世界はそれを、(④) 暖かい日がつづいたかと思えば急に涼しくなる。村雨は出入り口に近づくほど冷えていく廊下の空気に顔をしかめた。二日前は半袖でも通用する気温だったため、ジャケットを羽織っただけで出勤していた。
職員用駐車場に足を進めるあいだも、寒風は容赦なく吹きつけてきた。二十四時間を超える勤務を終えて疲弊しきった体にはこたえる。びゅうびゅうと鳴る秋風に「お医者様は痩せすぎなんじゃねえの? オレみたいに筋肉つければあったかいぜ」という声が混ざった気がした。たしかに彼はあたたかい。ここにはいない熱を思い出した一瞬だけは、寒さを忘れることができた。その幻想はすぐに木枯らしが散り散りに吹き飛ばしていったが。
運転席のドアを掴むと、鋼板の冷たさがひときわこたえた。激務のあいだ放置された車内も風が遮られるだけいくらかましだ。とはいえ、冷えきった体にはたいした慰めにもならない。レザーシートがじわじわと体温を奪う。うまく動かなくなってきた頭が心地のよい熱を求めていた。ナビの行き先を自宅の次に登録した場所へと設定したのは、ほとんど無意識によるものだった。
合鍵を使って玄関に入ると、布製の靴がきちんと揃えて置かれていた。隣に並ぶ獅子神のものと比べて、あまりにも小さく頼りのないサイズだ。先週からまだこの靴が残っているということは――進展なしか。
村雨はショートブーツを脱ぎ、少しだけ重たくなった気持ちを抱えて廊下を進んだ。リビングへつづくドアを開ける。
「……気でも狂ったか?」
開口一番漏れたのは、恋人の家を訪ねる男としてはふさわしくない台詞だった。
子どものためだろう。通常よりも明るい設定で煌々と照らされたリビング。天井から床までガラスを嵌めた窓際には、巨大なもみの木が鎮座していた。獅子神の家の天井高は長身の家主に合わせてかなり高く設定されている。その天井をこすらんばかりのクリスマスツリーは商業施設に置くような大きさだ。それだけならまだ気の早いクリスマスだと評するだけで終わったのだが。
「おう、村雨。お疲れさん」
ツリーの前で作業をしていた獅子神が、顔だけをこちらに向けた。頭に載せているのはいつかも見た、ふざけたデザインの帽子。配信者として活動する叶黎明のオリジナルグッズだ。そしてツリーに飾りつけられていたのも叶に似せたマスコット人形。手のひらサイズのぬいぐるみは一つや二つではない。ダースを超えるミニチュアがぶら下がる光景は悪夢のようだ。おかしなコンタクトレンズをはめた無数の瞳。それらが一斉にこちらを向いて笑った気がした。
「……叶を信じたオレがバカだった」
村雨の視線に気づき、獅子神が苦々しげにツリーを見上げた。
「しばらく来ないうちに何が起きたんだ?」
獅子神の家は家主の心尽くしそのままに、常に居心地よく整えられていた。いつもであれば部屋に入った途端に心身ともに緊張がほどけていくのを感じる。だが今日ばかりは疲労が上回っていた。狂気的なクリスマスツリーによる視覚的なダメージのせいに違いない。
室内にたどり着いたばかりの体は外気に冷えたままだ。対する獅子神は薄手のニット一枚きり。蜂蜜色の髪からしてぽかぽか陽気の昼下がりを連想させた。本能に誘われるように、男の立つ窓際へと引き寄せられていく。
「話してもいいけど、それより今日は寒かっただろ。飲み物を用意するから待ってろよ」
歩み寄る気配に気づき、獅子神がくるりと体の向きを変えた。こちらに向けられた上半身に、村雨の足が止まる。
獅子神の胸に抱かれた子どもと目が合った。ちいさな両手が人形のひとつを握りしめている。
「……ああ、うん」
獅子神が片手に抱いた子どもと村雨を見比べて、照れたように頬を歪めた。動きを止めて村雨を見つめる子どもに視線を落とす。
「お医者さんだ。覚えてるか?」とささやく声はひどく優しい。仲間に対して張りあげる声とは別人のようだった。
「……おいしゃさん」
復唱する子どもに、獅子神がにっと歯を見せる。子どももかすかな笑みらしきものを浮かべた。
「上の方に飾りたいって言うからさ。ほら、もう降りろ」
獅子神が腰を曲げ、抱いていた体を易々と床に下ろす。子どもは慣れた様子で着地すると、村雨の横をすり抜けてソファへ歩いて行った。構われたがって、まとわりつくこともない。共に生活するなかで互いに身につけたらしい、ごく自然な動きだった。
獅子神は誰にでも心を許すタイプの人間ではない。特に虚飾の通じない子どもに対しては冷淡に思えるほど、興味のなさをアピールしていた。しばらく会わないうちにどうやって距離を縮めたのか。縮める気になったのか。驚きが隠せない。彼らの所作はまるで――。
「抱えてスクワットをしてみたけど、結構疲れるな。負荷かけたメニューを増やすか」
腰を左右に曲げてストレッチをしながら、獅子神が軽口を叩いた。床に落ちた人形をひとつ拾い上げると、村雨に目線をよこす。
「……どうした? 変な顔して」
怪訝そうな顔で見つめられ、村雨はそれとわからないように息を吐き出した。獅子神は以前より明らかに気配に聡くなっている。もしかしたら自分がそう仕向けているのかもしれないが。村雨は首をかしげるそぶりで、わずかに目をそらした。
「――寒かったからだ」
「そうか」
つむいだ言葉が弁明に聞こえなければいい。
獅子神は気に留める風もなく、村雨の視線をのんびりと追いかけた。念入りに磨かれた窓ガラスの外は藍色の夜が広がっていた。街灯が葉を落とした街路樹を等間隔に照らす。冬の始まりを予感させる景色だ。
「暗くなるのも早くなったしな。もうすぐ十二月だから当たり前か」
「ツリーはさすがにまだ早くはないか? それにあの大量のぬいぐるみは……」
くだんのツリーを顎で示すと、獅子神は困ったように眉を下げた。
「あー、それも後で話すわ。……紅茶でいいか?」
「ああ、頼む」
うわ、ほんとにつめてえ。
すれ違いざま、肩にポン、と手を置かれる。おどけた声が愛しい。友人としての裁量を超えた間柄。しかし獅子神は村雨の世話を焼くことに未だ戸惑いと照れくささを隠しきれずにいた。
思わず手を伸ばしたが、あたたかな体に触れることは叶わなかった。村雨の逡巡に気づくことなく歩き出した男は、鼻歌混じりにキッチンへと向かっていた。
「クリスマスツリーは真経津。飾りが叶ということが」
獅子神が電気ケトルに水を入れながら、一連の騒ぎを思い出したようにため息を吐いた。
「驚いたぜ。引越し業者みたいなトラックが家の前につけたと思ったら、あれを抱えて入ってきたんだから」
家主としては当然、拒否する権利がある。それにも関わらず、助手席からひらりと降り立った真経津に何も言えなかったという。お人好しぶりには呆れるばかりだ。
「クリスマス配信に使うんだと」
「気味の悪い人形もそのためか」
「配信中にプレゼント企画をするらしい」
はたしてあの人形を欲しいという人間がどれだけいるのか。理解しかねる。
遠目にも痛々しい極彩色がどうにも落ち着かない。しかし子どもは意外なことに気に入ってるようだ。ひとつを手に掴み、おもちゃのミニカーと対戦させていた。
「配信するならあの家の方が適格だろう。何故あなたの家に回ってきた?」
真経津のマンションは自由気ままに過ごす気性そのままに、遊び道具であふれかえっている。高層階からの夜景も美しい。それに加えて無職という気楽な身分のため、顔出しのできる人材でもあった。クリスマス向けの配信をするならば、彼の家こそがうってつけに思えるが。
「そうなんだけどよ……」
叶さんが持ってきたんだけど、いらないから獅子神さんにあげるね。
オブラートに包むことなく面と向かって言われた言葉を思い出し、獅子神はううんと唇を曲げた。村雨の小言を食らうのが目に見えている。ちらりとうかがえば、すでに憮然とした表情を浮かべていた。
出会ったころからの村雨による辛辣な評。それは自身のお人好しさを揶揄されているのだと思っていた。友情をかさに着る連中に、安請け合いするなと。
しかしそれだけではない。自分以外に甘すぎる態度を咎めていると気づいたのは、つい最近。いや、咎めるという表現は正しくない。わかりやすく言うのなら、拗ねているのだ。死神のような男にもそんな可愛らしい一面があるのだと思うと、体の内側がくすぐったくなる。本人に話したら、おそらく百倍は言い返されるだろうから秘密だ。
獅子神は取りなすように言葉を続けた。
「来週には先に動画を撮るって言ってたから、終わったら片付ければいいかと思って」
「プレゼント配信とやらはどうなる? クリスマス当日にやらないで、いつやるんだ?」
「忘れてた……」
獅子神ががっくりと肩を落とした。
マヌケめ。
よりによってこんな馬鹿げた騒動をぶつけてくるとは。真経津たちには怒りを通り越して呆れが湧いてきた。自分たちの仲を知っていながらの乱行だ。いつか何かのかたちでやり返さねば。だがこれ以上、獅子神に言ったところで何も変わりはしない。
村雨はツリーを眺める獅子神の横顔に誓った。どうにかして天堂の教会へ押し付けようと。
「オレはさっき飲んだからお前の分だけな」
そう言いながら、ティープレスの持ち手をゆっくりと押し下げていく。茶葉がフィルターと底の隙間に沈んだところで温めておいたティーカップに注ぐ。慣れた動作はよどみない。ついでカップボードからブランデーを取り出そうとして手を止めた。
「……っと、どうする? アルコールを飛ばして入れるか?」
紅茶に足すだけでは体を温めるほどの効果はないが、芳香な香りは疲れた神経をリラックスさせてくれるはず。だが今夜も家にいるのは獅子神と子どもだけ。村雨を車で送ることはできない。たった数滴でも飲酒としてカウントされるのかは定かでないが、念のために尋ねてみた。
「――すまない。何か言ったか?」
村雨は考えごとでもしていたようだ。酒瓶をみとめると、しずかに首を横に振った。
「今日は遠慮しておこう」
「そ、そうか……帰るもんな」
獅子神が口ごもった。酒瓶を元に戻した手が緩慢な動作で下がっていく。ばれていないつもりだろうが、衣服を握りしめるのは彼が動揺したときの癖だ。今もエプロンの裾を握りこんでいるにちがいない。当惑と落胆。複雑な感情が渦を巻いているようだ。
村雨の発言は泊まらずに自宅へ戻ることを意味していた。自分から聞いたのだから断られることは想定内だったろうに。それとも村雨が当然のように酒を受け入れ、泊まることを選ぶと見越していたのだろうか。
臆病な性質の獅子神は、自分の望みを口にすることが少ない。言うべきではないと考えている節すらあった。先刻の発言もその性格に起因しているのだとしたら、好意を受け取るのが正解だ。そうわかっていながら、村雨はその選択ができなかった――今は。
「いい香りだ。天堂が選んだ紅茶か?」
話題を変えようとして尋ねると、獅子神はすぐさま顔を上げた。切り替えの速さはこういう時に助かる。
「投資の方で繋がってる人間からもらった。新規事業で紅茶専門店を立ち上げるとかで。店にも来てくれって言われてるんだけど」
獅子神はカフェインを常飲しない。わざわざ店に行ってまで飲もうとは思わないのだろう。
「あなたが客として訪ねれば、見栄えがするからな」
あわよくば商材として使いたい。そんな下心まで透けて見えた。
「うーん、オレみたいな男が行っても仕方なくねえ?」
「購買層は女性だろう。あなたのような男と同性、どちらを見ながら紅茶を飲みたいか考えれば簡単なことだ」
獅子神は賛同しかねるようで、さらにううんと首をひねった。しまいには真経津でも連れてくかなと、見当違いのことを言い出す始末だ。
瞬きを繰り返すたびに長い睫毛が上下する。頭を揺らすと瞼を閉じる精巧な人形のようで、いつ見ても飽きることがなかった。もっと近くで見たくなり、無言で立ち上がる。シュガーポットと蜂蜜の瓶のどちらにするか考えあぐね、結局両方をトレイに載せた獅子神が不思議そうに目を上げた。
「どうした? 持って行ってやるから座ってていいぞ」
目についたふりをしてシンク脇の布巾を取り、トレイに載せる。
「ありがとうな」と律儀に礼を述べた顔がかたまったのは、そのすぐ後だ。
「おまっ」
出かけた声を必死で飲みこむ。きれいに張り出した喉仏が大きく上下した。見開かれた瞳のなかには細身の影が二つ。中央の薄青色がぐぐっと横にスライドした。リビングのソファへ向かって。
床を走るミニチュアのスポーツカー。それを追いかけて歩いていく小さな後ろ姿に、獅子神がようやく視線を戻した。子どもの意識は大人のやり取りからは完全に離れていた。
「……次、したら叩き出すからな」
ささやきにしては物騒すぎる言葉。獅子神は苦虫を噛み潰したように唇をきつく結んだ。いまだそこに残る村雨の痕跡を隠すように。
手元に目線を落とすと、己の手指の隙間にするりと収まる、白く細長い指。家に来てから時間が経つのに、いまだひんやりと冷たいままだ。手を抜き取りたいのに、指先に力を込めることすらできなかった。叶のからかい文句がぐるぐると頭のなかを巡る。かすかに身じろぐと、重ねられた手に力がこもった。逃さないと言わんばかりだ。
「――もう気は済んだか?」ゆっくりと息を吐く。
時間にして十秒ほど。獅子神にとっては永遠のような時間。押し殺した声にも動じることはなく、村雨は慌てふためく獅子神を見つめていた。
お互いがとうに成人した大人同士だ。交際を始めたからには触れ合わない方がおかしいことぐらいわかっている。獅子神にとってもそれほど抵抗のなかったスキンシップだった。以前であれば。眼鏡の奥から己を捉える瞳――冷静沈着に見える男の内に秘めた熱――に気づくまでは。
真経津と天堂が先に帰り、村雨だけが泊まった夜。先に寝てしまった子どもを寝室へ運び、風呂を出た獅子神は廊下の奥に目を止めた。村雨に割り当てた部屋から灯りが漏れていた。翌日も早いだろうに。ドアをノックしようとして止めた。子どもの面倒をみるうちに、村雨の世話まで焼きたくなったのか。大人であれば違和感に目を覚まして消すはずだ。
いらないお節介だと苦笑して踵を返した時、かちゃりと小さな音がした。振り返った視界の端で何か白いものが動く。手首にひたりと当てられた指先。思わぬ冷たさに驚くよりも早く握りこまれ、気づいた時には部屋の中へと引き入れられていた。背中が壁にぶつかり、衝撃に頭が上向いた。廊下よりも数段明るい照明がまぶたを焼き、まぶしさに細めた瞬間、
「むらさ、め」
目の前に影がさした。耳元で金属質な音が鳴った。
頬に当たるグラスコードが冷たい。硬質な感触に目を閉じると、唇にやわらかなものが押しつけられた。親指の腹が手首の内側を探る。皮膚のやわらかい部分を撫でられ、漏れた息が互いの唇を湿らせた。
「おやすみ」
突然の出来事にぼんやりとする獅子神の耳元でささやかれた言葉は、今も鼓膜にこびりついて離れなかった。薄く開けた視界。村雨がはっきりと自分を、自分だけを見つめる、あの瞳とともに。
あの夜と同じだ。そう思いかけて獅子神は止める。いや、あの夜とは決定的に違う。直感が告げていた。目を閉じることなく、逆に大きく見開いた瞳で村雨を観察した。
暗紅色の瞳に宿るのは燻る熱と、それ以外の何か。真実ではないものが混じっている。それが何なのかはわからない。普段の村雨であれば決して読み取らせないはずだ。けれども獅子神の勘が――ほんの偶然かもしれないが――隠した感情の在処に触れようとしていた。
双眸が村雨をとらえる。そこに浮かぶのは疑念ではなく戸惑いだ。言葉よりも雄弁な瞳に見つめられ、村雨はついに重ねた手をはずした。
言葉は出ない。沈黙が二人を永遠のように隔てる。並んだ手は互いに行き場を失くしたように、じっと動かなかった。
「……冷める前に頂こう」
先に口を開いたのは村雨だった。
「ああ」
紅茶から立ち上る湯気に目をやり、獅子神がのろのろとトレイを持ちあげた。先に立ちキッチンを出ていく背中を目で追うと、傾いたトレイの上で紅茶が激しく波打った。
いっそ淹れなおそうかと考えたとき。来客を告げるインターフォンの音が二人の意識をさらっていった。
「夜分遅くにすみません」
玄関へ迎えに出た獅子神に、園田はぺこぺこと頭を下げた。駐車場に停められた村雨の車に気づき、出直そうと思ったのだが。どうしてもはやる気持ちを抑えられなかった。
つめたい視線を覚悟してリビングに入ってみれば、はたして痩身がソファに陣取っていた。その隣には子どもが座っている。いつの間に懐いたのか。少し意外な気がした。
「村雨さん、ども」
余計なことを言うなと注意する間もなく、仲間が後ろから挨拶を投げる。すると案の定、目線を上げた村雨が「ああ」とだけ答えた。いつもと変わらぬ仏頂面ではあったが、いつも以上に機嫌が悪そうだ。
どうやら最悪のタイミングで訪ねてしまったらしい。後悔してみても今さら遅い。ソファを見ないようにして先へ進んだ。
「お前ら、こんな時間にどうしたんだ?」
今日は雑用係としての公休日だ。夜間に、それも二人揃って訪ねたのだから、獅子神が不思議に思うのも当然である。重苦しい雰囲気にくじけかけた心を奮い立たせ、獅子神をダイニングへ誘った。
「これを見てください」
そう言ってテーブルに広げたのは、あの日残されたメモである。
獅子神が、
「間違えて捨てちまったかと思ってたけど……これがどうかしたのか?」と驚いた顔をしてみせた。
やはり気づいていない。
園田は隣に座った男と目配せをし合い、丁寧にのばした紙を裏に向けた。鮮やかなピンク色を背景にした写真が印刷されていたようだ。
何かのチラシから破り取ったのだろうか。獅子神が体を乗り出した。園田は一点を指さしてみせる。
「ここんとこ、黒っぽいのわかります?」
「何だこれ……ん、犬じゃねえな。もしかして馬か?」
破り取られたために見えるのはほんの一部だが、黒い獣毛と、なめらかな褐色の獣皮らしきものが見えた。
置き去りにされた子どもとメモ内容に気を取られ、裏側まで確認せずにいた。わずかな手がかりを求めて目をこらす獅子神の前に、園田はもう一枚の紙を出してみせた。
「獅子神さん、こちらもどうぞ」
「ん、これは……」
先刻の紙と同色を背景に、疾走する馬を撮影した写真だった。背にはユニフォームを身につけ、鞭を持ったスタイルの騎手を乗せている。国が定めた公営賭博のひとつ、競馬のポスターだ。
ためしに例の紙片と重ねてみると、完全に一致した。獅子神の口から感嘆の声が漏れる。
「すげえぞ。これ、どこで見つけたんだ?」
「今年のエリザベス女王杯のポスターです」
園田が解説した。
競馬にはG1(ジーワン)と呼ばれる国際基準が格付けされており、エリザベス女王杯はそのひとつである。獅子神は所構わず酒を飲む人間たちを嫌っている。公然と飲酒が許可される競馬場には興味がないどころか、忌避すべき対象だった。
「競馬ってあれだろ、何とか記念とかそういう……」
有名なタイトルだけはかろうじて知っていた。けれども聞き慣れない名前に眉をひそめたのも無理はない。このレースの開催場所は――。
「京都競馬場か」
ソファから届いた声に、獅子神が顔を上げた。意外そうな、少し驚いた表情を村雨に向ける。
「……お前、競馬なんてやるの?」
「まさか。患者がよく観ているから嫌でも詳しくなる」
テレビをつけたままにしている病室を回診する機会に知ったのだろう。
肝心なところを取られて少し悔しい気もしたが、園田は獅子神の顔色をうかがった。
「よく気づいたな、園田」
獅子神がすかさずうなずいた。
「自分も最初に裏を見たときは、何かの動物としかわからなくて……」と隣を見る。
閃いたのは、探索の翌日に帰ってきた男のお手柄だった。
「昔、通ったことがあって。あ、もちろん今はやりませんよ!」
照れくさそうに頭を掻く。
背景色を手がかりに直近のレース告知を調べ、このポスターに行き当たった時は思わずガッツポーズが出た。
「開催日は先々週の日曜日、十一月十一日です」
「まさか、ガキ連れでわざわざ観戦に行ったのか?」
獅子神が首をひねる。
「その、わざわざが大事なんですよ! パドックで当日のコンディションを見て馬体とか気配とか……あとは二人がかりで引かれている馬は興奮してますからね。そういうのはテレビじゃなく、やっぱ本物を見ないと」
「……オメー、もう本当に足を洗ったんだろうな?」
目を爛々とさせて解説する相方に向かって、獅子神が胡乱な眼差しを投げかけた。公営機関が運営するギャンブルとはいえ、競馬も賭博の一種であることに変わりはない。かつて倉庫落ちした顛末を思い出せば、雇用主としての懸念も当然だ。
獅子神の心配に手を振って否定する。
「もう、やりませんって!」
「そっか、ならいいけど……」
「――おうまさん!」
獅子神の声に無邪気な子どもの言葉が重なった。
「今、何て……」
全員の視線がそちらに集まる。
村雨がダイニングテーブルに向かってタブレット画面を掲げてみせた。先刻まで子どもに見せていたと思しき画面には、馬体の写真とJRAの文字が見えた。
子どもがもっと見せろと言わんばかりに首を伸ばし、もう一度「おうまさん」と繰り返した。そして何かの名前らしきものを口にした。
「競走馬の名前か?」
尋ねる村雨の視線が自分に向けられたものだと気づき、園田がびくりと肩を震わせた。
「えっと、そうだと思います」
「当日の順位は?」
「さあ、そこまでは……」
村雨がタブレットを手元に戻し、画面をスライドさせた。これか、と呟く。
「オッズは百倍を超えていたようだが、順位はかすりもしていないな」
「万馬券狙いで突っ込んだならバカもいいとこ……あ、すみません」
子どもにちらりと目を走らせた雑用係を見やり、獅子神は黙って首を振った。口には出さずとも同じ気分だったからだ。
「夢破れて東京まで帰ってきたってことか」
一緒に生活するなかで、子どもの口から関西圏のアクセントを聞いたことは一度もなかった。短期間だけ関西に住んでいるのでなければ、東京から観に行った可能性が高い。
「あれ、アイツを見つけたのは月曜日だよな?」と、獅子神がまた新しい疑問を口にした。
「おそらくですけど、もし俺が大損したら、すぐ帰る気にはなれなくて一晩どこか……たとえばファミレスとかカラオケで過ごすかもです。日曜日の夜って、新幹線の空席も少ないですし」
「翌週にあたるこの前の日曜日にも、同じく京都でG1レースがあったんです。それまで滞在して粘るつもりが軍資金も無くなって、一度東京に戻ってきたんじゃないかと」
勢いづいた園田も補足した。
獅子神はミネラルウォーターをひとくち飲み、ふむ、と顎を撫でた。
「なるほどな」
破り取られたメモ用紙をどこで手に入れたかまではわからないが、まさかこんな手がかりになるとは。しかし分かったのは過去のことばかり。これからの先行きは見通しがつかないままだ。
そう結論づけようとした獅子神に、
「でも今週末は必ず東京にいるはずです」
園田は力強く宣言する。
自信ありげな態度を訝しむ獅子神に向けて、自らのスマートフォンを差し出した。
「次のG1は――二十六日。今度の日曜日のジャパンカップ、場所は府中の東京競馬場です。京都まで足を運ぶぐらいだから、大勝負となれば絶対観にくるでしょう」
「でも当日はすげえ人が来るんだろう。入場者を全員チェックするのは無理じゃねえか?」
獅子神が眉をひそめた。当然の疑念であった。
園田もそれほど競馬に詳しくない。参考のため競馬ニュースのアーカイブを観たが、名物レースともなると観戦客でごった返していた。
たった一人、目当ての人間を探すのはまさに砂山から針を探すようなもの。
そう考えた獅子神が子どもを見やる横顔は険しい。奥にそびえるツリーがふさわしい時期になるまで、もう一週間も残されていない。この家に来て十日あまり。不自由をさせてはいないが、それでも子どもの生育環境として不自然なことには変わりはない。どうにかして親に会わせてやりたい。それが子どもにとってマイナスの結果になるのだとしても、会ってみないことには何もわからないのだから。
園田はまた二人して顔を見合わせる。そうして敬愛する雇用主に向かって力強くうなずいた。
「――オレたちに考えがあります」
「アイツらに任せて大丈夫かな……」
獅子神はキッチンで立ち働きながら、ふと独りごちた。
「一応はフォーリンクまでは行ったのだからな。マヌケでもヘマばかりをするとは限らない」
村雨がフォローなのかも分からないことを言った。不安は尽きない。けれども彼らがああ言うのだから、何かしらの策があるのだろう。任せてみるしかない。獅子神は珍しいほど強気な態度を見せた二人の姿を思い出した。危険な真似でなければいいのだが。
園田たちは獅子神の出したコーヒーを飲み終えるなり、そそくさと帰っていった。子どもは少し名残惜しそうだったが、ハイタッチで見送ったあとは、おとなしくダイニングテーブルに座り夕食を待っている。
今夜、隣に座って相手をするのは村雨だ。夕食の支度をするあいだ、村雨は園田が置いていった紙を子どもに見せていた。
「何だ、それ?」
「五十音表だな」
肝心な名前は、相変わらず読み方すらわからないままだ。ひらがなを読ませてみれば何か手がかりになるのでは。そう考え、園田が競馬関連の資料と一緒に印刷したのだという。獅子神は鍋をかき混ぜる手を止めてへえ、と驚嘆した。
動物のキャラが描かれたポスターには五十音のひらがなが並んでいた。動画から新幹線の記憶を引き出せたように、見覚えのある文字を思い出すかもしれない。
子どもは興味があるのかないのか、イラストのクマやウサギを手でこすっていた。
「……オレ、そういうのよく知らねえからな」
つぶやく声は無感情だった。
卑下も自虐もない。ただ、知らないということを自覚しただけ。おそらく獅子神にとってはずっと繰り返してきた作業のようなものだ。そこには諦めという名をつけることができるかもしれない。
「獅子神……」
座った姿勢から見上げた表情も同じぐらいに感情を消していた。しずかな湖のような色をした瞳は逆光のせいで暗い。暗く、どこまでも深く沈んで見えた。快活さの裏に隠した獅子神本来の顔だった。
深い諦念の前には慰めなど何の意味もないことを村雨は知っている。無言で見つめていると、先に背を向けたのは獅子神の方だった。馬鹿なことを言ったと後悔しているのかもしれない。
「もうすぐできるからな」と言い残し、何事もなかったように料理の準備に戻っていった。
「あ!」言いながら子どもが五十音表に指をのせる。
「――そうだ」
名前の一文字目か。
獅子神が弾かれたように振り返った。狙いが当たったのではと、かすかな期待に目線を交わす。
「し!」
「あし、か……。違うな。しの次はなんだ?」
「しんかんせ!」
「……まあ、間違ってはいない。ただし正確にいえば、新幹線だ」
求めていたものとはだいぶ違うが。
村雨が子どもの頭ごしに肩をすくめてみせた。知らないうちにレードルを握りしめていた獅子神も、これには苦笑せずにいられなかった。大人たちの思惑通りにはいかないようだ。
「しんかんせん」と子どもは連呼している。
根負けした村雨が該当する場所を指で示してやった。その上で、
「それより『あ』の次は何だ?」と尋ねてみたが、ただ首を傾げるばかり。大きなため息がキッチンまで聞こえてきた。
「はは。苦戦してるな、先生。がんばれよ」
獅子神の顔にかすかな感情が戻ってきた。偏屈そうな男が幼い子どもを相手に律儀な対応しているのが、おもしろくて仕方ない。振り回されてさえいるようだ。自分に対する不遜な態度とは大違いだ。
だが考えてみれば村雨の担当は外科である。話によれば小児を担当することも少なくない。病院でも似たような対応をしているのかもしれない。
さらに村雨には甥と姪がいた。年齢までは知らないが、彼の兄は二十代の若いうちに家庭を持ったとも話していた。だとすると今は幼稚園か小学生ぐらいだろうか。
村雨がもしも尊敬する兄と似た人生を歩んでいたら。
だめだ。
胸の奥で嫌な感覚がした。ざらつく何かが臓腑を撫でたように、吐き気が込み上げてくる。あわてて湧きあがる唾を飲み込んだ。苦い唾液の味に舌が痺れる。
テーブルではいまだ不毛な合戦が続けられていた。村雨は意外なほど辛抱強く、子どもの気まぐれに付き合っている。食卓を照らす灯りに包まれた二つの影。陳腐なCMのような光景がまぶたの裏でぱちりと爆ぜる。視界がほんの一瞬赤く染まる。
「……オメーさ」
言ってはいけない。
頭のなかで警告音がする。
こめかみを流れる血が早くなり、心臓がぎゅうっと締めつけられたように痛んだ。
村雨が手を止めてこちらを見る。子どもが真似をして獅子神に目を向け、手を振ってみせる。
口を開いてはだめだ。
そう思うのに、喉から声を振り絞ることでしか、この苦しみから逃れることはできないように思えた。
「意外と、いい父親になるんじゃねえ」
「……獅子神」
重苦しい沈黙が二人の間に横たわった。村雨の手の下から子どもが紙を抜き取り、くしゃくしゃと丸める音が耳障りだ。
「言いたいことはそれだけか?」
叱るでもなく、怒るでもなく、平らかな声が獅子神に襲いかかった。背筋がぞっと冷たくなる。
とんでもない過ちを犯したことを知る。
「――悪い。忘れてくれ」
返事を待たずに言い捨て、パントリーの扉を開けた。狭い庫内に立ち尽くす。食品庫に取りに行かねばいけないものなど何もない。コンロでは鍋がぐらぐらと沸き立つ音がしていた。
早く出ていかないと。火を消さないといけない。
いたずらに焦りばかりが募る。だがその場に足を縫い止められたように、動くことができなかった。
拳をかため、漆喰の壁に押しつける。関節が白くなるまで力を込めていく。
骨に響く痛みも、ひどい耳鳴りを消すことはなかった。