あなたのせいです「遅かったな、オスカー」
「ブラッドさま!?」
オスカーがビームス家の奉公人として働き始めて約1ヶ月。オスカーが皿洗いを終えて自室に戻ると、寝巻き姿のブラッドがオスカーのベッドに腰掛けていた。
オスカーが奉公を初めて以来、ブラッドの初めての帰省だ。夜遅くにこちらに到着したと聞いていたため、今日は会えないと思っていた。会えると分かっていればもっときちんと出迎えたのに。すでにブラッドに見られてしまっているが、腕捲りしたままだった袖をそっと伸ばした。
「すみません。今日はもうおやすみになられたのかと思っていました」
「謝らなくていい。俺が勝手に押しかけただけだからな」
ブラッドに促され、隣に腰かける。こぶし2つ分ほどの距離をとって座ったが、ブラッドに詰められてしまった。自分のベッドだというのに居心地が悪い。
「どうしてここに?」
「最近お前の元気がないと母から聞いたんだ。なにかあったのか?」
なにか、と大雑把な質問にオスカーが首を傾げる。
「すまない。これでは何を答えていいのか分からないな」
両親や弟との仲は、他の使用人からいじめられていないか、勉強が難しすぎるのではないか。ブラッドが思いつくまま不調の原因を問いかけるが、どれもオスカーには思い当たるものがなかった。
「眠れているか?」
「はい」
「どれくらいだ?」
「……3時間ぐらいです」
「それは眠ったうちに入らないな。仕事が多いのか?」
オスカーは首を横に振るだけだ。誰にも言わないからと添えると、オスカーは俯きながら答えた。
「眠れないんです。眠るのが怖くて」
「怖い?」
「起きたら全部夢で、ブラッドさまもいなくて、いつもの裏路地だったらどうしようって。そんなことはないとは分かっています。それでも、眠れなくなるんです」
「オスカー、夜は悪いことばかり考えてしまう。朝起きてもう一度考えればいい」
「夜を越せないかもしれないのに?」
そんなことはない、とブラッドは言い切ることができなかった。言ってはいけないと思った。ストリートチルドレンだったオスカーの全てを、きっとブラッドは一生分かってやることはできない。
「よく眠れるおまじないをかけてやろう」
「おまじない?」
「フェイスにも時々かけてやっているが、よく効くそうだぞ」
「本当ですか?」
「試してみないとわからないだろう。ほら、ベッドに入れ」
靴を脱ぎ、ヘッドボードに背中を預けると、ブラッドにシーツを腰まで引き上げられた。一体何をする気なのか。戸惑っているうちに肩に手を置かれ、向き合わされた。
「オスカーが、いい夢を見られますように」
心地よい囁き声と共に、前髪の上から額に口付けられた。
「どうだ、眠れそうか?」
潜められた優しい声。石鹸のようないい匂い。額に触れた温かさ。肩に回された大きな手の感触。全てが洪水となってオスカーに押し寄せていた。
何を聞かれているのか分からず、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのようにガクガクと頷きを返した。
「明日も早いだろう。しっかり休めよ」
そこからのオスカーの記憶は曖昧だ。挨拶はきちんとすること。そんな基本的な礼儀作法すら守れていたのか記憶にない。
『よく眠れるおまじない』のはずが、目は冴え、顔が燃えるように熱い。恐る恐る、ブラッドが口付けた前髪に手を重ねる。熱も感触も過去のものでそこには何もない。そのはずなのに、重ねた手に熱が移ったような気がした。
――こんなの、眠れるはずがない。