Let sleeping dogs lie 合流した部下からの報告に耳を傾けていたシルバーアッシュは、通路の向こうから聞こえてきた足音にピンと耳を立てた。生まれたてのコータスより頼りないよたよたとした足取りを雪山の狩人である男が聞き間違えるはずがない。だがその響きがいつもよりもやや乱れている上に忙しないことが男の注意を引いた。さてどのように引き止めれば一番長く言葉を交わせるだろうかと脳みそをフル回転し始めた途端、頭上の耳がもうひとつの足音を捉えた。
「その男を捕まえろ!」
かけがえのない友の後ろから猛スピードで追いかけてきたのはロドスのオペレーターのひとりだった。鬼神もかくやという形相で一気に距離を詰める刀術師の手をすんでのところで躱しながら、小柄なフード姿の彼は覚束ない足取りでこちらへと駆けてくる。そのフェイスガード越しの視線が即座にシルバーアッシュから逸らされたため、雪豹の尾を一振りした狩人の行動は決まった。
「シ、シルバーアッシュ! どうして!」
「私を目の前にして無視などとつれないことを言わないでくれ」
「そのまま押さえていろ」
「ヒィッ! エンカク、だからこれは、」
小柄で体力の少ない彼の行動力を奪うのは造作のないことだった。両腕をホールドし、できるだけ負担のない姿勢で羽交い絞めにしたままジタバタと暴れる両足をぐるりと尾で抑え込む。そうしてしまえば身じろぐこともできない哀れな戦術指揮官の彫像の完成である。
追いついてきたサルカズはその哀れな戦術指揮官を前に、一瞬の躊躇もなくその白衣へと手をかけた。
「――で、何発殴られた」
「腹に一発、床に転がされて好き放題蹴られた。頭を守るのに必死で回数はおぼえてない」
「ほう」
顕わになった薄く白い腹にはくっきりと痣が浮かんでいた。色からして暴行を受けてからまだそう時間は経っていない。彼のこの時間の予定としてはこの地のいくつかの組織との会合があったはずだが、どうやら予期せぬトラブルが起こったらしい。
「想定の範囲内ではあった。だからアーミヤは連れて行かなかったし、念のため防護用のジャケットも仕込んでおいた」
男は淡々とした口調で告げる。その言葉は執務室で幼いオペレーターたちに菓子を振舞うときと何ら変わりはなく、ゆえに通路の体感気温はイェラグの冬山ほどに低下した。
「俺を直前で護衛から外したのもそのためか」
「そっちは別の理由。他に頼みたいことがあったから戦力を温存しておきたくて、……ッ!」
逡巡なく傷口に爪を立てられ、男は悶絶して発言を中断した。まったく、これでバレずに作戦を続行するつもりだったというのだから恐れ入る。
「医務室に連れて行け。俺は少々用事が出来た」
「まあ待て。盟友よ、この男はカランド貿易が一時預かろう」
その一言だけでシルバーアッシュの意図を理解した彼は、痛みにうめきながらもがっくりとうなだれた。脱力した身体を抱きしめながら久方ぶりの低い体温を堪能していると、恨めし気な声で彼は負け惜しみを言い放った。
「君たちは優しすぎるよ。いつか悪い人間に騙されるからな」
「お前より悪い男などそういまい」
「その通りだけどー」
「おい」
「お前は今からわが社の臨時スタッフだ。盟友が私を心配して護衛にと寄こしてくれたが、私は勝手に散策に出てトラブルに巻き込まれることになる」
「知らん。勝手にしろ」
「盟友よ、私のために明日の午後どこかで一時間空けられるな?」
「また膝枕?」
「一晩中でもいいが」
「オーケイ、ならディナーをご一緒にいかがかな、社長様。貰い物だがエトルシの十二年ものがある」
「いいだろう」
「エンカク、副官のペッローはもう姿を消してると思う。潜入捜査官だから彼のことは深追いしなくていい」
「手が滑るかもしれんな」
「彼が五体満足なら次の危機契約の配置を考え直してやる」
「おぼえておこう」
話は終わった、とばかりに背を向けるサルカズにあれこれ他愛のない文句を浴びせていた男の拘束を解きつつ部下を呼び、医務室へ連れて行くよう言いつける。
「もーまったく君たちのおかげで計画が三段飛ばしで解決してしまった。どうしてくれる」
「はいはい、ドクター様。抱えますからしっかり捕まっててくださいね」
「ひぇっお姫様にされちゃう……!」
「それだけ冗談が言えるなら大丈夫そうですね」
大人しく運ばれていく彼を見送って、さて、とシルバーアッシュは退屈な狩りに全力を出すべくその頭脳をフル回転させ始めたのであった。