ハイラル城備忘録・青史【調馬師の記録】
1:人参は美味しい
コイツがここに来るようになったのは、姫付きの護衛が選ばれたと耳にしてからまもなくのことだった。
ここは王族専用の馬房。調馬師のおれが専属になって何年になるだろう。こんな風に自分の馬がいるでもないのに訊ねてくる奴は時々いる。王族の馬を預かる場所として、基本的に調馬師と飼育担当以外は立ち入り禁止だ。周囲をぐるりと囲んだ柵の周辺には衛兵が巡回しているし、大きな門扉の前には見張り小屋もある。
「ただの胡散臭いボウズじゃなかったか」
金属を何重にも輪にしたブラシで、丁寧に白いたてがみを梳かしている細身の青年に目をやった。気に入らないのか白馬はむず痒そうに時折首を大きく振る。その対処に必死で、きっとおれの言葉は耳に届いてはいないだろう。
そう最初にコイツが現れた時、もちろんおれは入房を断った。近衛兵だと言われても、鎧姿を見せられても、許可無き者は入れない。それが決まりだ。広いハイラルに移動手段である馬は欠かせない。ましてや王族が乗るとなれば、それはただの手段ですらない。馬は威厳を保つための要具であると同時に、自分の命を預ける大切な相棒だからだ。馬が倒れれば、その背に乗った者は当然無事では済まない。スピードの乗った馬から落ちれば、命だって危ない。つまり馬の善し悪しと調子は命に関わる。悪意を持った者が王族のお命を狙って、馬に毒や何かを仕込むということは当然あり得るという訳だ。
だからこそ調馬師の役目は大義であり、馬房に誰彼なく入れることはできない。
数度かの門前払いの後、コイツはついに今日、許可証を携えてやって来た。滅多なことでは出ない許可証。面構えからは交渉が得意そうでもない。柵にもたれ、おれは何度も諦めずに馬に触れる青年を見た。
名はリンク。姫様付きの騎士なのは最初に顔を見た時からわかっていた。馬房に来た目的を問えば優等生な答えが返る。
さて、コイツの本心はなんだろな。
姫様に帯同して城を出て行くボウズを見たことがあるが、姫様と懇意とは言いにくかった。無表情な上に整った顔立ちだからか、余計に心理が読みにくいことが理由かも知れない。護るべき主と通じ合えない状況。強引なまでの馬房への訪問――。
なるほどね。
フッと鼻から息が抜けた。コイツは人だ。おれにとっては馬より遥かにわかりやすい。
「人参くらい持ってくればいいだろうに」
おれは飼料小屋に立ち寄ってから、手こずる青年の横に立った。青い目は一度だけこちらを見て、すぐに手のひらでなだらかな馬の背を撫でた。いくら馬の扱いに慣れていようが、馬は元来臆病だ。特にこの白い馬は人をよく見ている。悪意や怒り、焦りがなくとも、人の側がいくら信頼を寄せようとも初見の人間に懐く馬ではない。
ボウズの手が触れたところから、たてがみ下の筋肉はビクビクと痙攣した。
「ほらな」
「狡い手を使うつもりはありません」
「……ズルはしないってか?」
おれがわざと声高に言うと、ボウズは手を止めて押し黙った。
ここに来ている時点でズルをしていないとは言い切れないことをコイツも知っているのだ。そしておれに本心を悟られたと気づいたらしい。まったくおれも軽く見られたものだ。肩をすくめた。
「これ、使え」
手に持っていた人参を放り投げる。青い目は一瞬驚きに見開かれたが、手は落とすことなく人参を受け止めた。
「お前が近づくことで、馬が驚いて姫様に万が一のことがあったら困るからな。これは特別というより仕方なくだからな」
ボウズが触れようと努力している白い馬はゼルダ姫様の馬だ。コイツは姫様の馬に自分を覚えさせようとしている。おそらくは仲良くなろうとしているんだ。姫様は乗馬が特に上手いというわけではない。今までは遠出されることも少なかったため、絶対的な経験値が足らないだけだ。姫様と馬で駆けた時、コイツは一抹の不安を感じたに違いない。姫様を護衛するのが仕事の男。乗馬中はどんなに並走していても、ふいの落馬や暴走から直接的に護ることは難しい。
「しっかし、ここまでするかね」
許可証まで取って姫様の馬と接触を試みる。一緒に行動しているのだから、野営や移動の合間に馬との交流を図ることもできただろう。
「そうかお前、姫様に知られたくないのか?」
「……」
「答えない……か。まぁいい。おれが思うに、この馬と仲良くなるだけが目的じゃないだろ?」
固い口は言葉を発しようとしない。
「頑固だな。おれがここの責任者だ。苦労して取ってきた許可証を差し戻すことだってできるんだぞ」
初めて無表情の顔に焦りの色が浮かんだ。おれはニッと白い歯を見せて笑ってやる。
「誰にも言いやしない。おれにとっては調馬は仕事だが、それだけじゃない。ここの馬が命より大事なんだ。本心を隠すような奴に触れさせたくない」
ボウズは真鍮色の髪をかき上げて、顔を隠すように額の上で手を止めた。
「姫様に教えたいのです。馬は怖くないのだと」
「……なるほど」
これほどまでに姫様を思う男はいるだろうか。心通じ合うには馬から。姫様への不埒な気持ちで馬に近づく。おれの中にそんな考えがなかったわけじゃない。だが、目の前の男がそんな邪な感情を抱いているようには見えなかった。本当なら口にするつもりはなかったんだろう。
コイツが抱いているのはもっと崇高で……ひどく重いものだ。
なんとなくそう思えた。頭の片隅にあった疑問がストンと胸に落ちて、おれはそれ以上の詮索をやめた。
「じゃ、まずは馬の気持ちになることだな。いくらお前が馬や乗馬に精通していたとしても、馬だって個性がある」
「感謝します」
頭を垂れたボウズ――いや、姫様の騎士は清々しい目でおれを見ると、手渡した人参に齧り付いた。小気味よく響く咀嚼音。
「美味いです」
「ふっ、ふはははっ」
腹が痛い。なかなかにコイツはやる男だ。コイツにとって姫様はおれにとっての馬と同じ。与えられた仕事でも役目でも、護らねばならない崇拝の対象でもない。ただひたすらに大切で、命を賭してでも護りたい存在に違いない。
人参を無表情のままボリボリと豪快に食らう様にまた吹き出す。
おれはこの騎士を、もう少しここ通うことを許してやろう、そう思った。
了