あなたがここにいてほしい バターをまとった賽の目切りのにんじん、たまねぎ、じゃがいもがパチパチと音を立てて狐色に色づいてくる。あらかじめ加熱済みのためか思いのほか火の通りが早い。
「……このくらいで十分か」
鍋底をヘラで返す度にバターと野菜の優しい香りがふわりと立ちのぼる。
起床して帰ってきてから、まだ固形物を口にしていない。つい空腹に負けて、じゃがいもを二片、ヘラですくった。息で軽く冷ましてからころころと舌の上で味わう。噛むとしっとりした食感とほのかな甘み、焼き目の香ばしさが広がる。
淡白な食材を包み込むバターの風味に、ふと、昨晩のレストランで供されたムニエルを思い出した。
昨日は仕事終わりに親交の深いテック企業の会長さんとの会食があった。結婚式は行わなかったから親しい人達には書面で婚姻の報告を済ませていたけど、直接会ってお祝いをさせてほしいと、わざわざ食事の場まで設けていただいた。
ここ一年ほどはラウダがジェターク社の地球支社に赴任していたから、三人揃ってゆっくり話す機会もなかった。その分、随分と話に花が咲いた。
『実はもう少ししたら、君達のどちらかにうちの孫娘との縁談を持ちかけようって、結構本気で考えていたんだよ』
俺達が生まれた年に醸造されたワインを楽しみながら、少し赤くなった顔で呟かれた会長さんの言葉。『私個人の密かな夢だったんだけどね』と惜しむようなやわらかな笑みが忘れられない。
あの時俺は、とっさに貼り付けたような愛想笑いをするのが精一杯で。
『何を仰いますか。あんなにもかわいらしいお嬢さん、僕達兄弟にはもったいないですよ』
予期せぬ発言に動揺した不甲斐ない兄に代わって、そつなく返してくれる弟に助けられて。隣に座る弟がどんな表情をしているのか見れないまま愛想笑いを続けて。
もし、少しでも歩いてきた道が違えば、弟との縁が再び深く交わることはなかったのかもしれない。今俺の横に座っているのは、ラウダではなく違う人だったのかもしれない。その場合は間違いなく結婚式を挙げていただろうから、この食事会自体なかったのかもしれない。もっと大勢の人達から、親戚全員から、祝福されていたのかもしれない――。
ふいにオーブンから軽やかなベル音が聞こえて、際限なく連鎖していた「もしも」がぶつりと断ち切れた。
いつの間にか手が止まっていた。野菜の焼き色が濃くなっている。慌てて全体をかき混ぜてから、コンロのスイッチを切った。
オーブンの扉を開けてフォカッチャの焼き上がりを確認する。全体がこんがりと色付いている。
一昨日の夜のうちに一次発酵を済ませて冷蔵庫で生地を寝かせていたから、二次発酵には少しだけ時間がかかった。だがその分熟成されて旨味は増しているはずだ。昨日は丸一日外食で済ませてしまったから、今日初めての食事には美味い物を食べさせてやりたい。
オーブンから取り出して、天板に置いた網の上で粗熱をとっておく。香り付けに使ったローズマリーの清々しくほろ苦い香りが漂う。いつもならここで追加のオリーブオイルをたっぷりと塗るところだが、今日は塗らずにあっさり目に仕上げる。
再びコンロのスイッチを入れた。若干焦げ目のついてしまった野菜に薄力粉大さじ二杯をまぶして、更に炒めていく。全体に馴染んで粉気がなくなってから、鍋に牛乳と水を加えて底の方から大きくぐるりと混ぜ合わせた。
本当は何も考えずにすむように、無心になれそうなメニューを選んだはずだった。ひたすらヘラを無心で動かしていればいいのに、ふとした拍子に手が止まって、その度に昨晩の食事会を反芻してしまう。
会長さんの会社とは祖父の代からMSの制御部の設計開発で業務提携を結んでいる。会長自身は現場叩き上げのエンジニアから社長、会長まで上り詰めた方で、お年を召されても非常に研究熱心で柔軟な思考を持っている稀有なお人だ。ダリルバルデのシェルユニット導入や、直近ではブリオン社と共同開発したユザールの設計にも直接関わってもらっている。
そしてなにより、俺達兄弟のことを幼い頃からかわいがってくれて、姓の異なるラウダにも分け隔てなく接してくれた大切な人だ。
『それにしてもラウダくんをこうやってジェターク姓にするとは、その手があったかとうならされたよ』
『ある意味で法の隙を突いた邪道寄りの方法ですけどね』
俺が自嘲を隠さずに言うと、静かに首を横に振られて優しく諭された。
『そんなことないさ。親戚の中には色々と言う人がいるかもしれないけど、そこはちゃんと胸を張りなさい』
政略結婚という会社にとってまたとない好機を俺達は手放した。
この結婚にジェターク社のトップとしての自覚がたりないだとか、同族内で完結させてしまうのは一族繁栄への配慮がたりないだとか、否定的な意見をぶつけてくる親族は少なくない。元々父さんの強引な経営手腕を良く思っていなかった人達からも、ヴィム・ジェタークが存命ならこんなこと決して許されなかったと咎める意見が出ていることも知っている。
『でも君達二人の正装を、写真だけじゃなく実際に見てみたかったなあ』
『そこは誠に申し訳ありません。弊社はまだ緊縮財政の最中ですので、大掛かりな挙式のための予算承認が下りなかったんです』
『ははは! 言うようになったねえ』
本来なら真っ先に式に招待するべき人だった。でも、俺達の結婚は親戚全員に諸手を上げて歓迎された訳じゃないから。祝い事と呼べるイベントは、本当に親しい友人だけを呼んだ内輪での歓迎会にとどめている。
その分、かつてのジェターク寮生一同から結婚祝いとしてプレゼントをもらったことも、こうして社外の人から祝ってもらうことも、どこか非現実的というか、落ち着かない気持ちになってしまう。
『改めて二人とも、本当に結婚おめでとう。うちの家が逃した魚は大きすぎたなあ』
祝福してもらう喜びと、もう応えることのできない申し訳なさ。それが複雑に入り混じって、どういう顔をするのが最善なのか、その時の俺には分からなかった。
鍋の中がふつふつと煮詰まっていく。とろみがついているのを確かめて、砕いたコンソメとチーズを入れる。最後に白ワインで酒蒸ししていたしじみとあさりを汁ごと入れてよくかき混ぜた。
少量を取皿にすくって味見をする。ベーコンをたまたま切らしていたため、シンプルな味わいのスープになった。
塩胡椒で味を整えて二人分のスープボウルによそう。窓辺のハーブのプランターから、甘い芳香のディルを一房ちぎって、表面に散らした。
粗熱のとれたフォカッチャをカッティングボードに移す。ブレッドナイフを入れて縦半分に切ると、差し込んだ銀色の刃が湯気で白く曇った。
「ラウダ。飯、できたぞ」
寝室の扉の前で軽く声をかけた。少しの間待っていたが、返事はかえってこないし物音もしない。
帰ってきて寝室に入ったきりだから寝ているのだろうか。そう思って扉を開けると、昼前だというのに薄暗い空間が広がっていた。窓辺のブラインドの羽がほとんど閉じられている。
視線をベッドの上に移すと、予想通り、眠る弟の姿があった。広いベッドの上で、あえて縮こまるような、窮屈に見える姿勢をとっている。
この時間に寝ているのは珍しい。でもすぐにその理由に思い至る。
昨晩は食事会の後にバーでもお酒をごちそうになり、当初の予想よりはるかに遅くなってしまった。そのため急遽出先のフロントに宿泊した。
今日はオフだからといつもより遅めに起きて帰宅したが、普段アルコールをほとんど口にしないラウダには想像以上に負担がかかっていたのだろう。
眠る弟の枕元にはタブレットが置かれている。帰りのシャトルの中で読んでいた本の続きでも見ていたのかもしれない。
ベッドの側まで足音を殺しながら歩き、端の方に腰を下ろす。薄闇に慣れてきた目で弟の寝顔をしばらく眺めてから、そっと頬に触れた。
ラウダには、結婚してからは俺の側で、今度は秘書として働いてもらっている。地球支社で一年以上様々な経験を積んだためか、弟の横顔は以前に比べて随分頼もしくなった。だが、寝顔のあどけなさだけは、幼い頃から何も変わっていない。
不変の象徴のようなこの安らかな寝顔を、こうして再び間近で見れるようになるなんて。同じベッドで過ごせることにようやく慣れてきたが、ふとした瞬間に、まるで奇跡のようだと感じてしまう。
かつて学生だった頃、手に入るわけがないと端から諦めていた弟との睦まじい生活。お互いの深部に踏み込めないまま生家で慌ただしい日々を過ごし、宇宙と地球、物理的に離れたことでようやく自覚した本当に欲しかったもの。数カ月前までの俺が、全く想像できなかった幸福な日常。――それが今、こうして目の前にある。
計り知れない贅沢だと、心の底から思う。
そして俺の身に余る贅沢でもあると思う。
だからこそ怖くて、時々考えてしまう。本来この幸せを享受できなかったはずの俺に、後々訪れるかもしれない反動を。
頬から指先に伝わるほのかな温もり。俺とラウダだけが共有する静かなこのひとときが、幻ではないと示す確固たる証拠。それだけで、今の俺には十分すぎる。
「――ラウダ」
食事が冷めてしまう前に起こさなくては。名残惜しさを覚えながら、頬から紺色の前髪へと手を伸ばした。
よく手入れされて艶のある髪は、生え際近くはするりと指から逃げるようで、毛先にかけては指に絡むような癖がある。自分と似た髪質、でも弟の方が少しだけ細くて柔らかい。
「そろそろ起きてくれないか」
額にかかった髪を一房つまむ。いつもラウダがしているように、人差し指にくるくると巻きつけてみる。ん、とかすかな声がして、ぴくりとまぶたが動いた。もう一度指先を動かすと、今度は眉間にきゅっと皺が寄った。
そうやって髪で遊びながら、縮こまった弟の体を視線でなぞる。
「ふ……猫みたいだな」
両腕を折り畳んで胸元に寄せ、膝も曲げて小さくなって。この前地球支社近くの公園で見た、くるりと丸まった愛らしい生き物を思い出した。
ラウダに伝えたらきっと「そこはジェタークらしく獅子と言ってほしい」と拗ねてしまうだろうから、本人には教えないが。
本格的に起こすために肩を揺すろうとして、ふと違和感に気付く。
今ラウダが眠っているその場所は、本来であれば、いつも俺が眠っている場所だ。ラウダ自身の定位置はもっと右寄りのはずだ。
偶然だろうか。そう思って薄暗いベッドの上を見回して、また気が付いてしまう。ラウダが使っている枕が、弟本人のものではなく、俺のものだということに。
匂いに人一倍敏感な弟が、俺の香りを求めるように、くるまるように眠っている――思いがけないラウダの行動に、胸の奥が沸騰したかのように熱くなった。炎の塊のようになった心臓が、脈に合わせてドクドクと絞られるように締め付けられる。
甘露の混じった衝動がとめどなく溢れ出して、呼吸が苦しくなる。体の中で無軌道に動きまわる感情をうまく抑えきれない。いてもたってもいられなくなって、ルームシューズも脱がずにベッドに上がり、眠る弟を真正面から抱きしめた。
曲げられた膝ごと両腕の中にきつく閉じ込める。窮屈さにようやく目が覚めたのか、小さな呻きが聞こえた。細身の体が必死に身じろぎをする。そのわずかな隙間すらも今は受け入れ難く、自分の体に押し付けるように腕の力を強めた。
「……にい、さん?」
密着した胸元から、戸惑いを含んだくぐもった振動が伝わる。
「俺は、お前を幸せにしたい」
やわらかな弟の髪に顔を埋めながら、嘘偽りのない気持ちを吐きだす。
もしも隣にいるのがラウダじゃなかったら――もう今更、そんな世界は考えられない。この愛しい存在を絶対に手放したくない。俺の隣は、俺の腕の中は、こいつだけのものだ。他の誰もそこには立たせないし、座らせない。
そして俺の側に一生拘束してしまう分、俺の人生を、命をかけて弟の気持ちに応えてやりたい。ありとあらゆる不幸から弟を遠ざけてやりたい。
「幸せに、したいって……どうしたの? 急に」
鸚鵡返しに問われて、答えずに押し黙っていると、そっと胸を押し返すように両手が添えられた。
両腕の輪を少しだけ緩めると、薄闇の中で宝石のような琥珀色にじっと見つめられた。やわらかな光を宿した双眸に覗き込まれる。
「もしかして、昨日のこと、気にしてる? 難しい顔してるよ」
俺はまた無言で見つめ返す。すると、胸に置かれていた両腕が静かに背中へと回された。ラウダの口元がふっと緩んで「兄さん」と優しい声音で呼ばれる。
「兄さんは他の誰かじゃなくて、僕を選んでくれただろ。僕はそれだけで嬉しいし、親戚全員から祝われなくても、結婚式なんかしなくても、こうして兄さんの側にいられるだけで幸せだよ」
「でも俺は、それだけじゃたりない。お前が、もっと――」
「兄さん。聞いて」
遮られて、はっとする。背中に回った掌が俺のシャツをきつく掴む。それは抱きしめるというより、どこか縋りつくような手付きで。
「兄さんは、大事なことを忘れてる。兄さんが幸せにするのは、僕だけじゃないだろ。兄さん自身も、ちゃんと幸せになってよ。それが僕にとっての、一番の幸せなんだって、知っておいてよ」
俺に言い聞かせるように、一字一句、しっかりと。その言葉を一つずつ噛み砕いていると、ラウダが目を伏せて、俺の胸にこつりと額を押し当ててきた。
「自分の幸せを、後回しにしないで……きっと父さんだって、そんな兄さんの姿は見たくないって言うよ」
胸元で呟かれた言葉が、体の中に波紋を描きながら染み渡っていく。熱く脈打っていた心臓が次第に落ち着きを取り戻していくのを感じる。
「……ああ。そうだな」
見抜かれていた。罪を背負った自分がこれ以上幸福になってはいけないと、満ち足りた日々をどこかで後ろめたく思っていたことを。
必要以上に求めたら、強欲になったら、ある日突然失ってしまうかもしれない。あの日のテロで前触れもなく奪われた日常と、俺自身が奪ってしまった命のように。
そうやって失うことを恐れるあまり、自分の幸せに向き合うことを避けてきた。それがラウダに余計な不安を抱かせてしまうとも知らずに。
「父さんのお墓の前で、誓っただろ……二人で幸せになりますって」
ラウダが俺の胸元から顔を上げる。さっきとは一転して、怯んでしまいそうなほどまっすぐな眼差し。それは俺の弱さを受け入れて、包み込んでくれる力強さも持っているように見えた。
「だから僕にも誓って。幸も不幸も半分ずつ背負って、二人三脚で幸せになるって」
揺らぐことのない強い琥珀色を前に、不安や迷いが溶けていく。
――お前と一緒なら、きっと大丈夫だ。
弟の誓いに、抱きしめる腕の力を強めて、唇を塞ぐことで応えた。
そっと唇を離してしばらくの間見つめ合っていると、ふいに、ラウダが小さな笑い声を漏らした。
「なんだか兄さんからおいしそうな匂いがする……バターと、オリーブオイル?」
突然の話題の転換に、そういえばと、食事を準備していたことを思い出す。思いのほか時間が経ってしまったから、スープはそのまま飲める温度になっていることだろう。
「ああ、フォカッチャとクラムチャウダーを作った。今日のはあさりだけじゃなく、しじみも入れている」
「お酒を飲んだ体に効きそうだね」
「昨日はお前もたくさん飲んでたからな。まだ体がつらいだろ」
両腕を解いて弟の頭を軽く撫でてから体を起こし、引き寄せるように膝裏と背中に腕を回した。ベッドから立ち上がりながら抱き上げると、ラウダが慌ててしがみついてきた。
最盛期の学生の頃より幾分軽くなった体。データストーム障害から回復してだいぶ時間が経つが、それでももっと大切に扱わなければと思う。
「……兄さん、自分で歩けるって」
「いいだろ。こうしてお前を抱き上げるのも、俺の幸せの一つなんだ」
そう言って微笑んでみせると、ラウダは困ったような、恥ずかしそうななんとも言えない表情を浮かべてから、俺の首筋に顔を埋めた。
耳元でかすかに聞こえた「兄さんはずるい」という言葉は、あえて聞こえない振りをした。