秋雨と小さな嘘と戯れ ————しとしと、と。
『午後にかけて雨が降るでしょう』
どちらが見るでも無く付けっぱなしにしていた報道番組のお姉さんはそう云っていたな。
予報通りに降ってきた雨を見て、乱歩は昼間に居間で見た気象予報士の言葉を思い出した。
今の季節に相応しい秋雨で、細雨と云え無くもない小振りの雨。そんな雨が庭の草木を濡らし土や沓脱石の色を濃くしている。屋根や地面に当たる音がまばらに鳴り、其の雨声が静寂と少しの冷たさで周囲を満たしていた。
ゆっくりと進んでいく時間の速さを変えていく様な、先程とは違った空間に塗り替える様なそんな空気の移り変わりを肌で感じていた。
「……降ってきたのか」
何と無しに障子から覗く縁側から続く庭の様子をぼんやり眺めていると、下から声が掛かった。声の主は考える迄も無く福沢である。何をしても動く様子は無く、今日は半日このコォスか等と考えていたものだから少し驚く。そうして其の言葉を肯定してから言葉を続ける。
「小雨だし今日は洗濯物を干していなかったし慌て無くても大丈夫だよ」
暗に其の儘で善いと仄めかすと、此の状態になると滅多に開かない目を開け乱歩に問いかける。
「……寒いのか?」
成程。
通りで普段雨程度では崩すことの無い状態を崩してまで話しかけて来る訳だ。福沢は雨の音を耳で拾い同時期に乱歩が身じろいだ為、少し下がった温度と共に彼が冷えを感じたと考えたらしい。
「生憎だけど、甘えて離れない大きなオオカミさんが居るから暑いくらいだ」
心配は要らない、と揶揄を含んだ言葉でそう返すと「ならば善い」とだけ返事をした後福沢は何事も無かったかの様に再び目を閉じた。躯幹に絡む腕の締め付けが強まったのは乱歩の気のせいでは無いだろう。
はいはい、甘えたさんだね。
福沢がこうなる事は別段珍しい事では無いし、休日に偶にこんな形になる彼を乱歩は知っているので好きにさせている。
福沢が好きな事をしている、と云う事実が乱歩にとっては重要で他は瑣末な問題なのだ。
加えて此れが最も福沢を好きにさせている理由なのだが、乱歩は甘えてくる彼が大層可愛く見えるのだ。其れはもう、眺めるのが趣味の一つと云っても過言では無い程大好きなのである。
然して、其の姿を見せる相手が己にだけだと云う事実が乱歩自身の心を満たしていた。
格好良い福沢さんも大好きだけど、同じぐらい可愛い福沢さんも大好きなんだよね!
結論、乱歩は福沢ならば何でも好いのだが、其れを云うのは野暮と云う物だろう。
「そういえばさあ、知ってる?」
此の状態の福沢に話しかけても返事が返ってくる事は十中八九無いに等しい。
然し、普段の二人であっても余り代わり映えはしない為、気にせず続きを喋りだす。
どんな時でも乱歩が唯只管喋り、福沢は反応が少ない。正確に云えば、福沢は無反応と云う訳では無いし、乱歩も其れを重々承知している。大抵が何と返そうか頭を悩ませ、さんざ考えた挙句結局は何も云わない事が殆どだ。
そうして、後々福沢からその時の話題を蒸し返される事もあったし、随分後になってから返事を貰う時もあった。
「人の声が一番綺麗に聞こえるのは雨の日の傘の下なんだって〜」
「……」
「でも名探偵は思うわけ。そんな状況下で声を聞くだなんて相合傘以外無いだろって。唯でさえ雨の中で音が聞こえ辛いのに一人一人傘を差していたら距離が出来て余計に聞こえ辛いもんね」
「…………」
「だから此れは絶対相合傘効果だと思うんだよ! まあ諸説あるし此の説を否定する心算は全く無いんだけど」
「………………」
「其れで、人を落とすにはこの方法が効果的なんだって! まあ僕には既に格好良くて素敵な相方さんが居るから、試す必要なんてこれぽっちも無いんだけどさあ」
予想通り返事は返って来ないが、聞いているとばかりに乱歩の腹部にぐりぐりと旋毛を押し付けてくる。其の福沢の少し乱れた髪を軽く梳いて整えてから、態とらしく聞こえない程度に甘さを意識して声を出す。
「でも僕は普段から福沢さんの声が素敵だなあと思っているから、若しその魔法が本当ならもぉっと福沢さんの事を大好きになるんだろうなあ〜」
言葉を聞いてピクリと福沢の片眉が動いた事を乱歩は見逃さなかった。内心にんまり微笑んで、福沢が次にどう出るのかを観察する。
乱歩は福沢に好きにさせるのを好んだが、退屈を何より嫌う。勿論、時と場合に寄るが今日は部屋に隠ると云う寄りは何かをしたい気分だったのだ。
乱歩ももう子供では無いのだから一人でやろうと思えばいくらでも出来る。
然し、乱歩の上から福沢を退かさなければ彼が立ち上がることは出来ない。そして此の状態の福沢を動かすのは然しもの乱歩も難しかった。こうなると何かきっかけが無い限り梃子でも動かなくなるのだ。
福沢を見守っていると、色々考えていたのだろうことが判る数秒の後、突然乱歩の細腰に回していた手を畳について身体を起こした。すると、丁度顔が目の前に現れ妙に眼力に迫力のある瞳と目が合った。
「……………………買い出しがあるのを失念していたな」
————買い出し。
下手な言い訳一つして立ち上がる福沢に、つい笑い声が零れ落ちた。慌てて痺れかけていた脚を動かして伸びのついでにと装ったが上手くいかなかったらしい。
福沢に笑うな、と目で訴えられるが無理なものは無理だ。
僕にもっと好かれたい福沢さん、可愛過ぎる……!
乱歩は福沢の様子に興が乗り、つい意地の悪い質問をしてしまう。
「それって今日じゃないと駄目なの?」
「…………そうだ」
嘘だ。
買い出しは今日でなくても別段構わない筈。福沢さんは休日であっても基本的にやるべき事を終わらせてから自分の時間を使う人だ。昼過ぎには全てを終わらせて僕にべったりだったのだから、其れはつまり今日必ずやる可き事では無い。
「僕も着いて行っても善い?」
「…………判っているだろう」
「ええ〜? 判んないや」
僕も嘘だ。
僕は福沢さんの嘘も意図も気付いているのに気付いていない振りをしている。福沢さんは僕の話を聞いて雨の中を二人で歩く為に買い出しの話をしているのだ。勿論、持っていく傘は一つだけ。僕が気づかない訳が無い。
二人でばればれな小さな嘘を吐き笑みを浮かべる。
「……えへへっ! 雨の散歩逢引だね!」
「…………〝買い出し〟だろう?」
乱歩が笑い乍ら両手を上げ差し出す。福沢は其れを掴みひょいと立ち上がらせる。長年行ってきた何気ない動作だ。
積み重ねてきた月日の歩みが判る時、乱歩はとても幸福な気分になる。そうして今後もその月日は長くなる一方だろう。乱歩はそう思い、寄り一層笑みを深めた。
***
ふんふんふ〜ん♪
乱歩の鼻歌が秋雨の雨粒が鳴らす弾ける音と混じり合う。
機嫌良く雨合羽を羽織った腕を揺らして長靴を履いた足を進める。元々雨は嫌いでは無いがこれが有るとあまり濡れることも無く、乱歩は雨の日でも憂鬱にならずに済んだ。
乱歩にとって福沢に与えられたものは何であっても彼の日常に色を与える。眼鏡を首めとして、其のどれもが乱歩にとって宝物で大切な物だ。
「ねぇ、ねっ!」
「如何した?」
「和菓子屋さんに寄っていこうよ!」
「……食べるのは夕餉後に、だ」
つまり買って善いのは一つだけ、食後に食べる分だけと云う事だ。福沢の云いたい事は理解出来る。然し、乱歩が承諾するかは別問題だ。歩みは止めずに其の決定は変えようと、先程の様に甘さを含んだ声でお強請りしてみる。
「ええ〜〜。もっと僕の事甘やかしてくれても善いんだよ?」
「十二分に甘やかしていると思うが……?」
乱歩の企みは瓦解し当たり前の様にそう返事が返ってくるが、福沢も乱歩の事を甘やかしている自覚があると判って嬉しく思った。機嫌の良さが更に上がる。
「んふふっ、確かにね! でも僕も結構、福沢さんのこと甘やかしていると思うけど?」
上機嫌の儘、傘を持っている福沢の手にそっと手を乗せ含みを持たせてそう訊ねてみる。すると、福沢は微かに眉間に皺を寄せ沈黙した後絞る様に声を出した。
「…………………………夕餉は残すな」
「もっちろん!!」
此れは夕餉を残さなければ幾ら買っても善いと云うお許しが出た、と云う事だ。
乱歩と弁舌で争おう等と考え無い方が善い。
此の様な会話は口論にも入らないが、福沢との会話も乱歩が成長するにつれ福沢が言い負かされる事の方が多くなってきていた。
其の件に関して、成長し大人になったからこそ寄り一層弁舌が上手くなったと感じている福沢だった。が然し、実際の所は其れも在るが、恋人と云う欲目で福沢が以前にも増して乱歩に甘くなっている事が大いに関係しているのだ。
当ての無い散歩から目的地が行き付けの和菓子屋へ変更になる。
何処へ行くのも自由だ。何をしてもいい。散歩逢引とはそう云う物だ。目的地へ向かう足を緩めることなく一つ傘の下で改まって福沢は乱歩へ問いかける。
「…………其れで、如何だ?」
「あははっ、福沢さんこそどうなのさ」
じっと見詰めて催促する様にそう問われたことに笑いが止まらない。乱歩は上機嫌も相俟ってにやにやと口角が上がった儘治まらなかった。其の顔を見て渋い顔をする福沢。
「質問を質問で返すな」
「別にはぐらかしてないってば。先に福沢さんから聞きたいだけ!」
話を逸らした様に感じたらしい福沢に、そうお強請りするとむっと不満そうな顔をする。先程から福沢の表情が素直に豊かで、乱歩は笑いが零れっぱなしだ。豊かと云っても福沢にしては、と云う枕詞が付くが。
今日は本当に甘えたさんだねえ、福沢さん。
其の言葉が聞きたいが為の外出なのだからそう云う反応にもなるだろう。唯、其の反応を素直に表に出す事自体が稀なのだ。本日は全力で乱歩に甘えるコォスを止めるつもりは無いらしい。
意地悪し過ぎちゃったし、可愛い福沢さんに免じてサァビスしちゃお!
「…………乱歩」
そう思っていたのに、出そうと思った言葉は己を呼ぶ声に遮られる。反射的に福沢の顔を覗けば真剣な瞳と目が合った。
「乱歩を想う気持ちは変わらん。俺はお前以上に人を愛しく想った事等無いし、此れ以上を知らない。故に変わる事が無いのだ。お前は、無二亦無三では心許無いか?」
もっと好きになって欲しいのはそっちでしょ。連れ出したのはそっちなのに。自分は変わらないのに相手には変わって欲しいだなんて傲慢にも程があるよ。どうして何時も福沢さんは狡いの? 僕ばっかり好きになってる気がする。等、大量の言葉が思い浮かんだが、乱歩はそのどれも口には出来なかった。
傘が周りを覆っており、更には左右は真剣な瞳で乱歩を見詰める長身の福沢と壁だけである今の状態は、乱歩にとって本当に福沢の言葉通り無二亦無三の状態だ。
云いたい事は色々在った。もう其れは沢山在った。脳裏に浮かぶ言葉は全て捲し立てたい情動に駆られたし、先程から暑くて暑くて堪らない。特に顔が本当に酷い。
「………………僕も福沢さんが一番だもん」
故に、乱歩は福沢の腕に抱き付いて其の一言を発するのが精一杯であった。暑いのだから赤いであろう顔を隠すようにして福沢の体に埋めた。
「……そうか」
上で密かに笑う気配がして乱歩はむっと頬を膨らませる。そうすると反論する気概も生まれてくる。とりあえずで脳裏に思いつく言葉を福沢にぶつける事にする。
「僕の方が一途だもん」
「……そうだな」
「互いに得難いと思ってるだなんて僕ら最強じゃないの?」
「……だろうな」
「もうほんと、路を違える未来とか想像出来ないよ」
「……違えるつもりなのか?」
「そんな訳ないでしょ! もうっ! あーーー結局僕ばっかり貴方を好きになる!」
「……………………そうか……!」
あ、今噛みしめたな?
結局福沢の欲しかった言葉を与えてしまい、悔しさが募る。
「はいはい、僕は今もっと福沢さんの事が好きになりましたよ! 大好きだよっ!! 傘とか関係なく今の言葉のせいだよもう!」
「嗚呼………………」
再び噛み締めるようにして頷いてから、少し残念そうに「何故捨て鉢の様な風体で話す」と眉を顰める。
本当にわかんないの?!
「恥ずかしいのっ! 今日は福沢さんに暑くさせられっぱなしだよ!」
「そうなのか?」
如何にも心配です、と云った顔つきで腕に抱き付いてきた乱歩を離し、赤みの差した身体のあちこち見て見て回った。然し、当然特に何も異常が無い為、其れが判れば福沢は、最後に雨香を纏い赤みの治まらない顔をじっと眺める。
「なに?」
此こ時乱歩は予感していた。其れが何なのかは云い表せないが確かに心に騒めきが在ったのだ。一つ二つ云えるとするならば、羞恥を纏っていた乱歩は、ああだこうだ福沢に捲し立てていた辺りから此処が外だと云う事を気にし始めていたし、乱歩にしては珍しく周りから今此の状態が如何見えているのかを心配していた。つまりは、どうせ雨の日の傘云々は二人にとって意味の無い物に等しいのだから早く帰路に着いた方がいいのでは無いか、と。
そんな乱歩の予感を裏付ける様に、此方を穴が空きそうなほど見詰める福沢がふと音を感じさせない動きで互いの口を合わせた。
「……もっと暑くしてやることも出来るが?」
今日は此方のコォスだったか!
そう、朝から少しずつ受け取っていた合図とそれに付随する予感はこれだったのだ。
甘えた福沢さんには二つの種類がある。
其れが只管僕にくっつくに大きな獣になる習癖と、只管僕を優しく貪る大きな獣になる習癖だ。
大概は此の二つのどちらか一つ丈が顔を出し、乱歩に相手をしてくれとせがむ。だが時折、今日の様に二つの合わせ技で乱歩を渇欲してくる時がある。
「…………和菓子屋さんにはちゃんと寄ってから帰るからね」
「承知している」
何が「承知している」だよ、僕相手に下手に出ちゃってさあ。そんなに僕が欲しい訳?
憎まれ口が次々と脳裏を浮かぶが、別に乱歩は此の福沢が嫌な訳では無い。浮かぶ言葉は刺々しいが気持ちや表情は照れ照れと蕩けた顔になっている。福沢に望まれるのは願ったり叶ったりであるし、何度も云うが福沢が好きな事をしていると云う事実が何よりも好きなのだ。
「……共に見る月時雨も美しいだろう」
…………一寸待って。今暗に、障子を開け放して縁側から覗く庭を眺めながら事に及ぼうって宣言したよね? 共にって僕、最中そんな余裕全く無いよ? 福沢さんも知ってるよね?
「……寒くない?」
「俺が暑くしてやると云っただろう」
いやいや、幾ら私有地とは云え何があるか判らないんだからそんな危ない閨事は止めておこうよ。
なんて云えたら苦労はしない。
真意を探る様に互いを見つめ静かに攻防をする二人は、其れでも此の場合に限って先に折れるのは乱歩の方であった。
「明日の分の甘味も買うからね……」
「そうだな、お前に倒れられては困る」
「それは福沢さん次第でしょ」
「…………………………善処しよう」
その間は何?! 無理ってこと?! 遠回しの拒否だよね、それ!! 僕が翌日倒れちゃうくらい抱き潰す気なのこの人?!
…………まあいいや。
そう成ったらそう成ったで責任は全て福沢にある。其の場合の対処を全て彼に任せる事にして、乱歩は考える事を放棄した。
取り急ぎ今考える可きは目の前に見えてきた和菓子屋での甘味選びである。こうなったらとことん買ってやる。どうせ此処でも会計は福沢持ちなのだから。
自らの私財を仕事と乱歩と猫の為にしか使わない男の財布を適度に使わせるのも、己の仕事であると乱歩は考えている。
勿論、お酒など福沢個人の趣味として使っていることも知っている。
然し、其の回数が圧倒的に少ない福沢は乱歩からすれば健康に悪いとしか云い様が無い。何事も溜め込むのは良くないのだ。
だから、と云う訳では無いが福沢が望むものは何でも捧げたいのだ。
欲の少ない男の身体的にも精神的にも守る事こそ乱歩にしか出来ない役目だ、と自負している。其れこそ福沢の相方としての矜恃であると乱歩はいつも信じているのだ。
其れは世間では内縁の妻と呼ぶ。
了