オレにこだわりは無えんだが「よお、今帰ったぜ」
「お疲れ様だったね、レノ。謀略の世界はどうだった?」
「スーツに眼鏡か。なかなか洒落た格好だな!」
久々に帰還した義勇軍本部。仲間たちがわいわいと集まる中、レノは少し離れたところから呆然と自分を見つめるグール=ヴールと目が合った。
――あ、やべえ、旦那が固まってんな。
その姿を見て、レノはようやく「あの時」のことを思い出した。
***
「――レノ、そろそろ起きた方がいいのではないか? 既に日は昇ったようだが」
「……ん、もうそんな時間か」
「今日は君が朝食の当番だと聞いている」
「ああ、もうじき起きるさ。……心配すんなよ、『旦那』」
レノがそう呼ぶ度、グール=ヴールは少しむず痒いような気持ちになる。こんな風に呼ばれるようになった切っ掛けはほんの数日前、レノにはじめてカードゲームとやらを教えられた時だったか。たどたどしくカードを切った自分に呆れるかと思いきや、勝負を終えたレノはそれは穏やかな表情で、親しみと敬愛に満ちた眼差しを向けて自分を『旦那』と呼んだのだ。「初めてにしちゃ上出来だ。筋も悪くねえ」という褒め言葉とともに。
幾度かの伸びとあくびを伴って、レノが身体を起こす。そうやって起き上がるまでには幾らか時間を要したが、さすが身づくろいと身支度は早い。寝ているところを戦闘に駆り出されたり、起きてすぐに出発することも旅のなかではしばしばある。衣類を身につけたり歯を磨いたりという基本的な所作を手早く済ませ、レノは寝癖の付いた髪をそのままに手櫛で簡単に纏めると、肩の辺りで無造作に一つ結びにした。
「髪はそれでいいのか?」
レノの腰まである長い髪は櫛も通されず、ところどころ絡まったままだ。
「いいさ、面倒くせぇ」
「折角、綺麗な髪なのに絡ませたままにしているのは勿体ないのではないか?」
「切るのも面倒だから伸ばしっぱなしにしてるだけさ。こだわりがある訳でもねぇよ」
「しかし……」
「そんなに気になるなら、アンタが梳いて結ってくれればいいじゃねぇか」
「……私は、……」
グール=ヴールはわかりやすく動揺した。
「……私の手からは毒と呪いが発せられる。私が近づくだけで、……弱い花などは、枯れてしまう」
「あー、なんかそんなこと言ってたな? だから寝る時も手袋は外さねぇし、食事の支度や洗濯も手伝えねぇ、とか」
「そういった分担が出来ないのは非常に申し訳ないと思っているが……」
「分担なんか気にすんな。出来るヤツがやりゃあいいんだ。その代わりにあまり眠らなくても大丈夫だとか言って夜の見張りは大抵アンタがやってんじゃねぇか。眠らないにしても、もうちっと身体は休めた方がいいと思うぜ」
「そういう訳にはいかないだろう。雑事は全て任せてしまっているのだ。私にできる仕事があればやらせてほしい」
「全く、旦那は義理堅てぇな。なら尚更ちょうどいい、今オレの髪の手入れをしてくれよ」
「……花も、枯らす手だ」
「髪なんか痛覚もねぇし、触っても平気じゃねぇか?」
「私は生きている人間の髪に触ったことなど無いのだ。どうなってしまうか……」
「ま、気にすんなよ。触ってみてダメなら止めりゃあいいだろ?」
レノは一度髪を結んだリボンを無造作に外し、ベッドの縁に後ろ向きに胡坐をかいて座った。
戸惑いながらグール=ヴールは右手にヘアブラシを持ってその背後に立ち、豊かな髪にそっと触れる。絡まった髪はなかなかに手ごわそうだ。その髪の中程を左手で束ねて持ち、まずは毛先からそっと梳かそうとした。髪を握った掌が緊張に震える。慎重に、慎重に……。
――が。
左手に束ねた髪は、手にしたそこからはらりと全て切れてしまった。
「……あ、ああ……!」
悲鳴とも呻きともつかないその声にレノは異変に気付いて振り返り、目を丸くした。ゆっくりと顔を上げると、まさに泣き出さんばかりのグール=ヴール(とは言え、彼の表情は容易には判別できないので「そう感じた」だけだが)と、ばちんと目が合った。そしてたっぷり3秒。
「……クッ、はははははっ……!」
レノは腹を抱えて爆笑した。こんなに心から、屈託なく笑ったのはどのくらいぶりだろう。少なくとも故郷が滅びて一人放浪してからは、大声で笑うことなど一度もなかったのに。
「笑いごとではないだろう、……君の、髪が……」
「いいんだよ、どうせ邪魔だし痛んでたし、切るのも面倒だっただけだからな。手間が省けた」
「しかし私は、……取返しのつかないことを」
「つくぜ」
「何、……?」
「取返しなら幾らでもつく、って言ってんだぜ」
依然、左手に切れた銀糸の束を大事そうに握ったまま、グール=ヴールは僅かに首を傾げた。
「あのな、旦那。髪なんか生きてりゃまた伸びるんだぜ。人間、死んじまうこと以外で取返しのつかねぇことなんて、何ひとつねぇよ」
「……何ひとつ、か?」
「何ひとつだ」
レノは傍らに置いたままのリボンを手に取って、先程と同じように肩口で一つに束ねた。胸元ほどの長さで千切れた髪は、さっきよりすっかり軽くなった。
「ああ、丁度いい長さだ。手入れも楽になるな、悪くねぇ」
「……許して、くれるのか?」
「許すも何も、全然怒っちゃいねぇよ」
グール=ヴールは握り締めた左手を開いた。緊張のあまり染み出た強い瘴気に当てられ、僅かに変色した髪の束が、少し零れ落ちた。それを見て気づいたのだ。「レノの髪に拘っているのはレノではなく、他ならぬ自分自身なのだ」、と。ふふ、とちいさな笑みが漏れた。
「……取返しは、つくかね……?」
「平気さ、きっとまた伸びるぜ。嫌ってほどにな」
「そうか。それは、楽しみだ――」
***
「……ということが、あったのだが」
「よく覚えてんな旦那。オレは軽く忘れてたぜ」
「君の髪が元のように伸びたとき、私はとても嬉しかったのだ。……なのに、こんな」
「そりゃ悪かった」
謀略の世界に着いて早々、ダンテとかいう男に髪を切られた。
確かに手入れも碌にしない長髪は、あの世界では悪目立ちするだろう。スパイという仕事柄、周囲の人間とあまりかけ離れた容貌は良くない。勝手に髪を整えられたことも、スーツに眼鏡という恰好にも、何も疑問を持たず納得した。前髪をパッツンに切り揃えられた隊長よりはずっとマシだし、何なら黒の根源と戦っていた頃と同じくらいの長さだったので、特に違和感も無かった。むしろ、気に入ってすらいた。
……ついさっきまでは。
出迎えたグール=ヴールの表情には、覚えがあった。あの時、レノの髪を誤って瘴気で千切ってしまった時の、左手に髪の束を握ったまま呆然とこちらを見下ろしていたのと同じ顔だ。――ああ、やっぱりあの時の旦那は泣きそうな顔をしてたんだな、とレノは改めて確信した。自分の髪を自身の了解のもとで人に切らせた、というだけなのに、何故自分が説教をされているのか。解せない。
「平気さ、きっとまた伸びるぜ。嫌ってほどにな」
いつかと同じセリフを吐いた。取返しがつかない事なんて、人生には何もない。髪くらい、またゆっくり伸ばしていけばいいのだ。
「……次は、」
「ん?」
「次に君が髪を切るときは、必ず、私にやらせてくれないか」
グール=ヴールがそんなことを真剣に言うので、レノは思わず噴き出した。
人生に取返しがつかないことは何一つだってない。だがグール=ヴールの独占欲だけは、どうやら引き返せないところまで来ているらしかった。