欲望(ねがい)と毒一滴【欲望(ねがい)と毒一滴】
欲しいものほど手に入らない。得られぬと思うと一層欲しくなる。それが人間という生き物の性(さが)であるのだろう。人の求めるもの。それは例えば富、例えば地位。あるいは難攻不落の誰かであったりする。
手に入れたい、そんな強い想いはか弱きはずの人間を突き動かし、時として驚くようなことまでさせてのける。そのパワーは俺たち悪魔の想像を遥か超えていく。絆だとか信頼だとか……そんなものにまで可能性を見出している我が主人はさておき、俺も人間の貪欲さにはある種の可能性を感じなくもない。
ところでお前は知っているか。人の欲望を叶える「悪魔」の存在を。どうせ縋るならばお祈り聞き流しの神様よりも、是非とも悪魔にするが良い。それなりの対価を支払うことにはなるだろうが、きっちりと契約履行を果たすと保証しよう。
まあ、それが命を投げ打ってでも為したい欲望であるのなら、の話だが。
◆
「お前の欲望(ねがい)はなんだ」
十五世紀の人間界。人による近代科学会得の先駆け時代。それでも市井の人々の間では未だ魔法が信じられ、錬金術師、魔女の類が存在する中世ヨーロッパ。そこに、俺は一人降り立った。
「好きな人がいるんだ。結婚を考えるくらいに、愛する人が」
「まさか悪魔を喚び出しておいて、恋のクピドになれなんて無茶、言わないよな?」
目の前で痩身の青年は俯き、ぼそぼそと語った。くだらない案件を引いてしまった、そんな予感に早くも苛立ってこれ見よがしに靴先を鳴らす。
一千幾年も生きていれば何となく人間を揶揄いたくなる……そんなこともあるだろう。青年の喚び声に応じたのは、要は、暇つぶしだった。通常、よほど高貴な錬金術師あるいは王家による召喚でもない限り、それにわざわざ応じてやる悪魔は少ない。その辺の人間が対価として支払えるものなど、たかが知れているからだ。
「それだったらクピドに祈るさ」
「じゃあなんだ。あまりつまらんことを言うのなら──」
「恋人を殺したいんだ」
発された言葉は壁の染みに溶けていく。青年の瞳からは光が消えている訳でも、無気力に支配されている訳でもなかった。弱々しくはあったが、彼は確かに正気でそれを口にした。
「プロポーズを断られてさ」
こざっぱりとしたこの部屋に特筆すべきものと言えば、テーブルの上の枯れた花束だけだろう。鮮やかだったのであろう花は変色し、ひしゃげている。
「僕には彼女しかなかった。それなのに、」
声色に滲むのは怒り、憎しみ、絶望、そのどれともつかない。そこから青年は、淡々と彼女との日々を語っていった。
「どうしても僕のものにならないならせめて、誰のものにもならないようにして欲しい……そう願って、祈って、君を喚んだんだ」
「それが『殺したい』に繋がるのか?」
「悪魔には分からないかもしれないけど」
そう言って青年は力無く笑う。
実につまらない理屈だと思った。それでも人が邪悪を求めるならば、力を貸そう。それが悪魔の本懐だ。
手を差し伸べると青年の青い瞳は初めて俺を見た。手を取り、互いの手首に契りの紋章が刻まれると鈍い痛みが走る。しかしその痕跡は瞬間、消え失せ、此処に契りは結ばれた。
「その女、ワインは飲むのか?」
「あまり飲まないね。粗悪なワインよりはエールが好きだ。僕が知る限りは、だけど」
「随分控えめな物言いじゃないか。そこまで愛する恋人……いや、元恋人の趣味趣向を知らん訳ではあるまい」
「事実、知らないことがあったから振られたんだろ、僕は」
自嘲する青年に何処か清々しさすら垣間見えたのが不思議だった。
「ワインに仕込むのが常套手段ではあるが……この際なんでも良いだろう。適当なものに混ぜると良い」
ことり、ラベルの無い瓶を机上に置くと青年はそれを手に取った。小瓶に閉じ込められた液体を窓際の陽にかざしてじっと見つめると、意を決したように俺に問う。
「何の毒?」
「人間の学者がVeninum Lupinum(狼の毒)と呼ぶもの……ただの毒じゃない。毒と毒を掛け合わせた、お前の望む猛毒さ。トリカブト、イチイの液果、生石灰、ヒ素、ビターアーモンド、硝子の粉末……最後に隠し味の蜂蜜を溶かして完成だ」
「猛毒、か……適当な毒なら薬局(アポセカリー)に売ってるんだけどね」
「近頃の人間は随分と毒にご執心のようで。巷では毒殺が絶えんではないか」
この頃、人間界には毒を扱う技術が普及し、危うい足取りを見せていた。街ではそれが平然と販売され人々も良からぬ理由で買い求めていたが、俺にはその様が滑稽でならなかった。人間の進化、発展は目覚ましい。けれど時折その在り方が異常にも思えてしまう。事実、ルネサンス期における毒殺は教皇による暗殺をはじめ、各所でまさに大流行していたと言っても過言ではない。
その裏には悪魔の介入も少なからずあったのだろうが……人間という生き物は時に悪意を隠す素振りもなく滲ませ、それを正当化する。人が畏れを抱かなくなるのも、科学技術の発展次第では……そんな危惧をぼんやりと胸に抱いた。
「けど、驚いたや。具体的な調合まで教えてくれるなんて。気前が良いんだ、悪魔って」
「サービスさ、尊い命の最期だからな」
青年の背後にまわり込み、俺はそっと背中を押してやる。さあ、覚悟は良いか。お前はあと一歩を踏み出すだけだ。たった一滴、垂らすだけ。胸に渦巻く欲望を忘れなければ……この小瓶は必ずお前の力になる。
悪魔の囁き。それは人間に勇気を与え、あと一歩を踏み出させる魔法。見えない崖の上から愚者は幸せそうに落ちていく。人の堕落を俺は知った。為すべきことを為し、その場を後にしようとした時、青年は深い谷底から最後の言葉を投げ掛けた。
「毒を飲ませたい人、君にはいる?」
「いるものか。悪魔は人間のように何者かに執着したりしない」
「そっか。……執着ってさ、きっと、愛なんだよ」
愛だからって正しいとは限らないけれど、そう誰にともなく呟くと、青年は晴れやかな顔で礼を言った。その瞳には俺と同じ金色を宿して。
液体を首尾良く飲ませれば、愛する女とやらは死ぬのだろう。あるいは、死に至らなくとも青年がナイフのひとつでも忍ばせてとどめを刺すかもしれない。何にせよ、人間が一人死のうが二人死のうが、俺には関係のないことだ。無事に契約を果たした俺は、時空ゲートをくぐり、ようやく人間界を後にする。
くだらない。全くもって人間は愚かで、救いようがない。
対価として受け取った青年の寿命を口の中へと放り込む。咀嚼し、しばらく味わうと風船ガムのよう、膨らませた。
「たった百年足らずの魂、どんな味かと思ったが」
パチンと口元で風船を弾くと、味がしなくなるよりも先に道端へと吐き出した。
◆
グラスに口を付ける主人の所作に見惚れていた。品格漂う高貴なる我が主人。決して高価とは言えないその赤ワインも、不思議と上等に見えてくるというものだ。
唇が葡萄酒に濡れる、その寸前。主人はグラスを傾ける手を止め、低い声で俺の名を呼んだ。
「お前も懲りないな、フェンリッヒ。これで何度目だ? 血は飲まんと何度も言っているはずだが」
「貴方様に力を取り戻していただきたいという私の想いは変わりませんよ」
ワインへと仕込んだのは人間の血液たった一滴。それですら見透かすこの人は、血を絶てどやはり吸血鬼なのだと思い知らされる。
「……であれば、だ。お前が幾百、幾千回血を仕込もうとも……俺はその都度見破ってやろう」
悪びれもせず告げる俺に、主人は容易く赦しを与えた。この人はいつだってそうだ。俺の思うようにならない。次の一手さえも読めない。目が離せない。ああ、こういうところが一層俺を惹きつける。
傅くと、主人へと手を重ね、僅かな熱を感じとる。今、重ねられたこの手も次の瞬間、すり抜けて行くのだろう。
頭の片隅で、いつかの人間の愚かしさを思い出す。俺はかつて、この人を殺そうとして食事に毒を混ぜた。そして今、力を取り戻して貰おうと血を混ぜる。俺も所詮は愚か者、そういうことなのか。手に入らないものほど欲しくなるのは悪魔だって同じなのだろう。本当に、本当に馬鹿げた話だ。
「フェンリッヒ?」
ただの従者とただの主人。手袋越しに重ね合わせた手のひらが、酷く熱かった。
fin.