8月22日によせて 二人が出会ってから二年目の八月二十二日、つまり、KKと暁人が同棲しはじめた最初の日の夜のことだ。
鼻唄まじりでキッチンに立っていた暁人が、突然、「あっ」と鋭い声をあげた。続いて、包丁をシンクに取り落とす硬い音が響く。
買ったばかりのレザーソファの手入れをしていたKKが何事かとそちらを窺うより速く、暁人が矢のような勢いでダイニングまですっ飛んできた。暁人の顔は見るからに青ざめ、頬も硬く強張っている。「大丈夫か」という至極真っ当なKKの心配の言葉は、暁人の切羽詰まったような叫び声にかき消された。
「KK!」
「お、おう?」
「ひとつ、大事なことを訊き忘れてたんだけど」
恋人ならではの至近距離で真正面から覗きこまれ、KKは思わずのけぞった。ちょうど旬のマイワシを捌こうとしていたらしく、胸の前で組まれた彼の両の拳からは、ツンと鼻を刺す生臭さが漂ってくる。が、こうして見るかぎりでは、特に怪我はしていないようだ。
「何だよ」
無事だったことへの安堵が半分、心配させられたことへの苛立ちが半分。眉を顰めてつっけんどんに相槌を打ったKKをどう捉えたのか、暁人の表情がますます悲壮なものになった。
「ごめん! 本当はもっと前に聞いておくべきだったのに、うっかりしてて……」
いっこうに本題に辿りつかない長々とした前置きを、KKはうんざりと遮った。
「だから、なんだよ?」
「KKって、やっぱりイワシがダメなの?」
引っぱりに引っぱったあげく、この世の終わりのような顔つきで繰りだされた質問に、KKは一瞬、思考が真っ白になった。
「はあ!?」
「大豆料理は? こんにゃくは? あ、食べ物じゃないけど柊はどう? 尖ったものがダメなら、針が必要な裁縫も無理そう?」
非難混じりの素っ頓狂なKKの返答もなんのその、暁人は矢継ぎ早に言葉を重ねてくる。それを唖然と聞いているうちに、KKにはピンと来るものがあった。
「オマエ、よりによって今のオレを本気で鬼扱いかよ!」
「えっ、違うの? よかったあ」
大真面目も大真面目。心の底から安堵しているらしい暁人に、KKは呆れて二の句が継げないまま、よそよそしくも硬いレザーソファの上で、しばらく脱力していた。
*
「ってことがあったよな。なあ、お暁人くんよ」
そして今日。二人が出会ってから四年目の八月二十二日、つまり、KKと暁人が正式にパートナーになった最初の日の夜だ。
二年前はどこか部屋から浮いて見えていたレザーソファも少しずつ色がなじみ、今は柔らかく二人分の体重を受け止めている。
「その話を擦るの何度目? いい加減しつっこいよ」
対する暁人の態度は刺々しい。が、どれだけつっけんどんに言い返してこようとも、KKの尻の下のソファよろしく、ぴたりと肩を寄せあったまま離れようとしないのだから、新婚ほやほやの伴侶の本心は推して知るべし、だ。
KKは形だけの暁人の抗議をまるっと無視すると、今思いたったと言わんばかりに「ああ」と声をあげた。
「なあ暁人」
「なに、KK?」
「ひとつ、重要なことを言い忘れてたんだがな」
ずいっと至近距離から覗きこめば、暁人はかすかに頬を染めてのけぞった。その正直な反応に秘かな満足感を覚えつつ、KKはさらに顔を近づけると、したり顔で言葉を続けた。
「悪かったな。本当はもっと前に言っておくべきだったのに、うっかりしていてな」
ここまで言えば、暁人にもピンと来るものがあったらしい。色素の薄い目に悪戯っぽい光を浮かべながら、わざとらしく不機嫌そうな声を出した。
「だから、なに?」
「鬼ってのはな、執念深いんだよ。なんせ、嫉妬や憎悪によって人が転じた姿とも言われるからな」
「うん」
唇の端を吊りあげニヤリと悪辣に笑ってみせても、暁人はやはり逃げるそぶりも見せず、ますます目を細めて笑いをこらえるばかりだ。
「この世? あの世? 知らねえな。こうしてオマエと伴侶になったんだ。もう絶対に離さねえぞ」
完全に無抵抗な身体を、KKは宣言どおりに強く引き寄せる。とうとう暁人が小さく声をあげて噴きだした。
「これまで散々擦ってきたのに今になって言うの、絶対にわざとだろ。KKって狡いよね」
「なんだよ、それも今さら知ったのか?」
ううん、と暁人が首を横にふった。両脇の下から伸びてきた彼の腕が、KKの白髪交じりの後頭部をかき混ぜる。
「どっちもとっくに知ってるよ。だって、最初にあんたを鬼扱いしたのは僕だもん」
クーラーをつけていてなお汗ばみそうなほどの温もりが、KKの腕のなかでくふくふと柔らかく笑っている。
「ああ、そうだったな」
つまりは破れ鍋に綴じ蓋。出会いから四年目にして、二人は納まるところに納まったというわけだ。
腕の力は緩めないまま、KKもまた表情を大きく崩して笑うと、暁人とともに艶やかなキャメル色のレザーソファにゆっくり沈みこんだのだった。