On your marks 「Scout、君は今から私の嫁だ」
「……………………は?」
訪ねたい場所があるのだが誰か護衛を頼めないか、というドクターの言葉にいちもにもなく手を上げたのはScoutだった。街道からも外れた小さな町は貧しいながらもどこか長閑な雰囲気が残っていて、空高いこの季節にいち早く収穫のシーズンを迎えているようだった。大仕事を終え一段落というタイミングは人心というものは寛大になるもので、あやしい風体の客人がふらりと迷い込んでも別段気にも留められないのは幸いである。サルカズの角を隠さずとも石も罵声も飛んでこないのは久しぶりだとともすれば緩みかける気を引き締めていると、ドクターが何度も引き止められながら扉から出てきた。
「いいのか?」
「用事は済んだよ」
彼が首を振るのだから、Scoutが気にすることではないのだろう。だが予定時刻よりもずいぶんと早かったため、野営地の変更が必要だった。来る途中にいくつか目星をつけておいた場所を脳内でピックアップしていると、ふと賑やかなざわめきが耳に届いた。
「祭りか?」
「そういえばレースがあると言っていた」
「レース? 駄獣レースか」
「おそらくは。昔はここの横を街道が通っていたから、名残りがあるのかもしれないな」
いわく、昔はこの先に大きな鉱山があり一帯はかなり栄えていたらしい。移動都市が開発されるよりも前のことなのでもはや想像することしかできないが、どこか余裕のある人々の表情はその豊かさの残した足跡であるのかもしれない。などと話ながら歩いていくと、開けた通りの中にロープや木で何やら会場が設けられている。
「駄獣レースではなさそうだな」
覗きこめどもいななきひとつ聞こえず、ただ人々の喧騒が響くのみ。では何が行われるのだろうと眺めていると、さすがにあやしかったのか顔役らしいペッローの男に呼び止められた。
「トランスポーターか?」
「ああ、あちらの外れにある青い窓枠飾りの家に届け物を」
するりと彼の口から出てくる嘘は打ち合わせ済みの内容だ。トランスポーターとその雇われた護衛。必要であれば通行手形を、と続ける彼の言葉に男は手を振り、わかりやすく肩の力を抜いて背後の会場について説明をしてくれた。
「レースだよ、嫁さん担いで運ぶんだ」
「それは……ずいぶんと盛り上がりそうだな」
「毎年このために走り込んでるやつもいるくらいだ。最近始めたんだが、けっこう盛況なんだぜ」
「部外者が観戦しても? 同僚たちに自慢したい」
「もちろん。賞金だってある、つっても金じゃなくて、ただの持ち寄りだがね」
そういって男が指差したのは会場の端にある大きな台だった。いわく参加者の家庭からひとつずつ、処分に困ったり作りすぎたりしたものを提供し、レースの順位が上の者から好きに選べるらしい。瓶詰めやら暖かそうなマフラーやら、どれもがそれぞれの価値を持つ微笑ましい光景ににこやかに相づちを打っていると、ふと隣の彼の動きが止まる。
「ケルニーの初版本……!? 嘘だろう、うちでも第四版だったんだぞ」
「ドクター?」
「フェイ・ユンの独白集に、なんてことだマクシミリアンまで四冊揃っている」
「おい、」
「すまないが、あの本はどちらの? マダム・ドリューの家庭の作法と実践という赤い本の山なんだが」
「んあ? あー、誰んちのだったかな。おーい、グレン、あんたなら知ってるか」
「あれならユイーズんとこのじいさんのだろ、去年亡くなった。学校の先生だったから、頭良かったって。あれがどうかしたか?」
「Scout、君は今から私の嫁だ」
「……………………は?」
ぽかんと呆気にとられた三人の前で、彼は意気揚々とペッローに尋ね始める。
「部外者の飛び入り参加は? オーケイ、ん、参加費として並べられる物が必要、と。依頼人の荷物に手を付けるわけにはいかないから、さて困ったものだな。Scout、君は何か持ってないか」
「待て、待ってくれドクター、話の展開が速すぎる。あんたらもいいのか? 言っちゃなんだがこんな怪しい……盛り上がりそうだから構わない? 是非とも? おいおいマジか」
「持ってないか。なら他に……ああ、いいものが見つかった。この中でボリバルのキャンディを食べたことがある人は? ない? それは良かった。このコーヒーキャンディはどんなに眠くても一粒で目が覚める逸品だ。ついでに小さいがタフィーも一缶つけよう」
男たちは見たことがない珍しい菓子に盛り上がり、彼はといえば珍しい書籍にテンションが振り切れている。なんてことだ。あれよという間に謎のレースへの参加が決定していたScoutは、茫然自失しながらも、おそるおそる口を開く。
「ドクター、その、嫁とは」
「ん? 婿が良かったか? 今となってはあまり意味のない区別だとは思うが、他ならない君の意見だ、尊重しよう。この大会の名前もパートナー運び大会であるし」
「違う、そうじゃない、そうじゃないんだ」
「そうか、君にとってはあの夜は遊びだったんだな。悪かった。嬉しさに浮かれていたのは私一人というわけだ」
「おいおい、角の生えそろった男なら責任は取れよ」
「そうだぜ色男」
「話をややこしくしないでくれ! いや、違う。あんたに関することで遊びだったことなどひとつもない。それだけは信じてくれ」
流されている。全力で流されている自覚はある。だがもはやどうしろというのだ。いつの間にか周囲に集まっていたギャラリーはヒューヒューと指笛を鳴らして祝福ムードだし、彼はといえば頬をバラ色に染め、その表情がただの演技だと頭では理解していてもときめく心臓を止めることはできなかった。
「では事実婚ということでエントリーを受け付けてもらえるだろうか? ありがとう、私のパートナーはかなり足が速い! 期待していてくれ!」
彼の発言にわっと場が沸き立ち、バシバシと肩を背中を周囲から叩かれてもはや引き返すことはできなくなっていた。どうしてこうなった。
「Scout、ルールを聞いてきた。コースはこの一直線、どちらが担いでもいいが途中交代はなし。転んだり相手を落としたら即失格だそうだ。やれるな?」
「イエス、ボス。……なあ、ドクター。本当にいいんだな?」
「どれがだ?」
問われてみれば確かに、どれからなのだろう。ええと、俺たちは人を訪ねてきて、変なレースを見かけて、ドクターが参加したいと言ったから俺まで巻き込まれた。どこからが俺の本意なのかと問われたところで、彼が望むままにというのが正直一番近い答えである。ならばこの状況は想定のはるか範囲外ではあるものの、そんなことは作戦中は日常茶飯事でしかない。そもそもここにいるのが自分でなくLogosやOutcastであったとしても、ドクターは自身を抱えて走れと命じただろう。ならばこの任務は自分がこなしたって問題ないはずだ。
「ああ、Scout。勘違いはしないでほしいんだが」
自分の中での納得を終えたScoutが意識を切り替えていると、ぐいと袖口が引かれた。振り返った先にはいつもの通り感情の薄い彼の顔が、そっとScoutの耳をとらえる。
「私は、たとえこのような機会であったとしても、君のことをパートナーと呼べて嬉しいよ」
「!」
そうして、大会新記録でぶっちぎり優勝した飛び入り参加のSさんとDさんは翌日の地方紙の一面に載り、それを見たケルシーはコーヒーを噴いたのだが、それはまた別のお話である。