サンセットブルー「『悪徳貴族、遂に御用に! 大怪盗の華麗なるワザ』……へぇ〜、また現れたんすね」
広げた新聞紙の向こう側から、一面の見出しを読み上げるなんとも気の抜けた声がする。
敢えてそこを読まないようにしていた新聞の持ち主は、ピクリと片眉を動かしながらも聞こえなかったふりをした。だって、そんな記事は見たくもなかったのだから。
けれども、そこから更に続いた言葉には、思わず反応せずにはいられない。
「そんで、また逃げられちゃったんすね、ヒメルくん」
「うるさいのですよ、椎名!」
ヒメルと呼ばれた洋装の男は、ぐしゃりと新聞を握りつぶしてカウンターテーブルへと叩き付けた。バンッ! と派手な音を響かせたテーブルの上で珈琲カップが揺れて、灰皿に堆く積み上がった煙草の吸い殻が崩れる。その剣幕に、カウンターの中で食器を拭いていた喫茶店の店主・椎名ニキは肩を跳ね上げさせた。
「ご、ごめんなさい〜!」
「……」
ヒメルはガードするように皿を掲げるニキを暫し睨み付けてから、浮かせかけていた腰を下ろす。すっかり皺くちゃになった新聞を畳んでテーブルの隅に放り、苛つきを抑えるために煙草を取り出そうと内ポケットを探った。しかし、朝から既に何十本もふかしている紙巻煙草はつい先ほど最後の一本を灰皿に押し付けたところであり、空のパッケージを逆さにしても煙草の滓がハラハラと落ちるだけ。
「チッ……」
ヒメルは軽く舌打ちをし、仕方なく少し珈琲の飛んだソーサーからカップを持ち上げた。
「……」
ニキはカウンターからその様子を探るように窺っていたが、ヒメルがこれ以上騒ぎを大きくする気がないと見たのかほっと息を吐いて皿磨きに戻る。
「おっかない……」
ごく小さな声で漏らされた余計な一言は聞こえなかった振りをしてやった。どうもこの椎名ニキという男は、言わなければ平穏に済むようなことを口にしてしまう質らしく、指摘し始めたらきりがない。……それに、ヒメルとて、その“職業”柄あまり公共の場で目立つことはしたくない。
朝のピークを過ぎた純喫茶・シナモンには、他に客の姿も疎なことが幸いだった。
――大正期。この国は諸外国から齎された異文化を積極的に取り入れ、急速に発展を遂げている最中であった。街には西洋建築が乱立し、着物を脱いで洋装に身を包む者も近頃では少なくない。
ここ“純喫茶シナモン”も、洋風建築のアパートメントの一階に間借りをし、本場のシェフから指導を受けた店主のニキが洋食を提供してくれるということで、街の者から人気を博していた。海を越えて次々とやって来る新しい文化に興味津々の住民たちは、とにかく今まで見たことのなかったものに触れたくて仕方がないのだ。
そんな、変化に沸きつつどこか浮き足だったような空気の流れるこの大都市で、この頃とりわけ世間を騒がせているものがる。それが今朝の新聞にも一面で取り上げられていた“大怪盗”なる者――“怪盗R”である。彗星の如く現れて、たちまち世間の注目を攫っていった大泥棒だ。
ヒメルは探偵として、少し前からその怪盗を追っている。そして、未だ捕らえられずにいるのだ。
「……今回は、あと少しだったのですよ」
ヒメルは苦々しげに溢しながら脇に放った新聞をチラリと見やった。“悪徳貴族”、“御用”という文字が紙面に踊っているのが目に映り、苦虫を噛み潰したように顔を顰める。
新聞の書きようからも分かるように、世間的には盗人である怪盗Rが“正義”で盗まれた方が“悪”だ。というのも、どういうつもりかは知らないが、この怪盗は悪名高い者からしか盗みを働かないのである。それが庶民にとっては自分達の味方であるかのように映っているのだろう。全く、浅慮なことである。
そんな事情もあって、世間ではすっかり警察に対する風当たりが強くなっている。住民からは怪盗の方が警察よりもよっぽど世のためになっていると皮肉られ、被害者からはいつまで経っても犯人を捕まえられない現状を糾弾され……。まぁ、怪盗から事前に“予告状”を受け取りながらも、既に十件以上の盗みを許している現状を考えれば、それも仕方のないことではあるのだけれど。
とにかく、事態を重く見た警察は、何通目かの予告状が届いた際にヒメルに協力を求めてきた。探偵としてのヒメルの名はこの街ではそこそこ知られるようになっていたし、警察内部にヒメルの帝国大学時代の同期がいたこともあって適任だと思われたのだろう。
言ってしまえば、公的機関からの地雷案件。初めこそあまり乗り気ではなかったものの、何度も怪盗を取り逃すうちにヒメルも意地になってきた。絶対に捕まえて、あの盗人の正体を白日の下に晒してやると。
「世間は正義の大怪盗などと持ち上げていますが、所詮は悪党です。これ以上野放しにはできません、必ず捕まえて見せますよ」
ヒメルは新聞紙を手に取り、怪盗の記事が内側になるように畳み直して再び放った。忌々しい記事を視界から消したところで昨夜の怪盗の所業と自分がまた取り逃してしまった事実は消えやしないが、そのまま視線の先に鎮座されるよりはいくらかマシというものである。
随分と苛ついた様子のヒメルに、皿を磨き終わったニキは珈琲のお代わりを勧めながらこんなことを言った。
「でも、盗まれたものはもともとが盗品とか汚い手で奪われた物なんすよね?」
ニキの言う通り、怪盗がターゲットとするのはいつも弱き者から奪われた物だ。悪徳商人に貴重な品を詐取されたとか、謂れのない罪で役人に財産を差し押さえられたとか。
ヒメルとて、怪盗に目をつけられた者たちにも原因があり、相応の報いを受けるべきだとは思っている。けれども、そこにはヒメルなりの正義もあった。
「たとえ被害者が悪人であろうと、盗みは盗みです。今の持ち主から盗んだのなら、Rは捕まって然るべきなのです」
「そういうもんなんすかねぇ……」
「そういうものです。盗まれたから盗み返す、それでは法治国家とは言えないでしょう? それが通用するのは戦国時代までです」
「僕ぁ、難しいことは分かんないっすけど……」
毅然と答えるヒメルにニキは肩を竦めて、ヒメルのカップに珈琲を注いだ。ヒメルは小さく「ありがとうございます」と頷き、ジャケットの内ポケットからあるものを取り出す。それを目にしたニキはあっと声を上げた。
「それ、また届いたんすね」
「……ええ。忌々しいことに」
ニキが“それ”と言ったのは一通の封筒だ。柄はなく、乳白色のシンプルなものである。宛名は“イナバ探偵事務所”――ヒメルの事務所の名前だ。そして封筒の片隅には、小さく“from R”の文字。
そう、これは、昨夜ヒメルが取り逃した怪盗Rがヒメルに宛てた手紙なのである。
Rは盗みを働く時、二通の手紙を送りつけてくる。一通目はターゲット宅へ事前に届く予告状、二通目は盗みの翌日ヒメルにだけ届くこの“挑戦状”だ。予告状の方は送られた方が騒いだり仰々しい警備が敷かれたりするため世間的にもその存在は知れ渡っているが、挑戦状の方は内容はもちろん存在自体も世間に公表されていない。
そんなものが何故ヒメルに届くのかと言うと、きっかけは“とある事件”――ヒメルが初めて警察の要請を受けて怪盗の捜査に加わった事件であった。どういうわけか、その事件以来、ヒメルの元には怪盗からの手紙が届くようになったのだ。
ヒメルは封筒を開け、四つ折りにされた手紙を広げた。白い便箋には几帳面な文字が並んでおり、手紙の右下にも封筒と同じくRというサイン。
この手紙を“挑戦状”と呼ぶ所以は内容にある。手紙には毎回暗号めいた文章が書かれており、その暗号を解くと盗品の隠し場所が分かる……ということらしいのだ。指定された時間内に盗品を見つけ出すことが出来ればそのまま盗んだものを返してやるし、出来なければ盗品はRのもの。
お遊びのようなそれを何故Rがヒメル相手に仕掛けてくるのかは不明だが、初めて届いた時以降は一度も欠かさず盗みの度にヒメルへと届けられた。
そしてヒメルは、前日の盗み自体を阻止できなかったことと同様に、この盗品も今まで見つけられたことがない。これもまた、ヒメルがR逮捕にムキになる大きな理由であった。
「……」
今朝方事務所へ届き、既に何十回も繰り返し読み込んだその文章をもう一度頭から読み返す。怪盗を取り逃したことだけでも忌々しいのに、翌朝から悪党の遊びに付き合って謎解きだなんで――。そうは思えども、喧嘩を売られたのならば買わないわけにはいかない。
「今回はどんな内容なんすか?」
「どうやら隠し場所を絞るためのヒントが書かれているようです。前回は暗号を解いていくとそのものズバリの地名が浮かび上がってくる……というものでしたが、そう何度も同じ手で来るのかどうか……」
「ふぅん……?」
ニキはカウンターの中から身を乗り出し、ヒメルの手元を覗き込んだ。
本来であればこの挑戦状は機密情報であるのだが、ニキに限ってその内容や挑戦状の存在自体を徒に吹聴したりはしないだろうとの考えから読むことを許している。信頼と言うより、この男は料理以外にほぼ興味がないので、料理に関係がなければ読んでもすぐに忘れてしまうから。
今回の内容はこうである。
“遠き地より来たり 救世の女神
かがやける庭 ゼラニウムの園
羽根を畳みて見つむる先に 矢の如く光は射す
野を駆ける四匹の獣は 狂歌に合わせて踊り
狩る者の白き尾に二対の翼が続けば
いちの龍が昇った先で吉兆を得ん
白亜の塔に二度斜陽の満つるまでに
彼の地へと至れ
そこに汝真に望むものぞ有り”
「……さっぱりっす」
読み終わったらしいニキは、考える素振りも見せず早々に匙を投げた。乗り出していた体を引っ込め、拭いた皿を持って店の奥へと行ってしまう。
ヒメルの方もニキに謎解きの協力をさせるつもりはないので、諦めの早いことには何も言わずに指先で唇に触れながらもう一度手紙を読み直した。今回の暗号は随分と詩的な印象だ。
「“遠き地より来たり 救世の女神”……遠き地、というのがどこを指しているのか……単に“遠くから来た”ということを言っているだけで、“そこがどこであるか”は重要ではない……」
「最後の段落っつーの? “白亜の塔に〜”の後は期限の話だろ? この時間までに見つけろっつーやつ」
「ええ。ここはいつも通りで――」
「“かがやける庭”以降のとこはさっぱり分かんねェな。庭は文字通り庭なのか、何かの比喩なのか……」
「……ちょっと、いつからそこにいたのですか、天城」
突如背後から聞こえてきた声と会話をしかけて、ヒメルはハッと振り向いた。いつの間にやって来たのか、ヒメルの肩越しに手紙を覗き込む赤い髪をした男が一人。白いシャツとブラウンのスラックスにサスペンダーという出立ちのその男は、この純喫茶の常連客である。名を“天城”と言って、しょっちゅう顔を合わせる内にいつの間にか顔馴染みになった。
ちなみにこの男も挑戦状の存在については知っている。こちらはニキとは違って読むことを許したわけではないが、以前うっかり盗み見られてしまってからはこうして興味本位で首を突っ込んでくるようになった。一応、挑戦状のことは黙っているようなので今のところは見逃してやっているけれど。
横目でじっと睨み付けるヒメルに対し、天城はご機嫌な様子だ。ニコニコと胡散臭い笑みを浮かべてヒメルの顔を覗き込んでくる。
「店の前通りかかったらちょうどメルメルが険しい顔してンのが見えたからさ。ンなに眉間に皺寄せてたら、せっかくの美人が台無しだぜ?」
「ヒメルはどのような表情をしていても美しいので」
「自分で言うかよ。ま、否定はしねェけど」
そう言いながら当然のようにヒメルの隣の椅子を引く天城に、ヒメルは右の掌を差し出した。その意図を理解しかねた天城は眉を顰めて首を傾げる。
「あン?」
「――煙草。ヒメルの隣に座りたければ一本ください」
「……」
ヒメルの言葉に、天城は灰皿から落ちそうなほどの吸い殻の山とヒメルの手を交互に見やった。そして、「はぁ……」と深い溜息。
仕方なくゴソゴソとポケットを漁り、紙煙草を一本差し出してやれば、ヒメルは無言でそれを受け取ってマッチで火をつけた。軽く手を振りマッチの炎を消すと、吸い殻の山の中へと押し込む。唇の端に咥えた煙草の煙の向こうで、ヒメルの眉間の皺が浅くなっていくのが見えた。
「……失礼しま〜す」
一応お許しが出たのだろうということで、改めて天城はヒメルの隣に腰掛け、カウンターに頬杖をついた。手紙を眺めながら煙草をふかすヒメルの横顔は実に様になっており、確かにずっと見ていられるものだけれど、この吸い殻の量はさすがに心配になってくる。
「……俺っちが言うのもなんだけど、あんたちったぁ煙草控えた方がいいぜ」
これらの吸い殻全てがシナモンへ来てからヒメルが吸ったものであるとしたら、ヘビースモーカーどころの騒ぎではない。けれどもヒメルは天城の心配をよそに平然と答える。
「基本的に自宅では吸っていないので。今は吸い溜め中です」
「だからっつって……」
「天城」
ヒメルはその細い指に煙草を挟み、唇から離した。顔は向けずに、黄金色の瞳だけがチラリと横目で天城を見やる。
「次にヒメルに小言を言ったら、あちらのテーブル席へどうぞ」
「……」
そう冷たくあしらわれ、天城はカウンターから離れた窓際の席に目をやって肩を竦めた。本当につれない男だ。
……と、そのまま天城が窓の外を眺めていた時である。見知った姿が店の前を通りかかるのを見つけて、思わず声を上げる。
「あ、要ちゃん」
「……!」
――そこからのヒメルの行動は速かった。
ついさっきまで澄ました顔でふかしていた煙草の吸い口を、迷いなく天城の口に押し込む。
「んぐっ……」
そしてカップに残っていた珈琲を一気に煽ると(恐らく口臭を誤魔化すためだ)、手元に置いていたマッチも天城の前へとスライドさせた。
「……、」
いきなり煙草を押し付けられた天城がそれを咥えて呆然としている間に、カランコロンとベルの音を響かせながらシナモンの扉が開き、先ほど天城が見かけた人物が店内へと入ってくる。黄金色の双眸をきょろきょろと彷徨わせ、カウンター席に目を止めると、嬉しそうに弾む声が店内に響き渡った。
「お兄ちゃん!」
そう叫んだ少年は、隣の天城には目もくれず一目散にヒメルの元へと駆けてくる。
ヒメルと同じ勿忘草色の髪をした書生姿の彼の名は“要”。ヒメルが溺愛している弟だ。
「おはよう、要。どうしたんだ? 巴さんは?」
「えっと、それは……」
そう聞かれるなり、要はもごもごと口籠る。
ヒメルが尋ねる通り、要は巴日和という貴族の家に書生として下宿している。本当は兄弟一緒に暮らしたいけれど、要にはきちんとした教育を受けさせてやりたくて巴家の世話になることにした。
それに加えて、ヒメルが要を自分の近くに置いておかないのには別の事情もある。弟を自分の仕事に巻き込みたくないのだ。探偵というのは人から恨みを買うことも多いため、いつか要に矛先が向かないとも限らないから。
しかし、そんなヒメルの心配をよそに要は探偵業に興味津々だ。今朝も、恐らく朝刊で怪盗の記事を目にするなり巴家の屋敷を無断でこっそり抜け出してきたのだろう。答えに窮しているのはそのためだと、ヒメルにはお見通しである。
ヒメルはふっと短く息を吐き、要に向き合う。
「要。巴さんの言うことをよく聞いて、しっかり勉強するという約束だっただろ?」
「でも……」
「“でも”じゃない」
「う……」
ヒメルに嗜められ、要はしょんぼりと項垂れた。説教にしては随分優しいものだとは思うが、要にとって大好きな兄に叱られるというのはこの程度のお小言でも堪えるらしい。
そのやりとりを黙って見守っていた天城は、助け舟でも出してやるかと間に入る。
「まぁまぁ、要ちゃんもメルメルが心配で駆け付けたンだろうし。それくらいで勘弁してやったらどうよ?」
そこで漸く要は天城の方へと目を向けた。自身を見つめる碧い瞳をじっと見つめ返した後、その視線は天城の口元へ移り、やがて手元へと下がる。つい今し方までしょぼくれていた少年は、嫌なものでも見るかのように顔を顰めた。
「……あまぎ、煙草を吸い過ぎなのです。臭いのですよ」
「……」
遠慮のない物言いは兄譲りだろうか。寧ろ要には含みや悪気がない分、余計に胸に突き刺さる。
そしてその「臭い」発言には吸い殻の山を作った張本人もいくらかダメージを受けたようではあるが、要の前では顔色一つ変えないところが流石と言える。褒められた特技かと言うとそんなことはないけれど。
要はヒメルから突き放すようにぐいぐいと天城の肩を押しやる。
「お兄ちゃんに臭いが移るのであっち行ってください」
「そうです。臭いのですよ、天城」
「えー……」
綺麗な顔をした兄弟に「臭い臭い」と追い立てられ、天城はヒメルから図らずも返されることとなった煙草を咥えたまま席を一つ移動した。そして天城の座っていた席には要が入り込み、ヒメルと顔を見合わせる。
「……」
要の、ヒメルよりも若干丸みのある大きな目が不安げにヒメルを見上げる。言葉では何も言わないけれど、その瞳からは色々な感情が伝わってきた。“叱らないで”とか、“ここにいさせて”とか。
それらを敏感に感じ取ってしまうヒメルは、要の目をじっと見つめ返した後、深く大きな溜息を吐いた。自分も大概、弟に甘い。
「……仕方ないな。今日も怪盗から挑戦状が届いてる。俺はそれを解かなくちゃならないから、要も手伝ってくれるか?」
「! はい、もちろんです!」
要は大きな声でそう返事をすると、元気に立ち上がった。全身で喜びを表現する姿を微笑ましく思いながらも、ヒメルは「ただし」と付け加える。
「巴さんに連絡して謝ってからな」
「うっ……わ、分かりました」
一瞬ぴたりと動きを止めた要はゆっくり椅子に座り直し、やや項垂れ気味に頷いた。ヒメルは電話を借りるため、店の奥に引っ込んだままのニキを呼ぶ。
「あ、要くんいらっしゃい」
「よぉーっす、ニキきゅん」
「げ、あんたも来てたんすか……」
少し目を離した隙に増えていたカウンター前の二人を交互に見やり、ニキはそれぞれに対して反応を見せた。あまり深く聞いたことはないが、天城とニキは昔馴染みらしい。
自分を見た瞬間見るからに嫌そうな素振りを見せるニキに天城は「おい」と突っ込むが、ニキは気にせず要に向き直る。
「要くん、最近また新しい外国のおやつの作り方覚えたんすけど、食べる?」
「本当ですか!」
「巴さんに連絡してからな。椎名、電話を貸して下さい」
「どうぞ〜」
「うぐ……」
顔を輝かせた要は、すぐに口をつぐむ。気の毒ではあるけれど、何度言っても黙って屋敷を抜け出してくるのが悪い。
「要ちゃんガンバレ〜」
天城の気の抜けた応援を受けながら、要は巴日和に電話を掛けるべく重い足取りで店の奥へと向かっていった。
*
「――さて、では本格的に謎解きを始めたいところですが……」
「お兄ちゃんと僕にかかればすぐなのです!」
「俺っちもいるんだから楽勝っしょ!」
「……」
日和に連絡を済ませた要が若干落ち込んだ様子で帰ってきたところでいよいよ推理を始めようと相なったわけだが、要はともかく相変わらず天城も居座るようであった。
「何故天城がまだいるのですか」
ジロリと睨めあげながらそう問えば、天城は「キャハハ」と耳につく笑い声を上げる。
「乗りかかった船っしょ! 面白そうだから手伝ってやんよ♪」
「遊びではないのですが」
「そもそもあまぎは仕事もせずに朝からこんなところにいてもいいのですか? 何の仕事をしているのですか? 無職なのですか?」
二人から立て続けに冷たい視線を送られて、さすがの天城もやや苦笑いだ。誤魔化すように「いいからいいから」と手を振る天城を暫し睨んだ後、ヒメルは溜息を吐いて挑戦状に目を落とす。それを要が隣から覗き込んだ。
「遠き地より来たり、救世の女神……」
要は一行目を読み何やら考え込む仕草を見せた後、すぐに閃いたようにポンと手を打つ。
「分かったのです!」
「え、もう?」
「へェ〜、やるじゃん要ちゃん」
感心した様子の二人に要はご満悦だ。
「どういう意味なんだ?」
ヒメルにそう尋ねられ、要は思いついた答えを披露した。
「これはつまり、お兄ちゃんのことなのです!」
「……は?」
思いもよらなかった言葉に、ヒメルはポカンと口を開けて固まる。思考停止に陥ったヒメルとは対照的に、興味深げに食い付いたのは天城だ。
「なんでそう思うンだよ?」
固まるヒメルをよそに、要はふふんと胸を張る。
「まずは“遠き地より来たり”。お兄ちゃんは両親がいなくなってしまった僕のために遠いところから来てくれたのです!」
「そうなん?」
「それはまぁ、そうですが……」
天城にとっては初耳であろうが、ヒメルと要は生まれた時から一緒にいたわけではない。仔細は省くが、腹違いの兄弟なのである。別々に暮らしていたところを、数年前に要の両親が他界したことをきっかけに、ヒメルは要を引き取るためこの街へとやってきたのだ。
「“救世”はつまり、僕の世界を救ってくれたということ!」
「女神は?」
「女神様はとっても綺麗なのです! お兄ちゃんは世界一綺麗ですから、この“遠き地より来たり 救世の女神”はお兄ちゃんのことなのです!」
「どうですか!?」なんてキラキラ輝いた瞳で見つめられては、ヒメルも答えに詰まってしまう。相手が別の誰かなら「そんなわけないだろ」で一蹴するところだが、かわいいかわいい弟からそんな風に言われて否定できるわけもない。
またも固まってしまったヒメルの代わりに、天城はいかにも愉快そうに声を上げて笑った。
「きゃっはは! 要ちゃん、ナイス推理っしょ!」
「そうでしょうそうでしょう! もっと褒めてもいいのですよ」
「っつーことは、盗品はメルメルんちの庭かどっかにあるってことか?」
「む……“輝ける庭”なら、そうなりますね。でも困りました。お兄ちゃんのお家には庭がありません」
つい先ほどまで得意げだった要はたちまち思案顔になり、再び挑戦状に視線を落とす。ヒメルの住居はシナモンの入っているアパートメントの三階にあり、事務所は二階だ。どちらにも庭などはついておらず、一階のシナモン周辺にも花壇すらない。
天城も要と同じように挑戦状を覗き込み、顎に手を当て考える。
「だったら別のパターンも考えてみようぜ。女神っつーと“神様”だ。神様を祀る場所ってこともあり得るな」
「えっと……お寺とか神社とかですか?」
「そうそう。後は……教会とか、な」
「……」
“教会”という単語にヒメルはピクリと反応する。確かに、近頃この辺りにはいくつか異教の教会ができた。外国から取り入れられたのは文化だけではなく、思想や宗教も、建築技術や食文化と同じようにこの国へとやって来たのである。
「教会……」
要がポツリと呟き、何やら思い付いたような表情を見せたが、ヒメルはそれより先に別の提案をした。
「場所も大切ですが、まずは期限の部分をはっきりさせましょう。納期も知らずに仕事はできませんよ」
“白亜の塔に二度斜陽の満つるまでに 彼の地へと至れ”。いつまでに暗号の地へと辿り着けば良いかを示すのはその部分だ。
「“塔”か……五重塔みてェな? 骨を安置するところなんだっけか」
「確かにそれも塔ですが、“白亜”と合いません。仏塔は基本的に木造ですし、少なくともこの辺りの塔はみんな焦茶や黒ですよ。刻限を示す以上は、街から遠く離れた塔のことを指しているとも思えないのです」
「では、他にこの近くで塔と呼べる高い建物は――」
要は通り沿いの大きな窓から外を見回し、遠方に小さく“あるもの”を見つけて「あ!」と声を上げた。
「塔なのです!」
要が指差した先にあるのは大きな時計塔だ。街の西洋化が進む中建築されたもので、今やこの街のシンボルの一つとなっている。外壁も見事な白煉瓦で、“白亜”という部分にも合致している。加えてこの街にいれば大抵の場所からは見ることが出来るため、暗号の指す“塔”とはまず間違いなくあれのことだろう。
「あの塔に“二度斜陽の満つるまで”……か。この場合、斜陽は素直に“夕日”のことでいいでしょう」
「つまり、明日の夕方までってことか」
「短いのです! 怪盗Rはケチなのです!」
要は随分と立腹した様子だが、盗人相手にケチもクソもない。そもそもこういった盗品を返す機会を与えるような挑戦状が届くこと自体が異例なのだから、いくら期限が短すぎると思ってもやるしかないのだ。
付け加えるなら、今回の暗号はいつもと比べて随分と短く、難易度もさほど高くはないと見えるので、それらも加味された期限設定になっていると思われる。
「取り敢えず、期限については暗号と共に警察へ報告します」
ヒメルはそう言うと、今朝方挑戦状が届いた後すぐに内容を転記しておいた紙を取り出した。これを警察の知り合いに預けて内容を共有するのだ。ヒメルのその行動に、天城は眉を顰める。
「全文解読してからじゃねェの? 警察にも考えさせるってこと?」
「人手は多い方がいいですから。ヒメルの役割はあくまでも警察と協力して怪盗から盗品を取り返すこと。怪盗との知恵比べは仕事に入りません」
「ふぅん……」
――その時天城は、何故だか妙につまらなさそうな顔をした。拍子抜け、とでも言おうか。何を思っているかは知らないが、いつも基本的に機嫌が良い彼にしては珍しい表情に見えた。
「……」
だからという訳ではないが、ヒメルは「……ただ」と付け加える。
「ただ、何?」
「誰よりも早く見つけてやろう、とは思っていますけれどね。ヒメルにも名探偵の意地がありますので」
そう不敵に笑って見せれば、天城もニヤリと口の端を持ち上げた。ヒメルの回答がお気に召したらしく、とんとんっと軽やかに煙草の灰を落とす。
「メルメルはそうでなくっちゃなァ」
「お兄ちゃん、かっこいいのです!」
目を輝かせる要の頭を撫で、ヒメルは先程取り出した紙を要に差し出した。首を傾げる要と視線を合わせてしっかりと言い聞かせる。
「要に一つ大事な仕事を頼みたい。今から警察署まで行って、これを七種という男に渡してくれるか? それから、Rからの挑戦状だということと、期限は明日の夕方までということも伝えてほしい」
「できるか?」と問えば、要は紙片を受けとり、真剣な面持ちで力強く頷いた。
「分かりました! 必ずやり遂げてみせます!」
「よし。それが終わったらここへ戻っておいで。椎名に、さっき言っていたおやつを出してもらおう」
「新しい外国のおやつですね! 楽しみなのです!」
「それでは行ってきます!」と元気に声を張り上げると、要は店を出て街の中心部へと向かって走って行った。お使いの内容をちゃんと覚えていられるか些か不安はあるが、まぁ大丈夫だろう。年齢に比して幼いところがあるだけで元々は賢い子だから。
「――よし」
要の後ろ姿を見送った後、ヒメルは表情を引き締めて挑戦状に目を落とした。その様子に天城は肩を竦める。
「メルメル、要ちゃんのこと追っ払ったっしょ」
ヒメルはチラリと天城を見やり、すぐに逸らした。
「言い方が悪いのですよ。危険に巻き込まないようにしただけです」
天城の指摘する通り、確かに要をこの場から遠ざけたのはわざとだ。だがそれは推理の邪魔だから追い払ったというわけではなく、要を事件に巻き込まないためにしたこと。要には後から怒られるかも知れないが、ヒメルは要がいない内に片をつけたいと考えていた。
「ンな危ない目に遭うようなことかねェ。宝探し感覚で挑戦状送ってくるようなドロボウっしょ? 世間じゃ義賊扱いだしさァ」
天城からしてみれば、ヒメルが要を心配するのはどうも過保護に写っているらしい。凶悪な殺人犯を追っているわけでもないのだから別に良いのでは、と。
けれどもヒメルは首を横に振る。
「いいえ、ダメです。……何も、危険なのは犯人だけとは限りませんから」
「うん……?」
「その件はここまで……で、この暗号についてですが」
ヒメルはそこで要の話を強引に切ると、暗号の解読に戻った。挑戦状の一行目から二行目までを指先でなぞる。
「“遠き地より来たり 救世の女神”は海外から伝来した宗教上の神と見ていいでしょう。“彼の地へと至れ”と言っている以上この暗号は場所を指すのでしょうから、あなたの言った通り異教の“教会”が妥当でしょうね」
「そうだな」
「“かがやける庭 ゼラニウムの園”……ゼラニウムは外国由来の花ですね。江戸時代には日本にあったと言われていますが、その花を育てている教会がある、と」
「ふんふん」
「で、あれば、探すべきはこの街もしくは近辺の教会の中でゼラニウムが咲く庭のある場所……女神は、ステンドグラス若しくは女神像と推理します」
ヒメルはそう言い切り、この街に教会はいくつあったかと記憶を探った。確か街の外れに一つ、市街地に一つ、街からは少し離れてしまうが西の丘の上に一つ、それから――。
「……」
そこでふと、天城からの視線に気が付いてそちらへと目を向ける。天城は何を考えているのやら、やけに楽しそうにヒメルのことを見つめていた。碧い双眸が細められ、まるでヒメルの心の内を探っているような――けれど、不思議と不快感のない眼。
「……?」
この男からこのような、ある種“熱っぽい”とも呼べる視線を送られること自体は珍しくもないが、こうもじっと見られていては居心地が悪い。ヒメルは天城の碧い瞳をジロリと睨み返しながらぶっきらぼうに尋ねた。
「なんですか。ヒメルの推理に何か文句でも?」
それに対して天城は、ヒメルの態度など全く意に介した様子もなく人懐っこく笑ってみせる。この男は時々こういう邪気のない笑い方をするから、こちらがいくら不機嫌を装っていてもあっさり毒気を抜かれてしまって調子が狂う。絆される、と言うのだろうか。
文句があるのかと問われた天城は、首を横に振った。
「いンや? 俺っちはその推理、良い線行ってると思うぜ」
「では何故人の顔を見てニヤニヤしているのです」
「ニヤニヤはしてねェっしょ。……まぁ、メルメルが真剣な顔で考えてンのが可愛くてつい、な」
「……」
冗談なのだか本気なのだか。この男の場合はどちらも有り得るから腹の内が読みにくい。
いずれにしても、ここでこれ以上天城に構って時間を浪費するわけにもいかない。ヒメルは場所を教会と仮定した上でその先の推理を進めた。
「“羽根を畳みて見つむる先に 矢の如く光は射す”……羽根は女神の羽でしょうか。羽のある女神の視線の先、“矢の如く光は射す”は……そのままの意味であるなら、現地に行ってみないと分からないかも知れませんね」
「現場でのヒント、ってことか」
「ええ。何らかの仕掛けがあるのかも知れません」
「野を駆ける獣ってのは?」
「大体見当はついています」
ヒメルは頬杖をつきながら、テーブルに置いた挑戦状の“四匹の獣”の文字をトントンと指先で叩いた。
「この手の暗号で“四”という数字が出てきたら、大抵は方角のことです」
「へぇ?」
「冒頭で女神だのゼラニウムだの言っていたのに突然獣が出てくるのも不自然ですし、何としてでもここでこの獣の話をしたかったのでしょう。四匹の獣と言えば四神獣。即ち白虎、青龍、玄武、朱雀」
「……なるほどな」
「四神獣は中国由来のもの、ゼラニウムは南アフリカから伝わったものですから、なんというか……世界観がめちゃくちゃですね」
ヒメルはふっと溜息を吐いた。挑戦状に読み物としての完成度など求めてはいないが、やや作り方が強引だと感じないでもない。或いは、そこにも何か意味があると言うのだろうか。
考え込むヒメルに、また天城が口を挟む。
「ンじゃあ、“狂歌”がどうとかは?」
自分で考える気のなさそうなその素振りに、ヒメルは呆れて隣の男を睨んだ。
「あなたねぇ……邪魔をするだけなら帰って下さいよ」
「えー、いいじゃん。メルメルの推理聞かせて☆」
「……」
一体何が楽しくてこの男はヒメルに絡んでくるのだろう。初めて会った時からヒメルに対しては割と好意的であったとは思うが、Rからの挑戦状が届くようになってから特にヒメルの探偵業に興味を示しているように感じる。
そのことを訝しんではいるものの、現状追い払うほどの被害も生じていないので対応に困る。それだけでなく、ヒメルが暗号の解読に窮していると、時々鋭い指摘をして謎解きの助けにもなるから尚更だ。
鬱陶しくはあるが完全に邪魔ではない、協力はしないがヒントにはなる。天城とはそういうどっちつかずな男なのだ。
「……狂歌の旋律は、五・七・五・七・七ですから」
「ん〜……あ、そういうこと」
「“狩る者の白き尾”は白虎、“二対の翼”は朱雀が翼二対分……つまり二羽、“一の龍”は青龍が一匹で、最後の“吉兆”は……まぁ、流れ的に玄武でしょうね」
「亀は吉兆の生き物と言われてるからな」
「ああ、そうでしたね」
それを踏まえて、四神獣の司る方角と狂歌の旋律を合わせれば――。
「西に五、南に七と五、即ち十二。東に七、北へ七」
まとめると、暗号が示しているのは、女神を祀っており庭にゼラニウムの咲く異教の教会。女神の視線の先には光が射し、その女神の位置から西へ五歩、南へ十二歩、東へ七歩、北へ七歩。その場所に、明日の夕方までに辿り着けということだと思われる。
「ゼラニウムの有無なんて分かりませんし、具体的にどの教会なのかというのは、足で探さなくてはなりませんが……」
「教会自体そこまで数はねェけど、教会同士がちっと離れてっからそこは大変かもなァ。っつーかもう殆ど解けてンじゃん」
天城の言う通り、天城(と要)の力を借りるまでもなく謎は殆ど解けていた。だからこそ、ヒメルには気になることもある。
「そこも少し引っかかっているのですよね……今までと比べると簡単過ぎる、というか……」
ヒメルが朝から一番頭を悩ませていたのはそれだった。謎は順調に解けたが、順調すぎて逆に何か大きな思い違いをしていそうで。
その辺りについて何か意見はないかと思い天城を見やるが、天城もどうやらヒメルの推理に異論はないらしい。彼は短くなった吸い殻を灰皿のどこに置いたものか少しだけ指先を彷徨わせて、山の中腹あたりに差し込んでから口を開く。
「ちなみに教会の線以外は考えない感じ?」
「一応警察に調査はしてもらうつもりです。女神像やステンドグラスがあるのは何も教会だけとは限りませんから」
「抜かりはねェ、ってことな」
「ええ。ただ……教会の場合は下手に警察が乗り込んで行って国際問題になってもいけませんので。そこはヒメルが動くしかないと考えています」
今回の暗号については、それもまた難しいところであった。挑戦状の存在を伏せつつ、異教の教会を調査するための許可が取れるのかどうか。もしかしたら、この暗号の難しさとは暗号自体ではなく、その後の対応にあるのかもしれない。だとすれば、今までよりも解読がスムーズに進んだこともある程度は納得できるか。
いずれにせよ、人海戦術に頼れない以上はあまり悠長にもしていられない。一旦推理は正しいと仮定して、急ぎ現地へ向かわなくては。
「取り敢えず、まずは一番近い教会へ行ってみましょうか。椎名、お会計をお願いします」
そう言うとヒメルは伝票を持って立ち上がった。「うぃ〜」と気の抜けた返事があって、ニキがカウンターから手を伸ばす。
「椎名、要が戻ってきたら先程言っていたおやつを出してあげて下さい。それから、おやつを食べ終わったら巴さんの屋敷に戻るように伝言もお願いします」
「それはいいっすけど……」
「要ちゃんとはもう合流しねェの?」
驚いたように目を丸くする二人に、ヒメルは呆れ顔で答えた。
「言ったでしょう。あの子を危険に巻き込むつもりはないのです。現地調査に合流なんてもっての外です」
あの調子では、要には暗号の指す場所は分からないだろう。暗号の内容を正確に覚えていられるとも思えないので、なす術がなくなれば大人しく屋敷に戻るはずだ。
「では、お願いしますね」
ヒメルはニキに代金を払うと、「ご馳走様でした」と言って出口へと向かった。さすがに天城はこれ以上着いてくる気はないようで、カウンター席に座ったままヒメルの背を見送る。
その時彼が漏らした小さな呟きはかろうじてヒメルの耳に届きはしたが、さほど重要なことだとは思わなかった。
「要ちゃんがいた方がいいと思うけどなァ……」
*
陽が傾き、街の中心に聳え立つ時計塔の文字盤が茜色に染まる。白い外壁は太陽の光を反射し神々しいまでに輝いて、夕方だと言うのにまるで朝日を見たかのような眩さを放っていた。ヒメルは思わず目を細め、今ばかりは夕日と同じ色に姿を変えたその塔を見上げる。“白亜の塔に斜陽が満つる”。まさにその光景を目の前にして、己の推理が間違いではないことを確信した。
カランコロン。
扉のベルが鳴った後、すぐに聞き慣れた声がヒメルを迎える。
「いらっしゃいませ〜。あ、ヒメルくん」
「お、メルメル。お帰り〜」
「……」
今朝訪れた時と同じ笑顔でニキが出迎え、今朝と同じ席でヒラヒラと手を振る天城。全く予想していなかったわけではないにせよ、ヒメルは溜息を吐いた。
「どーぞ」
天城は入り口の前で佇むヒメルに、己の隣の椅子を引いて見せる。さすがに灰皿の山は片付けてあったが、綺麗に掃除された灰皿には天城が吸ったらしい吸い殻が二、三本入っていた。
ヒメルは黙ってカウンター席に近付き、天城が引いた椅子の一つ隣に腰掛ける。
「……つれねェの」
そう肩を竦めるも、それ以上は粘ることなく天城は引いた席を戻した。
夕食用に適当に注文をして、待つ間にヒメルはチラリと隣を見やる。朝と変わらぬ位置を陣取る男は、トランプらしきカードをいじっていた。
「呆れた人ですね。朝からずっとここにいるのですか?」
この男の生態になど興味はないが、ヒメルがシナモンを訪れる時には高確率でここにいる。要も言っていた通り、まず間違いなく仕事なんかしていないだろう。ニキの口振りから、どうもギャンブルが好きらしいということは分かっているのだが。
天城は「きゃはは」と笑ったものの問いかけには答えず、鋭い双眸をヒメルに向ける。その目元が探るように少し細められた気がして、無意識に身構えてしまった。
「メルメルはどうだったん? 探し物は見つかった?」
「……いえ」
あの後――今朝シナモンを出た後、ヒメルは取り急ぎ街の外れにある教会へと向かった。神父にあれこれ適当な理由を述べて庭を調査させてほしいと依頼をしたが、今日は大切な集会があるからと断られてしまった。一応ゼラニウムがあるかないかは聞いたものの、花の名前など分からないし何故そんなことを気にするのかと怪しまれる始末。大方予想していたことではあるが、やはり異教の教会を調査するとは一筋縄ではいかないようだ。
「他にも何箇所か教会と名のつくところには行きましたが、やはり入れてもらえなかったり、入ることはできてもゼラニウムがなかったり……陽も落ちて来ましたので、一旦今日は切り上げました」
明日は今日最初に訪れた教会へリベンジしようか。ここらではあそこが一番大きな教会だから、物を隠すにはうってつけのはずだ。その次は街外れの教会。あそこは人目につきにくいから――。
そうして翌日のプランを練るヒメルの前に、注文したたまごサンドが置かれた。
「ありがとうございます。椎名、要はどうでしたか?」
サンドイッチの隣に珈琲を置きながら、ニキは肩を竦めてみせる。
「怒ってたっすよ。“置いていくなんてひどいのです!”って」
「ふふ……目に浮かびますね」
「おやつは美味しそうに食べてくれたっすけど」
「それも目に浮かびます」
きっと明日あたり、怒った要が襲来しそうだ。そうならないために、昨日電話でしっかり日和と約束させたのだけれど。もう二度と勝手に抜け出したりしないと。
要のプリプリ怒る姿と美味しそうにおやつを頬張る姿を想像して口元を緩めつつ、ヒメルは天城を横目で睨む。
「要に余計なことは吹き込まなかったでしょうね」
ヒメルの推理をこの男は聞いていた。だから、シナモンに戻ってきた要に暗号のヒントなど与えてはいまいなと、そう懸念してのことだ。
「なんも言ってねェって。要ちゃんが戻ってきた時俺っちいなかったし」
「……」
「嘘じゃねェっての。ニキにも聞いてみろよ」
ヒメルが無言でニキに目を向ければ、ニキはコクリと一つ頷く。
「それはほんとっすよ。その人、今朝ヒメルくんが出てってからそんなに経たない内に帰ったんで」
そう言われても、ニキはよく天城に力でねじ伏せられているところを見るので、正直ニキの証言に信憑性はない。……が、天城はヒメルが「ダメだ」と言っていることをヒメルの意思を無視してまで押し進めるような人間ではないとも思う。だから、ヒメルが要を巻き込まないという意志を表示している以上は天城も余計なことはしていない……はずだ。
「……まぁ、いいでしょう」
そこは一旦信用してやるとして、ヒメルは天城から視線を逸らして珈琲を一口飲んだ。その仕草をどう取ったのか、天城は「信用ねェ〜」と大袈裟に仰け反って嘆く。
しまいには嘘泣きまでする天城を尻目に、ニキは要が戻って来た時の様子を教えてくれた。
「お使いはちゃんとできたみたいっすよ」
要は“巴家に戻れ”という伝言を受け取り、置いて行かれたことを理解した時こそ不満を示していたものの、警察署での出来事については得意げに話していたそうだ。ニキが凄い凄いと相槌を打っている間に機嫌も治り、おやつを食べ終わった後は素直に巴家に帰って行ったとのこと。
要が怒っていたのは、単に置いて行かれたことに腹を立てていただけではなく、自分の仕事ぶりを兄に褒めてもらいたかったという気持ちもあったに違いない。ニキに褒められたことで幾分か気が済んだのだろう。
ヒメルは頷き、目を細める。
「――ええ、知っていますよ。ヒメルも警察署に捜査の進捗を報告しに行きましたが、七種が言っていました。大きな声で“怪盗からの挑戦状を届けに来ました!”と言うものだから、機密情報とは何かについて教えて下さったそうです」
「なはは〜……要くんらしいっすね」
「見てきたみてェに想像できるな」
苦笑いするニキと、眉尻を下げて笑う天城。この二人とは妙な縁だが、こうして要を気にかけてくれることは素直にありがたかった。純粋さ故に、なかなか友達ができにくい子だから。
それはともかく、問題は挑戦状の方だ。実質、今日は殆ど捜査が進まなかったと言ってもいい。
「期限は明日の夕方まで。意外と時間がありません。明日は朝から動かなくては」
「俺っちも手伝う?」
「結構です」
「えー」
にべもなく断られた天城は唇を尖らせて不満を訴える。大の大人がそんな顔をしても可愛くもなんともないと言うのに。
「あなたみたいな派手な大男が教会になんて行ったら警戒されますよ。ヒメル一人でさえ中には入れてもらえなかったのですから」
「入信希望って嘘つけば?」
「それは絶対に嫌です」
信者のふりをして潜入する作戦は検討したが、それは最後の手段にすることにした。話せば長くなるけれど、あの宗教には出来るだけ関わりたくはないのだ。教えが気に入らないとかいうことではなく、もっと別の理由で。
「場所が“教会”ということは確かなのです。明日の夕方までにはきっと……いえ、必ず盗品を見つけ出して見せます」
「そうして必ず、怪盗Rを刑務所へぶち込んでやりますよ」。そう言って意気込むヒメルを、天城は楽しそうに眺めていた。
* * *
翌朝。
ヒメルが自宅を出ると、事務所の前に見知らぬ男が立っているのが見えた。
「……?」
黒いスーツを着て色の濃い眼鏡をかけ、ハットを目深に被ったその男には見覚えがない。依頼人だろうかとも思ったが、それにしてはやけに怪しい出立だ。
その男から目を離さぬよう警戒して近付くと、ヒメルの存在に気付いた男の方から声を掛けてきた。
「お前がイナバ探偵事務所のヒメルか?」
「……そうですが」
横柄な物言いだ。はっきり言ってしまえば態度が悪い。身につけているものからして、上流階級の人間かそれに近い者と見える。
「どちら様ですか?」
一応は丁寧な言葉でそう尋ねると、男は名乗らず、“使いの者”だと言った。
――一昨日の晩、盗みに入られた貴族の。
「……!」
ヒメルの警戒度が一気に上がる。
というのも、ヒメルが探偵として怪盗の捜査に協力していることは、世間には伏せているからだ。予告状を受け取った人間にも、ヒメルは警察の者だということで通している。つまり、この男がヒメルの探偵事務所に辿り着いたということは、ヒメルについて調べたということ。何故かは分からないが、ヒメルはあの貴族に目を付けられているのだ。
「……そんな方が、ヒメルに何か」
先程よりも声のトーンを落として尋ねる。この男の狙いはなんだろう。主人に命じられ、怪盗を捕まえられなかったことを咎めに来たのか? そしてヒメルの探偵事務所の評判を落としてやろうと――。
相手の出方に色々と考えを巡らせるヒメルに、男は思ってもみなかったことを言った。いや、“思ってもみなかった”というより、何故それを知っているのかということ自体理解しかねる。
「お前の事務所に、怪盗からの“挑戦状”とやらが届いているらしいな」
「――!」
出来るだけ表情を変えぬようにと努めてはいるが、内心は若干動揺していた。だって、挑戦状のことを知っているのは警察関係者とニキくらい。警察から情報を漏洩させるなんてことはあの七種に限ってないだろうし、ニキから貴族に情報が漏れるなんてこともルート的にあり得ない。
ならば、他に挑戦状のことを知っているのは――。
(天城……!?)
あの男、と歯噛みしかけて、けれども目の前の男は別の答えを口にする。
「とぼけても無駄だぞ。昨日、警察署で騒いでいるところを聞いた者がいる。……お前には弟がいるな?」
「……、」
そうか、そういうことか。理解して、ヒメルは思わず力が抜けてしまいそうになった。ニキから聞いたところに寄れば、要は警察署でそれなりに大きな声で話していたようだから――たまたま警察署を訪れていた貴族の関係者に聞かれてしまったのだろう。
黙り込むヒメルに、男は言う。
「盗品は見つかったのか?」
「……いえ、まだ」
「本当か? お前が隠し持っているのではあるまいな?」
「何故ヒメルがそんなことを。持っていたらとっくにお返ししています」
「分からんな。怪盗がお前にいちいち挑戦状を送るのは何故だ?」
そんなの、ヒメルの方が聞きたいくらいだ。なんであいつはヒメルにだけあんなものを送りつけてくるのか。まるでヒメルとの知恵比べを楽しむみたいに。お陰で今、こんな面倒なことになってしまって。
男の追及は続く。
「まさかとは思うが……怪盗と組んではいないだろうな」
「どう言う意味でしょう」
「挑戦状などというものをでっちあげて警察の捜査を撹乱し、怪盗が逃げる時間を稼いでいるのでは」
「言いがかりなのです。それ以上ヒメルを侮辱するようであれば、主人の顔に泥を塗ることになりますよ」
「……」
そう凄んではみたものの、相手は貴族だ。ヒメルがどう動いたところで潰せるような相手ではない。ただ、怪盗に狙われるような悪徳貴族であることは間違いないため、探られたくない腹くらいはあるだろう。目の前のこいつが勘のいい男であれば、ヒメルの言わんとすることは理解出来ると思うが。
なんとかこれで帰ってはくれないか……そう願いながらもヒメルが相手を強気に睨んだまま返事を待っていると、男は「まぁいい」と言って漸く事務所の前から動いた。なんとか切り抜けたことにほっと息を吐くヒメルであったが、その横を男が通り過ぎる際ボソリと言った言葉に、背筋を凍らせる。
「とにかく、自分の無実を証明したければ時間までに盗品を屋敷まで持ってくることだ。……弟がかわいいなら、な」
「――、」
男はそのまま階段を降り、去って行った。
取り残されたヒメルは、男の口にした言葉を脳内で繰り返す。
(弟がかわいいなら……? それは、どういう――)
警察署で要は、あの貴族の関係者に顔を見られて――。
「……っ!」
ヒメルは弾かれたように走り出し、足をもつれさせながら階段を下りてシナモンへと駆け込んだ。朝の静かな店内に騒がしくドアベルの音が鳴り響き、驚くニキに「電話借ります!」とだけ叫んで店の奥へと向かう。掛ける先は巴家の屋敷だ。
「十条です! 要、要はいますか!?」
電話に出た使用人に碌に説明もせず捲し立てていると、受話器の向こうから日和の声が聞こえてきた。そのまま電話を代わったらしく、今のヒメルに少しも劣らぬ大きな声が返ってくる。
『まったく、朝から大声で何事だね!? 悪い日和!』
「巴さん! 要はそちらにいますか!?」
『要くん……?』
ヒメルの剣幕から只事ではない雰囲気を感じ取ったのだろう。日和は訝しげにはしていたが、それ以上非礼に対して追及はせず質問に答えてくれる。
『要くんなら留守だよ』
「え……」
『ジュンくんと一緒にお使いに行ったね。昼前には終わる予定だと思うけど』
「……、」
いないと聞いて一瞬肝を冷やしかけたが、漣ジュン――巴家の使用人だ――と一緒ならば、大丈夫か。彼は確か日和のボディガードも兼ねて体を鍛えていたはず。そのまま屋敷まで一緒に帰って来てくれれば問題はないだろう。
ヒメルは日和に礼と、早朝から騒がせたことに詫びの言葉を告げて電話を切った。背中にかいた嫌な汗はまだ引かない。
(要があの貴族に狙われている……早く、盗品を見付けなければ……)
呑気に朝食をとっている暇はないので、オロオロするニキにも礼を言ってヒメルは店を飛び出した。要が来たら保護してくれるよう頼むのも忘れずに。
(まずは昨日の教会からだ。こうなったら、多少強引にでも中を見せてもらわないと)
ヒメルは人もまばらな朝の街を、教会に向かって走り出した。なんとしても、要があの貴族に見つかる前に盗品を取り戻さなければ。
*
結果としては、目星をつけていた教会は不発であった。花はあったがゼラニウムではない。女神像はあったが羽がない。光は“射す”どころか遮るものが一切なく、朝日に燦燦と照らされた庭園には物を隠せるような場所などなかった。
(ここが違うとなれば、あとは――)
昨日調査しきれなかった教会は残り四箇所。どこに行くにせよ、一旦街の中心部には戻った方が良さそうだ。時刻は午前十半時。今から戻って十一時。そこから現場に向かって十二時前。
(あまり時間がない……)
ヒメルの中に焦りが芽生え始め、なんとかそれを払拭するように頭を振った。冷静にならなければ。焦ったって良いことは何もないのだから。
そう己に言い聞かせ、ヒメルは要が来ていないかの確認も含めて、一度シナモンへ戻ることにした。
十一時。予定通りシナモンまで戻ってきたヒメルは、店の前でとある人物を見つけ声を掛けた。
「漣……?」
群青色の髪をしたその青年は、ヒメルの呼びかけに振り返って軽く手を上げる。
「ああ、十条のお兄さん。ちわっす」
彼は漣ジュン。今朝、日和が要と連れ立って出かけたと言っていた男だ。彼がここにいるということは要も――そう思い、安堵の息を漏らしかけたのだが。
「……要は? 一緒にいると聞いたのですが」
見たところジュンは一人で、シナモンの店内にも要の姿は見当たらない。嫌な予感に表情を固くするヒメルに対し、ジュンはどこか呆れた様子だった。
「それが、なんか大事な用があるのです〜っつって一人で行っちまいまして。おひいさんのお使いは済んでるんで、まぁいいんですけど……。今日はやけに張り切ってるなぁと思ったら、早く仕事を終わらせてやりたいことがあったみたいですね」
「なんだって……?」
ヒメルの心臓がドクンと大きく脈打つ。つまり要は今一人でいるということか? 一人で、一体どこに。
ヒメルはジュンに掴みかからんばかりの剣幕で詰め寄った。「おわっ!?」と驚きの声を上げて仰反るジュンに、逃げる機会を与えず捲し立てる。
「どこに行ったのですか! いつからですか、要は何をしに――!」
「ち、ちょっと待って下さいよ!」
滅多に声を荒げることのないヒメルの姿に、ジュンは戸惑いを隠せない様子だ。両手でヒメルを制しながら、要とのやり取りについて手短に説明する。
「よく分からないんすけど、探し物? があるとか言って」
「どこに何を探しに行ったのですか!」
「知りませんよ。聞いても“きみつじょうほうなのです!”とか言って。ああでも、“お兄ちゃんを手伝う”とも言ってましたね」
「……っ」
七種のやつ、余計な言葉を教えやがって……!
ヒメルはギリッ……と奥歯を噛み締め、時計塔を見上げた。十一時十分。日が暮れるまではあと五、六時間ほどか。
要は間違いなく、盗品を探しに行ったのだろう。昨日のお使いで挑戦状の写しを持たせていたから、内容を覚えるなり書き写すなりするタイミングもあった。あの子はきっと、自分でこの事件を解決しようとしているのだ。自分もヒメルの力になれると――兄の役に立てると示すために。
(要には捜査状況を教えていない……あの子が知っているのは場所が“教会”ということくらい……)
であれば、要を探すなら昨日調べた教会も再度訪れる必要があるか。そんなことをしていて夕方までに間に合うのか。もしくは、要を探すのではなくこのまま予定通りにまだ調べていない教会を回った方がいいのか? もし要が見つからなくとも、盗品さえ見つけられればいいのだから。
だが、焦るヒメルの脳裏には、今まで棚上げしていたもう一つの可能性が浮かんでしまう。
(もし……もし怪盗からの挑戦状が罠だったら……)
ヒメルはこれまで一度も怪盗が隠した盗品を見付けられていない。であれば、怪盗の用意した暗号を解いたところで、本当に盗品が返ってくるのかどうかが分からないのだ。怪盗Rが予告状の場所や時刻を違えたことはないため、ヒメルも警察も勝手に挑戦状の内容も本物だと信じてはいるが、怪盗が捜査を撹乱するために用意したものである可能性もないとは言いきれない。
そうだとすれば、挑戦状の場所に夕方までに辿り着いたとしても――要は。
(どうする、どうする……!?)
こうして狼狽えている間にも時間はどんどん過ぎていく。とにかく要を探さなければ。要も暗号を解こうと動いているはずだから、近場の教会から回っていけばどこかで遭遇できるかもしれない。
「顔色悪いですけど、大丈夫っすか?」
「……要を見かけたら屋敷へ連れ帰ってください」
心配そうに顔を覗き込んでくるジュンにそれだけ告げて、ヒメルは走り出した。今後の方針はまだ決まっていないが、とにかく立ち止まっていることはできなかった。
昼時が近くなり、人の増え始めた街路を駆けていく。すれ違う一人一人の中に要の姿がないかを探しつつ、ヒメルはこれからどうすれば良いのかを必死で考える。
そうやって考え事をしながら全速力で走っていたためだろう。ビルの角を曲がろうとした時、反対側から来た人物とぶつかりそうになった。
「うおっ!?」
「……っ!」
すんでのところで避けるも、バランスを崩して転びそうになる。そんなヒメルの腕を相手の男が掴んで、傾いた体を引き起こした。
「っぶねェ……って、メルメル? 何してンだ?」
「……、」
呼吸を整えながらヒメルは男の顔を見る。ヒメルのことをこんな珍妙なあだ名で呼ぶのはこの世に一人しかいないので、見るまでもなく相手が誰であるのかは分かっているけれど。
「天城……、」
「なァにそんなに慌ててンだ?」
ヒメルのただならぬ様子を察したのか、天城はいつもの軽薄なヘラヘラ笑いは見せずに眉を顰める。こんな得体の知れない男でも今はやけに頼り甲斐があるように見えて、ヒメルは縋る思いで尋ねた。
「天城……っ、要を見ませんでしたか?」
「要ちゃん? 見てねェけど……なんかあったのか?」
忽ち表情を険しくした天城に、ヒメルはことのあらましを説明する。話を聞くごとにどんどん天城の眉間の皺は深くなり、ヒメルは混乱する脳内でも僅かに冷静さを保っている部分で “この男のこんな顔は初めて見るな”と感じていた。天城は――怒っている。
「……あの悪徳貴族、要ちゃんに手ェ出す気なのか……」
話を聞き終わった後、天城は低い声で唸るようにそう呟いた。こんな声色も聞いたことがない。ヒメルでさえ、今の彼のことを少し“怖い”と感じるくらいだ。
だが、怒っていても天城は冷静だった。
「取り敢えずメルメルはこのまま暗号が示す場所を探せ。挑戦状が本当だろうと嘘だろうと、要ちゃんも同じとこに向かってンだろうし」
「でも、あの子は暗号のことは何も……」
「要ちゃんは周りが思ってるよりできる子だぜ? 絶対正解に辿り着く」
「……、」
何を根拠に、と思ったけれど、天城は妙に自信に満ちた声で「大丈夫だ」と言い切った。その力強さにヒメルも幾分か平静を取り戻す。
「暗号が示す、場所に……」
「そ。もう一回挑戦状をよく見てみろよ。メルメル頭良いから難しく考えちまうのかもしんねェけど、案外単純なんじゃねェの? それに、メルメルだってなんかおかしいって思ってたことがあるンだろ? だったらそこももっと追究してみねェと。……俺っちも要ちゃん探してやっから一旦落ち着け、な?」
「……分かりました」
「よし」
天城はそう言うと、俯くヒメルの頭にポンと手を乗せた。子供扱いするようなそれを普段であれば振り払ったところだが、この時は何故だか酷く安心して、ともすれば泣き出してしまいそうなくらいだった。
「……頼みましたよ」
ヒメルは目頭に力を込め、天城の手をすり抜けて再び走り始める。要は必ず正解に辿り着くと信じて、暗号の示す場所へ。
一人残された天城はその背中を見送り――。
「……」
遠くに聳え立つ貴族の屋敷を睨み付けるのだった。
*
午後三時。
「……、」
ヒメルは額の汗を拭いながら、はちきれんばかりに高鳴る鼓動を抑えるべく道端に佇んでいた。
天城と別れた後、昨日入れなかった教会をいくつか回って調べたけれど、暗号の示すものも要の姿も見付けられなかった。あと調べていない教会は二箇所。その内一箇所は街から離れたところにあるので、そこへ向かうのであれば残りのもう一箇所の方には夕方までには辿り着けないだろう。逆もまた然りだ。
(俺が行けるのは片方だけ……今から天城を探して片方に行ってもらうか……でも、天城がどこにいるかなんて……)
なら警察に協力を仰ぐ? でも、警察も盗品の捜索のために多くが出払っていると聞く。要の保護のためにどこまで動いてくれるかどうか。
「どっちだ……」
残り二箇所の教会。そのどちらかが暗号の示す教会だ。どっちが答えなのかは二分の一の運に託すしかないのだろうか。
「……、」
ヒメルは内ポケットから挑戦状を取り出して広げた。何度も何度も読み返したそれはすっかり内容を覚えてしまっているが、もう一度頭から読み直す。
(そう言えば、さっき天城が妙なこと言ってたな……俺がなにかおかしいと思っていたことがあるって……)
暗号についてヒメルが変だと思ったこと。天城がそのことを指摘できるということは、昨日、天城に推理を聞かせた時にヒメルが何か彼の胸に引っかかるようなことを口にしたのだろう。あの時言ったことといえば……。
(“矢の如く光は射す”は、そのままの意味なら現地に行ってみないと分からない……四と言ったら大体が方角のことで……女神とかゼラニウムとか四神獣とか、世界観がめちゃくちゃで……)
そう、めちゃくちゃなのだ。宗教はヨーロッパから伝わり、ゼラニウムは南アフリカ、四神獣は中国。確かにこれは変だ。なんというか、怪盗Rが作る暗号にしては言葉のチョイスが雑すぎる。この違和感を追究しろということか? これらの地域に意味があるとでも?
しかし、天城は同時に“単純に考えろ”とも言っていた。
(単純に……)
“地域”には別に意味がない。“言葉そのもの”に意味がある。その言葉を使わなければならなかった理由。世界観がめちゃくちゃになろうとも、ゼラニウムや四神獣を出さなければならなかった理由――。
「……よくよく見てみると、ここも何か変だな……」
ヒメルは挑戦状の文字を指でなぞり、呟いた。“かがやける庭”の“かがやける”は何故平仮名なのだろう。“羽根”も、天使が持つような“翼”の場合は普通“羽”と書く。それを敢えて“羽根”としている理由があるのだろうか。
そして、文章の切れ目と思しき箇所に挟まれる空白。“かがやける庭”から“二対の翼が続けば”までは要所要所に空白が挟まれているのに、その後の文章には空白がない。
(この文章の切り方にも何か……意味が……)
そうして挑戦状を俯瞰で眺めたとき、ヒメルは漸く気が付いた。この暗号が真に示しているものに。この暗号には、初めから“答えそのもの”が書かれていたのだ。
あまりに単純なトリック。文字さえ読めれば子供にだって簡単に解けるかも知れない。そんな簡単なことに今までヒメルが気付かなかったのは……きっと、自分の中に敢えてその場所を避けたいと思う気持ちがあったからだろう。
“かがやける庭”から“吉兆を得ん”までの、空白と改行で区切られた言葉の先頭を繋げて読むと、“か ゼ 羽 矢 野 狂 狩 い”――風早の教会。
「……、」
場所は分かった。ヒメルは時計塔と西の空を交互に見上げた。もう時間がない。
ヒメルは挑戦状を握りしめたまま走り出した。向かうのは、この街から最も離れている教会――憎きあの男のいる教会だ。
*
「はぁ……はぁ……」
休まず走り続けて、目的地に着いたのは四時を過ぎた頃。陽は大分傾き始めている。
教会の扉をノックしようとして、やめた。この教会の庭園には外から入ることができる。確か許可なく立ち入り禁止だとかそういう決まりはなかったと思うので、そのままお邪魔することにした。ここの神父とはできれば顔を合わせたくないから。
「……」
庭園内を見回すと、そこは教会の脇に生えた大きな木の陰になっていて、時間帯の割には薄暗く肌寒かった。そんな中でも、鉢に植えられた赤い花々はよく目立つ。
「……ゼラニウム」
神父の趣味だろうか。その花は庭園内のそこかしこに植えられて、確かにこれは“ゼラニウムの園”だなと納得する。
そして女神については。
「女神像が……四体」
庭園の中には複数の女神像があった。いずれも背中には大きな羽を背負っている。この中のどれかの女神像の視線の先に“光は射す”。その意味もすぐに分かった。
「木漏れ日が……」
大きな木の陰になった庭園の中で、唯一光が射し込む場所がある。隙間なく広がった葉は枝先に向かうにつれて密度を薄くし、その隙間から筋のように夕陽が降り注ぐ。四体の女神像の中で、一体だけその光に顔を向けているものがあった。
「羽根を畳みて見つむる先に、矢の如く光は射す……」
間違いない。暗号が示していたのはこの場所だ。そして、この女神像から指定された歩数を進んだ先に――。
「お兄ちゃん!」
そうしてヒメルが足を踏み出そうとした時、ふと背後から声をかけられた。
「っ!」
聞き慣れた声に慌てて振り向けば、ずっと探していた姿が目に映る。
「お兄ちゃん!」
笑顔で手を振るその子はもう一度ヒメルを呼ぶと、庭園の中を駆けてきた。ヒメルも、その子に向かって足を踏み出す。
「要っ……!」
ヒメルの広げた腕に、要は勢いそのままに飛び込んできた。怪我をしている様子はない。いつも通りの元気な要だ。
要はヒメルの腰に巻き付いた後、パッと顔を上げた。
「お兄ちゃんもここだと思ったのですね! お兄ちゃんがいるなら間違いないのです!」
ヒメルの心配をよそに、要はキラキラと顔を輝かせながらそんなことを言う。その手には紙切れを握っており、やや拙い文字で暗号らしき言葉が書かれていた。やはりどこかのタイミングで書き写していたようだ。
要の無事な姿に、ヒメルは込み上げてくるものをぐっと堪えた。思わず漏れそうになる嗚咽を喉に力を入れて飲み下し、ヒメルに抱きつく要を見下ろす。
「お前っ……勝手なことをして! 心配しただろう!」
「ご、ごめんなさい、でも……お兄ちゃんの力になりたくて……」
兄に叱られ、つい先ほどまで見せていた笑顔が忽ちしょぼくれたものになる。俯きながらヒメルのシャツを掴んで「ごめんなさい……」と蚊の鳴くような声で言われては、ヒメルもそれ以上は何も言えなかった。
それに、要に碌に説明もせずに捜査から遠ざけたヒメルにも落ち度はある。こんなことになるなら最初から要を捜査に同行させていれば良かった。そうしたら要を守ってやることができたのに。本当に危険な時はちゃんと“危険だ”と言い聞かせれば、要だってヒメルに黙って勝手なことはしないだろう。
項垂れる要に、ヒメルは首を横に振る。
「いや……俺もごめん。要を置いて行ったりして……どうしてここが分かった?」
そう尋ねると、要はヒメルの表情を窺いながらもおずおずと話し出した。
「教会と聞いて真っ先にここが思い浮かんだのです。お花もあるのは知っていましたし、でもこのお花がゼラニウムか分からなくて……だからまず、ゼラニウムがどんなお花かを確認しに行っていたのです」
街の花屋や公園、色々な場所へ行ってゼラニウムを探していたのだとか。どうりで教会を片っ端から回っていたヒメルとは遭遇しないはずである。
「そんなことしなくたって、取り敢えずここに来て神父に聞けば良かったのに」
「前、このお花の名前を聞いたら“知らない”って言っていましたから」
「……適当な奴だな」
ヒメルはのほほんとした神父の顔を思い浮かべ、内心で舌打ちをした。あいつがこの花がゼラニウムだと知ってさえいればもっと早くこの事件は解決できていたかもしれないのに。
だが、要が予想外の動き方をしてくれたお陰であの貴族にも見つからずに無事でいられたとも言える。そう考えればまぁ、結果オーライととれなくもないか。
要の無事を確認してすっかり気の抜けてしまったヒメルだが、これで仕事が終わったわけではない。まだ盗品を見付けなければならないのだ。
「暗号には、あの女神像を起点に指定された歩数を歩くように書いてあるんだ」
「そうなのですか? 僕にはさっぱりだったのです!」
ヒメルは要を連れたまま、例の女神像の前から歩き始めた。庭園内を西へ五歩、南へ十二歩、東へ七歩、北へ七歩。
「……ここか」
そうして辿り着いた場所は一見何の変哲もなかったけれど、よく見てみると花壇の一部に掘り返したような跡があった。しゃがみ込んで触れてみれば、土が柔らかくなっており、周りと少し色が違っている。
「ここに何かを埋めたのか?」
「掘ってみるのです!」
要はそう言うと、庭園の端から小さな園芸用のスコップを持ってきた。勝手知ったるその様子に、彼が頻繁にここを訪れていることが窺えて、ヒメルは苦虫を噛み潰したような顔をする。
一方の要はと言うと、兄の渋面には気付かずどんどん花壇を掘り進めていった。よくよく考えれば人様の土地の花壇を勝手に掘り起こして良いものかと思うが、まぁ、ここの神父相手だったらいいだろう。
ガツッ。
ザクザクと軽快な音を立てて順調に掘り進んでいたところへ、何か硬いものにぶつかる音が混ざった。一瞬手を止めた要は、嬉しそうにヒメルを振り返る。
「何かあるのです!」
要はスコップの先が当たった“何か”の周囲を広範囲に掘り、砂を避けた。段々と埋まっていたものが顕になり、ヒメルも一緒になって覗き込む。
土の中から現れたのは、茶色く汚れながらも元は白かったことが窺える上質な木箱だった。
「桐の箱……だな」
ヒメルは要と共に穴の中に手を入れ、慎重に箱を取り出した。蓋の土を払い落とし、そっと中身を確認する。柔らかい布で包まれたそれを捲って見てみれば、見事なアルカイックスマイルを浮かべた木彫りの仏像が姿を現した。
「……間違いない。あの貴族の屋敷から盗まれたものだ」
「やりましたね、お兄ちゃん!」
要はわっと歓声を上げ、ヒメルの腕にしがみ付いた。「落とすから」と嗜めはしたものの、嬉しそうな要の様子にヒメルも知らず笑みを浮かべる。
「遂に怪盗Rに勝ったのです! やっぱり僕のお兄ちゃんが一番です!」
「要が手伝ってくれたおかげだな。……お前は俺の立派な助手だよ」
「……! はい!」
ヒメルは桐箱の蓋を閉じ、両手で大切に抱えて立ち上がった。盗品を見付けはしたものの、空は既に群青色に染まりつつある。街に戻る頃にはすっかり暗くなっていることだろう。
「……早く戻ろうか」
盗品は取り戻したし、要もここにいる。危難は去ったと安心しつつも、ヒメルは要を連れて街へと急いだ。
*
街への道中、道の先から人の走ってくる足音が聞こえた。足音は真っ直ぐこちらへと向かっており、ヒメルは要を背中に隠して身構える。――あの貴族の追手かも知れない。
しかし、その警戒はすぐに解かれることとなった。薄暗闇の中から現れたのがよく見知った姿だったからだ。
「メルメル!」
「あまぎ!」
呼びかけに答えたのは要だ。街から走ってきたらしい天城は、二人を見付けると膝に手をついて呼吸を整えた。そう言えばこの男も要を探してくれていたのだったか。薄情にもすっかり忘れてしまっていたことに気が咎めて、ヒメルはいつになく優しく天城の背を撫で摩る。
「街からずっと走ってきたのですか? ……ありがとうございます。お陰さまで無事要を見つけられました」
「盗品も取り返したのです!」
二人の言葉に天城は顔を上げ、要と桐箱を見て笑みを浮かべた。心底ほっとしたようなその顔からは彼が真剣に要を心配してくれていたことが窺えて、少しだけこの男のことを見直したりなんかする。
しかし、天城の表情が弛緩したのも束の間、すぐに焦ったようにこう告げる。
「今街で大変な騒ぎになってンだよ! あの貴族ンとこが!」
「盗みに入られた貴族ですか? 大変なこととは……」
「まぁた盗みに入られたンだとよ!」
「……は?」
思いも寄らなかったことにヒメルはポカンと口を開けて固まった。また盗みに入られた、とは。
「予告状が来ていたのですか?」
「いや、今日の昼急に入られたらしい。警察も屋敷の人間も盗品探しに躍起になってたから、屋敷の警備が緩かったって」
「何というか……火事場泥棒、ですね」
恐らく、怪盗でもなんでもないドロボウが今がチャンスとばかりに侵入したのだろう。怪盗Rであれば予告状は欠かさないはずだから。ヒメルは初めそう考えた。
けれど、天城の話にはまだ続きがある。
「問題なのは盗まれたもんなんだよ」
「何が盗まれたのですか?」
要の問いに、天城は一拍置いてから答えた。
「……不正の証拠。あの悪徳貴族が今まで働いてきた悪事の数々を暴く証拠になる資料がごっそり盗まれて、警察署の目の前にばら撒かれたんだよ」
「――、」
それは――確かに、大騒ぎになるだろう。盗まれた貴族もばら撒かれた警察もてんやわんやのはずだ。正直そんなことになっては、貴族はヒメルが取り返した盗品になどかまけている暇はない。
「警察もどうしたもんか対応に困ってるみてェだぜ。メルメルの大学の同期だったサエグサさんも、一周回って大笑いだ」
「……」
万年ワーカホリック気味のあの男が、クマをこさえて高笑いしている姿が容易に浮かぶ。それくらい、これは笑わないとやっていられないほどの大変な事態だ。何せ、いかに評判が悪かろうとあの貴族は街の有力者。そんな重要人物が今まさに没落しようとしているのだから。
「とにかく街へ戻ろうぜ。こうなっちまったら貴族の野郎も要ちゃんを追いかけてる暇はねェだろうし」
「? どうして僕が追いかけられるのですか?」
「……行こう。何にしても、こんなところでぼーっとしてる場合じゃない」
こうして三人は、天城を先頭に街へと戻った。そして、白煉瓦の美しい貴族の屋敷はというと――大量の記者や市民が門の前に人集りを作り、それを押し返しながらも屋敷の捜索に乗り出す警察官でごった返しており、まさに未曾有の大混乱に陥っていたのであった。
* * *
「ま〜た今朝は一段と荒れてるっすね」
堆く積み上がった吸い殻。空になり握り潰された煙草のパッケージ。
ニキに出された珈琲をぐっと一気に飲み干し、ヒメルは新聞を掴む指に力を込めた。
貴族邸の大騒動から一夜明けた喫茶シナモン。カウンター席にはヒメルと、その隣の席に天城の姿。
天城はヒメルが睨み付けていた記事を隣から覗き込み、その見出しを読み上げた。
「『悪徳貴族 万事休す 白昼堂々暴かれた不正』……はァ〜ん、仕事が早いねェ。昨日の今日でもう記事になってら」
天城は顎をさすりながら感心したようにそう漏らし、碧い瞳を紙面の端から端まで走らせる。
「そンで……盗品を取り戻したことはどこにも書いてない、と」
「……」
天城の言葉に、ヒメルはヒクリと眉尻を動かした。明らかに苛ついたような仕草に慌ててニキがフォローに入る。
「で、でも、本当に盗品を見つけたなんて凄いじゃないっすか! 遂に怪盗に勝ったんすよヒメルくん!」
「ふん……そんなこと、きっともう意味なんてないのですよ」
ヒメルはそっけなく言い捨てると、ゆるく頭を振った。暗号を解けたとか怪盗に勝ったとかいうことは最早どうでもいいと言わんばかりに。
実際、盗品を取り戻したからと言って誰かを救えたかと言うと微妙なところだ。
「盗品は一応返しはしましたが、あの仏像はもともと寺の住職が貴族に騙し取られたようなものです。ばら撒かれた証拠の中には、きっとその時交わした契約書なりなんなりも含まれているでしょう」
「じゃあその仏像は、貴族の手には戻らずに本来の持ち主のところに帰るんすかね?」
「さぁ? 本来の持ち主に返されるかは分かりませんが、貴族の手には戻らないでしょうね。どうせ彼はすぐに檻の中ですから」
ヒメルはふっと息を吐き出し、新聞を畳んで天城の前へと放った。それをなんとなしに見下ろした天城の目に、記事の片隅に載った『騒動の首謀者は怪盗か?』の見出しが映る。
「ふぅん……? 世間は例の怪盗が昨日の騒動を引き起こしたと思ってンのか。想像力の逞しいこって」
呆れたように漏らす天城の意見には、ヒメルも賛成したいところだ。住民にとって痛快な事件が起これば何かと“正義の大怪盗”の名を持ち出して盛り上がるなど、おめでたいにも程がある。
そもそも貴族の屋敷から不正の証拠品を盗み出してばら撒くというのは、今まで怪盗Rがとったことのない動きであった。それをあたかも怪盗の仕業であるかのように報道するなんて、怪盗を英雄視したい街の住人の感情を煽る意図が見え見えだ。
しかし、そうは思っていても、ヒメルにも昨日の一件が怪盗の仕業だというのは、全くの荒唐無稽な話として済ませてしまうことは出来なかった。
「確かに、怪盗Rが今まで金銭的な価値のないものを盗んだことはありませんし、ヒメルも初めは火事場泥棒かと思っていましたが……仮にも貴族の屋敷です。警備が手薄になっていたとは言え、そこらのこそ泥がそう簡単に侵入できるものでもありません」
「つってもなァ」
「それに、不正の証拠品だけを盗んでいくには前々から目をつけて下調べをしていなければならなかったはず。そんな真似ができるのは、あの忌々しい怪盗くらいのものだとヒメルは思うのです」
「……」
ヒメルは先日受け取った挑戦状を取り出し、テーブルに置いた。何度も読み返したことですっかり草臥れてしまったその手紙の文字を指先でなぞる。
「……今にして思えば、これは全て最初から仕組まれていたことで、ヒメルたちは怪盗に踊らされていたのかもしれません」
その言葉に、天城は片眉を上げて小首を傾げた。
「どういうことだ?」
「“白亜の塔に二度斜陽の満つるまで”……」
挑戦状の後半部分。期限を示すと考えていた箇所を眺めながら、ヒメルは呟く。
「あの貴族の屋敷は外壁が白かった。屋根の尖った塔状の建物もありました。“斜陽”とは、夕日の他に“没落する”という意味もありますから……」
「……」
「もしかしたら、一度目の盗難の時点で貴族の没落は始まり、昨日証拠品をばら撒かれたことで二度目の斜陽を迎えたと……そういうことだったのかもしれませんね。挑戦状の期限なんて、怪盗が自由に変えられた」
最初に仏像を盗んで警察やヒメルの目をそちらへ釘付けにし、その隙に不正の証拠を盗んだあと機を見計らってばら撒く。これなら二度目の“斜陽”のタイミングは怪盗次第であるため、ヒメルが正解に辿り着きそうになったところで騒ぎを起こしてしまえば、ヒメルの勝ちは有り得ない。ヒメルが見つけたあの仏像も、もしかしたら既に偽物とすり替えられていたのかも。
「それはさすがに考えすぎじゃねェの?」
ヒメルの推理を聞き終えた天城は呆れたように眉尻を下げ、背凭れに片腕を引っ掛けてヒメルに向き直った。いくらなんでもこじ付けが過ぎると。
「“斜陽”が没落の意味で“二度”っつーのがあの貴族が落ちぶれてく過程を指すなんて、ンなもんむず過ぎっしょ。誰が分かンだよ。偶然だ偶然」
それでもヒメルは目を伏せて、力なく零す。
「偶然も、重なるようであれば必然と呼んでいいのかもしれません」
「……」
この時のヒメルは、機嫌が悪いというよりすっかり消沈してしまっていた。初めこそ今回の結末に腹を立てていたものの、あれこれ考えている内にどうにもやるせなくなってきてしまったのだ。それと共に、絶対に怪盗を捕まえてやるというギラギラ感もなくなってしまった。燃え尽き症候群、とでも言おうか。
そんなヒメルの姿を前に、天城はポリポリと頭を掻く。
(弟が危険に晒されて、漸く取り返した盗品ももはや意味のないものになっちまって……凹ンじまうのも無理はねェか……)
そうは思えども、いつまでも敗北に打ちひしがれて俯いているヒメルなどらしくない。ここは一つ、自分が元気付けてやらなければ。
天城はヒメルの顔を覗き込むと、その黄金色の瞳が開かれたところでニヤリと笑ってみせた。
「なら、俺っちとメルメルとの出会いも“必然”ってか?」
「……」
半分は元気付けるため、もう半分は投げやりにでも「そうですね」なんて言ってくれれば。
そう思って掛けた言葉に何か返す前に、ヒメルは天城に向かって右手を差し出した。彼がこの仕草をする時は大体煙草をせびる時だ。
「ンだよ、煙草ならさっきやったっしょ」
「つまらなかったのでもう一本ください」
「……」
どうやら励ましのつもりで掛けた言葉は、つまらないギャグとして片付けられてしまったようだ。本当につれない男である。
ただ、少しだけいつもの調子を取り戻したようにも見えて、天城は口の端を吊り上げる。良いことを思いついたのだ。
「生憎、さっきのやつで最後。その代わりさァ」
「……?」
不思議そうな顔をするヒメルの耳元に唇を寄せ、意図して作った低い声で囁く。
「……今晩、久しぶりにどーォ? スッキリさせてやンぜ?」
それは、紛うことなき夜のお誘い。ヒメルが微妙に弱っている今ならいけるのではないかと。
「……」
ヒメルの眉間に忽ちの内に皺が刻まれた。見るからに嫌そうに表情を歪めるので、これは駄目かと天城は「冗談だ」と口にしかけたが――。
「……そうですね。それもいいかも知れませんね」
意外にも、ヒメルから出たのは肯定的な返事だった。天城は思わず身を乗り出す。
「マジ? 絶対だぜ、言質とったからな」
「そんな言い方しなくても、自分で一度言った言葉をなかったことにはしませんよ」
あなたと違って。
最後は手厳しくもふいっと顔を背けられてしまったが、約束を取り付けた天城は上機嫌だ。鼻歌でも歌い出しそうな様子で今夜の逢瀬に想いを馳せている。
一連のやりとりを見ていたニキは、口角をヒクリと引き攣らせた。
「……あんたら、まだその爛れた関係続いてたんすね」
聞こえないとでも思ったのだろうか。カウンターの中でボソリと呟いたその言葉にヒメルが笑顔を向けると、ニキは小さく肩を跳ねさせてそそくさと店の奥へ引っ込んで行った。
*
「……」
背中に感じる心地良い熱と、頭の下敷きになった硬い腕。腕枕というのは恋する者にとっては憧れの対象であるらしいけれども、実際にされてみると実に寝心地の悪いものである。する方も、される方も。
「ん……、」
ヒメルは身じろぎしながらゆっくり体を起こすと、ベッドサイドの時計に目を向けた。午前八時。いつもより一時間寝坊だ。
「……」
背後を振り返れば、赤い髪をした男が気持ち良さそうにスヤスヤと眠っている。でかい図体はベッドの半分以上を占拠しており、ヒメルが今し方まで収まっていたスペースは客観的に見るとごく狭い。それこそ、相手に相当密着していないとベッドから転げ落ちそうなほど。
「……はぁ」
ヒメルは軽く溜息を吐き、左足から順に床へと下ろした。音を立てぬよう静かに立ち上がり、床に散らばった服をひょいひょいと慣れた足取りで避けていく。
そうして部屋の隅に置かれた四角い籠へと近付いて、上にかけてある毛布をゆっくりと剥がした。窓から差し込む日光で籠の中が急激に明るくならないよう慎重に。
徐々に顕となっていく籠の中を覗き込んでいると、やがて黒いふわふわの塊の中にちょんと二つついたつぶらな瞳と視線が絡んだ。その愛らしい姿に、ヒメルは口元を綻ばせる。
「おはよう、イナバさん」
そう呼びかけられても返事をしないその小さな生き物は、ヒメルが飼っている黒うさぎの“イナバさん”だ。“イナバ探偵事務所”という名の由来はこの子から。無垢なまんまるの瞳でヒメルを見上げてくる様がどこか要を彷彿とさせて、日々の生活の癒しとなっている。
「ご飯遅くなったな」
指を差し出せば、イナバさんはすんすんと鼻を鳴らしながら近付いてくる。その鼻先をチョンと突いたあと、ヒメルは朝食を用意するため屈んでいた体を起こし、台所へと向かおうとして――。
「俺っちもお腹空いたァ〜」
背後からずしりとのしかかってきた重みに足を止めた。
「……天城」
イナバさんに話しかけていた時よりもワントーン低い声が出る。この男はいつの間に起きてきたのだろうか。ほんの少し前までよく眠っていたはずなのに。
天城はヒメルの首筋にぐりぐりと額を押し付ける。
「起きたンだったら俺っちも起こしてくれよォ。目ェ覚めたらメルメルが隣にいないって寂しいっしょ?」
まるで子供のように拗ねた口調と仕草でそんな不満を述べながらも、全く子供ではないふしだらな手はヒメルのシャツの襟元から服の中へと侵入し、無遠慮に胸元を撫で始める。それをピシャリと叩き落とそうとするも、その手もあっさり捕らえられてぎゅっと硬い胸に抱き寄せられてしまった。
ヒメルを逃すまいときつくしめ付ける逞しい腕。
「ちょっと、天城、」
ヒメルは抗議の声を上げようするが、そこでふと、“ある事件”のことを思い出して動きを止めた。
――その事件とは、ヒメルが初めて怪盗の捜査に参加して、あと少しのところで取り逃した事件。ヒメルの元に怪盗から挑戦状が届くきっかけとなった、“あの事件”だ。
帝大時代の同期・七種茨から捜査協力依頼を受けたヒメルは、ターゲットとなった富豪の屋敷で怪盗をあと一歩のところまで追い詰めながらも、最後には取り逃してしまった。それがヒメルと怪盗が対峙した最初の事件であったのだが、実はこの事件は、単に“逃してしまいました”で片付けられるようなものではなかった。怪盗を追う最中、一つ大きなトラブルが起こったのだ。
トラブルを起こしたのは怪盗でもヒメルでもない。当時怪盗のターゲットとなっていた富豪だ。これがなかなか過激な男で、警察だけでは信用ならないと、怪盗を捕らえるためにこっそり自らの屋敷に仕掛けを施していたのだ。その仕掛けとは――爆薬だ。
警察すら存在を知らされていなかったそれを、当然ヒメルや怪盗が知る由もなく。怪盗が裏口から逃げようというところで、富豪の男は導火線に火を付けた。その近くに、怪盗を追っていたヒメルがいたにも関わらず。
耳をつんざく爆音と、体に吹き付ける熱風、四肢にぶつかる煉瓦作りの塀の破片。
一瞬何が起こったのか理解できずにいたヒメルであったが、気付いた時にはヒメルは地面に伏せていた。その背中に覆い被さるように……ヒメルを爆発から庇うように、誰かがヒメルを抱えて蹲っている。
『……?』
状況を飲み込めないヒメルが背後を振り返ろうとするのを、その“誰か”はヒメルを抱きしめる腕に力を込めることで制した。吹き荒れる爆風と炎の中、硬い腕が絶対に離すまいとヒメルの体を押さえ込む。
そうして漸く爆発が収まった頃に、その“誰か”はヒメルに顔を見せないまま走り去っていった。慌てて体を起こしたヒメルが見ることが出来たのは、夜の闇に消えていく後ろ姿だけ。
けれども、その後ろ姿だけで、相手が誰であるかは分かった。何故ならそれは、爆発の直前までヒメルが追いかけていた“怪盗”の背中だったから。
ヒメルが初めて怪盗Rと相対することになった事件で、ヒメルはRに命を救われたのだ。
「……」
そんな稀有な経験をしたせいだろうか。
背後から抱きしめられると、あの時のことを思い出す。ヒメルの体をすっぽり覆ってしまう広い胸、硬い腕。その広さも力強さも、ヒメルは鮮明に覚えているから。
「……メルメル?」
そう呼びかけられて、ヒメルは自身の体に回る天城の手の甲を軽く抓った。「いて」なんて、大して痛くもないだろうに天城は小さく漏らして体を離す。“離れろ”というヒメルの無言のメッセージは伝わったらしい。
「……人間の食事はありませんので、お腹が空いたならシナモンへどうぞ」
「え〜」
不満を口にしながらも、素直に床に散らばった服を拾い始める天城に背を向けて、ヒメルはひっそりと溜息を吐いた。この男には、あまり抱きしめられたくはない。気付かなくてもいいことに気付いてしまいそうで。
(この男は、椎名の店に入り浸る無職のちゃらんぽらん。それ以上でも以下でもない)
まさかこいつの腕が、あの時の怪盗の腕に似ているだなんてそんなこと――。
ヒメルが軽く頭を振って妙な考えを振り払おうとしていると、不意に天城に呼びかけられた。
「メルメルさぁ」
振り向いた先に立つ天城は、シャツとスラックスとサスペンダーを身につけたいつもの出立だ。少し髪に残った寝癖くらいは、あとで整えてやろうか。
無言で続きを促すヒメルに、天城は特に表情もなくこんなことを聞いてくる。
「もう怪盗を追わないとか言わねェよな?」
「……」
彼がそんなことを言うのは、昨日の意気消沈したヒメルの姿を見たからだろう。この一件でヒメルがすっかりやる気を無くしてしまって、怪盗の事件からは手を引くと言い出すのではないかと気にしていると見える。何故彼がそれを気にするのかは知らないけれど。
「……言いませんよ、そんなこと」
ヒメルは逡巡の後そう答えた。確かに昨日は少しだけ卑屈になっていたけれど、一晩経って頭が冷えた。何より、負けっぱなしなど性に合わない。
「怪盗は俺が捕まえます。……あいつが喧嘩を売ってくる限り」
「……そ」
何を安心したのか、天城は短くそう言って笑った。全く、何を考えているのだか。本当によく分からない男。そんな男と、付き合ってもないのに寝ているヒメルも大概だが。
「メルメルも着替えて早く飯行こうぜ〜」
「イナバさんのご飯が先です」
「……なんか俺っちこのうさちゃんに嫌われてンだよなァ……なんで?」
「知りませんよ。不審者だと思われているのでは?」
そんなたわいないやりとりを交わしながら、ヒメルはそれ以上天城について考えることはやめた。この男のことはよく分からないが、“深く立ち入りすぎてはいけない男”だということだけは分かるから。