リフレイン・メモリー③
倫理観が個々の善悪を測るための社会的なものさしであるならば、大きな愛情の前に於いてそれは全くの無意味だ。均質化された価値観で誰かの祈りを簡単に騙るな。
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大勢の人が行き交い、空騒ぎみたいな喧噪がこだまする週末。大通りから一本入った路地に青いのれんの居酒屋がひっそり佇み、例に漏れず通好みの客で賑わっていた。
店主と女房、お手伝いさんの三人で切り盛りする小さな居酒屋。店内に流れる昭和歌謡は少しノイズがかっていて、郷愁に耳を傾けると不思議と酒が進む。連休を前にやたら浮かれた客たちの相手でホールも厨房も大忙しだ。
店の奥に一つだけあるボックス席で、呼び出された司とホームズはコーサカと顔を突き合わせ、ようやく揃ったビールで乾杯した。
「ここのお店、忙しいときは本当にゆっくりなんだけど、めちゃめちゃ美味しいの。だから今日はのんびりいっぱい食おう! 肉も魚も揚げ物も!」
「もう一人くらい雇ってもよくねえか? こんだけ繁盛してるなら」
「この手狭さじゃ三人が限界でしょ」
だなんて各々好きに言いながら、突き出しの小松菜の和え物を頬ばる。
飯行こうぜ飯、いい店知ってっから。――とコーサカから性急な誘いを受け、狙い澄ましたようにスケジュールの穴を埋められた司と、何があったと興味津々で自らスケジュールをこじ開けたホームズの図、という次第だ。
コーサカの前置き通り、退屈を覚えるほどの速度で食事が運ばれてくる。つまみの枝豆に長芋のわさび和えといった前菜に、迫力満点の刺身の盛り合わせ。旬の鮮魚が舟盛りの上でその身を輝かせていて、胃袋に収まる瞬間を今かと待ちわびている。
真っ先に箸を付けたのはホームズだった。
「この寒鰤、めちゃめちゃ美味だ」
「だろだろ。俺も食べよ。……わ、プリップリじゃん」
「肉厚だし食感もしっかりしてる。本当に美味え。このホタテもよさげ……」
そのうちに焼き物や揚げ物が運ばれてくる。普段あまり食べないからとアオサの天麩羅をリクエストしたのは司だ。
美味い食事と美味い酒の前では、誰しもが上機嫌になり口数も増えていく。仕事の話に趣味の話、それから身の上話。そうして三人の夜も賑やかに更けていく。
酔いも程よくまわり、満腹感とともに緩やかな時間が流れる頃合い。
そうだ、報告があったんだと思い出したように口火を切ったのはコーサカだった。
「家族を迎えることにした。ウチに、新しく」
「何、猫? 茶トラ?」と司の軽々しい問いに対し、コーサカはゆるゆると首を横に振った。
「ヒト。……厳密にはヒトじゃねえか。ガキだよ」
「……はぁ?」
あまりの驚きで裏返った間抜けな声しか出せない司の横で、ホームズはそれを笑う余裕もなく、信じられないと言いたげな様子で口が半開きのままだった。
「家族……て。え、あの小せえ1Kにもう一人住まわせるん?」
「流石に無理。だから来週引っ越し」とさも当然のようにコーサカは言い切り、ようやく運ばれてきた揚げ出し豆腐を一口つまんだ。
平然とした彼の様子がまだ信じられず、その話題にどこから触れたらいいのか見当が付かない。司はどうにかして真意を質したかったが、上手く切り出せず口はまごつきっぱなしだ。
「どうしてまた突然。……ってかどんなやつだよ。まさかお前、何処からか攫ってきたんじゃ……」
「人を勝手に犯罪者にするな! 法には触れてねえよ!」
「じゃあどうして。何故このタイミングなんだ? コーサカにしては浅慮だ、と僕は思ったね。正直言って」
ホームズが眼光鋭く詰問する。控えめな言葉数の裏に、必ず見極めてやるとはっきりした意思が宿っていた。
別に隠すようなことでなく、もとより彼らに打ち明けるつもりで晩飯に誘ったのだ。コーサカは多少大袈裟に続けた。
「一人はいるじゃん、不器用なやつって。何処のコミュニティにも。ちょっと人より力が強いとか鼻がいいとか、突出してるって理由だけで多数派から妬まれ爪弾きにされる。大人からも扱いづらいって邪険にされる。本人はいたって真面目にやってるだけなのにさ。……その、取り扱いに困ってたクソ野郎のほうとひょんなことで知り合って、とんとん拍子に話がついたってとこ」
「君、その子を放っておけなかったってこと? まだ会ってすらいないのに」
「施設で子供達を保護してる、と言えば聞こえはいいが。蓋を開けたらとんだペドのクソ野郎だぜ、あいつ。本当に。立場も心も追い詰めた子供を自分の肥やしにしやがる。考えただけでぞっとする……。そうされるくらいなら俺の身銭を切った方が遙かにマシ。そう判断しただけだ」
コーサカは俯いたまま、怒りで言葉尻を僅かに震わせる。
マジョリティに唾を吐きがちな面が悪目立ちするが、それ以前に彼は善悪の基準をはっきりと定めており、悪だと判断したものを強く憎む。迫力を伴った口の悪さも言わば見かけ倒し。コーサカという男のボーダーラインは実像をきちんと伴っていて安心できる。彼が唱える正義には背中を丸ごと預けてもよい。司にとってそれほど信頼に足る男がコーサカだった。
彼が生半可な気持ちで家族を迎える選択をしたわけではない。もちろん理解していた。だからこそ司ははっきりとした反論を並べられずにいる。
「……どんな子なん? 写真ねえの?」
そう問うとコーサカは懐からスマホを取り出し、何回か画面をフリックした。
見るからに薄汚い男児だった。アッシュグレーの癖っ毛が無造作に生えており、髪の隙間から鮮やかな水色が覗かせる。伸びた前髪で半分隠れてしまっていたが、カメラに向かって威嚇する表情は、子供らしいあどけなさの中に頑として曲げない強い拒否を示していて、浅葱色の視線は氷のように冷たい。そして何より、彼が爪弾きにされる者だと一目でわかる、人ならざるものだと物語る最大の特徴。
「このグレーの大きい耳……この子、ワーウルフ?」
ホームズが尋ねると、コーサカはこくりと頷いた。
その返答にホームズは僅かに表情を曇らせる。〝人ならざるもの〟に並の人間より造詣が深いと自負しているからこそ、知り得た気付きであり不安であった。
「ワーウルフってコーサカ。人より相当寿命が短いって聞くけど」
たちまちにピリッとした緊張感が張り詰める。カウンター側から『いやだわーもぉ』なんて調子外れた笑い声が聞こえてきて、それが酷く癇にさわった。
しばらくして、「らしい、な」と一言だけコーサカが呟いた。
「らしい、だけってお前!」
司が我慢できず勢いよく立ち上がると、膝が机にぶつかり空っぽのグラスがガタガタとやかましく音をたてた。
「何だよ」
「だって。お前の寿命の長さと比べたらほんの一瞬じゃん、この子の時間は。妙に愛着が湧いたら次はお前がしんどくなるだけだろ」
「それは司もホームズもだろうが。俺からしたらお前らもこいつも一緒だよ。――というか死ぬときの心配してんの? 今から? ハ、とんだ傲慢だな」
鼻で嗤うコーサカに司は怪訝な表情を浮かべる。
「は、傲慢……
「こいつも俺もお前らも! 今生きてんだよ! 今! それを無視して終わりを語るとか、それこそ驕りだろって言ってんだよ。生き物が死に方を選べるわけねえのに」
言葉が鞭のようにしなり横っ面を叩く。呆気にとられた司の隣でホームズは重苦しい空気に堪えきれず、追加の日本酒を多めに頼んだ。
司はしどろもどろになったが、それでもコーサカに対する心配が上回り、討論を何とか続けようとした。
「そんなお前、だからって簡単に決めていいのかよ。そいつの一生をみてやる覚悟はあんのか」
「ある」とコーサカは即答した。「それでも、あいつをあの吹き溜まりに放っておけなかったんだよ……」
徐々に弱々しく掠れていく語気が彼の本心だった。
理解はしているが納得が行かない。感情が追いつかない。頭の芯がちりちりと灼ける。司は声色を尖らせた。
「……何で。そんな大事なこと、どうして俺らに相談しなかった」
「だって司お前、相談したら絶対止めるだろ」
「当たり前だろ! 寂しがりのお前がだぞ! ちゃんと理由を聞いて納得するまではうんと言わねえ」
「そういうとこだって言ってんだよ!」
「ハイ、そこまで。これ以上怒鳴られると折角の美味しい飯が不味くなる。お店の人も困ってるでしょ」
見るに見かねたホームズの制止に二人が振り向くと、頼まれて日本酒を持ってきたお手伝いの女性が眉を下げて苦笑いしていた。
「天開。心配するのは分かるけど、外野が口を出し過ぎるのも野暮ってもんだろ」
追加で頼んだ焼き物料理も続々と運ばれてくる。ホームズは一番外側の席でせっせと空の皿との交換に励んでいる。
「コーサカが自己責任で決めたことなんだから」
「……わかってるよ」正論を前にし感情の遣り場がなくなり、司は下唇を噛み締めることしかできなかった。
ふたたび場の雰囲気が灰のように冷え切り、軽々しく口を開くのが難しい。
徳利を手に取ったのはコーサカだった。三人分のお猪口に日本酒を注ぎながら、細長い息を吐き出した。
「お前らが信用ならないから黙ってたわけじゃなくて。……お前ら、優しいのよ。司、他人でも自分のことみたいに一緒になって悲しんだりキレてくれるじゃん。ホームズも、クールな顔して俺の考えてること全部拾ってくれる。そういうとこ好きで、これ以上甘やかすのやめろ! ってなる。……だから、ずるずる甘える前に全部決めちゃって、真っ先にお前らに決意表明したかったの」
胸に抱く矜持には何一つ作為がない。司は敢えて、一度は拒否された質問を二度繰り返した。
「この、ワーウルフの子が死んだとき、お前はどうすんだよ、コーサカ」
「――その時になってみないと分かんねえよ。ああそうだ、お前らが一緒に悲しんでくれたら充分だわ」
「もっともそのつもりだよ。ボロボロに弱った吸血鬼を見捨てるほど冷淡じゃないさ。……あ、このお酒すごく美味しい。二人とも呑まないの? 呑まないなら俺が全部呑も」
「あ、ずる! 俺も呑むし。……マジで美味えじゃん。食事に合う。ホームズ何頼んだん?」
「えーーなんだっけ……八海山?」
「ナイスぅ! やっぱ鉄板メニューが一番だよなぁ。おっちゃん! のどぐろまだある?」
司も促されるまま藍色のお猪口に口をつけてみた。柔らかい香りと透明でキレのある味わいが身体中に広がっていく。酔いで頭が浮かされ、何となく次が欲しくなってくる。だんだん、自身の喜怒哀楽の境界がぼやけていくような気がして、勿体ないなと思った。
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