『EVOKE』忘れかけていた記憶の欠片がふとした瞬間、何気ないことで喚起される。
アルバムのページが独りでに捲られていくように。無数の星が一斉に瞬くように。
自分の中では遥か彼方にあって、もう届くまいと思い込んでいるものでも、ちょっとしたトリガーさえあれば案外簡単に呼び起こせるものだ。その点、人間の脳はよく出来ている。
「あ」
ぽろ、と手からペンが零れ落ちた。
先程から上手く力が伝わらず、そろそろ落っことしそうだと思っていた矢先の出来事だった。空調はきいているはずなのに指先は一向に温かくならない。この季節の嫌なところだ。
反動に従ってコロコロと床を転がったそれは、まるで「拾ってください」と言わんばかりに誰かの足元で動きを止めた。よく磨かれた真っ黒な爪先から視線を上げると、いつの間に来たのかクロノが立っている。どれだけ静かに入ってきたとしても扉の開閉音くらいはしたはずだが、今の今までまったく気がつかずにいたらしい。いるなら声くらいかけてくれればいいのに。
「ほら」
「ありがと」
"持つ部分"をこちら側に向けて、至極丁寧に渡されたそれをしっかりと受け取ったはずなのに、上手く力が入らずまた落としかける。
「っと……ごめん」
俺の指先をすり抜けたボールペンは咄嗟に差し出されたクロノの手に収まったことで二度目の落下を免れた。
ここまで嫌われると「私、クロノさんの方がいいわ」と言われている気分になる。面白くない。相手はたかだかペンじゃないかと思うかもしれないけれど、譜面に書き込みをする時にいつも使っているわりと愛着のあるペンなのだ。
ありがと、ともう一度お礼を言って手を引こうとした……が、ぐっと押し止められて叶わない。俺の指先からクロノの手が離れないのだ。一体何事、と思わず顔を二度見する。
「えーっと……クロノくん?」
「冷えてる」
「あぁ、うん……」
「だから力が入らないんだろう」
クロノはコートのポケットをゴソゴソと漁って何かを取りだし、俺に突き出した。
「やる」
「え」
「少しはマシなはずだ」
手渡されたのは黒いラベルの缶コーヒーだった。
「でもお前これ、自分のじゃ」
「いいから受け取れ。あとこれも」
ちゃんと持っておけと半ば押しつけられるようにして差し出されたもう一つの温い塊。今度はホッカイロだ。
「あったか」
「まったく……学習しないなお前は」
「え?」
「冷え性なんだから今の季節はいつも以上に気を配れ。前にも伝えたはずだが?」
眉を顰めながらそう言われ、首を捻る。前。前とは。
「覚えていないのか」
「いや。……そこまで出かかってる」
「嘘だな」
「ほんとほんと!待ってちゃんと思い出すから。えーっと……」
嘘だった。
けれどそうでも言わなければ今は十五度くらいの角度の眉が更に吊り上がるに決まっているので、必死に記憶を手繰り寄せる。頭を抱える俺を見て呆れたようにため息をついたクロノは、"仕方ないからヒントをやる"と言わんばかりに口を開いた。
「あの時は善意で渡したコーヒーを"好みじゃない"と撥ねつけられてキレそうになった」
「……あぁ!」
「思い出したか」
「思い出した。デビューしてまだ一年たってない頃だろ」
きっかけさえ掴んでしまえばあとは簡単だ。初対面で見事クロノのド地雷を踏み抜いた俺が、まだ絶対零度の視線を浴びていた頃の話。
ちょうど今くらいの季節、あの時も今と同じように、悴んだ指先からペンが逃げていったのだった。
「すんごい仏頂面で缶コーヒーくれたよな。しかも超渋々」
「仕方ないだろう。まだ、あの頃は」
「そーな。あん時のお前にめちゃくちゃいい笑顔されたら逆にこえーもん」
"好みじゃない"なんて言ったのは素直に礼を伝えるのが照れくさかったからだ。その時クロノが持っていたコーヒーは偶然にも甘味が強い商品で、それがいい理由付けになったというのもある。
「結局あのコーヒーはどうしたんだ?」
「全部飲んだ」
「……そうか」
なんでもないように受け取ってくれればいいものを、少し間を空けるからむず痒い。
いつものように"お前が?"とか"意外だな"とか嫌味っぽく言えっての。そしたらこっちだって返しに困らなくて済むのに。
「あの後ドアがぶっ壊れるんじゃねーかってくらいの勢いで出てったよな、お前」
「そうだったか?」
「いやちゃんと覚えてるからね俺!"キレそうになった"ってより完全にキレてたし」
「あんなのキレたうちに入らない」
「あれで!?」
「顔面に空き缶を投げつけられなかっただけありがたく思え」
「コワ」
いつものようにくだらないやり取りをしながらクロノとも随分長い付き合いになったな、と思う。"ルビレのベーシスト"になってから同じだけの時間を共有しているのだから、当然ではあるが。
出会った時。それから間もなく。いや、たった一年前まで。
こんな風に言葉を交わせる日がくるとは思ってもいなかった。最悪、交わせなくてもいいと思っていた。"音"さえ成り立っていれば、それ以上のものは何も。
けれども今、この瞬間を"楽しい"と感じている以上は感謝しなければならないだろう。
顔を合わせれば怒鳴りあって、胸ぐらを掴まれて、鍋敷きにされそうになって……時には後戻りして、紆余曲折ありながら、それでも一歩ずつ積み重ねてきたコイツとの時間に。
出会い方のせいで遠回りした時間は他のどのメンバーよりも長い。それでも結局はいい方向へ、いい方向へと前進を繰り返してきたのだと強く思う。あの時とまったく同じシチュエーションだからこそ、余計に。
クロノの横顔を見ながら過去に浸っていると、不意にその口角が上がった。
「なによ」
「いや?今の俺なら、あの憎ったらしい返事がお前なりの"照れ隠し"だと理解してやれると思って」
「……ハァッ!?」
「違うのか」
「違ッ……!ちが……わ、ない。……かも」
ここで強がったら逆にからかわれる気がして少し目線を逸らしつつ、尻すぼみになりながら素直に(当社比)認めると、ふ、と勝ち誇ったような笑みを浮かべられる。……くそ。むかつく。
「これ借りパクしてやろ」
「別に構わないぞ。予備ならいくらでもある」
「お前のポケットどーなってんの……」
「アカネさんも防寒意識が低いからな。常に携帯するようにしているんだ」
「あぁ……なんか納得」
「お前たち、どうしたんだ?」
スケジュールの関係で現場に同行できなかった今日。
移動時間の合間に顔を見るくらいはできそうだと早足で控え室に向かうと、アカネとハイジが廊下に突っ立っているのを見つけた。冷えるんだからさっさと中に入ればいいのに。それとも何か、入れない理由でもあるんだろうか。
後ろから声をかけると、揃って"シー"と人差し指をたてられ首を傾げる。
「いい雰囲気だから入りづらくてさ」
「は?」
「覗いてみてください」
扉の明かり窓からそっと中の様子を窺うと、ルビレのギタリストとベーシストが何やら話し込んでいた。
椅子に腰かけた少し猫背なマシロと、その横にピンと背筋を伸ばして立つクロノ。
髪型や図体に少し変化が見られる程度で二人の後ろ姿はあの頃とちっとも変わらない。けれどもまともなコミュニケーションといえば互いに音を鳴らすことしか知らなかった凸凹コンビが、今では"普通に"会話をしている。たとえ、その腕の中に愛器がなくとも。
そんな二人の姿にルビレとして積み重ねてきた時間の密度とそれに伴う確かな成長を感じて、なんだか。
「なに巌原さん。もしかして感動してんの?」
「いや……うん」
「"うん"て」
「だってあのクロノとマシロだぞ……?」
感慨深くなって言うと、アカネに"父親かよ"と笑われた。
「でも、気持ちはわかります。お二人とも内面が変化したというよりは、本音を言葉にする回数を増やしただけでしょうけど」
「そのまま口にだしゃいーのにな。最初から音は素直だったんだから」
「へぇ?随分他人事みたいに言うじゃないか」
「……いらねーこと言った。今のナシ」
"これ以上突っ込んでくれるな"
プイとそっぽを向いたアカネにまた笑いが込み上げてくる。
「なにニヤニヤしてんだよ」
「なんでもない。さて、俺はそろそろ戻るからしっかりやれよ。あと風邪ひかないように」
「誤魔化した」
「巌原さんもちゃんと温かくしてくださいね!」
後ろから追いかけてきたハイジの声に手をあげて応える。
"手がかかるほどかわいい"とは、きっとこういうことを言うのだ。