまう場所がほとんどだ。だがそんな寒さの中でも旧世紀から連綿と続くこのイベントは、人々の活気に満ち溢れていることをラウダは知っている。
自分たちが住まうフロントには、宗教要素を強く感じさせるイベントはほとんどない。商習慣として形骸化したものが残るくらいだから、その点も兄にとって新鮮で楽しめるだろう。
「時間は問題ないのか?」
「うん。夜の会食は七時からだから、二時間くらいは楽しめるはずだよ」
「そうか。じゃあ行くか」
「僕が去年行った他の街のクリスマスマーケットには、ジンジャーブレッドにソーセージ、ホットチョコレートにグリューワインなんかがあったよ」
「大事な会食の前なのにそんな刺激的なものばかりで大丈夫か?」
「大丈夫、食べられないものもちゃんと売っているから」
「なんだそれ」
ふはっと吹き出した兄のくしゃくしゃの笑顔を見て、提案して良かったとラウダはほっと胸をなでおろす。とはいえ、体調が最優先なので、最低限帽子とマフラーはしてもらうつもりではあるが。
魅力的な温かい食事も、二人で分け合って軽くつまむ程度なら問題ないだろう。
「楽しみだな」
「うん」
転ばぬようにと、兄がいつもより小またで歩き出す。その姿は大きく精悍に成長した今でも、やはりどこか滲み出るかわいらしさがあった。