夜明けは君の色 ダイニングテーブルの真ん中にスライスレモンの小皿と蜂蜜の瓶を置くと、ラウダがとろりとした半目を数回瞬かせた。朝陽で艶めく蜂蜜をぼんやりと眺めてから、どうしたのかと尋ねるように俺の顔を見上げてくる。
その眠たげな琥珀色から胸元へと視線を落とすと見える、無垢な眼差しとは対照的な生々しい赤褐色。パジャマの襟からのぞく範囲だけでも四つの痕がある。そのうちの一つは、昂りすぎて数年ぶりに残してしまった噛み痕だ。
正直、昨日はまったく自制が利かなかった自覚がある。無我夢中で何時間も貪ったのは自分のくせに、一晩経って蛮行の証拠を突きつけられると、あまりの強欲ぶりと自分勝手さにいたたまれなくなる。
じっと見つめるのがためらわれて、つい目を逸してしまう。まだ準備の途中だからと己を正当化して、逃げるようにキッチンに引き返した。
先週はプライベートの時間はまったくと言っていいほど持てなかった。文字通り四六時中働き詰めだったように思う。
いつもの業務に加えて週の前半は主にブリオン社との新規合同事業の下見と打ち合わせと、MSのセンサーアイの改良についてCTOを交えた開発会議。後半はL1のフロントで全宙域最大規模のMS展示会への参加。
リモートでは対応できない案件ばかりであちこちのフロントを行き来する必要があった。ゆっくりと腰を落ち着けて食事を楽しむ余裕もなく、慌ただしく家や出先のホテルに戻っては二人揃ってただ眠るだけの一週間だった。
昨晩はその時間的、精神的な拘束からようやく自由になれたのだ。無事に山場を越えた達成感と解放感から、まともに触れあえなかった時間を取り戻すように求めてしまった。
加減や我慢なんていう慎ましやかな言葉、相手の風呂上がりを待てずにシャワーの下で肌をまさぐる奴の頭に残っているはずもない。幾度となくかけられたラウダの「待って」も「ダメ」も聞き入れなかった。
そうやって無茶をさせた結果手に入れたのは、ずいぶんとしゃがれてしまった「おはよう」の一言だったのだが。
一息ついてからホットグラス二つとティーポットを手に再びダイニングへ向かう。椅子に座ってまどろんでいたラウダの瞳が、俺の手元のポットに縫い止められた。
「たまにはコーヒー以外もいいかと思ってな。勝手に拝借させてもらった」
ラウダの真向かいの席に腰を下ろし、テーブルにグラスとポットを置く。
沸きたての湯を注いだガラス製の丸いポットの中ではいくつもの花びらがジャンピングして、透き通った青色のハーブティーができあがっていく。
朝陽のあたる弟の髪色によく似た青紫色の花は、喉や胃などの粘膜を保護して声枯れにも効くと言われているハーブだ。抽出液に酸やアルカリを入れると大きく色が変わることで知られている。夜明けのハーブティーとの呼び名もあるらしい。
以前、風邪をひいてしまった俺にラウダが入れてくれたことを思い出して入れてみたが、ハーブをよく知る弟ならこの綺麗な青色を見ただけですぐに分かっただろう。
美しく色付いた湯の中をゆったりと泳ぐ花を目で追いかけながら、そろそろ蒸らしが終わる頃合いだと視線を上げれば、弟とパチリと目があって。
こうやって真正面に座れば、おのずと自分が刻みつけた痕跡を――左の鎖骨を大胆に横切る、あからさまな欲望を主張する歯型も目にしてしまうわけで。
「ラウダ。昨日は一切加減できなくてすまない。体、辛いだろ」
切り出すなら今しかない。そう思って口を開けば、蜂蜜を煮詰めたような琥珀色がきょとんと丸くなった。そのまましばし見つめ合うこと数秒。ラウダのまぶたが柔和に細められたかと思うと、ふっと軽い吐息とともに唇が弧を描いた。
――大丈夫。
喉を刺激しないような、ごくごく小さなささやき声。でもその慎ましやかな返答に心底ほっとした。知らず知らずのうちに強張っていた体からへなへなと力が抜けていく。
すると、今度はラウダの肩が小刻みに揺れはじめた。口元に右手の指を当てて、声を上げずに顔をほころばせる。
その唇に触れるすらりとした指先が、声もなくふわりと笑う姿が、品があって色っぽい、だなんて。
ついさっき純真無垢だと感じたばかりなのに。胸元で主張する赤褐色もあいまって、まったく反対の感想を抱いてしまう。思わず昨晩の熱がじわりとぶり返しそうになり、慌てて顔を背けた。
「その……悪いんだが、パジャマのボタンを一番上まで掛けてもらえるか」
見るは目の毒、とはさすがに言えず。耐えられずそっぽを向いた俺の行動から察してくれと願う。こういう時、いつもなら「仕方がないなあ」と少し呆れのまじった優しい声を聞けるのに、今日は寝起きのせいかそれがない。
自分の頬から耳にかけて火照りが生まれ、血が集まっているのが分かる。きまりが悪くても、逃げ場もなければ隠れる場所もない。それでもなけなしの兄としての意地が、どうにかこの場を取り繕えと、今更俺を無駄に動かそうとするけれど、
「……とりあえず、温かいうちに飲もう」
結局たいして気の利いた返しが浮かぶわけでもなく。
自分への幻滅を吹き飛ばすようにおおげさに咳払いをして、蒸らしを終えたティーポットに手を伸ばした。蓋に軽く左手を添える。並んだホットグラスへ均等に青色のハーブティーを注いでいくと、天然木のテーブルにゆらゆらと揺れる二つの青い影が差した。
――このお茶、兄さんの色になるよね。
ふいに向かい側からかすかな声が届いて、はっとして顔を上げれば。
要望通りしっかりとパジャマのボタンを上まで掛けてくれた弟の右手には、一切れのスライスレモンが乗ったスプーンが握られていた。
ラウダがグラスの一つを手元に引き寄せる。スプーン上のレモンを静かにグラスの中へと落とすと、それはゆっくりと沈みながら、青色のハーブティーをみるみるうちに鮮やかなピンクへ染めていく。
――兄さんの前髪の、きれいな色。
そうささやいて、ふっとやわらかく両の口角を引き上げた弟の自然な微笑みに。持ち手がついたホットグラスなのに両手で慎重に持ち上げる姿に。口に含む前にふーふーと丁寧に冷ます健気さに。
もう全ての仕草がいちいちかわいらしくて、逐一見惚れてしまう。まだ眠たげな状態だからこそ見れる、幼さすら感じさせる行動がどうしようもなく愛おしくて、つい世話を焼きたくなる。
ラウダがグラスを少し傾ける。充分に冷ました表面をちびりとすすって、
「ちょっとすっぱい」
とはっきり口にした。その声はやっぱり掠れきっていて、俺はすかさずハニーディッパーを差し出した。
「ほら、喉にいいから多めに入れておけ」
素直にこちらに向けられた弟のグラスに黄金色の蜂蜜をたっぷりと垂らす。
ディッパーを瓶に戻してもう一掬いして、自分のグラスにもしっかりと蜂蜜を入れた。それからスライスレモンを一切れ、自分のグラスに入れる。
ハーブティーの色と影が、ラウダが言う「俺の色」に変わっていく様は、なかなかどうして悪くない。