君を忘れない「・・・ミッキー?」
八番出口の案内を超えた先、何十周と通り抜けて来た地下通路の中央に彼は立っていた。
黒い無地のシャツに白いスラックス。七三分けの髪型。距離があるから顔はよく見えないけど十中八九、俺のよく知る人物。二十年来の付き合いの親友、三木カナエだ。
つい彼のあだ名が口をついて出たけど、呼びかけたわけじゃない。
幾度となく迷ってここまで辿り着いた俺には、あのミッキーも異変の一つであることは既に見抜いている。
通路の左手側に掲示してあるポスターのデザイン、監視カメラの挙動、なぜか俺の方に向かって歩いてくる見知らぬおじさん、天井の看板、その他諸々。
通路に存在するあらゆるものに、それまで見たときとは違う変化がないか、間違い探しのように注視して進退を選んできた。これでも職業柄、ものを観察するのは得意だ。
流石に天井のうっすらと浮かんだシミに気づくのには骨が折れたし、急に通路に赤く染まった水が流れてくるのには対応しきれずに振り出しに戻されたりもした。
それでもめげずに正解を選択し続けて、こうしてゴールの目前まで進んでこれた。
度々現れるそれまで影も形もなかった明らかな異変。あのミッキーも、おそらくその類の存在だ。迷うまでもなく、引き返すのが正解だと一目でわかる。
それにしてもこの吸血鬼の能力は本当に恐ろしい。閉じ込めている対象の記憶から異変を生み出す能力まであるとは思わなかった。
こんな力があるならもっと早くに使って撹乱したらいいのに、なんだってこんな脱出間近に使ってきたんだろう。それも、こんなわかりやすい異変として生み出したら意味がないのに。
ミッキーは俺の方を向いたまま、ただその場に突っ立っている。話しかけても来ないし、近づいてもこない。俺が見えていないんだろうか。
通路の前方に向かって一歩踏み出してみる。彼は微動だにしない。もう一歩、ゆっくりと近づく。結果は同じだ。
彼が本物のミッキーの足の速さを持つ存在なら、急に動き出したらすぐに捕まってしまうかもしれない。そんな考えが頭をもたげる。そうなったら、おそらくは意識を失ってまた0番出口の案内前まで逆戻りだ。興味本意でこれ以上動くべきじゃない。
次の一歩を最後にしようと決めて、静かに足を踏み出した。いつでも走り出せるように、彼が動き出さないか警戒しつつ。
ああ、違う。やっぱり彼はミッキーじゃない。
なんでそんなところに最初に視線が行ったのか、自分でも説明が出来ない。ただ、見えてしまったとしか言いようがなかった。
目の前のミッキーには、あるはずの傷跡がない。高校の時、退治人を始めたばかりについたという、首に横一文字に伸びた傷跡。今の彼の格好からも、本来絶対に見えるべきもの。
引き返さないと。来た道を戻ろうと踵を返す直前目にした彼の顔は、泣き出す寸前の幼い子どものように見えた。
声は発してない。けど、口元が動いている。
彼は、俺に何かを伝えようとしている。
「・・・・・・・・・ッッ!!」
弾かれたように、彼に背を向けて走り出した。何と言っているのか理解したら戻れなくなる。根拠はないけど、俺の本能がそう強く訴えかけてくる。
後ろから追いかけてくる気配はない。けど、このまま出口まで突っ走らないといけない。
少しでも彼に未練を感じて足を止めたら、二度とここから出られなくなる気がする。
いつのまにか目に涙が浮かんで、声をあげて泣きながら走っていた。
俺は、ミッキーではない彼の存在を置いて出ようとしていることに、なんで胸が張り裂けそうな苦しさを感じているんだろう。
ぼやけた視界でも、目の前に広がる大きな登り階段の存在がわかった。運動なんて無縁で、普段もろくに外に出ない生活を送っている俺の身体は、とっくに限界を迎えている。
ハァ、ハァ、と荒く息をしながら、ボロボロと涙が溢れるのを抑えられない。一段一段は大した段差じゃないけど、身体中が痛みを訴えてくる。それでも止まれなかった。
どこか薄暗さを感じる人工的な光の地下から、目が眩むような陽の光に包まれる。
ああ、ようやく外に出られたんだ。
体力と気力が完全に底をついて、視界が暗転した。
「そんなこんなで無事締め切りにも間に合わせられたしよかったよかった。いやあ、よく落とさずにすんだよ」
「・・・・・・本当にゾッとするな。ちゃんと出られたからよかったものの」
「・・・ね。体感丸一日はあの空間にいた気がするのに、実際は数時間しか経ってなかったのには驚いたよ」
「しかし妙な話だな。最後の俺の偽物みたいなやつのこと。あの八番出口とかいう吸血鬼、特に取り込んだ対象の記憶から異変を作る、みたいな力はなかったんだってな」
「・・・・・・吸血鬼自体も想定してなかった存在が、何らかの理由で生じたってことだよね」
「・・・・・・VRCはしばらくあの能力についてかなり力を入れて調べるつもりらしい。時間が経てば、何かわかるかもな」
「・・・・・・うん」
「なんか消化不良って顔してるな。とにかくお前はずっと彷徨い続けることなく帰って来れたんだから、それでいいだろう」
「・・・・・・一個だけ、覚えてたら教えて欲しいんだけど」
「なんだ?」
「ミッキーが俺のこと神在月って呼んでたの、いつ頃の話だっけ?」
「高校のとき、知り合って最初の方だったはずだ。長いし、シンジでいいか?って言ってすぐにやめた。多分、数えるほどしかお前のことそう呼んでない」
「だよね。・・・・・・すまんそれだけ。心配かけたうえに、今回かなり無理させて悪かったミッキー」
「気にするな。・・・・・・こういう緊急自体以外は、もう網の上で原稿やるのは御免だからな」
「・・・・・・善処します」