細氷は風に舞い踊る きっとこれは悪い夢なのだと、何度も自分に言い聞かせた。
学校という活気溢れた場所に似合わない、厳つい軍用トラックが何台も校庭に並んでいた。外からは時折乾いた銃声が聞こえてくる。雹が激しく屋根を打つ音にも似たそれが、俺の心を揺さぶり焦燥感を煽ってくる。
『校舎のどこかに危険生命体がいる。お前ら、全員手を挙げろ!』
奴らがそう叫んだ直後、突然始まった襲撃。あちこちから地鳴りと爆発音が聞こえてくる。パニックに陥り錯乱する皆。
人の波に呑まれそうになっていた俺を強く引っ張ったのは、アンジョーの白くか細い腕だった。
長い廊下を駆け、職員用トイレに隠れやり過ごし、中庭を抜け、体育倉庫で息を潜ませていても奴らは追ってきた。他のクラスメイトが一体どうなったかは分からない。学校のそばの裏山まで追いやられ、命からがら逃げ果せた頃にはすでに、辺り一帯暗闇に覆われていた。
奴らの監視の目を掻い潜り何とか飛び込んだ先は、大きな楽器が乱雑に置かれている音楽準備室だった。ふたりの身体を並べられるくらいの狭いスペースしかなかったが、夜風ですっかり冷え切った身体を暖めるにはちょうどよかった。
「御免なさい、○○さん」
虚ろな表情をしたアンジョーが穴だらけの防音壁にもたれかかり、銃声が聞こえてくる度に身体を強ばらせていた。窓から射し込む月光が彼女を金色に映している。
目眩のような感覚に襲われる。いつまで続くのだろうか。そうだ、きっとこれは悪い夢なんだ。瞳を閉じてみるが、すぐ側の彼女から発せられる強烈なまでに甘い香りが、無理矢理俺を現実へ引き戻してくる。目を背けることなど許されない。
***
そもそも。アンジョーと俺との間に明確な接点はなかった。と、俺は思う。
窓際の席に座っている彼女は、休み時間によく水色のイヤホンで何かを聴いている。今時珍しい有線のタイプだ。一体どんなジャンルの音楽を聴いているのかまでは知らない。だって俺はその横顔を見ているだけだったから。けれども、ちいさく鼻歌でも歌っているのだろうか。決まって楽しげで、それでいて穏やかな表情をしていた。
とはいえ、いつもひとりぼっちという訳でもなかった。
お節介焼きで口喧嘩では負けなしのコーサカ。人当たりの良さ故トラブルに巻き込まれがちなつかさ。それから、恐らく一つ下の後輩なのに、臆せず廊下から声をかけてくるホム子
彼女の周りを囲む友達がいて、一緒に談笑するときは「みんなが楽しい方がいいかなぁ」だなんて言いながら、柔らかい笑顔を浮かべている。
そんな彼女の様子を遠くから眺めていると、時折視線がかち合うことがあった。
しまった。失礼な視線を無意識のうちに向けてしまっていた。焦る俺をよそに、彼女は目を細め、愛嬌のある微笑みを口元に湛えていた。むず痒い気持ちでいっぱいだったが、不思議と悪い気はしなかった。
アンダーリムの眼鏡越しでも、彼女の性格の良さが伝わってくる。邪悪といった類いとは無縁の存在だ。深く言葉を交わす機会がなくとも、俺はそう確信していた。
*
「アンジョー、さん?」
名前を呼ぶと、彼女は瞳を大きく見開き、寸間も休まらないというような恐怖を無言で俺にぶつけてきた。小さな両手でスカートの裾をぎゅっと握り締め、何か言いたげな様子でもどかしそうに動かしている。
「アンジョーさん」
もう一度名前を呼ぶ。するとうぁ、と掠れた声とともに、彼女の緊張がようやく綻びを見せた。
「あ、あの。○○さん」
「別に。○○でいいよ」
「う……じゃ、○○君。本当にごめんなさい」
そう言い淀みながら、アンジョーは申し訳なさそうに視線を落とした。
「何で? 何を謝る必要があるんだ」
「だって、こんな夜まで。こんなことに巻き込んでしまって」
「成り行きだし仕方ないよ。それにアンジョーさんは悪くないだろ、全然」
こんな所で落ち込んでいる暇はない。ふたり一緒にこの窮地を切り抜け、早く他のクラスメイト達と合流しなければ。
そんな風に励まそうと、彼女の肩を二度ほど軽く叩いた。すると彼女は余計に表情を歪ませそのまま俯いてしまった。自分の唇を噛みながら、必死に耐えている様子だった。
何故彼女がこんな苦しそうな表情をするのか、俺にはちっとも分からなかった。
「――くそ。何で、何でこの学校なんだ。俺たちなんだ。危険生命体って一体何の話だよ。最近殺人事件が多い、ってニュースか? それとこれとが何の関係があるって言うんだ」
ここ一ヶ月弱の間、巷を騒がせているニュースがあった。この街で立て続けに変死体が見つかっている、と。それも一週間置きに、三体も。
見つかった死体はどれも、身体に大きな損傷を負っていたらしい。喉元が大きく裂かれていたり、片脚がもがれていたり、腹部が食い破られていたり。まるで、羆か何かの餌にされたような状態だったという。
次は自分がターゲットになるかもしれない。学校中の皆がそんな噂話で沸き立っていた、そんな矢先だった。
「アンジョーさんは何か、知ってる?」
そう訊ねてみても、アンジョーは黙ったままだった。
「ごめん。気分悪くさせて」
「ううん、そうじゃない……」と彼女は首を振る。迫り来る何かを必死に振り切るように、何度も何度も。お菓子を買ってくれないと嫌だと駄々をこねる子供の表情にそれは似ていた。
「……ねぇ。○○君は怖くないの?」
「怖い。すごく。――でも、こんなところで死ぬなんてもっとゴメンだ。もっともっと、やりたいことだってあるのに」
来週の期末テストが終わったあとに、連れたちと映画に行く約束をしていた。上映が発表された去年からずっと楽しみに待っていた、あの大作アクション映画の続編。
そうだ、思い出した。その主題歌を歌うアーティストの話で、彼女と盛り上がったことだってあった。
「アンジョーさんが好きだってアーティストのアルバムも、まだ全然聴けてない……」
奴らは一体何に恐れを為し、武力に訴えかけようとしているのか。人々を殺してまわる危険生命体とは何なのか。どうして命の危機に晒されなければならないのか。そんなもの知る由はない。だがこんな一方的な蹂躙に屈してたまるか。こんなところで死んでたまるか。
「一緒にここから生き延びて帰ろう。俺たちならきっと、大丈夫」
彼女の左手にそっと手を差し伸べると、びくりと肩を震わせたのち、すぐに反対の手で強く握り返してきた。
少しだけ伸びた爪が俺の手の甲に食い込む。痛い、と感じる前に、彼女が俺の腕を引き寄せ、そのまま自らの頬に押しつけた。白い肌はすべすべと滑らかで、少しだけ冷たくて、濃厚なバニラの匂いがした。
*
確かあれは、件のニュースが騒がれはじめるより少し前のことだったと思う。
その日の日直が俺とアンジョーだった。教室の黒板を消したり、クラス全員に配るプリントを教室まで持って行ったりする。そんなありふれた仕事を二人で分担し、順にこなしていく。
最後に残ったのが、今日一日の出来事を日直日誌に記録する仕事。六限の授業もとうに終わった放課後、アンジョーは真剣な表情でペンを走らせていた。
窓際の列に座る他の生徒たちは皆すでに帰宅している。茜色に射す夕影はただ彼女一人だけを照らしていた。
「お疲れ、アンジョーさん」
声をかけると、彼女は頭をもたげ、その薄青色の双眸にはっきりと俺を映し出した。
「○○さん。お疲れ様」
「日誌、ありがとな。そういうの苦手だから助かるよ。すごく」
「うん」と彼女は首を傾げる。「いいよ。私、こういうの好きだし」
日誌に視線を移すとそこには、丸っこいながらも丁寧な字で今日の出来事が綴られていた。途中で書く内容に困ったのだろうか、余ったスペースに狼のイラストが添えられている。耳や鼻が可愛らしくデフォルメされているが、目つきだけは妙に鋭かった。
「その狼。ギャップがあって、いい目してるね」
「そうかなあ。――ありがとう」と恥ずかしそうにはにかんだ。
「何かのキャラ?」
訊ねると、アンジョーは「そう」と力強く頷く。
「私の好きなバンドのマスコットで……ヴィニくんって言うんだ。ほら、グッズも出てるんだよ」
そう言いながら、筆箱のチェーンにぶらさがったキーホルダーをこちらに見せた。濃いピンク一色で描かれた本物の『ヴィニくん』は、彼女の描いたイラストより野性的な表情をしていた。
「好きなんだね。そのアーティストのこと」
アンジョーの頬がより鮮やかな朱色に染まる。驚きとよろこびで満たされた瞳は眼鏡のレンズ越しにキラキラと光っていた。
「うん……! ○○さんは知ってるの? ヴァナルガンドのこと」
「ごめん。初めて聞いた。何か主題歌とか歌ってたりする?」
「うぅん、そうだねえ……あっ。来月公開の映画の主題歌に決まったって。何てタイトルだったかな。確か、ギャラクシー・アイズの二作目だっけ」
「ギャラクシー・アイズ!? マジで! 俺すげえ好きなんだ、その映画。主役のトムって奴がビルから飛び降りるシーンが本当格好良くて――」
そこで、俺たち二人ははじめて交差した。アンジョーが好きなロックバンドの話と、俺が好きなアクション映画の話。彼女も好きなものにはとことん入れ込む性質のようで、お互いどんどん饒舌になっていく。いくら喋っても話題に尽きない。机上に放置されている日誌の存在も忘れて、俺たちは夢中で話をした。
アルバムを貸してあげる、と約束も交わした。彼女はその顔一面に満悦らしい微笑みを浮かべていた。
けれどもその笑顔には無垢さの他に、ほんの少しだけ儚さも漂わせていた。俺たちの関係は触れればすぐに割れてしまいそうな薄氷に似ている。
「知ってる人が少ないバンドだから、○○さんも好きになってくれたらすごく嬉しい。もっと知って欲しいな。出来れば、私のことも――ねぇ」
*
どんっ。
廊下の方から重々しい轟きが聞こえてくる。業を煮やした奴らがついに手榴弾を投げ込んだらしい。あらゆる音を吸収する防音壁越しでも、ガタガタと建物全体が震動しているのが分かった。
きゃっ、と彼女が甲高い悲鳴をあげた。体勢を崩した勢いが余って、上半身を俺の腕の中に預けてきた。セーラー服越しでも彼女の身体はふわふわとしていて柔らかかった。
しばらくそうしたままで居ると、「その、本当にごめんなさい」と侘びながら己の身を起こそうとした。俺の腕から逃れようとする彼女の力は弱々しく、依然として全身が小刻みに慄いていた。
そのまま離してしまったら、みすみす彼女を見捨ててしまうのではないか。そう考えると心の奥に黒い靄がどんよりと広がっていく。俺は細い腰へ右腕を回し、ぎゅっと力を込めた。
「大丈夫だから」
「全然大丈夫じゃない。ずっとガタガタ震えてる」安心させようと声をかけると、アンジョーの抵抗が止んだ。こちら側へ力なく寄りかかり、そのまま顔を俺の胸元に押し当ててくる。彼女がぐりぐりと頭を動かすうち、胸元が熱いものに触れる感覚を覚えた。涙を拭おうとしているのだろうか。その真意が何処にあるのか、腕の中に埋まったままなので分からない。
『被験体一二九号! そこに居るのは分かっている。人質を解放してそこから出てこい。今すぐ!』
メガホンを通したノイズだらけの怒声が耳に入る。途中キイン、と耳障りなハウリングが入り、鼓膜がひりひりと痛んだ。
「クソッ! 被験体って何なんだよ。俺たちには関係ないだろう……!」
「いや、いやだ」とアンジョーはしきりに首を振っている。
窓の外へ視線を移す。今俺たちが居る音楽準備室は二階にあって、裏手にはすぐ山がそびえ立っている。フェンスといった障害もとくに存在しなかったはずだ。着地の体勢さえ間違わなければ、窓から飛び降りここから脱出することも可能かもしれない。
「アンジョーさん。ここから逃げよう」
その柔らかい身体を抱き起こす。彼女の頬は紅潮しきっていて、瞳も不安定な光を湛え赤く潤んでいた。はぁ、はぁと荒い呼吸がくぐもって聞こえる。
「あいつらなんか怖くない。トムみたいに華麗に逃げ切って、映画も二人で観に行こう」
万に一つもあってはならないが、たとえ俺が命を落としたとしても、アンジョーだけはここから脱出させねば。男に生まれた以上女を守りきらなくてはならない。絶対に。
決意を込めた視線で彼女を見返した。湿気を含んだ吐息が近づき、俺の頬に触れる。碧い瞳の奥は底無しに深く、覗き込んだら吸い込まれてしまいそうだった。
唇の熱が今にも触れそうな瞬間。
「ほんとうに御免なさい――」
刹那、全身に強い衝撃が走った。右肩が焼けるように熱い。毛細血管がぷちぷちと音を立てて潰されていく。
考える間もなく俺は、激しい痛みに耐えかね、限界まで叫び声をあげた。喉まで潰れてしまいそうだ。それでも苦痛はより大きくなる一方だった。
大きく開かれたアンジョーの口は、俺の肩を丸ごと捉え、その鋭い牙を血管の奥まで突き刺していた。
「どうして○○君だったのかな。最後に一緒になるのが他の何でもない人だったら、こんなに胸が苦しくなることなんてなかったのに。アルバムだって映画だって……辛い」
「どういう、こと」息が詰まる。なんとか口を開き訊ねたが、彼女の表情は変わらなかった。何も。
「まだ、捕まるわけにはいかないの……」
ぶちん。筋が切れたような大きな音がした。そのままずぶずぶと深くまで突き刺さり、喰い千切られていく。
薄水色のセーラー服の半分が真っ赤に染まっていた。肉を貪るアンジョーは目を細め恍惚そうに口角を上げていた。その様はこの世のものとは思えないほど妖しく、うつくしかった。
痛みも意識も、だんだんと白く遠のいていく。
「次に出逢ったとき、また」語気がほんの少し震えている。それが最後に聞いた彼女の言葉だった。
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◆神狼フェンリル
北欧神話に登場する怪物。神ロキの子で、やがて神々を呑みこむと目され恐れられた巨大な狼。
別名『スョーズヴィトニル』『ヴァーナルガンド』。