スプーンひとさじの幸せ「どうして君が作るとこんなに美味しいんだろう」
同じ缶詰なのに、とぼやくドクターの手元で、年季の入ったステンレスのカップがからりと音を立てた。
それがほんの短い期間であったとしても、荒野で生き延びるというのは苦難に満ちた行為である。たとえ十分な準備があったとしても、目の前に突如として天災が現れてしまえば何もかもが終わりであるし、そうでなくとも哀れな旅人の身包みを剥ごうと手ぐすね引いている連中など掃いて捨てるほどうろついている。だから、この頑強とは到底いえない元学者である男が荒野を渡るすべを知っているのは非常に奇妙なことだとScoutには思えたのだった。
荒野に点在する小さな集落への交渉役にみずから名乗りを上げたのはドクターだった。古い知り合いがいるから、というのがその主たる理由で、あまり警戒されたくないのだという言葉に従い護衛は最小限、率いる小隊は近くの渓谷に待機してもらいドクターとScoutだけが数日かけて谷の底の集落へと向かっている。進むスピードこそゆるやかであったものの、ドクターの足取りはしっかりしたもので、むしろ斥候であるScoutの足によくついてきているものだと感心するほどだった。
「研究者だからね、誰も行かないような場所はむしろ歩き慣れているんだ」
君のガイドは頼もしい、と続けられたことばに緩んだ頬を見られなくて良かったと、この時ばかりは顔を覆ったスカーフに感謝する。そうして野営に適した場所を見つけた二人は本日は少し早めに準備を整えることにしたのだった。
何か魔法でも使ったんじゃないかと言わんばかりの疑い深い眼差しに苦笑を返し、Scoutは何も持っていない空の両手を上げる。
「作るところはアンタだって見てただろ?」
「ポケットにこっそり道中で摘んだ香草が入ってたりしないか」
「あのオリジムシの足跡ひとつない道でどうやってハーブを収穫しろっていうんだ」
ドクターという男は頭が良すぎてときどき発想が巫王の玉座よりも高いところに飛んで行ってしまうことがある。なおも疑い深い眼差しがポケットを覗き込んでくるのを自由にさせながら、Scoutは自分の皿によそったスープをスプーンですくう。栄養価はそれなり、腹持ちはそこそこというこの缶詰は、糧食としてはギリギリ当たりの範囲にある。物心ついたころから食べているためもはや食べ慣れたという言葉で表現することすら憚られるそれは、テラ全土で広く流通している豆と肉の煮込み缶である。申し訳程度に野菜の切れ端も入っているし、味付けもシンプルで癖がないため何も考えたくない日の食事には最適だが、正直感動するほど旨いものでもない。誰が料理――などとたいそうな表現を使うほどでもなく単に温めただけにすぎないのだが――したところで味など変わるはずがない代物なのだが、しかしドクターには大いなる疑念が生じてしまったらしい。
スプーンでひとさじ口に含んでは、ああでもないこうでもないと首をかしげている。この優秀な頭脳を独り占めしてしまっているようで、正直尻の座りが悪い。合成肉の破片を噛み切ろうと口を開けた際にのぞいた舌が焚火を映してやけに赤く見え、Scoutはできるだけすみやかに脳内からその画像を消そうと努力した。
「とはいってもなあ、ドクターはいつもどうやってこれ作ってるんだ?」
「どうって、蓋開けて火にかけるだけだが」
「あー……それだ」
なるほど、多忙な彼らしい作り方である。Scoutは足元の空になった缶を取り上げ、軽く底を叩いて見せた。
「底に豆がたまってるから、温めるときにしっかりかき混ぜてやったほうがいい。でないと味のムラがな、アンタだってわかるだろ」
「だいたい先に味付きの豆だけ食べてしまって、あとで味の薄いスープを惨めにすする羽目になる。そんなものだと思っていたが」
「混ぜるときに豆をつぶしながらやるとな、いい感じになる。焦げやすくなるから水をちょっと足しながら根気よく混ぜるんだ」
なるほど、と何度も頷いたドクターは、しきりに感心しながら自分の皿を眺めている。
「飽きるほど食べてきたと思っていたが、まだまだ発見はあるものだな。勉強になった」
「そんなたいそうなもんじゃないだろ」
「いいや、大発見だ」
「偉そうにご高説を垂れてはみたが、俺も別のやつからの受け売りだからな。料理上手なやつはもっと上手くやる方法を編み出してるだろうよ」
「平和になったらコンテストでもやってみるか。優勝者には缶詰一年分で」
「そりゃただの在庫処分を押し付けてるだけだろう」
「ドクターって変わった作り方をなさるんですね」
「うん? これって普通じゃないのか」
アーミヤの指摘に目をぱちくりと見開いたドクターは、火にかけていた缶を見下ろす。何の変哲もない肉と豆の煮込みには、見慣れた食品メーカーのロゴが躍っている。何度かパッケージデザインが変わったのだというそれは、今回のような小規模な出張任務においては頼れる味方だった。なにせ温めるだけで食べられるので、調理技能が壊滅的なドクターであったとしても――これについては記憶喪失を言い訳にしようとしたところ、以前からだったと皆が口を揃えて言い切ったのでもう諦めるしかないのだろう――食事にありつける、インスタントヌードルに並んでドクターの信頼厚い一品である。
「身体がおぼえていたっていうか、ずっとこうやって作るものだと思ってたんだけど」
「具を潰してしまうんですね」
「見た目はあんまりよろしくはないね」
「えっと、消化には良さそうですから、今のドクターには最適な食べ方かと!」
かわいい愛娘に言葉を選ばせてしまった。なんてこと。だがよく考えてみればこんなもの、火にさえかければ食べられるのだからこんな手間をかける理由がない。少なくともドクターには思い当たる節がない。今のドクターには。
「でもね、こっちのほうが美味しいんだよ」
「そうなんですか?」
「あっ信じてないね、豆の塩気と風味がスープに溶け込んで食べやすくなるんだって教えて、もらって……」
誰に。一体誰に。ぽかりと空いた虚ろはいつだって唐突にその不在をドクターに突き付ける。教えてもらったということはわかるのに、それが誰なのかは思い出せない。そこにいたはずなのに、食に関心が薄いドクターが習慣に取り入れるほどの近さで教えてくれた誰かがいたはずなのに。ぱちんと閉じた瞼の裏で、誰のものかわからない無骨な指先が握ったスプーンが缶の中身をかき混ぜている。丹念に丁寧に、まるで大切な人にふるまうためであるかのように。
「ドクター?」
「ああ、うん」
心配そうなアーミヤにぎこちない笑顔しか返せないなんて一体今日の自分はどうしてしまったのだろう。かぶりを振って無理やりに気分を切り替え、ため息の中にそっと幸福を逃がしながらドクターは言った。
「きっと誰か、料理上手な人に教えてもらったんだろうね」