信じるは、偶像か意志か「……なんだ、ここは」
白いタイルが続き、薄暗い妙な通路。
いつの間にか見覚えのない場所に立っていたフェンリッヒは、怪訝そうに顔を顰めた。
(夢でも見ているのか…?……そういえば、ここに来る前、オレは何を…?)
記憶の全てがあやふや。
痛む頭を押さえて視線を前に向けると、そこには張り紙があった。
「『8番出口』…だと?」
紙に書いてあったのは、ここは『8番出口』と呼ばれる場所らしく、出るためには異変を感じた瞬間に引き返すこと。
そして8番出口に辿り着けた者だけが出られるらしい。
「くだらん…幻術の類か…?…どっちにしろ、進んでいくしかないのか」
幻術などへの耐性は、フェンリッヒは全くない。無理矢理破ることも出来ず、出るためには現状従って出るしかない。
ため息をひとつ零し、フェンリッヒはとりあえず進んだ。
大層な説明を掲げても、結局は間違い探し。観察眼と洞察力が優れているフェンリッヒには子供のままごとのような難易度。
そうして次々進み、ようやく次が最後。
足を踏み出した時、全ての電気が消えた。
(フン…最後まで子供騙しだな)
踵を返すと、電気が全てついていく。
その時。カツン、と別の靴音がした。
「──フェンリッヒ」
ドクン、と。その声に心臓が脈を打つ。
顔は見ていない。だがその声を間違いなどするはずもなく。
「久しいな。元気なようで何よりだ」
見るな、など無理な話だった。
フェンリッヒが振り返った先には。
「……閣、…下」
長い前髪で影のかかる目が妖しく細まり、弧を描く口から長い牙が見える。
黒いマントと白いスカーフがふわりと揺れ、黄土色のベストや、赤色のボタンなどが映える、威厳ある姿。
いつしか忠誠を誓った主の姿が、そこに在った。
無意識にそちらへ足を踏み出そうとした瞬間に、頭の中に浮かび上がる。
─異変を見つけたら、引き返すこと。
それはここの唯一で絶対のルール。
この姿の主はもういない。つまりこれは異変。引き返さねばならないのに、一度振り返った足が中々引き返してはくれなかった。
「どうした?黙り込んで。…いや、お前は元々寡黙な男であったな。何も言葉が出んか?」
「…貴方、は…本物ではない…でしょう」
「どうだかな。ここは8番出口。迷いと感情の渦巻く負の迷宮。お前の目に見えているものも、お前の信じるものも真実と言える」
偽物のクセに。まるで本物の主かのように振る舞う目の前にいる暴君。
だが“異変”だと言うのに、フェンリッヒの感情が言うことを聞いてくれない。
(落ち着け…これは“異変”だ。引き返せばいいだけの話…)
「迷っているのか?らしくもない」
喋りながら、近付いて来る。
そのスピードはゆっくりだが、フェンリッヒから冷静さを失わせるには十分だった。
「引き返すか、“こちら側”に来るか─答えは決まっておろう?何を迷う?」
(迷う…?そうだ、オレは一体何を迷っている…?)
逃げる、という選択肢がじわじわとフェンリッヒの頭の中から消えていく。
それが手に取るようにわかった暴君は、妖しい笑みで畳み掛ける。
「お前は、どうするのだ?」
「くっ……」
「理想か現実か、悩むであろうな。…クク。いっそ、甘い理想へ縋るのも手だと思わんか?」
スッ、と手が差し出される。
「……っ」
「─フェンリッヒ」
伸ばされた手から、目が離せない。
理想へ縋る?今を捨てる?
それも…選択肢のひとつ?
(オレは…この手を…)
『──っ!聞いておるのか!フェンリッヒ!』
「ッ!?」
ゆっくりと暴君の手を取ろうとしたフェンリッヒの動きが止まった。
「閣下…!?」
『いつまで寝ておるのだ!目が覚めないなどは許さぬぞ!!』
「…これは、驚いたな。干渉して来るとは思わなかったぞ」
突如空間に響いた、今の主の声。
こちらもフェンリッヒが聞き間違えるはずなどない。
ふぅ、と暴君は肩を竦めながらため息をついた。
「…時間切れ、という訳か。して、お前の答えはどうなのだ?」
「…わたくしは─いや、オレは、オレの主を信じることにする」
「そうか。惜しかったな」
「全くだ。連れていかれる所だった」
「フェンリッヒ」
逆方向へ身体を向けるフェンリッヒに、暴君が声をかけた。
邪魔をされたというのに、その顔は穏やかだ。
「─また、相見えると良いな」
「…あくまでオレの主がその姿になれば、の話だ。アンタともう一回会うのはごめんだな」
目が変わったフェンリッヒは、微笑を浮かべるとそのまま踵を返して駆け出した。
そこに、さっきまで迷っていた気持ちの欠片も見られない。
真っ直ぐに駆けていくと、目の前に眩い光があった。そこへ手を伸ばし、視界が明かりに包まれる。
薄らと開けた視界には、常なら見ないくらいに焦った主の顔が見えた。
「フェンリッヒ…!!」
「ヴァル様…」
「目が覚めた…!アルティナちゃーん!!フェンリっち、目ぇ覚ましたわよー!!」
「ここは…」
「フェンリっぢざ〜〜ん!!心配じだデズ〜〜!!!」
「うわ、何だデスコ!放せ汚いだろうが!」
驚いたフーカが部屋の外へ飛び出して行き、デスコが泣いてぐしゃぐしゃの顔でフェンリッヒにしがみついた。
いつもなら殴ってでも引き剥がすのだが、今のフェンリッヒにそんな体力もなかった。
「ま、まさか…自分で抜け出したのか?」
「抜け出した…?何の話だ、小僧」
精神的に疲れたからか、普段の数倍はキツめの目付きでエミーゼルを見る。その視線に萎縮したエミーゼルとフェンリッヒの間に、ヴァルバトーゼが割って入った。
「覚えておらぬのか。お前は戦闘中に敵の幻術にかかって倒れただろう」
「…そう。それで倒れたお前をヴァルバトーゼがここまで運んできたってこと」
「お前は、幻術の類に耐性がないであろう。なのに、ひとりでに起きたから小僧が驚いておった、という訳だ」
「ひとりでに、ではありませんよ。…ヴァル様のお声が聞こえたから、わたくしはここまで帰ることが出来たのです」
「き、聞こえておったのか…」
「ええ、はっきりと。…あれがなければ、わたくしは幻術の世界へ取り込まれていたでしょう。ありがとうございます、閣下。また、命を助けて頂きましたね」
ふふ、と満足そうに笑うフェンリッヒに、ヴァルバトーゼは微妙な顔を返す他出来なかった。
(そうだ、この方は…理想か現実かなどと言う方では無い。偶像に縋るか、意志を貫くか…そう考えるお方だ。そして、必ず意志をお選びになられる。…さっきのとは似ても似つかん。動揺したとはいえ、我ながら情けない)
「誰が呼びかけても応答がないと聞いたから叫んだが…杞憂だったか」
「ええ。あなた様の声でしたら、わたくしへ届きますよ。─それこそ幻術の中にでも」
「なら、共に居れば連れていかれる心配もないな。…心配をかけるシモベだ」
「情けない限りでございます」
「仕方あるまい。また取り込まれたら嫌でも引き摺り出される覚悟は決めておくが良い」
「…はい。我が主の御心のままに」
手を握り合い、改めてまた少し互いを理解した、と。そう言いたげな笑みを浮かべるのであった。
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闇の中で動く影。
クク、と喉の奥を鳴らして笑う。
「残念だ。だが、お前の主の声が通らなかったら─お前は果たして、どういう末路を選んだのか。…そんなことを言うのは、野暮だな」
踵を返し、暴君は闇の中へと溶けていった。
それが本当にそこに居たのか、フェンリッヒの深層心理が見せた幻なのか。
──それは、彼らのみぞ知る。