筆跡 ドクターという男は筆まめである。メールに書類に研究のためのメモ書きまで、ドクターは毎日大量の文字を書く。文面はわかりやすく、文字は読みやすく、走り書きでさえも可読性の高い彼の手書きの書面は基地内のあらゆる場所で喜ばれ、果ては子供たちの手習いの見本としてさえ使われている。だが、そんなそこかしこにあふれかえったドクターの手書き文書を、Scoutはひとつも持ってはいない。
「Scout、少しいいか」
テントの裏手で肺に深々とニコチンを吸い込んでいると、ふらりと現れた黒いフード姿がこちらの名前を呼んだ。慌てて火を消そうとするこちらをそのままでいいとジェスチャーで押しとどめて、彼はするりとかたわらへとやって来る。
「次の作戦なんだが、君の小隊には少し面倒なことを頼みたくて」
差し出された小さなメモに記されていたのは簡素ではあるが要点のわかりやすい地図とターゲットの特徴。端から頭の中に叩きこんでいる間に、淡々とした口調で説明が重ねられる。いくつかの質問によどみなくかえされた返答の最後に了承の頷きを返すと、彼はいつも通りメモを指差しながらあっさりと言った。
「では毎度のことになるが、そのメモは内容を覚えたら焼いておいてくれ」
「了解」
機密性の高い任務である。バベルの立場はいまだなお危うく、証拠ひとつメモひとつで今まで築き上げてきたものなどあっけなく崩れ落ちてしまうことを二人だけでなくここにいる誰もが知っていた。だからこその彼の指示であり、今までScoutはそれを忠実に守ってきた。
密談はほんの短い時間で終わり、忙しい指揮官は世間話を交わす暇もなく次の打ち合わせへと向かっていった。その背中を見送りながら、Scoutは手元の小さなメモへと視線を落とす。内容はすべて頭に入れてしまったため、この紙片はすでに用無しである。火をつけて煙草の灰とともに撒いてしまえば、証拠は何も残らない。いつも通りの、慣れた手順だった。だがその手が一瞬ためらってしまったのは。
「………………」
これは、ドクターがScoutのためだけに書いたメモである。Scoutに読ませるためだけに書かれた、ほんの少しだけ崩れた走り書きの文字。他の書面ではほぼ見たことのない大きさと角度のずれた文字をもう一度だけゆっくりと撫で、Scoutはその端に煙草の先端を押し当てた。