狂人身を滅ぼす程の恋を知っている。
藍にとってそれは僥倖であり祝福であった。
だが、一方で愛は知らない。
そも、人の愛の根幹となる家族愛を知らずにそだったのだ。実の両親は顔どころか名前もわからず、育ての両親は藍を金のなる木としか見なかった。
これは"同郷"であり極めて似た境遇でありながら、ガイアと根本的に異なる部分だといえよう。愛を知るがゆえに苦しんだガイアと知らないがゆえに歪な藍と、どちらが幸運なのかはわからないが。
ともかく、藍は根本的に愛というものが実感でわからず、書物からの知識的なことしか知らなかった。
それでも藍は己の人生を満ち足りていると感じていたから、愛がわからないことになんの不満も不安もなかったのだ。
愛をしらなくても、親切心、思いやり、友情、仲間意識といったものは家族以外の友人達との遊びや同僚達との切磋琢磨から知り学べたし、なんといっても璃月への帰属意識は誰よりも強いという自負があった。
何より藍にとって恋が、璃月七星凝光への恋こそが生きる意味となっていたから。
璃月人として生き、恋(凝光)のために命を燃やして、やがて燃え尽きて死ぬのだと、それが最高に幸せな人生だと藍は本気で思っていたのだ。
それは他者から見れば病的なほど酷く歪で(実際、"事件"の後に強制的にカウンセリングに放り込まれた)、そして時に恐ろしい程の無理解と断絶を産んだ。
恋に生きる藍は知らなかった。いや、愛を知らないゆえに分からなかったのだ。
恋と愛は、決定的に"違う"ということを。
恋とは異なり愛は双方向のもので…なにより人は己に向けられる愛をどこまでも求めてしまう、ということを。
「藍!!大丈、夫…みたいだな?」
ガイアは璃月の病院の一室に駆け込み、そこでシーツを畳んで片付けをしている藍をみて言葉の後ろが尻すぼみになった。
あれ?とガイアが首を傾げる中、藍は声でガイアだと判断してシーツを畳む手を止めた。
「うん?ガイアか?どうした、なにかあったか?」
「いや…お前が群玉閣から突き落とされて重傷だって空から聞いたんだが…」
「大げさだな。まあ、突き落とされたのは事実なんだが…凝光様のおかげで背中打ったくらいですんだからもう退院だ」
「あぁ、うん…元気そうでなによりだ、が…」
ガイアはごくごく平静そのものの藍の様子に、元気そうで安心したのを通り越して不安にかられた。
■□
藍を群玉閣から突き落としたその女は、六花(りっか)という名だった。
祖母が稲妻人であり、初孫の彼女は祖母から雪の異名を名にもらったと、いつかの雑談で聞いたと藍は記憶していた。
だが、藍にとって彼女の名前など些事であり、重要なのは藍にとって六花が凝光の側近の中で誰よりも信頼でき無条件で相談できる相手だということだった。
実際、藍と六花は仕事を含めよく話しているところを周囲に知られており、一時は恋仲なのではないかと噂されるほどだった。
もっとも、そんな噂は凝光配下で古参になればなるほど鼻で笑うようなありえない話だった。
なぜなら、藍と六花が恋をしているのはお互いではなく凝光だと、少し側にいれば明らかだったからだ。
とはいえ、じゃあ二人は恋敵かといえば全くそうではない。むしろ、凝光に恋をする者同士として互いに最高の信頼を置いていた。
たとえば、テイワット動乱の最終局面、璃月港防衛戦線で藍が視力を犠牲にしたあと、全盲というハンデを抱えながら凝光の護衛に復帰する過程で誰よりも世話を焼いたのは六花だった。
『藍以上に凝光様の側において安心な男はいない』
そう真顔で言い放つ彼女に、他の秘書や護衛たちはやれやれ、と肩をすくめるしなかった。
彼らのあり方は少し歪だったが、しかし魍魎跋扈する璃月の商業界および政界の中では絶対に裏切らない得難い味方であり、彼らの能力の高さも相まって凝光自身が二人を大層重用したので、まったく問題にならなかった。
彼らはこれから先もずっと、凝光の側で彼女に恋をしながら支えていくのだろうと、歴代の璃月七星を見守ってきた甘雨ですらそう思っていた。
その日、六花が空高くそびえる群玉閣の端から藍を突き落とすまでは。
(なぜ?)
その瞬間、藍の頭を占めたのはその言葉だった。
つい数分前、藍は六花に「凝光様のことで内密に話があるの。貴方にしか相談できない」と、震える声で耳打ちされた。
藍は余程の厄介ごとかと覚悟しながら先導されるまま群玉閣の建物裏側の外郭近くに立って、それでなにがあった?と六花に向けて口を開こうとした瞬間。
足払いをかけられると同時に肩を強く押され、後ろへ…はるか先の地面に向けて突き落とされた。
実のところ、単に落とされただけなら死ぬことはない。群玉閣に勤務する者は、必ず風の翼の装着を義務付けられる。例え内勤でもだ。場所が場所だけに、万が一の事故を防ぐために。
当然、藍も翼を身に着けていた。が、落とされた体勢が悪すぎて翼を開くことが出来なかった。
六花は藍のように軍属出身でこそないが凝光の護衛を務めるために有名な武人に弟子入りして体術をおさめ、大抵の男の護衛を投げ飛ばす強者だったから、藍を意図的にそういう体勢になるよう突き落としたのだろう。
つまり、打つ手なし。ほんの十数秒の後に、藍は地面にたたきつけられ潰れて死ぬだろう。
コンマ数秒でそれを認識した藍は、死の恐怖はさほど感じなかったが、ただ疑問だけが頭の中を駆け巡っていた。
なぜ、六花がこんな真似をしたのか、と。
六花は自分と同じように凝光に恋をし、心酔していた同志だ。藍を殺すメリットなどない、それどころか凝光の護衛や業務補助のルーチンに影響がでるから損しかないはずだ。
現在進行形で超高所から落ちながら、藍はそんなズレたことを考えていた。目が見えないゆえに恐怖を感じづらかったのか、それとも自分の命より明日以降の凝光のスケジュールを気にしたせいか。
だが、次の瞬間信じられないことが起こった。
離れていく群玉閣から六花の悲鳴が聞こえた、ような気がした瞬間、何かに腕を捕まれそしてガクン!!という衝撃と共に落下速度が弱まった。
誰かが群玉閣から飛び降りて藍の腕を掴み、風の翼を開いてくれたらしい。
肩が外れるかと思ったが助かったと、見えない藍は助けてくれた誰かに礼を言おうとして、聞こえてきた声に驚愕した。
「藍!意識はあるわね?!」
「っ?!!凝光様?!?!!」
「落下死したくなければ動かないで!翼の重量上限を超えてるんだから…!」
まさか主人である凝光が藍を助けに群玉閣から飛び降りるなど思ってもみなかったのだ。
さらに、藍が耳を澄ましてみれば、ピシ、ピキ、と金属にヒビが入る音が聞こえた。
凝光の風の翼が過負荷で壊れかけているのだ。
それを理解した瞬間、藍は叫んでいた。
「凝光様!手をお離しください!!」
「馬鹿を言うんじゃないわよ!なんのために飛び降りてきたと思ってるの!」
変なところで頓珍漢ね!と凝光は呆れた声を上げ、そして風の翼の様子と近くなってきた地面とを観察しながらいった。
「目測10メートル強、地面は土と芝生だからましね。藍、私の合図でシールドを展開して落下の衝撃を防ぎなさい。落ちる時貴方が下よ?私を殺さないで頂戴」
「…っ!俺の命に変えても必ず!」
翼が壊れる音、重力に引かれて落ちていく中、藍は凝光の合図とともにシールドを展開して凝光の手を引いて腕の中に抱き込み。
背中から全身にかけて地面に打ち付けられたあまりの痛みに、藍はそのまま失神した。
□■
一方その頃、群玉閣には珍しい客人が訪れていた。
「よぉ!凝光!あんたが定期会合すっぽかすなんて珍しいから、あたしの方から会いに来てやったぞ!勿論手ぶらじゃない、旅人のおかげで稲妻の良い酒造に繋ができてな、土産にあんたが好きそうな酒を…」
客人、北斗の言葉はそこで途切れた。
端的に言って、荒れていた。何がどうなっているのか北斗にはわからないが、書類やらなんやらで凝光の執務机の上も、その周囲の床も、ひょっとしたら座っている凝光の膝上すらぐしゃぐしゃだった。
こんな様子は北斗すら初めて見る。流石に心配になって、北斗は慎重に歩き寄りながら尋ねた。
「なんだ、本当にどうしたんだ?」
「北斗、会合に出なかったのは悪かったわ。でも今、本当にそれどころじゃないのよ。最優先事項じゃないなら、日を改めて頂戴」
「…あんたの腹心の中の腹心が"やらかした"のは聞いてたが、そこまでか」
「説明する手間が省けてよかったわ。そのせいで明日のスケジュールすら立たないのよ」
「珍しいこともあるもんだ。あんたが"読み違える"なんてな」
「おかげさまで、自信喪失している所よ」
■□
『藍が恐ろしくなったのよ』
千岩軍管理下の独房で、六花は動機についてそう答えた。
『あの男はおかしいわ…狂ってる…あんなにすべてを捧げるほどの恋をして、何も見返りを求めないなんておかしい。いえ、見返りどころじゃないわ、藍は究極凝光様になんの意識が向けられなくてもかまわないのよ。ただ自分が恋をしていたいだけだなんて!おかしいわ、おかしいでしょう?!私と藍は同じように凝光様に恋をしていると思っていたけれど、違ったのよ。私は凝光様に気に入られたい、麗しいお声でお言葉を頂きたいし、美しい瞳に見つめられたい…!恋い慕う相手に自分を見てほしいのは当然でしょう?!それなのに…藍はそれを本気でいらないといった。ありえないわ!人として破綻してる!!あんな狂人、凝光様のお側においていたら危険よ!!!だから殺すと決めたのよ!!凝光様のために!!!』
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あとがき
藍→愛を知らず、恋だけで生きる男。それも片思いの恋に生きてるので、凝光に恋をしてほしいわけでもなければ彼女の愛がほしいわけでもない。ただ、己が凝光に恋をしていたいだけ。そのためにすべて捨てて凝光に尽くす男。ある意味一番の狂人。
凝光→愛も恋も理解する気はなく、すべては自分の手駒にすぎない女。これまで他人の愛や恋をすべて正確に読み商戦に利用してきたある意味人でなしの才女。今回六花のことを読み間違え、そのせいで藍を失いかけて初めて自信喪失した。
六花→愛も恋もごっちゃにして狂った女。だが、そんな彼女のタガを外させたのは藍なのである意味被害者で加害者。
実は藍はガイアやタルタリヤより数倍ヤベー奴で凝光も同じくらいヤベー奴で、3人の中ではまだまともだった六花が板挟みで二人を理解できず狂った、のが正しいかもしれない。
このあと、北斗姐さんとガイアと旅人とその周囲の仲間(カーンルイア繋がりでダインとか、璃月関係で甘雨や刻晴、鍾離先生まで)総動員で緊急会議開くレベル。
ガイア「そこまで拗らせてるとは思ってなかった(顔面蒼白)」
タルタリヤ「まじで言ってんの?ヤバい狂人じゃん(ドン引き)」
空「………(ガイアとタルタリヤに言われたらお終いだなと思ってる)」
ダイン「……(藍は唯一普通に生きられるカーンルイア人だと思ってたのでショック)」