夢だったらよかったのに 暁人には、繰り返し見る夢があった。
◇
カーテンの隙間から射しこむ夕日が、ワンルームアパートの白い壁を茜色に染めあげている。同僚からの飲みの誘いを断り、ひとり自室で夕飯を腹に詰めこんでいた暁人は、顔をあげてデジタル時計を確認した。
現在時刻は午後六時三十分。今朝確認したお天気アプリによれば、あと十分ほどで日没だ。
少しのんびりしすぎたらしいと、暁人は慌てて最後のからあげを口に放りこんだ。咀嚼する間にもダイニングテーブルを手早く片づけてゆき、口の中の鶏肉を完全に飲みこみきると同時に立ちあがる。すでに満杯になりかけているゴミ袋に、空になったからあげ弁当の容器と、使用済みの割り箸を押しこんだ。沈みゆく夕日と競いあうようにして、あらかじめ準備しておいた黒いジャケットに着がえ、お札で満杯のボディバッグを身に着ける。
最後に忘れ物がないかを再確認し、すべての準備を終えたところで、暁人はぴたりと動きを止めた。それまでの慌ただしさとは一転、部屋の隅に備え付けられているチェストへと、ゆっくりと歩み寄る。
暁人はそこに、木製のミニ仏壇を置いていた。アジトにあったような本格的なものではなく、位牌を安置するスペースに埃避けの囲いがついているだけの、三十センチ四方のとてもシンプルなものだ。
仏壇の前棚には、父と母、そして妹の写真が飾ってある。それから、くたびれきった黒いパスケースも。
そのひとつひとつに視線をおくりながら、暁人は意識して口角をあげた。ボディバッグのベルトを握りしめ、いつもと変わらない元気な挨拶をする。
「いってきます」
珍しく定時で仕事が終わった平日の夜には、こんなふうに、警察官よろしくパトロールに繰り出すのが、ここ最近の暁人のルーティンワークになっていた。泥酔して路上で眠りこける男から一反木綿を引きはがし、獲物を物色しているマレビトのコアを背後から砕いて、あちこちの路地裏にわだかまっている穢れを祓ってまわるのだ。
そして、仕事のない休日には、原因不明の怪奇現象に困り果て、藁にも縋る思いで依頼してきた人から詳しい話を聞きとりつつ、また別の依頼人へと解決した怪異を報告する。
得体の知れない恐怖と不安から解放されたからだろう。すっかり晴れやかな表情になった依頼人が深々と頭を下げた。そして、顔をあげるなり身を乗りだし、満面の笑みで暁人を見つめた。
「さすがKKさん。お噂どおりの凄腕ですね」
「ありがとうございます」
暁人は否定も謙遜もしなかった。ただ穏やかに微笑みながら、依頼人の尊敬の眼差しと、惜しみない賛辞を受け取った。〝彼〟が生きていた証、〝彼〟の功績を称える声を。
あまりにも淡白な反応だったからだろうか。依頼人は驚いたように小さく目を見開いたものの、すぐに笑顔に戻り、ふたたび大きく頭を下げた。
「また何かおかしなことが起こったときには、よろしくお願いしますね」
「はい」
暁人はすっと表情を引き締めた。あの夜に出会った彼と同じ、熟練の祓い屋の顔つきで、静かにうなずく。
「怪異が疑われる場合は、すぐにご連絡ください」
◇
たいていは、そのあたりで目が覚める。
いったいどこまでが夢で、どこまでが現実だったのか。激しく脈打つ心臓を抱えたまま、しばらく呆然と天井を見上げていた暁人は、やがて耳元で響く小さないびきに気づいた。少し遅れて、ごつごつと硬くて大きな熱源が、右腕にぴたりと触れていることにも。
独りで暮らしていたなら聞こえるはずのない誰かの呼吸音、感じるはずのない誰かの体温。ベッドが妙に狭苦しく思えるのは、わざわざベッドの左側に寄って寝転がり、その誰かと一枚のタオルケットを共有しているからだ。
「KK……」
暁人は寝返りを打ってうつ伏せになると、傍らの男に手を伸ばした。仰向けで眠る彼の肩にそろりと触れる。ほんの一瞬、いびきがやんだ。
またすぐに聞こえはじめた騒音にほっと胸を撫でおろしながら、暁人は寝汗で湿った彼の肩口に額をすりつけた。寝間着代わりのTシャツに鼻先が触れる。どうやらこちらが眠っているうちに一服してきたらしく、馴染んだ彼の体臭に混じって、かすかな煙草のにおいもした。
あれはすべて夢のなかだけの出来事だった。そう理解したとたん、鼻の奥がツンと痛んだ。ただでさえ不明瞭だった視界がさらにぼやけ、あっという間に歪んでゆく。頬に熱がこぼれた。
慌てて上体を起こしたものの、どうしてもそれ以上は離れがたく、暁人はKKのかたわらに背中を丸めて座りこんだ。ゆるやかに上下する彼の胸元に目を落とし、なんとか呼吸を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。それでも止まらない涙を、何度も何度も手の甲で拭った。
幸いなことに、KKのいびきがやむことはなかったが、暁人の涙もまた、どうしても止まってくれなかった。はやく落ちつかなければと思えば思うほど、常夜灯にうっすらと照らしだされるKKの寝姿が胸に迫り、鋭い針のように心臓を刺し貫いてゆく。そのたびに、ふるえる喉が意味のない母音を口から押しだしていった。
このまま泣きつづければ、そのうち彼を起こしてしまうだろう。暁人はとうとう泣き止むことを諦めて、寝室から出る決意を固めた。上半身をひねって顔をそむけ、KKから視線をもぎ離す。
なかばずり落ちてしまったタオルケットを適当に彼の身体にかけ直し、暁人は床に両足を下ろした。腰を浮かしかけたその瞬間、背後から伸びてきた腕が腹に絡みつく。息を呑む暇もなく強い力で引き寄せられ、背中から倒れこんだ。
気がつくと、暁人は後頭部を彼の身体に預けたまま、ふたたび呆然と天井を見上げていた。
「KK……!」
思わずこぼれ落ちた呼びかけに、応える声はない。
「起きてたの? いつから?」
言いながら、暁人はほとんど確信していた。きっと、かなり前からKKは起きていた。もしかすると、暁人が目を覚ましたそのときから。
悟ってしまえばもう、暁人は堪えきれなかった。激しい呼吸に喉が子犬の鳴き声のような音をたて、驚きのあまり引っこみかけていた涙がまたこぼれ落ちはじめる。
暁人は無理やり身をよじると、涙と鼻水でKKのシャツが濡れるのもかまわず、彼の胸元に顔を埋めた。汚してしまうことに少しだけ罪悪感が胸をかすめたが、無理やり引き止めたのは彼なのだ。躊躇はすぐにどこかへ飛んでいってしまった。
離れる気がなくなったと確信したのだろう。暁人を押さえつけるKKの力がゆるんだ。腰元から離れた彼の腕はすぐさま背中にまわり、大きな熱い手の平が心臓の真後ろを覆う。そしてそのまま、まるで小さな子どもをあやすように、ぽんぽんと軽いリズムをつけて背中を叩きだした。
それからしばらく、堰を切ったように暁人が声をあげて泣きだしても、やはりKKは何も言わず、何も訊かなかった。彼が言葉を尽くせば尽くすほど、暁人が貝のように堅く口を閉ざしてしまうと、よく分かっているからだろう。暁人がベッドから出ていこうとするまで狸寝入りを貫いていたのも、きっと同じ理由からだ。
そうしたことをお互いに察せられるくらいの時間を、二人は一緒に過ごしてきた。そして、同じだけの時間、暁人はあの夢を見続けていた。KKのかたわらで。繰り返し。
――あんたが死んだあとの夢を見てたんだ。
子どものように声をあげて泣きじゃくりながら、けれどひどく静かに、暁人は胸のうちだけで彼に話しかけた。
まだあの夜からそれほど時間が経っていなかった頃、暁人はよく〝もしもの今〟を夢に見ていた。黄泉平坂で別れを告げたきり、KKが彼岸から戻ってこなかったあとの、独りきりで生きてゆく〝もしもの今〟を。
ふるえながら独り目を覚ました夜、暁人は頭の先まですっぽり毛布にくるまり、スマホに登録されたKKの連絡先番号を眺めることで、深夜に家を飛びだしたがる自分を必死に抑えていた。そして、そんなふうにして幾つもの夜をやり過ごしながら、きっと、と淡い希望を抱いていた。
きっと、KKのいる日々が当たり前になれば、こんな夢は見なくなる。こんな夢を見るのは今だけ、今だけだから、と。
その考えは半分当たっていて、半分外れていた。
あの夜からひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ。KKに連れられて頻繁に夕飯を食べに行くようになり、やがて、作ったほうが経済的だからと彼の部屋を訪れることが増え、そのまま週末をともに過ごしはじめ……。
そばにいることが当たり前になるにつれ、確かに、〝あったかもしれない今〟を夢に見ることは減っていった。けれど、そのかわりのように〝起こるかもしれない未来〟が少しずつ夢に現れるようになったのだ。自分だけが此岸に残されてしまったあとの、今と地続きの〝もしもの未来〟が。
ひと際大きな、ほとんど悲鳴のような嗚咽が暁人の口から漏れた。背中を叩くKKの手がぴたりと止まる。一拍おいて、きつく抱えこまれた。
背骨がきしむほど強く抱かれ、全身で彼を感じながら、きっと、と暁人は悟っていた。
きっと、自分はこれからもKKのいない日々を夢に見続けるだろう。彼と過ごす時間がどれほど長くなろうと、あの夢をまったく見なくなる日は来ない。
彼が生きているかぎり。あるいは、自分が死ぬまで。
終わらない夢と言えないひと言を胸に抱えたまま、それでも暁人は両手を伸ばし、KKの熱い身体を強く抱きしめ返しつづけた。