お題ガチャ『高所から飛び降りて怪我ひとつしていない暁人』 暁人が足を捻挫した。あろうことか、民家の上空を飛ぶ天狗の背中から、考えなしに飛び降りたからだ。
天狗の常にない叫びにKKが背後を振り返るのと、かろうじて受け身をとった暁人が地面に転がるのは、ほとんど同時だった。
カッと頭に血がのぼったのか、サッと足先まで血の気が引いたのか。その瞬間に己が何を思ったのか、KKはほとんど覚えていない。しかし、未だに喉の違和感が続いているのだから、相当な大声をあげたのだろう。
事前に結界を張っておいてよかったと、KKは秘かに安堵していた。そうでなければ今頃は、何事かと集まってきた野次馬によって、顔ごとネットに晒されていたかもしれない。
「あんなに怖い顔のあんたは初めて見たよ」
どこか浮ついた声で、KKの背中に負ぶわれている暁人がくすくすと笑った。相槌も打たずに黙りこんでいるKKの様子もまるで気にならないらしく、次から次へと言葉を重ねてゆく。
「絶対にそんなことしないって分かってるのに、殴られるかもって一瞬だけ思っちゃったもん。刑事さんに詰められる犯人の気持ちが、少しだけ分かった気がする」
あのときのKKに、表情を取り繕う余裕などなかった。幾通りもの悪い想像が、これでもかと頭の中を駆けめぐっていたからだ。そのせいで、射殺さんばかりの凶悪な顔付きになっていたに違いない。
分かりやすくうろたえた表情を晒さずに済んだことで、KKの師匠としてのプライドは守られた。だがむしろ、「死ぬな」と涙ながらに泣きわめいてみせたほうが、今後の暁人のためには良かったのかもしれない。
そんな出来もしないことを考えて、KKは眉間のしわをますます深くした。腹の底から重たいため息を吐きだすと、勢いをつけて頭を後方にそらし、背中の暁人へ軽い頭突きをお見舞いする。背後で間抜けな悲鳴があがった。
「呑気なこと言ってんじゃねえぞ。打ちどころが悪けりゃ、あっさり死んでいてもおかしくなかったんだからな」
人体は脆い。一メートルの高さからでも死亡事例はある。
あの夜、KKが「忍者だ」「アサシンだ」となかば本気で評した暁人の運動能力も、地球の重力加速度の前では誤差程度。五、六メートルほどの高所から落下して、暁人が捻挫だけで済んだのは――KKが今こうして背中に暁人の体温を感じることができているのは、ただただ運が良かっただけなのだ。
「確かにあの夜のオマエは、どれだけ高いビルの屋上から飛び降りても平気だった。だがそれは、オレがエーテルで衝撃を相殺していたからだ。今のオマエにあの夜と同じ動きはできない。もう何度も、それこそ耳に胼胝ができてもおかしくねえくらいに、しつこく、しつっこく言ってきたよな?」
感情まかせに怒鳴っては、伝わるものも伝わらない。KKは波打つ感情を深呼吸することで腹の底に沈め、意識してゆっくりと言葉を口から押しだした。それでも、どうしても、語尾に苛立ちが滲むことを止められなかった。
だが、それがかえって暁人に響いたらしい。KKの首にまわされている彼の両腕にわずかな力がこもった。少し遅れて、「うん」とかすかな相槌が耳に落ちてくる。
「それについては反省してる。すごく軽率だった」
謝罪する暁人の声は、先ほどまでの浮ついたものとは違い、しっかりと芯が通っていた。
「KKの、師匠の忠告を適当に聞き流してたわけじゃないんだ。ちゃんと気をつけてるつもりだったんだよ。でも……」
言い訳するな、と喉元まで出掛かった言葉を、KKは唾と一緒に飲み込んだ。言い淀み、必死に二の句を探しているらしい暁人を黙って待つ。
「なんていうか、ちゃんと実感が湧いてなかったんだと思う。さっきも、飛び降りた瞬間に『あ、ヤバい』って気づいたんだけど、もうどうしようもなくてさ。地面がぐんぐん近づいてくるのがはっきり見えて、はやく受け身を取らなきゃって焦るのに、手も足も凍りついたみたいに全然動いてくれなくて……」
耳元で喋る暁人の呼吸が少しずつ速まってゆくのを、KKは確かに聞きとった。アドレナリンによるいっときの興奮も治まりつつあるなか、あの瞬間の心境を改めて言葉にしたことで、ようやく実感が湧いてきたのだろう。ジャケット越しでも分かるほどに強張った身体と、かすかにふるえる低いささやき声が、なによりも雄弁に今の暁人の心情を物語っている。
何度目かの深呼吸のあと、暁人がしっかりと声を張った。
「気持ちを引き締めなきゃいけないって、痛いほど理解した。もう絶対にやらない。約束する」
素直で真面目なところが暁人の長所だ。どれだけ自分が危ないことをしたのか身に染みて実感した今、その言葉は間違いなく本心からのものだろう。KKは、そうはっきりと確信していた。しかし。
「どうだかな」
KKは鼻を鳴らすと、腰の両横で抱えている暁人のふとももを乱暴に揺すりあげた。狙いどおり怪我に響いたのか、暁人が小さな悲鳴をあげて身をよじる。
ほんの少しだけ溜飲を下げたKKは、嫌味たらしく片眉をあげ、大袈裟に嘆いてみせた。
「あの夜、突然カゲリエの屋上から飛び降りたあげく、オレの抗議にも『ごめん』のひと言で済ますようなヤツだからなあ、ヤンチャなお暁人くんは」
「本当だって! 絶対にしない!」
耳元で大声を出され、KKは反射的に顔をゆがめた。真後ろからでは表情など見えないはずだが、暁人はすぐに気づいたようで、慌てた様子で声量を落とす。
「ご、ごめん。つい……」
KKはこれみよがしのため息を吐いた。
「今度飛び降りやがったら、金輪際、オマエを仕事に連れていかねえ。師弟関係も解消だ」
暁人が鋭く息を呑み、全身をこわばらせた。そのせいで、首に回されている両腕に力がこもり、喉が締まって息が詰まる。KKはかまわず、さらに強く念を押した。
「これが最後の忠告だ。反論は受けつけねえ。分かったな?」
「……分かった」
律儀に居住まいをただした暁人が、神妙な声でうなずく。
歩きにくいからやめろとふたたび背中に寄りかからせたKKは、「だがまあ」と声を軽くして話しかけた。
「オマエは物覚えがいいからな。高所からの着地もすぐ出来るようになるだろ」
「ほんと!?」
とたんに声を弾ませる暁人に、KKは思わず苦笑をもらしていた。この一連の出来事は、彼にさほど酷いトラウマを植えつけなかったらしいと悟ったからだ。
思い返すうちに声をふるわせるほど怖い目にあった直後に、これだけすばやく気持ちを切り替えられるのは、頼もしいと感心したらいいのか、恐れ知らずだと呆れればいいのか。どちらにしても、切った張ったの祓い屋稼業としては将来有望なことだ。
KKはなかば本気の皮肉を胸のうちだけで呟きながら、改めて繰り返した。
「言っておくが、あくまでもしっかり訓練を積めばの話だぞ。それだけは忘れるなよ」
「もちろん!」
すっかり気を取り直したらしい暁人が次々と修行メニューを考案していくのを、KKはあえて遮ることなく聞いてやった。帰り着いたアジトで仲間から大目玉を食らい、小さくなって謝り倒す暁人の情けない姿を、意地悪く脳裏に思い描きながら。
こんな呑気な想像が出来るのも、暁人が生きているからこそだ。確かな重みを背中に感じながら、KKはほうっと深く静かに溜息を吐いた。