キスの日記念日「本日は『キスの日』ですので、スタッフの前でキスをしていただきますとペア入場券が半額になりまーす」
「は?」
びしりと固まったScoutの視界の端で、形の良い頭がなるほど、と小さく頷いたのが見えた。
どうしてそんな事態に陥っているのかと呆れられたところでScoutに言えることはひとつしかない。ドクターに聞いてくれ、である。次の会合場所の下見のためにドクターとScoutがクルビアのとある移動都市に到着したのは昨日のことだった。しかし入管でのトラブルのためにドクターが持ち前の頭脳と弁舌と少しどころではない金銭を消費した結果、『些細な記載ミス』は無事に何事もなく解決し、しかし二人が街に放り出されたのは既にたっぷりと日も暮れた頃だったのである。ずいぶんと軽くなってしまった懐を抱えながらもかろうじて取り戻せた荷物を抱えて宿へとたどり着けたときには、あのドクターですら口を開くのも億劫といった始末であったので、定時連絡だけを済ませてこの日は二人とも早々にベッドの住人となることにした。そして翌朝、道端のスタンドで買ったドーナツとコーヒーを片手に地図を広げて予定を組み直していたドクターは、食べきれなかったドーナツの半分を(この時点でScoutは二つ目をすっかり平らげ終えていたというのに!)Scoutのスカーフに覆われていない口元に押し付けながら、まずはあの展望台に行こうと言ってこの都市のどこからでも見える高い塔を指さしたのであった。
確かに、並んでいるときにはやたらとカップルが多いなとは思っていた。だがScoutの数少ない――泣きたくなるほどにささやかなものでしかなかった――恋愛知識において、こういった場所はデートに向いているということくらいは知っていたので特に気にすることもなく隣に立つ男の護衛として極めて真面目に周囲を警戒していたのである。だがいざチケットを買う段になって言われたのがこれだ。キスの日? 何がだ? スタッフの前でキスをしろ? 護衛にはあるまじきことに、この瞬間のScoutは周囲への警戒すら忘れて半ばパニックになっていた。確かにScoutはこの隣の小柄で角も尻尾もない人間のことを好ましく思っている。思い慕っていると言い換えたっていい。カズデルの荒野で擦り切れ命果てるのを待つだけだった人生に、たったひとつ灯りをともしてくれたひとなのだ。彼のためだったら、たとえリターニアのかの高塔へ上って皇帝の首を獲ってこいと言われたとて喜んで従っただろう。だが、キスをしてみせろ? 彼に? しかしぐるぐると混乱した頭で固まってしまったScoutとは裏腹に、隣のいつだって涼しげな顔を崩さない彼は、砕けた地方クルビア語であっさりと了承の意をスタッフに伝えたあと、くるりとScoutへと向き直った。
「Scout」
「なん、――――ッ」
最初にコーヒーの香り、次がシュガーの、ああ確かに彼に渡したドーナツには表面に砂糖がまぶされていた、そして最後にはほんの少しだけ体温の低い、薄くてかさついた柔らかな感触が。時間にしてわずか一秒にも満たない一瞬の出来事だったが、その時のScoutにとっては永遠にも思える一瞬だった。
「確認いたしましたこちらペアチケットになりますどうぞこの移動都市一番の景観をごゆっくりお楽しみくださいませ、はい次の方ー!」
呆然としたまま動けないのScoutの手を、ドクターがぐいと引く。ギギギ、と錆びついた機械のようにぎこちない動きで彼の背に従うScoutに、とうとうたまらず彼はフードの下で噴き出した。
「もしかして初めてだったのか? すまないことをしたな」
「い、いや、初めてってわけじゃあないんだが」
「なんだ。残念だ」
俺だって心底残念だ。違う、残念だと思ってくれている? 彼が? 俺に対して? 一生胸の内に秘めて土の下まで持っていくつもりだった決意が、ぐらぐらと揺らぐ。それだけの衝撃だったのだ。なにせ、彼と自分がキ――――その、今だって信じられないんだが、キスを、した、なんて。
「謝らないからな」
「へ?」
「昨日の入管トラブルで懐が寂しかった。君の許可を待たずに実行したことは申し訳なかったと思うが、あれだけの一般人の中で騒いでトラブルを起こすリスクを考えると素直に従ったほうが早かったし、野犬にでも噛まれたと思って忘れてくれると」
「待て、待ってくれ」
「君が護衛の任を降りたいのならば、基地に帰ってから配置換えを申請しておく。だが残念ながらこの都市にいる間は、」
これ以上彼に喋らせると、事態が勝手に悪いほうへと転がり続けるのは目に見えていた。ドクターの話術とはそういうものだということが、Scoutは身に染みていたからだ。だからScoutはドクターの肩を、怪我をさせない程度に手加減はしつつも強引につかんで振り向かせ、視線をさまよわせるその瞳を強引に真正面から覗き込んだ。勢い余って額がぶつかりかけたが、その時のScoutに気にしていられるほどの余裕はなかった。
「ドクター、その、嫌じゃなかった。俺は嫌じゃなかったんだ」
「え」
そらされてばかりだった彼の眼差しが、ようやくこちらを向いてくれた。いつも世界を、遥か遠くを見通す瞳が、このひとときだけは自分のことを映している。それだけでScoutには十分だった。
「そうか、嫌じゃあなかったのか、そうか」
「ドクター?」
「ふふ、いい。今はそれで十分だ。……これ以上のことばなんてもらってしまったら嬉しさで心が破裂してしまう」
後半は早口でボソボソと呟かれてしまったのでよく聞こえなかったが、彼が少なくとも上機嫌になったことだけはわかった。ビー、とベルが鳴り、ここが展望台へと直通のエレベーターホールであることをようやく思い出したScoutは慌ててドクターの体を開放する。途端に周囲の視線がチクチクと突き刺さり、今さらながら自分がとんでもない姿勢で彼と話していたことに思い至ったが、かの人はといえば上機嫌なままでScoutの手を引きエレベーターへ乗り込む人の流れに乗った。
「Scout、ガイドブックに書いてあったんだが、この展望台で告白すると短期間で別れるジンクスがあるらしい」
「!?」
「だから非常に残念ながら今からは仕事の時間だ。君のそのすばらしい目を貸してくれ」
「了解した」
そうだ、そもそもここへは仕事で来ているのである。カップルで満ちた狭い箱の中で護衛として周囲への警戒を再開したScoutは、しかし傍らのドクターからは見えないようにまだ砂糖の残るおのれのくちびるへと触れて、静かに目を伏せたのだった。