週初め、まだ残り三日も続く仕事を控え、世のサラリーマン達が明日の糧にと酒をあおる夜。
会話を邪魔しない程度の音量で流れる軽快なジャズに、落ち着いたオレンジの照明。大通りから少し外れた雑居ビルの地下に、そのバーはあった。
入口に一番近いカウンターの端。見ない日がないくらいの確率で金髪の女がそこを陣取る。そしてその横に、時たまふらりと座るのが脹相だった。
「なんだお兄ちゃん、今日はやけに洒落たネクタイじゃないか」
「そうだろう?」
お兄ちゃんと呼ばれた男——脹相は嬉しそうに口元を綻ばせながらグラスに入った黄金色のビールに口付ける。実際に女の兄と言う訳ではない。昔からの名残で、女——九十九由基は、脹相の事を『お兄ちゃん』と呼ぶのだ。
事実、脹相は四人兄弟の兄だった。そして言わずもがな、九十九に褒められたソレは弟からのプレゼントだった。
つい先日、誕生日でもクリスマスでもない、何でもない日。強いて言うなら、一番下の弟が初めてバイトで稼いだ給料日。四男坊の悠仁が、兄達それぞれに『いつも世話になっているから』とプレゼントしてくれたのだ。まだ学生の身分であり齢十五の弟が、自分の欲しいものではなく、こんな金の使い方が出来るなどどうして思おうか。活発でヤンチャすることも屡々あるが、思いやりのある優しい子に育ったものだと、脹相は感慨深くネクタイを見つめているとポケットが震えた。
「そろそろ壊相も着くそうだ」
「それじゃあ何か食事でも頼んでおこうか」
◇
壊相が合流して一時間。脹相はすっかり出来上がり、弟が居る所為か、普段に増して饒舌に弟たちの自慢話に花を咲かせる。常人なら照れて言えないような台詞も、普段から面と向かって言う脹相を兄に持つ壊相は手慣れたもので、そんな兄の様子に始終にこにこと相槌を打ちながらウイスキーを嗜んでいた。
「そうだお兄ちゃん、いつものとっておきのやつ、壊相くんにも見せてあげなよ」
同じく酔っぱらいの九十九が、脹相の肩を抱きながら高らかにグラスを持ち上げ絡むと、思い出したかのように脹相はスーツの胸ポケットへ手を滑らせる。暫くもたつき、しまいには九十九にジャケットの左半分を広げ持って貰いながら、おぼつかない手つきの中取り出されたのは、数枚の紙。見るからにヨレヨレで、幾度となく繰り返された折り目には亀裂が走り、今にも破けてしまいそうだった。
壊相は訝しげに脹相の手元へじっと目を凝らす。へらへらと笑いながら、でもとても大事そうに丁寧に広げると、三枚の手紙が姿を現し、壊相の前にズイと差し出された。
「いいだろ壊相。これは悠仁から。これは血塗から。そしてこれはお前から貰った手紙だ」
目の前にチラつく手紙とやらに壊相が手を伸ばすも、脹相の手から離れる事はなく、壊相は仕方なく頬杖をついてその手紙を見つめる。どの手紙の字も幼子の書くソレで、何て書いてあるかはパッと見分からない。とは言え壊相は、自分で書いた手紙に見覚えがない事もなかった。
「兄さん、もしかしてそれ、私が幼稚園の頃に書いたやつ?」
「そうだ壊相! お前たちが幼稚園の時に『大好きな人へ』と書いてくれたものだ。三人とも俺にくれたんだ。羨ましいだろう? 絵も描いてあって可愛いんだ。ほら、血塗が描いた唐揚げ。壊相のは星の絵で装飾して、とてもオシャレな手紙なんだ。悠仁のは凄いぞ? 俺達が団子のように串に刺さってる。皆俺の自慢の弟たちだ……」
満面の笑みを浮かべたまま、その視線は壊相から手紙達へと移り、愛おしそうに文字をなぞる。急に大きく感じたBGMは、サックスの渋いテノールが耳を擽り、そんな脹相を脇で優しく見つめる九十九と、珍しく赤面した壊相が、年代物のアードベックスーパーノヴァが入ったグラスを彩った。
まだてっぺんには及ばない針と共に。