「先生。別れよ」
って、言った時の先生の表情なんてまるでいつも通りで、
「あ、そう?うん、わかったー」
って、めちゃくちゃ軽い反応だったから、むしろスッキリした。何の後腐れもなく、こざっぱりとした気持ちで、感謝の念すら覚えたほどだ。
「付き合ってくれてあんがとね、先生。明日からまた生徒としてよろしく!」
「いやいや、こちらこそ。結構楽しかったよ〜」
後腐れなく、こざっぱりとした理想の別れ方だったと思う。それなのに今、俺の目の前では先生が、青白い顔をして眠っている。
『五条が死ぬらしいから、きみ、看取ってやってくれ』
突然の訃報もどきに、俺は目ん玉をひん剥いた。
慌ててスニーカーを引っ掛け、途中で何度も転けそうになりながら到着した医務室では、真っ白なベッドの上に五条先生が横たわっていた。枕元には未開封のチョコレートや饅頭が散乱している。
「先生!」
「お。早かったな」
デスクで書き物をしていた家入先生がくるりと椅子を回転させてこちらを向いた。ちなみに先ほどの訃報もどきを寄越したのも家入先生である。
「五条先生に何が」
「落ち着け。寝てるだけだ。あんまり死ぬ死ぬうるさいから、とりあえず黙らせた」
そう言う家入先生のデスクには注射器と、透明の液体の入った小瓶が置かれていた。なんとなく聞くのを躊躇われるが眠る先生の様子から察するに、おそらく中身は麻酔薬の類、であると信じたい。
「まあ実際、近頃、体調が悪かったみたいでね。エサをやってもあの通り」
エサとはつまり、枕元に散らばる菓子類のことだろう。
「先生がお菓子も食べないなんて…どしたんかな…」
「君のせいだろ」
「え?俺⁈」
とんでもない濡れ衣である。最強を寝込ませるだなんて、そんなまさか。まったく身に覚えがない旨を弁明する俺をよそに、家入先生はポケットから煙草を取り出し火をつけた。医務室で、しかも一応は病人がいるというのに良いのだろうか。俺の視線の意味に気付いたのだろう。構わないさ、と堂々と紫煙を燻らせ、ぽこぽこと輪っかまで作ってみせる。
「コイツと別れたそうじゃないか。それが大層、堪えたみたいだぞ」
「え。なんで知って…いや、え?堪えた?先生が?まさかぁ、それはないでしょ」
家入先生は呆れたように、君たちはどうやら似た者同士のようだな、と肩をすくめた。
「とにかく。ここは駆け込み寺じゃないんでね。私が戻る前にさっさとコイツを持ち帰ってくれ」
ひらりと白衣を踊らせながら家入先生が医務室を後にする。
残された俺はどうしたらいいものか分からずに、ひとまず五条先生の傍らに腰を下ろした。顔を覗き込むと、伏せた長い睫毛の下にうっすらと隈が出来ている。
寝不足なんかな…
人差し指の背でそっと隈をなぞると、瞼が微かに震えた。
先生が、俺との別れを引きずっているだなんて到底思えない。だってこのひとは顔色ひとつ変えずに、あっさり終わらせたのだから。
気持ちを伝えようだなんて、これっぽっちも思っていなかった。
俺は死刑が確定している身だし、そもそも俺と先生とではまったく釣り合わない。なんて言うんだっけ…猫に小判?月とスッポン?
そうは思う理性とは裏腹に、俺の中でうっかり芽生えてしまった恋心は、ひとりで抱え込むには大きく育ち過ぎてしまっていた。早いとこ摘んでしまわないと手遅れになりそうだったので、暇そうにしていた(と言うと怒られる)伏黒を捕まえて、胸の内を訥々と語って聞いてもらっていたら、
「へえ。悠仁って僕のこと、好きなんだ」
当の本人に聞かれてしまった。
間違って先生の耳に入らないようにと気をつけて俺の部屋で話していたというのに、なぜ五条先生がここに居るのか。
「だって鍵開いてたよ?恵も居るんだし、別にいいじゃない」
伏黒は俺からお招きしたのだから居て当然。鍵が開いてたからって断りもなく生徒の部屋に入ってくるのは、教師としていかがなものだろう。って、そんな指摘が通じないことはとっくに知っている。
「んじゃ、付き合おっか」
「はい?」
「僕のこと好きなんでしょ?だから、付き合おっかって言ってんの。あ、でもみんなには内緒ね。僕が怒られそう」
恵にはバレちゃったけどね〜と笑う先生。俺を差し置いて話が勝手にサクサク進んでいく。
「ちょ、ちょっと待って…展開が早すぎてついていけん。先生も俺のこと好きなの?それとも誰とでもそんな感じなん?」
「んー。よく分かんないけど、誰とでもではないよ。悠仁とは気も合うしおもしろそうだから、いっかなーと思って」
「おもしろそう…」
先生は、おもしろそうだから、付き合ってもいいよと言っている。暇つぶし程度に考えてそうだ。
俺はそこまで期待はしていなかったけど、好きだから、もし許されるのならお付き合いをしたい。
既にベクトルが、大幅にすれ違っている。
助けを求める気持ちで伏黒を振り返る。勝手にしろ、と目が言っている。
「……じゃあ…お願いします…」
好きなひとからのお申し出を断れるほど、俺は出来ていなかった。
別れたのはそれからたったの三ヵ月後。
先生は超多忙で出張も多かったから、実質、ニヵ月にも満たないくらいだったと思う。それでも、やっぱり俺ばかりが好きなのだ、と思い知るには充分すぎた。
映画を観よう、一緒にご飯を食べよう。
二人きりで会いたくて提案しても、いつも一方通行。いいよ、と頷いてくれるけれど、先生から会いたいと言われたことは一度もない。
「先生。俺といて、楽しい?」
「え?うん。楽しいよ」
相変わらずの調子でからりと言う。サングラスに隠されて、その奥にある気持ちが、まったく見えない。もっとも、サングラスが無かったとしても、俺に先生の気持ちが分かるとは思えない。今はただ、ひんやりとした空気を肌で感じる。
…違うでしょ、これ。
最初から別方向を向いていたベクトルは結局、どう足掻いても交差しないのだ。むしろ以前よりも離れてしまっている気がして、無性に寂しくなった。
余計なことを、言わなければ良かった。
頭の中が渦巻いて、後悔の念がドッと押し寄せる。好き過ぎるが故に、先生との噛み合わない現状がひどくつらい。
「…先生。別れよ」
言おうとしたわけではないけれど、するりと零れ落ちた。向かい合って鍋をつついている時にする話ではなかったかもしれない。
「あ、そう?うん、わかったー」
けれど先生はまったく気にする素振りもなく、いいよ、といつもと同じように頷いた。こうして俺の初恋は呆気なく終わりを迎えた。
そういえば先生に直接、好きって言えなかったなと後になって気付いたけれど、今となってはもう遅い。これから先も、口にすることはないだろう。
「ん…」
薬の効果が切れたらしい。僅かに身じろいで、先生が目を開ける。ぼんやりと天井を眺めるうちに焦点が合ってきて、ふと俺の存在に気が付いた。
「…おはよ。大丈夫?」
「………ゆうじ」
手が伸びてきて、先生の指先が俺に触れる。
「めっちゃ悠仁じゃん…」
「そうだよ」
手のひらで俺の頬を包むと、先生は長く深いため息を吐いた。
「…悠仁と別れてから。毎日、全然楽しくないの。何を食べても美味しく感じないし、何を観てもつまんない。変なの見つけて、悠仁に見せよーと思って写真撮っても、そういや別れたんじゃん、って思うと送れないし」
「…先生、そういうの気にするんだ」
「ね。僕も初めて知った。っていうか、別れた相手のこと考えることが初めて。身体にぽっかり穴が空いたみたいな感じでね。虚しくて寂しくて、死にそうだった。僕はこんななっちゃったのに、悠仁はかえって生き生きしてるし」
「いや、生き生きとまでは」
「してましたー。恵たちと楽しそうにしちゃってさ。何話してんだろってすげー気になったけど、脚が動かないの。僕がだよ?笑っちゃうよね」
悠仁に嫌われたかも。近づいても拒絶されたらどうしようって思ったら、怖くなった。
そう呟く先生の手を握る。
「…笑わないよ」
「…食欲出ないし眠れないし、めっちゃ落ち込んだ。こんなの初めて。悠仁のせいだよ。責任とって欲しい」
「うん。…先生。出来るなら俺は、もっかい最初からやり直したい。先生のこと、元気にしたい」
一瞬、びくりと退きそうになった手が、恐る恐る握り返してくる。
「僕はさ…思ってたより、悠仁と一緒にいるのが好きみたい。悠仁が笑うとね、僕まで嬉しくて楽しくて、元気が出るんだよ」
…ああ、そうか。これが、そういうことなんだね。
答えを見つけた子どもみたいに微笑む先生はとても可愛くて。
「悠仁。遅くなってごめんね。別れるの、やっぱり無しにしてくれる?」
返事をする代わりに俺は、先生を思いきり抱きしめた。