花弁はけものの頬に落つ チチチ、と小鳥の囀る声だけがこだます、見渡す限りの深い森。
枝葉の陰にいくつか仕掛けた罠を確認するが、そのどれにも獲物はかかっていなかった。それなりに策を講じて仕掛けたはずだったが、どれも見事に空振りだ。成果は何も得られなかった、と虚しさで身体が一気に重くなる。アンジョーは木陰に蹲り、大きなため息をついた。
「見え透いた罠だっていうのかな。……はあ。久しく食べてないな、肉」
懐からリンゴを取り出し、もしゃりと齧り付く。瑞々しい果汁が喉を湿らせていくが、それだけだ。腹はまったく満たされない。血の色と同じ真っ赤で艶やかなフォルムなのに、香りも味もなにもしない。
無味無臭の虚無の前に、アンジョーは半ば諦めたくなってきた。ここ数日間小動物の肉すら食べていない。果実で誤魔化していた空腹は既に限界に達していた。
諦めで気持ちが切れたのを自覚した途端、強烈な目眩が襲ってきた。前後左右の感覚が全くわからない。そのうち嘔吐感までこみ上げてくる。吐き出すものは胃液くらいしかないのに。このまま地面に倒れ伏して埋もれてしまたい。――もう駄目かもしれない。
「お兄さん。大丈夫ですか?」
凜とした声が燦々と降り注ぐ。
アンジョーの目の前に居たのは、赤い頭巾を被った少女だった。
この森には似つかわしくなく清廉な出で立ちで、眼鏡の奥から心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「……君は?」
「この森に用があるの。大事な探し物があるんです」
嗅覚に全神経を集中させる。本能だけがアンジョーを突き動かす。
すると、彼女から、不思議な香りがした。
捕食対象からぷんぷん匂う、思考を灼き切ってくる強烈な香りではない。確かに生命の香りではあるのだが、ふんわりと甘く、包まれると安心する日向のような香りだ。嗅いでいるうちに、だんだん自身に活力が戻ってくる気がした。
「俺も、一緒に探してあげようか?」
「本当に? ありがとう。でもお兄さん、お腹がペコペコなんでしょう。……そうだ。私の家で食事にしません?」
少女に手を取られ、さらに森の奥へと誘われる。アンジョーはどうしてかそれを全く疑問に思わなかった。
「君はどうしてこんな森に一人で? 一体何を探しているんだい?」
お腹が空いた。空腹で死にそうだ。食事をご馳走になる、なんて悠長な考えなど存在すらしない。
彼女の肉はきっととろけそうなほど柔らかいのだろう。口にしたらきっと格別の味なのだろう。大切に、傷つけないように扱わねば――。
極力驚かせないように、自分が狼だと悟られないように。アンジョーは穏やかな声色で尋ねた。
すると彼女は、隠しきれない憎悪をその瞳に焚いた。静かな興奮で語気がだんだんと強まっていく。自分が捕食対象とされていることに一切気付いていない様子だ。
「見つかる前に見つけ出さないといけないの。絶対。とても大変で危険な目に遭う。貴方も私も。でもどうやって先手を打てばいいのか分からなくて……」
「それは大変だ! 俺も協力するよ」
わざとらしく賛同してみるが、彼女はにこりと薄い唇で笑うだけだった。
「……一体貴方に何が出来るの? その大きな耳は何のためにあるんです?」
ほとんど糾弾のような物言いだった。彼女の視線はアンジョーへの頭上へ鋭く向けられていた。アンジョーもまたフードで頭頂を隠していたはずだったが、限界を超えた空腹の前に意識がそこから完全に逸れていたようだ。
「これは……」
「その灰色の耳、肉の甘い匂い……貴方、狼でしょう。なのにどうしてそんなに無防備なの?」
「そりゃあだって、俺はこの森を知り尽くした狼で……」
アンジョーが言い切る前に、キラリと何かが反射し光ったように思われた。
目の前の彼女はびくりと粟立ち、即座にあちら側へ振り返った。
「伏せて!」
激しい叫びが耳を鋭く破る。そのまま勢いよく地面へ押し倒される。人間のものとは思えないくらいの圧迫感だった。
ほとんど同時に、どんと重く破裂した金属音が森を切り裂いた。音は二人のすぐ頭上を掠めていった。後頭部が地面に激突し、雷がすぐそこで落ちたように思えて、アンジョーはその衝撃に堪えきれず表情を苦悶に歪ませた。
音が向かっていった先を見遣ると、太い木の幹の根元にぽっかりと大きな銃創が空いていた。
それからすぐに、後ろのほうでガサガサと葉と葉が大きく擦れる音をアンジョーは聞いた。それはあっという間に遠ざかり、そのうちに風が木々を揺らす静謐へ変化していった。
「あいつ……!」
憎悪に塗れた彼女は目を血走らせ鋭い犬歯を剥きだしにして、殺してやると慟哭した。頭巾がするりと脱げ落ち、アッシュグレーの大きな耳と兇悪な野生が剥き身になった。それこそが彼女が同族であるという何よりの証だった。
「君は一体……?」
驚愕と熱狂でアンジョーは声を上擦らせて尋ねた。
そうすると彼女は少しだけ平静さを取り戻したが、けれどもその息は興奮で上がったままだった。
「私はアン。森の奥でひっそりと慎ましく暮らしている狼」
「じゃあ俺と同じ?」
「そう。貴方は私で、私は貴方。……ところでお名前は? すっかり聞きそびれちゃった」
彼女から初めて問いかけられ、アンジョーの胸は激しく高鳴り、自身の鼓動と彼女の柔らかい声しかもう聞こえずに、ただ答えを口走った。
「アンジョー」
「アンジョー……へえ、アンジョー。名前までそっくり」と彼女はくすくす笑う。
刹那、瞳の奥が金色に輝く。真逆の色に輝きを変えるうつくしい瞳に見下ろされ、アンジョーはまるで自身が捕食対象にされているかのように思えて、ひそやかな悦びを覚えた。
「アンジョー。同じ狼なら貴方、一緒に狩りを手伝ってくださいませんか? その出で立ちを見たところ、リスの肉すらろくに食べられてないんじゃ?」
痛いところを突かれる。彼女の至極真っ当な指摘にアンジョーは頷くことしかできず、それからすぐに凄まじい空腹感がぶりかえしてきた。
「でもこの情けない姿じゃ、アン。君の助けにはなれないよ……」
「手先が器用でしょう? アンジョーが仕掛けた罠、この森で幾つも見かけました。よく出来ている。設置する場所のセンスは……その、あまり良いとは言えないけれど」
彼女は眉尻を下げて弱々しく笑ったあと、自らに立てた誓いを丁寧に口にした。
「私が追うのはあのハンター。この森の命を狙い秩序を乱す破落戸。絶対に生かしてはおけない相手。……そうだわ。あいつを仕留めた暁には貴方と私で報酬を分け合うのはどう?あの肉を半分にして喰らってやるの。アンジョーは上半身がいい? それとも下半身?」
しかりて吹けば散っていく儚い花弁の陰に、絶対に曲げないと誓う強固な士気を見せた。彼女はしなやかで強い、野生の狼であった。
唇を大きく釣り上げると、そこに赤い紅が差したように見えた。彼女の笑みは神秘的な妖しさを湛えていて、その生々しさに目が奪われ、アンジョーは恍惚としながらじっと見上げていた。
「どっちも食べたいよ。……お腹がぺこぺこだもの」
「ならばあいつらの仲間も全員狩りましょう。一人残らず、私たちの血肉にしてやるの。……そうだ。リンゴに睡眠薬を仕込むなんてどう?」
彼女の甘やかな匂いが土埃の匂いで煤け、血の匂いを求めようとする。赤頭巾の下の白のワンピースも、今にきっと同じ色に染まっていく。アンジョーは頭の芯が熱く燃え上がり、ばちんと大きな音を立てて弾け飛ぶ音を聴いた。
***
「……と、ジョーさんは無事食い物にありつき生きながらえることが出来ました」
「めでたし、めでたし」
「じゃねえよ! 赤ずきんの女神と出会わなきゃ飢え死にのポン死にじゃねーかよ! アンジョーの野性味が完全に終わってる……」
「彼女とは会うべくして会ったんだよ。貴方は私で俺は君。捕らえ捕らわれ、だから」
「別に上手いこと言ってねえからな! この話のお前はただのヒモだ! っていうかジョーさんも狼なのに、何でハンターから狙われなかったんだ?」
「罠で小動物を引っ捕らえて食べてばっかだし果物も普通に食べるから、狼だと思われてなかったんじゃない? せいぜい森の奥で一人で暮らす変な人間止まり……」
「いっぺん雷に打たれとけ馬鹿!!」