Ready もうすぐそちらに到着する、という旨のテキストを端末が受け取ったのを確認して、ドクターは溶けた氷でほぼ水になったジュースを勢いよく飲み干した。
シエスタでのバカンスを提案してきたのはシルバーアッシュのほうで、その時のドクターはといえばオペレーター各位から提出された休暇申請をカレンダーの上で必死に並び変えている最中だった。だからその提案にも、最初は感情を乗せる暇もなく断りの返事をかえしたのだが、ようやくの人生の蜜月を手に入れたフェリーンの男の粘り強さはドクターの予想をはるかに上回っていた。手を変え品を変え二人きりで過ごすバカンスの素晴らしさについてプレゼンし、かき口説き、最終的にはベッドの中でのここではとうてい説明できないような脅迫手段を行使するにいたって、とうとうドクターはその申し出に首を縦に振らざるを得なくなってしまったのだった。
カフェの大きな窓ガラスに映る見慣れない姿に一瞬びくりと心臓を跳ね上げ、しかしそれが自分の今の姿であることに思い至ってバツの悪い思いをする。シエスタの日差しの下ではいつもの格好だと三歩も歩けば熱中症で搬送されてしまうため、今回ばかりは着替えざるをえなかった。フードの代わりにキャップを、フェイスガードの代わりに大きなサングラスを、そして白衣とコートの代わりに派手な柄のアロハシャツを羽織ればどこからどう見ても不健康なお上りさん観光客の出来上がりである。あらためて窓ガラスに映った姿を確認してみたが、ものの見事に似合っていない。似合っていないどころかあと半歩で不審者まっしぐらというレベルだった。だがもうシルバーアッシュがこちらに向かっているというのだから着替えるような暇はない。有名なスポーツブランドのロゴが印刷されたメッシュキャップからはみ出た寝ぐせについては、もう諦めるしかないだろう。この時ばかりはいつもの黒いフードが恋しい。
窓ガラスを相手にそんな無駄足掻きをしていると、とうとう端末が着信を告げ、それと同時に窓ガラスの向こうにコートを脱いだ見覚えのある姿が見えた。
「久しいな、盟友よ」
うわあ私の恋人、かっこよすぎ……! 一瞬にして店内どころか通り一帯の視線を釘付けにした美丈夫が、にこやかな微笑みとともに向かいのソファへと腰かける。
「待たせてしまったことにまずは謝罪しよう」
「おかげでメールの返信が捗ったよ。もう少し遅れてくれても問題なかったくらいだ」
「つれないことを言ってくれるな。お前に一秒でも早く会うためにパイロットにもずいぶんと無茶をさせてしまったのだ」
「哀れな彼らはちゃんとバカンスを楽しんでいるんだろうね?」
「勿論だとも。だがその口であまり他人ばかりを語ってくれるな。妬けてしまう」
「ふふ、素直な子猫ちゃんは好きだよ。じゃあそろそろ行こうかって言いたいところだけれど、君はまずここの名物ジュースを飲んだほうがいい。疲労した身体に沁みる美味しさだったよ」
「いただこう」
遠巻きに様子をうかがっていたスタッフがすばやく注文を取ってキッチンへと戻っていった。店内のざわめきはまだ落ち着いてはいないが、観光客といういきものはおおむね気分屋だ。すでに皆は通りで始まったゲリラフェスに夢中になっていた。
「ずいぶんと装いを変えたな」
「似合ってないってはっきり言わない優しさに感謝するよ。こんなことならもっとファッションについて勉強しておくべきだった」
「普段と違う恰好というものは、慣れぬうちはよりいっそう奇異に見えてしまうものだ」
「なんでもかっこよく着こなす君に言われると嫌味にしか聞こえないなぁ」
「お前の眼前に出る際に、いつも私が緊張しないとでも?」
「君が緊張だなんて単語を知っていたことに驚いているよ」
「恋とは人間を勇敢にも臆病にも変えるものだ。今だって、臆病な私はお前の指先に触れる許可を得られないか言い出せないでいる」
「ジュースが来たよ、エンシオディス。仕方がないから片手がふさがったかわいい恋人に飲ませてあげよう」
わざとスタッフの人が来た瞬間を狙って手を握ってくるあたり、彼も非常に浮かれているんだと思う。伏せた睫の長さに見惚れているとグラスを持ち上げたほうの手まで大きな手のひらに握り込まれてしまったので、周囲から見れば私たちはずいぶんと浮ついたカップルに見えてしまっていただろう。
「お前がすすめるだけはある。新鮮な果実はそれだけで魅力的なものだが、これは格別だな」
「特別に契約した農園からしか仕入れてないらしい。帰るまでにまた来よう」
私がダラダラと氷が融けるまでかかった一杯を、彼はものの数分で飲み干してしまった。グラスから外されがっちりと指の股までホールドされては、デスクワークがメインの管理職としてはもうどこにも逃げようがない。
「いま君にキスしたらジュースの味がするのかな」
「ふむ、お前が望むならば試してみるのもやぶさかではない」
「しっぽが揺れてるよ。ああ、まったく。あんまりかわいい姿を見せないでくれ。我慢が出来なくなる」
二人ともいい年齢の大人であったのでなんとか頬だけで我慢した。ちょっとだけ唇の端を舐められた気もするがぎりぎりセーフだ多分。会計を済ませて、潮の香りのする風の中、宿までの道のりをのんびりと歩く。
「それにしても、その恰好はよく考えたものだな。すれ違った誰もがそのシャツの派手さに気を取られて、お前の顔を詳細におぼえている者はおるまい」
「顔を知られて困るというほどではないのだけれど、売れて利益になるというわけでもないからね」
名前はどうも昔いろいろあったらしくあまり嬉しくない方々からお声がけを頂くことも多いのだけれど、ありがたいことに私の顔についてはそこまで情報が出回っているわけではないらしい。ならば現状維持というのは悪くはない手だろうと考えてはみたけれども、やっぱり流石にこの柄は不審者だろう。
「お前の顔を知る数少ないうちの一人が私であるという事実は何とも心を浮き立たせるものだ」
「少なくともあと二日間は君の専有物だ。好きにしてくれていい」
「今更だが、あれらの防護装備なしに大丈夫なのか」
「外出は一日三時間以下にしておけって厳重に約束させられたよ。なのでどうしても行きたい場所だけピックアップしてきた」
あれこれと最低限伝えるだけで意図が通じる相手というのは気が楽でいい。そわりと揺れた尾がさりげなさを装って腰を撫でていくが、ここではそんなこと誰も気にしてはいない。
「バカンスだと言っていたのに、お前は相変わらず気忙しい」
「私たちらしいだろう?」
「違いない」
同時ににんまりと微笑みながら、とうとう我慢できずにその私だけに開かれた唇に飛びついてしまったのだった。