「ジェイドのことを知りたければ何でも聞いてくださいね。」【トレジェイ】 3年生の全体授業で大変なことがあったらしいという噂はすぐに学園中を回った。
「……こんな馬鹿らしいことで、会議に呼ばれるとは……」
隣を歩くアズールがそう言い、ため息をついた。
そう、この噂……否、噂ではない。アズールに憂鬱な顔をさせている一件で、寮長と副寮長が集められて会議が開かれるという事態が起こっていた。
「でも、全員がかかったのであれば、たしかに大変なことかと……」
「好きな相手のことが分からなくなる、ということがですか?」
アズールは、呆れたようにそう言うと、額を押さえる。
今回の一件は、3年生のあるクラスの授業でやっていた珍しい詠唱魔法の成功が、偶然別のクラスが作っていた魔法薬の完成と重なってしまい、変な融合をしてしまったことで発生したらしい。しかも、その融合した魔法の威力が大きかったようで、3年生だけではなくこの学園全体にかかってしまったと聞いている。
「分からなくなる、の定義がよく分かりませんし、説明は一応聞く方が良いでしょうね。」
「それはたしかにそうですが……この学園は男子校ですので、学園内に好きな相手がいるという状況も少ないように思いますが。」
そう言い、「まあたしかにプライベートなことにはなるので、どのように周知するかを伝えるために呼ばれたということは分かりますが……」と付け足すと、アズールがジェイドの方を向いた。
「ラウンジのことがありますし、話を聞いたらすぐに帰りますよ。」
「ええ、もちろんです。」
そう言い、ジェイドが頷く。
たしかにアズールの言う通りで、この魔法のせいで何か重大な変化があるということは無さそうに思えるし、自分で対応出来る気もする。
実際、僕は好きな相手はいないし、効果は無いだろう。
ジェイドはそんなことを考えながら、アズールの隣を歩いていた。
そして、もうすぐミーティングルームに着くというところで、その先の曲がり角から、足音が聞こえ――……不機嫌そうな顔をしているリドルと、いつもの様子のトレイとバッタリ出くわした。
「ああ、ハーツラビュル寮のお2人。お疲れ様です。」
アズールが先程とは打って変わる最高の(作り)笑顔でそう言う。それに不機嫌そうなリドルがさらに顔をしかめた。
「……お疲れ様。」
リドルはそう言うと、「その胡散臭い笑顔はどうにかならないのか」と小さく付け足す。そんなリドルを見て、アズールがフフッと笑う。
「リドルさんも虫の居所がお悪いようで。」
「……そうだね。今日は15時からお茶会の約束をしていたのに、こんなことに……」
そう言うと、先程のアズールと同じようにリドルがため息をついた。
急な会議……しかも、内容がアレではこうなるのも分かる、とジェイドが思いながら……ふと、自分に対する視線に気付き、顔を上げる。
「……?」
トレイからの視線に、ジェイドが首を傾げた。
……僕の顔に何か付いているだろうか……?
自分を見上げているトレイの表情の意図が読み取れず、ジェイドが眉をひそめていると、トレイはジェイドからアズールに視線を移して口を開いた。
「アズール、誰か校舎案内をしているのか?」
リドルの隣に立っていたトレイから発された一言。
それに3人が凍り付いた。
……誰か?誰か、とは?
トレイの言っている意味がすぐに理解出来ず、ジェイドがトレイをジーッと見つめる。一方トレイは、ジェイドと視線が合うとニッコリ微笑んだ。そんなトレイに対し、リドルが怪訝な顔をしながら口を開く。
「……トレイ、何を言っているんだい?ジェイドのことかい?」
「……ジェイド?」
トレイはそう言って不思議そうにジェイドを見ると、「……初めまして、だよな?オクタヴィネル寮の転校生か?フロイドと雰囲気がかなり似ているけれど」と続けた。
……初めまして?
訪れる無言の時間。
そして時間の経過と共に、ジェイドの頭の中を飛び交う疑問符が徐々に消えていき、この事態の真相が明らかになってくる。
次の瞬間、リドルがトレイに飛びつくかのように、トレイの胸倉を掴んだ。それに、トレイが「うぐっ」と声を漏らす。
「な、何だ、リドル……?どうかしたのか?」
「トレイ!嘘だろう!嘘だと言ってくれ!」
「……トレイさん、僕のことはご存知で?」
現実を受け入れられずパニックになるリドルの後ろから、アズールが先程とはまた違う笑顔を浮かべながらそう問いかける。
トレイはそんな笑顔のアズールを見て、少し苦々しい表情を浮かべながら「アズールだろう?何を言っているんだ?」と発する。そこで自分でも今の状況に気付いたらしいトレイは、ハッと口をつぐんだ。
「……ト、トレイが……ジェイドを……」
リドルがトレイの胸倉を離し、膝から崩れ落ちる。
アズールはそんなリドルを横目に捉えながらも、笑顔のまま、トレイに向かって口を開いた。
「トレイさん。こちら、フロイド・リーチの双子の兄弟、ジェイド・リーチです。」
「……2年E組のジェイド・リーチと申します。オクタヴィネル寮の副寮長です。いつもお世話になっています。」
どうすれば良いかすぐには分からなかった……が、状況は理解出来る。
トレイさんは僕のことを好き、なのだ。しかも、こんな状況に陥って対処が出来ていないということは、自分では気付いていなかったらしい。
……みんなから頼りにされている、しっかり者のトレイさんにも可愛いところがある。
同じ学園の同性の先輩にそういう目で見られているということが発覚した今、浮かんでくる感情は絶対これではないと思う一方、ジェイドの頭の中には、そんな考えが巡っていた。
アズールと同じようにニッコリと笑顔を浮かべて、小さく頭を下げると、トレイの顔がカァッと赤くなっていくのが分かった。
「あー……、えっと……悪い、その……」
「トレイ!行くよ!」
復活したリドルが、勢いよく立ち上がり、トレイの腕を引っ張って歩いていく。
「トレイさん、ジェイドのことを知りたければ何でも聞いてくださいね。」
「必要ない!!」
トレイに向かって放たれたアズールの言葉を、リドルが一刀両断すると、トレイをグイグイ引っ張りながら会議室に向かって歩いていった。
「……」
「……ジェイド、知っていましたか?」
「いいえ、全く。」
ジェイドはそう言って首を横に振り、「というか、トレイさん自身気付いていなかったであろうことを、僕が分かるわけないと思いますが」と付け加える。アズールは納得したように、その考えに頷き、面白そうに呟く。
「フフッ、あんなリドルさんの焦った顔、もう今後見られなさそうですね。」
そんなことを言いながら、薄ら笑いを浮かべたのだった。
・・・・・
「それで!効果はいつ切れるのですか!」
会議が始まった途端、怒り心頭に発しているリドルが身を乗り出したことに、全員が驚きの視線を向けた。部屋の前に座っている学園長も、驚いた表情を浮かべてリドルを見る。
「ローズハートくん……何かありましたか?」
「何もありません!が!早く会議を終わらせて、早く戻りたいだけです!」
確実にそうではないことが分かっているアズールは、ジェイドの隣でフフッと笑みをこぼす。
ジェイドもアズールと同じ心境ではあったが、いつものポーカーフェイスを崩さずに前を向いていると、近くに座っていたヴィルがため息をついた。
「たしかに、それはそうね。」
ヴィルは面倒臭そうにそう言うと、「今日は映研のミーティングがあって、私もこんなことに費やしている時間は無いの。早くしてちょうだい」と発する。それに学園長が頷いた。
「ええ、っと。今回の件は、まれに発生する融合魔法のようで、文献は数えられる程ではありますが、見つかりました。ひとまず現状を考えると、好きな相手のことが分からなくなるという効果は1日のみのようですので、ご安心ください。」
学園長の言葉に、アズールが「おや、残念です」と小さく呟いたのが聞こえたのだろう、リドルにギロッと睨まれる。
……アズール、完全に楽しんでいますね……
ジェイドは苦笑しながら、アズールから学園長に視線を移した。
「魔法効果に関しては、時間経過で勝手に消える仕様になっていますので、特に学園として何か大きな決断や対処をする必要は無さそうです。」
「それでは、効果の内容と持続時間を寮生に伝えれば良いですね?」
アズールの言葉に学園長が頷いた。
「内容を書いたプリントを配布しますので、寮生に配ってください。」
そう言って、リリアにプリントを渡す学園長。リリアが魔法で寮ごとにプリントを分けると、副寮長の前へと置いた。
ジェイドが自分の前にやってきたプリントの束を見る。
書いてあることは、先程学園長が言っていた魔法内容と持続時間、あとこの魔法が発生した経緯だった。
「あと1つ……重要なことです。」
学園長のそんな言葉に、ジェイドがプリントから学園長へと視線を移す。
学園長はそう言った後、ゴホン、と咳払いをし――……そして、重々しく口を開いた。
「この魔法が原因で、何かトラブルが起こっても、それはこちらでは一切責任を負いません!それは、生徒達の問題……、そう!生徒の自主性を重んじてのことなのです!」
私、優しいので!
と付け加えられた言葉に、参加者全員がため息をついたのだった。
・・・・・
その日の夜――……
ラウンジの営業後、VIPルームでフロイドが腹を抱えて笑うという、ジェイドの予想通りの展開に陥っていた。
「ま、まじで?!ウミガメくんが……ジェイドを……ぶはっ……」
自分で口にし、また笑い出すフロイド。そんなフロイドに向かって、アズールが口を開いた。
「フロイド、そんなに笑ってはトレイさんが可哀想ですよ。」
「顔が完全に笑っていますよ、アズール。」
ジェイドの言葉にアズールが「失礼」と言うと、ふぅーと大きく息を吹き出して言葉を続ける。
「えーっと、ですね。そんなわけで、トレイさんとリドルさんと話し合って契約を結びまして……トレイさんには次のスイーツの監修をやってもらうことになりました。ですので、次回のスイーツ調理担当のフロイドはトレイさんの指示に従ってくださいね。あと、契約違反になりますので、ジェイドを好きな件について口外はしないでください。」
「それはいいけどさぁ……」
フロイドがそう言うと、チラッとジェイドを見て、「ジェイドをねー……」と呟くように発した。そんなフロイドの視線を受け、ジェイドが顔を歪める。
「……トレイさんが僕を好きなことに何か問題でも?」
「いや、意味分かんねーなーって思って。」
意味が分からない?それは言葉通りの意味に受け取っても……?
わざとなのか本気なのかよく分からない苦々しい顔をしているフロイドに向かって、ジェイドが不自然な笑みを浮かべながら口を開いた。
「……どういう意味でしょうか?」
「そのまんまの意味!」
「そうですか、僕に魅力が無いと?」
言葉通りの意味ということですね、とジェイドが確認するように呟くと、わざとらしいため息をはぁー、とつく。そんなジェイドの怒りに輪を掛けるようにフロイドが口を開いた。
「だってさぁ、ウミガメくんってジェイドの何見てんの?外見だけじゃね?実は、怒ったら鬼のように怖くて笑顔でヒト殺すぐらいのことするとか、この前ラウンジでも……」
「フロイド?」
ニッコリ笑ってフロイドの肩に手を置くと、フロイドの言葉がピタッと止まった。その直後、フロイドの口端が吊り上がり、ニヤーッとした笑いが浮かび上がる。
「あはぁ……やる気ぃ?」
「外に出ましょうか?」
「いいねぇ……久々に暴れられ……」
「ちょっと待て!」
2人の間に入ったアズールが「ここで変な争いは止めてください!」と発して2人の顔を見ると、呆れたように言葉を続けた。
「何をやっているのですか……遠慮の欠片も全く無い自分勝手な2人が喧嘩をすれば、ラウンジぐらい一瞬で吹き飛びます。」
「アズール超失礼なんだけどー……」
アズールに止められて勢いが急減したフロイドが、疲れたようにそう突っ込む。そんなフロイドに視線をやり、アズールがやれやれ、というように口を開いた。
「これまでの自分達の行いを顧みてください。あとフロイドは、ジェイドを心配しているのであれば、しているで素直にそう言いなさい。」
「おや……、フロイドは僕のことを?」
そう言うと、フロイドが「は?」と言ってアズールを睨んだ。
そんなフロイドを見て、自分のことを心配しているのかと思うと笑みが零れてくる。
……まあ、本当かどうかは分からないけれど。
「あのさぁ……オレ、いつそんなこと言った?」
「言っていませんが分かります。」
「あァ?」
フロイドがアズールに掴みかかる。アズールは涼しい顔をしながら、「おや、今度は僕とやりますか?」と面白そうに言った。
フロイド対アズール……それを見るのもなかなか面白いけれど、とジェイドは考えながら、2人の間に入る。
「自分のことしか考えられない稚魚以下のような2人が喧嘩すれば、寮が吹き飛びますので止めてください。」
「「ジェイドが1番失礼ですね!(じゃね?!)」」
2人の声がハモったのだった。
・・・・・
「あ……悪い、ちょっと良いか?」
翌日の放課後、声をかけられ、振り向いたところに立っていたのはトレイだった。
そういえば、昨日あの契約をした後から何も話していないな、と思いながらも、気まずいだろうし当たり前か、という答えを自分の中で出しながらジェイドが口を開いた。
「トレイさん、昨日はご契約ありがとうございました。」
「あー、え、と……その件なんだけど……」
トレイはそう言うと、バツの悪そうな顔をして視線をそらした。
改まって告白?という感じでも無さそうだけれど……言い訳をしにきた?という性格でも無さそうだし……
ジェイドがそんなことを考えながら、首を傾げる。
「何でしょう?」
「……んだ。」
「え?」
「まだ、お前のことを思い出せないんだ。」
それにジェイドがピタッと行動を止め、「え?」と先程と同じような声を漏らした。
たしか、昨日効果は1日と言っていた。あの魔法がかかったのは昨日の午前中だったはず……ということは、普通に考えるともう既に魔法の効果は切れているはずだ。何故……?
トレイがうーん、と困ったような声を漏らす。
「昨日、効果は1日だって言っていただろう?」
「ええ、そうでしたね。」
「でも、まだ何も思い出せなくて……」
そう言うと、リドルがあまりにも聞いてくるから、もう大丈夫って言ってしまったんだけど、と付け加えた。
もしかして1日というのは24時間のカウントではない?日にちごとだったりするのだろうか?
そんなことを考えながら、ジェイドがトレイへ提案する。
「学園長に詳細を聞きに行きますか?」
「いや……、リドルからうちの寮は異常無しと連絡してしまっていると思うし……」
トレイはそう言い、「あまり迷惑がかかることはしたくないんだよな」と呟いた。
たしかに今日の午前中、何か異常がある生徒は寮長に直接連絡をする(プライベートなことだから内密に……という配慮らしい)ということになっていた。アズールも誰からも何も連絡は来ていないから、異常無しで学園長に報告していたはずだ。
……たしかに今現状を学園長に話してしまうと、リドルさんが嘘をついていたことになってしまう。
ジェイドは、トレイの話に頷く。
「……そうですね。」
「もしかしたら1日のカウントが24時間ではないのかもしれないけれど……」
トレイは先程のジェイドと同じ考えを言って少し考える素振りを見せると、「悪いな、こんな話して。伝えようか悩んだんだけど、万が一、元の俺が何か約束しているとかそういうことがあったら困るなと思って」と続けた。
「ああ……、いえ、特にそういうことは無かったので、大丈夫ですよ。」
「それなら良かった。」
そう言い、トレイが安堵の息を吐く。
たしかに……トレイさんの性格上、オクタヴィネル寮の関係者に借りを作るのは嫌だろうし(トレイさんじゃなくてもそうかもしれないけれど)、気になるのは納得出来る、とジェイドが思う。
この学園では、自分のことは自分で守らないといけないし、あんな契約をさせられた以上、僕に伝えておらず問題が起こった時点でまた何かをさせられる可能性も考えたのだろう。
まあ僕に伝えていたところで現実はあまり変わらないかもしれないけれど、とジェイドが考えながら口を開いた。
「他の皆さんは、もう僕のことを思い出していると思っているんですよね?何か僕自身のことで伝えておいた方が良いことはありますか?」
「そうだな……」
トレイが少し考えてから疑問を投げかける。
「何て呼んでいたんだ?双子のもう1人はフロイドって呼んでいるから、ジェイドで良いのか?」
「ええ、そうですね。」
「えーっと……あとは、そうだな……俺はジェイドに何かアプローチしていたか?というか、俺の気持ちは知っていたのか?」
トレイはそう言い、いや、こんなこと本人に聞くのはどうかと思うけれど、と付け足して苦笑した。
たしかに本人に聞くことではないかもしれないけれど、むしろ本人に聞かないと分からないことだろうし、どういう状況だったか気になるのも分かる。
ジェイドは首を横に振って、口を開いた。
「全く知らなかったです。副寮長としての仕事の会話や、その時に少し世間話をすることはありましたが……例えば、特別に何かいただく、というようなこともなく、今まで他の方と同じ対応だったので、すごく驚きました。」
「そうか……」
トレイはそう言うと、「気持ち悪がらせていたら悪いな」と申し訳なさそうに呟く。そんなトレイの言葉に、ジェイドの体が小さく揺れた。
そういえば昨日も思っていたけれど、何故かそういう感情は湧かなかった。理由はよく分からないけれど、自分は同性愛に対して偏見があるわけでもないし、トレイさんのことを嫌いなわけではないし……といったところだろうか。
そんなことを考えながらも、ジェイドが言葉を発する。
「いえ、そんなことはありませんよ。」
「そうか?それなら、まだ望みはあるということか?」
「え?」
まさか返ってくると思っていなかった言葉に、ジェイドが一瞬言葉を失った。
望み……?というのは?……この流れだと、僕がトレイさんのことを好きになる、ということ……?
瞬時にそう判断し……、そしてある1つの可能性に辿り着いたジェイドは、トレイに対して見定めるような視線を送った。
「……トレイさん、もしかして魔法の効果が続いているって嘘ですか?」
「いやいや!何でそんな嘘をつかなきゃいけないんだ……」
そう言い、トレイが「俺だって、早く思い出したいよ……このままだと、また何かしかねないし……」と小さく呟く。
「……でも、今は僕のことは好きでも何でもないでしょう?それであれば、望み、とかそういう話にはならないのでは?」
「たしかに、それはそうだな。」
トレイはそう言って頷き、「けど、多分元に戻った時はそう思うと思うから」と続けた。
「……そ、れは……」
たしかにそうかもしれないけれど、とジェイドが思う。そんなジェイドに向かってトレイがニコッと微笑んだ。
「ま、とりあえず、今の話は他言無用でお願いしたい。」
「……分かりました。」
「また何かあれば相談させてくれ。」
そう言うと、トレイは小さく手を振って歩いていった。
そんなトレイの背中を見ながら、昨日、そして今日のトレイの姿を思い起こすジェイド。
僕のことを忘れている、ということと、僕へ好意を向けてくるということ以外はいつものトレイさんだ、とジェイドが思う。
「……」
そもそもトレイさんは、僕のどこを好きになったのだろう?
フロイドが言っていた顔だけ、というセリフが思い出される。
……いや、あれはまあ、フロイドが自分のことをたてて言っているだけかもしれないし、100%本気で言っていたようにも思えないけれど……
そんなことを思いながらも、ジェイドがまた考え始める。
「……どこ、だろうか?」
自分を好きになる要素が全く分からず、ジェイドが首を捻る。
トレイさんは平和主義だろうし……、でも自分は刺激的なことが好きで、確実に好みは違うと思う。何か共通点があったか、と言われると副寮長ということと、何かを育てているということぐらいな気がする。
お互いのことを深く知る程話したことも無かったし、よく分からない。実際好きではないのでは?
そう思うが、あの魔法にかかっている以上、好きという感情は嘘ではないのだろう、ということだけはよく分かる。何かを企んでいて、魔法にかかっていないのに、かかっているフリをしているだけという可能性も無きにしも非ずだけれど……でも、この件が発覚した時の状況を考えると、かかっているフリをしているということは考えにくいし……
ジェイドはその場に立ち尽くしながら、うーん、と小さな唸り声をあげていた。
・・・・・
そして、1週間後の放課後――……
廊下で目の前の人物を見つめたまま、ジェイドは笑顔で固まっていた。目の前の人物……トレイは、眉を下げてはぁ、とため息をつく。
「いやー、何でだろうな……」
「……僕に言われましても……」
トレイから、まだ思い出せないと聞いてから早1週間。
まさか、また同じ用件で話しかけられると思っていなかったジェイドは、「全く、何も思い出せないのですか?」と確認をする。
「ああ、全く。」
「……嘘じゃないですよね?」
その言葉を聞いたトレイは、疲れたように「何で俺がそんな弱みを握られるようなことを自分からしなきゃいけないんだ……」と言って額に手をやった。
その言葉に、ジェイドの脳裏には、自分の気を引きたいとか、という候補が現れる。
自意識過剰というものかもしれないが、トレイの気持ちが明確になっている時点で、そういう考えに至ることは普通だろうとジェイドは思いを巡らす。
そんなジェイドの考えが分かったのか、あ、と声を漏らしてトレイが言葉を続けた。
「言っておくが、ジェイドに意識してもらうためとかじゃないぞ。」
「……」
「……図星って顔をしているな……」
トレイはそう言って呆れたような表情を浮かべると、「俺は勝負するなら正々堂々正面から勝負するし、面倒臭くなることが分かっているのに、こんな駆け引きをお前にふっかけるようなことはしない」と言い切った。
「……それもそうですね。」
たしかに、2つ目の理由の『面倒臭いことに足を突っ込みたくない』精神は、以前のトレイからも、それはもうひしひしと感じていたため、納得が出来る。1つ目に関しては、トレイの性格をよく知らないから分からないけれど。
「実はな、ジェイドのことだけじゃなくて……」
トレイはそう言って言葉を切ると、悩んでいるのか少し間を空けてから「ジェイドを含めた会議だったり、ジェイドがいた時の記憶がかなり薄いんだ」と発した。
「え?」
「完全に消えているわけではないんだけど、おそらく、ジェイドと話したであろう時の前後の記憶がかなり薄くてな……」
あの魔法が何か干渉しているんじゃないかなと思うんだけど、とトレイが付け足した。
「……そ、れは……」
困ることも多そうですね、という言葉をジェイドが小さく呟く。
ただの世間話であれば多少分からなくなっても困らないかもしれないけれど……自分がトレイさんと一緒にいた時というのを考えると……、おそらく副寮長会議がメインになる。
会議の内容が曖昧になってしまうのであれば困りそうだ。
ジェイドの言葉に頷くと、トレイが言葉を発する。
「それでだな……すぐに記憶が戻れば良いんだけど、それまで、分からないことがあった時、ジェイドに連絡を取って聞いても良いか?」
「ええ、もちろん大丈夫です。」
「悪いな。」
そう言うトレイの本当に申し訳なさそうな顔を見て、嘘ではないんだろうな、という結論に至るジェイド。
自分のことを好きなのであれば関われる機会が増えたと喜ぶべきところだと思うが、好きなことを忘れている……というより、そもそも僕の存在自体を忘れてしまっている時点で、知らない相手に迷惑をかけているという感覚に陥っているのだろう。
ジェイドは、「いえ、いつでも連絡をください」と微笑んだのだった。
・・・・・
「ジェイド、何か困ったことでもありました?」
その日の夜、ラウンジの仕事が終わり……
VIPルームで集計の仕事をしているアズールの下へお茶を運んだ時、そう声をかけられた。
困ったこと……?というのは?今日の仕事のこと?であれば、特に何も問題は無かったはずだけれど……どういう意味だろうか……?
何を聞かれているかよく分からず、ジェイドが動きを止め、「困ったこと、ですか?」と問いかけ直す。それにアズールがクイッと眼鏡を上げてジェイドを見た。
「ええ、困ったこと……です。」
「……今日のラウンジの仕事のことですか?それであれば、何も問題はありませんでしたが……」
「いえ……そういう意味ではなく……」
アズールはそう言うと、「ジェイド自身のことです。今日はいつもと違うように感じたので」と続けた。
その言葉を受け、真っ先に思い浮かんだのは今日の昼間にあったトレイとの一件。
ああ……、たしかにあのトレイさんの件を気にして、いつもと違ったかもしれない、とジェイドが思う。
「どこか、変に見えましたか?」
「そうですね。」
アズールがそう言うと、「考え事をしているようで……、いつもより覇気が無いですし、上の空の時が多かったように思いますが」と続けた。
「……そうでしょうか?特に何も変わったことはありませんが……」
さすがよく見ているな、と幼馴染に感心しながらも、ジェイドが小さく首を横に振った。
そんなジェイドに対し、アズールが訝し気な視線を向けるが、これ以上聞いても何も出てこないと思ったのであろう、そうですか、という一言で話は終わった。
アズールはまた集計の計算に戻ると、パソコンをカタカタと動かす。
「……」
そんなアズールを見て、今日フロイドのシフトが入っていなくて良かったな、とジェイドが思う。
フロイドもいれば、きっと2人で僕のことを聞いてくるだろうし、話をそらすのも難しかったかもしれない。でも、2人にトレイさんのことを相談するわけにはいかないし……
「……それでは、失礼しますね。」
ジェイドはそう言うと、VIPルームを出て扉を閉める。誰もいないラウンジを見つめ、大きく息を吐き出した。
「……」
まあ……アズールに、であれば内密に相談することは出来るかもしれない。おそらく、今回のように僕関係のことであればアズールも自分に何か不利益なことが起こりそうだと思って確実に黙っているだろうけれど……
でも……今のところ言うメリットの方が少なそうだ。
ジェイドはそんなことを考えながらも、何故か他の人に言いたくないという感覚が押し寄せてきていることに眉をひそめる。
「……?」
よく分からない感覚を抑えながらも、明日からは態度に出ないようにしないと、と再度息を吐き出したのだった。
・・・・・
数日後――……
「……あ。」
図書室に来たジェイドが口の中で小さな声をあげる。
アズールに頼まれて返却しにきた本を返却棚に入れた直後、目の端に映ったのはトレイの後ろ姿。
「……」
トレイさんと図書室で会うのは初めてかもしれない…
アズールの手伝いや自分の調べもので図書室にはよく行くジェイドだったが、珍しい人を見つけたことにそっと近付いていく。
そういえば、あれから連絡はないけれど、特に困ったことは無いだろうか。
そんなことを思いながら、トレイの後ろから「お疲れさまです」と声をかけた。
「っ!」
トレイは露骨に肩を揺らすと、マズい、という表情を浮かべながら振り向いた。そして、「あ……ジェイド、か……」と声を漏らす。
トレイの驚き方に驚き、声をかけたジェイドまでが体を揺らした。
そ、そんなにびっくりするようなことだっただろうか……?集中しすぎて周りが全く見えていなかった、とか……?
「……すみません。」
声をかけるタイミングを間違えたかな、と思っていると、トレイがハハ、と乾いた笑いを漏らして口を開いた。
「あ……、いや、ジェイドだったら別に良いんだ。」
そんなトレイの言葉に、ジェイドが首を傾げてトレイの手元を覗き込む。
そこには、この前の魔法に関する資料や本が並べられていた。そんな状況に、ジェイドがああ、と納得した声を上げた。
「たしかに、寮生に見られるとマズいかもしれませんね。」
「ああ……」
トレイが苦笑しながら、開いていた本を閉じた。そして、「ジェイドは何か本を借りに来たのか?」と問いかける。
「いえ、アズールに頼まれて借りていた本を返却しにきました。」
そう言った後、少し声のボリュームを落とし、「その後、いかがですか?」と発した。
それにトレイが、あー、と苦々しい声をあげる。その声に答えが全部含まれているな、と思いながらジェイドが言葉を続けた。
「あまり進展は無さそうですね。」
「ああ、いろいろ調べているんだけど、なかなか良い情報は得られなくてな……」
そう言い、「ちなみにジェイドのことはまだ思い出せないよ」と苦笑しながら言った。
「……そうですか。」
もうこれで2週間程度?だろうか……?
いくらなんでも長すぎないか、と思うが、こればかりは仕方がない。予想外の融合魔法なんて効果がおかしいことはよくあるものだ。
ただ、他の寮生でかかっていた人が何人かいたようだったが、アズールからは全員が24時間で魔法の効果が切れたと聞いていた。きっとトレイもリドルからそう聞いているだろう。
それを考えると、トレイさんに何か特別なことが起こっている、とか、そういうことを考えなくてはならなくなる。
「……」
「……ジェイド?」
トレイに呼びかけられて、ハッとしてトレイに視線を向ける。トレイは「なんか難しい顔をしていたけれど、大丈夫か?」と言葉を発した。
立ったまま考え込んでしまっていた……たしかに眉間に皺が寄っていたかもしれない……
そんなことを思いながらも、いつもの涼しい顔をしながら、「いえ、大丈夫ですよ」とニッコリ笑う。
そんなジェイドを見て、トレイは何を思ったのか、ふわっと笑いながら「なんか……分かるな」と呟いた。
「……何がでしょうか?」
「俺がお前のことを好きになった理由。」
予想外の答えが聞こえてきたことに、ジェイドが一瞬固まった。
しかし、ここで何か反応をしてしまっては負けた気がする、と思い直し、「それは嬉しいです」と、平静を装いながら答える。
お、驚いた……まさかそんな答えが返ってくるとは……というか、先程の流れの中で僕を好きになった理由がどこにあったのだろう?トレイさんの感覚がよく分からない……
そう考えながらも、ジェイドの心臓の動きは速くなっていく。
っ……いやいや、何故僕がこんなに反応しているんだ!トレイさんに何を言われようと、僕がトレイさんのことを好きなわけではないし、サラッと流せば良いだけなのに……
そんなことを思うジェイドだったが、トレイがなんとなく意味ありげな笑みを浮かべたことが目の端に映り、眉をひそめた。
「……何でしょう?」
「いや……」
トレイがそう言って口ごもり、何かを言おうとする……が、止めたのだろう「何もないよ」と呟く。
「……」
何かを隠している……?
そんなことを考えるが、この状況で隠していることがあるとすれば、『好き』に結びつくことの可能性が高い気がする……となると聞かない方が良さそうだ、なんか墓穴を掘ったら嫌だし、という答えに辿り着いてジェイドは考えないことにした。
「それでは……これで失礼します。」
「ああ。じゃあ、何か進展があったら報告するよ。」
そう言い、トレイが軽く手を挙げる。
そんなトレイに会釈を返し、ジェイドが歩き出したのだった。
・・・・・
夜、ジェイドは自分の部屋で寝転びながら、今日の図書室での出来事のことを考えていた。
「……」
トレイさんが僕のことを好きになった理由……
詳細はよく分からなかったけれど、それを言っていたトレイの顔が思い浮かんできて、ジェイドが顔から布団をかぶった。
もちろんトレイと話したことはあったが、個人的に話すことはあまり無く……ああいう風に、ふわっと自然に笑う顔もあまり見たことがなかった。
「……いつも……」
そう、トレイさんはいつも笑顔……、というか、笑っていることはよくあるけれど、ああいう雰囲気ではなく、ニッコリ作った感じの……でも、今日図書室で自分に向けられた笑顔は、ああいう作られたものではなくて……
そう考え、ジェイドがきゅっと布団を握る。
なんか……顔が熱くなってきた。
「ッ……何故……」
何故、僕がこんなことになっているのだろうっ……昼間も思ったけれど、別に僕がトレイさんのことを好きなわけでもないのに、何故、僕がこんなにトレイさんのことを考えないといけな……
「っ!」
その瞬間、スマホのバイブが震えて、ジェイドが飛び起きた。慌てて通知を見ると、トレイからメッセージが来ている。
『今日はお疲れ様。早速で悪いんだけど、1ヶ月ぐらい前の会議で、俺とジェイドとジャミルで話した時のこと、聞いても良いか?』
あ、あの時の会議の……
そういえば、トレイとジャミルと3人で次の副寮長会議の議題についてまとめ、学園長と相談しなければならなかったことを思い出しながら、ジェイドがスマホの返信画面を開く。
『ええ。副寮長会議の議題のことでしょうか?』
『そうそう。あれって、俺何かやらないといけなかったか?たしか、ジャミルが各寮長に話を聞きに行ってまとめるっていう話になったことは覚えているんだけど……』
そんなメッセージを読み、たしかにトレイさんの役割には僕の情報が必要だから記憶が曖昧なのだろうな、と考えながらジェイドが指を動かした。
『僕が意見箱に入っている生徒達の意見をまとめますので、トレイさんはジャミルさんと僕がまとめた情報から議題の候補を選出して、学園長に相談に行くというものでした。』
簡潔に内容を伝えると、『そうだったか、分かった。助かった。』と返ってくる。そんなメッセージの画面を見てから、ジェイドがスマホの画面を切った。
「……」
ジェイドは手元のスマホを見つめ、それを軽く放り投げた。スマホがポスッと布団の上に落ちる。
「……違う。」
違う。トレイさんからメッセージがきて、嬉しい、とかそんなこと思っていない。
勝手に出てくる感情を抑えながら、ジェイドが大きく息を吐き出したのだった。
・・・・・・
「あ、お疲れ。」
「!」
翌日の放課後、植物園でトレイに話しかけられ、ジェイドの肩が揺れる。
昨日の夜、考えていたことが頭の中に膨れ上がるが、それは考えないようにしながら「お疲れ様です」と返した。
「昨日メッセージ送った件だけど、あの後丁度ジャミルから連絡があったんだ。」
そう言い、「先にジェイドに教えてもらえていたから助かったよ」と続ける。それに対しジェイドはニッコリと笑うと、「いえ、良かったです」と発する。……が、その笑顔がどうしても作り笑顔になってしまい、ふいっと顔を背けた。
……ダメだ。意識すると表情が強張ってしまって……
そんなジェイドを見て、トレイは何を思ったのか、意味ありげにクスッと笑った。それにジェイドが眉根を寄せる。
「……何か?」
「いや、何でもないよ。」
そう言うと、トレイが「今日は植物園に何か用事か?」と問いかけた。
トレイの笑いの理由はよく分からず怪訝な表情を浮かべてしまったジェイドだったが、質問されたことには納得し、口を開く。
「僕は、山を愛する会という部活動をしているんです。」
トレイさんには部活のことは何も話していないし知らないのも当然だろう、と思いながら言ったジェイドだったが、トレイはその部活動の名前に首を傾げた。
そして少し考える様子を見せたトレイは、「山……ということは、登山でもするのか?」と問いかける。
「ええ、登山もします。山に出掛けて山菜やキノコを採ったり、自然や生き物に触れるような活動内容です。」
「そうなのか。面白そうだな。」
そう言うと、「でもそれで何で植物園に?」と問いかけた。
たしかに、今の説明だけだと、登山部のようになってしまった、とジェイドが思いながら口を開く。
「先程キノコを採るというお話をしましたが、実際に自分でも育てているんです。」
ジェイドはそう言って植物園の奥を指さすと、「あそこに原木があるんです」と続けた。それを聞き、納得したようにトレイが頷く。
「ああ、それでここに……というか、自分で育てるなんてすごいな。」
「そうでしょうか?トレイさんもいろいろ育てておられるじゃないですか。」
ジェイドがそう言うと、トレイは「まあそれはそうだけど……キノコみたいな珍しいものは育てていないよ」と笑った。そして、原木の方向に目をやると言葉を続ける。
「結構本格的にやっているんだな。」
「ええ……、まあ、そのつもりです。」
「少し見せてもらっても良いか?」
その言葉に、ジェイドは「ええ、もちろん、こちらです」と答えて歩き出すことが出来たが、実際には心臓の動きが倍増していた。
別に……、ただ、原木を見せるだけ……だろう。こんなに緊張する必要はないはずだ。
昨日の布団の中での状態と同じようなことに陥ってしまい、ジェイドが上がってくる体温を吐き出すように首を小さく振ってみる。
しかし、実際温度は上昇していくばかりで……
「……ジェイド?」
「っ!」
すぐ後ろから話しかけられ、ジェイドの肩がビクッと揺れた。そんな緊張を隠すように笑顔を作ると「何でしょうか」と発する。
トレイは、あー、と言いにくそうにしながら、口を開いた。
「見せたくないなら無理しなくても良いよ。」
「え?」
「明らかに歩調が遅くなってるから。」
そんなトレイの言葉に、ジェイドの顔がさらに紅潮していく。
こ、行動にまで出てしまっていたなんてっ……これでは僕がトレイさんのことを意識していると公言しているようなものだっ……
そんなことを思いながらも、出来る限り平静を装って「すみません、他の方に見せることが少ないので少し緊張してしまって」と発してみた。
「そうなのか?」
「ええ……、でも見せたくないわけではありませんので大丈夫です。」
そう言いながら、普通であれば興味のある人がいれば見てほしいという一心のみが働くのに、それ以上にトレイさんへの感情が増してしまっている、とジェイドが気付く。
……これは、もしかして……もう、僕もトレイさんのことを……?
「そうか……いや、それなら遠慮しておくよ。」
トレイはそう言うと、「原木を見せてほしいって言った理由は、お前のことをまだ思い出せないから、少しでも知っておきたいって思ったのが本音だし」と呟いた。そう言ってから、何かを考えたトレイは慌てて言葉を続ける。
「あ!決して、キノコに興味が無いというわけではないからな!」
「……ええ。ありがとうございます。」
ジェイドにとって、そう答えることが精一杯であった。
僕のことを知りたい、って……たしかにトレイさんにとっては、自分の知らない自分の好きな人っていうよく分からない存在のことを知りたいと思うことは当然、だとは思うけれど……でも、こんな露骨に言わなくても……いや、今の言い方は露骨なのだろうか?普通のこと、なのだろうか?
頭の中で一所懸命分析するが、自分の気持ちが整理出来ていないのに、相手の気持ちまで読み取ることが出来ず、ジェイドが俯く。
「……邪魔して悪かったな。」
「あ……」
トレイは申し訳なさそうにしながら、「じゃ、俺はこっちに戻るから」と言うと歩いていく。
何と声をかければ良いか分からず、ジェイドはトレイの背中を見ながら立ち尽くしていた。トレイの姿はすぐに木々に隠されてしまい、ジェイドの位置からは見えなくなってしまった。足音もどんどん遠ざかっていっているのが分かる。
「……」
僕は、どうすれば良かったのだろう……?自分の気持ちもハッキリしないまま、記憶の無いトレイさんとどうやって話せば良いか分からない……しかも、自分に対してこんなに好意を向けてきたり、プラス感情の興味を持たれて話されることも初めてで……
フロイドやアズールから向けられるものとも違う。トレイさんは、僕の家族でも幼馴染でも何でもないのに、僕のことを特別に思っていて……
「っ……」
いつも通り、というのが出来ない。
それだけはよくよく分かり、ジェイドが視線を落とした。
・・・・・
1週間後――……
ジェイドは図書室に来ていた。それには理由があり……
「何故こんなに魔法の効果が続いているのか、はっきりさせた方が良い、のと……」
そう、これ以上トレイさんと接点を持たない方が良い気がする。
これ以上親密になってしまうと、自分の気持ちまでが完全に動かされてしまう、とジェイドが小さく息を吐く。
自分の気持ちはもう動き始めて……否、既に動いてしまっているという自覚はある。それが悪いことではないのは分かるが、もう少し冷静になる必要もあるし、こういう気持ちがある時点で自分の弱みになってしまい、アズール達にも迷惑をかけてしまいそうだ。
「……まだ……」
まだ、前の何でも無かった状態に戻れるかもしれない、という小さな期待にかけて、ジェイドは今回の魔法に関連する本を何冊か持ってきていた。
「……」
はっきりさせた方が良いことは、魔法の効果が長引いている理由と、その解除方法――……
そんなことを考えながらページをめくっていく。
解除方法が分かれば、この前のようにトレイさんが僕のことを知らないから、と関わってくることも無くなるだろうし……
「っ……」
そんな自分の考えに、自分の心が傷ついているのが分かり、ジェイドが胸元の服をぎゅっと掴んだ。
い、今は本に集中しないとっ……
そう思いながら、本に目を通していく。
「……あ。」
何冊か本を読み進めていくうちに、同じような魔法の説明が詳細に書いてある本に出会った。
……似ている、というか、全く同じだ……まあ学園長もいくつか文献はあると言っていたし……
そう思いながら、ページをめくっていく。
「……」
魔法の説明や、融合魔法が起こる仕組みが書いてあり……持続時間については、この魔法が効果をもたらした物理的な範囲によって多少変わるらしいが、基本的には1日と記載されてある。2日となるには、魔法がかかった範囲が非常に小さい時のみのようだ。
たしかに、この状態だと誰が考えても1日だろう、な……
そう思いながら、ジェイドが本を読み進めていく。
『効果が長く続く場合は、以下の状態であることが考えられる。』
あ……、ここに書いてありそうだ……
注意書きの中にそんな文章を発見し、ジェイドが目をやる。
「……えっ、と……」
書いてある内容を見て、カァッと顔が熱くなってくるのが分かった。見なければ良かった、と思ったがそれももう後の祭りで……
これは……トレイさんの僕に対する好意、のこと……?
『効果が長く続く場合は、以下の状態であることが考えられる。
2日:好きのレベルがかなり強い。
3日:今すぐ結婚したいぐらい好き。
4日:一生一緒にいたいぐらい好き。』
「すみません、少し良いですか。」
「!」
途中で声をかけられて、ジェイドが勢いよく本を閉じた。
振り向くと、図書委員が驚いたような表情を浮かべながらこちらを見ている。そして、言いにくそうにしながらも、ジェイドを見て口を開いた。
「す、すみません……もう図書室を閉めるのですが……、大丈夫ですか?」
「え、ええ!大丈夫です。」
そう言い、「声をかけられたことに少し驚いてしまって」とニッコリ笑う。図書委員はそれに対しては特に何も言わずに歩いていった。
「……」
ジェイドが図書委員を視線だけで見送りながら、大きく息を吐き出した。
……びっくりした。あんなタイミングで声をかけられるとは……本に集中しすぎて時間の管理が出来ていなかった……
この前のトレイさんのようになっているな、と苦笑しながらも、ジェイドが立ち上がる。
続きが読みたいけれど今日は難しそうだ……
「たしか、これは持出禁止の本棚にあった本で……」
貸出出来ない本だった、と思い、ジェイドは仕方がないと本を棚に戻しに行く。
そして、おそらく鍵を閉める準備をしているのだろう、扉の近くに立っている図書委員にペコッと一礼すると、ジェイドは図書室を出た。
そして、鏡舎に向かって歩いていく。
「……」
4日目の時点で、『一生一緒にいたいぐらい好き』と書いてあった。
トレイさんが嘘をついていないのであれば、もう2週間以上も思い出せないらしい。
5日目以降のページは見られなかったけれど……
「……でも……」
でも、1つだけ分かることがある。
日にちが延びるごとに、好きの濃度が濃くなっている。
心の中で言語化し、ジェイドが足を止めた。
「そんなに……」
そんなに僕のことを……?
それ以上言葉にして考えることが出来ず、今度ジェイドは無心になろうと歩き出した。しかし、頭の中はトレイのことでいっぱいになっており……
「っ……ダメだ。」
いつものように冷静に考えをまとめることが出来ず……
今回この気持ちを無くすために調べにきたのに、完全に逆の状態になってしまったことが分かる。
「……」
トレイさんに対する気持ちを変えることは、おそらく、もう……
その先のことを言葉にすることは出来ず、ジェイドが視線を落とした。
・・・・・・
「……」
数日後、ラウンジでジェイドは客席を見ながら、大きなため息をついていた。
最近、何事にも集中出来ない、とジェイドが自分の生活を見返す。
特に大きなミスをしたり、何か指摘されるようなことはしていない。しかし、明らかに上の空になってしまっていることが多く……、そしてその理由が分かっているジェイドは、どうするべきか、と俯いた。
……自分の靴が歪んで見える。
「ねぇ、ジェイド~!」
フロイドに呼びかけられ、ジェイドが顔を上げた。
「何でしょう?」
「こっちの皿の盛り付けさぁ、お願いしてもい~い?肉並べて欲しいんだけど。」
「分かりました。」
そう言い、フロイドの元へ歩いていく。そして、言われた皿の前に立ってパッと顔を上げると、フロイドと目が合った。
やけにこちらを見定めるような鋭い視線に、ジェイドが眉をひそめる。
「……?何でしょう?」
「べっつに~!」
フロイドはふいっと顔を背けてキッチンの中に戻っていく。
……何か、思うところがあるのだろうか?
そう思いながら、目の前の皿に、渡された肉を盛り付けていく。手を動かしながら、1ヶ月程前にアズールに何かあったのか、と聞かれた時のことを思い出し、フロイドも自分のことについて何か気付いていることがあるのかもしれない、という結論に辿り着いた。
「……でも……」
でも、直接何か言われない限り、こちらから言い訳するのもおかしいし……
もし何か言われた時にどのように返すかを考えておこう、とジェイドが思う。
「……」
こうなっているのは、トレイさんのことが原因で……でも、そんな正直なことは言えなくて……
そう考えながら手を動かし続けているジェイドだったが、頭の中ではフロイドやアズールに聞かれた時にどう答えるか、ではなく、いつの間にかただ単にトレイのことを考えている状態になっており、ハッとして手を止めた。
「っ……」
……ちゃんと集中して、いつも通り過ごさないと……
ジェイドはそう思い、きゅっと目を閉じる。
トレイさんのことを気にし始めたのは、あの一件があってからだったが、具体的にどのような経緯でここまで好きになっていたか、なんて自分でも分からない。
たしかにこんな好意を向けられたのは初めてだったけれど……僕はこんなにも流されやすかっただろうか……?トレイさんが僕のことをどれだけ好きであっても、僕自身が好きになる必要なんてないのに……
ジェイドは少し悲しくなるが、出てしまった結果を言っても仕方がない。
「……どうするか。」
この気持ちをどうするか、が最大の問題だ。
トレイさんが元々自分のことを好きだということは事実であり……トレイさんが記憶を取り戻した時に、急に僕のことを嫌いになっているというようなことは、おそらく無いであろうことが分かる。
……もしトレイさんが記憶を取り戻したら?付き合う、なんてことになるのだろうか?僕はそれを望んでいるのだろうか?もし付き合ったとしたら、フロイドやアズールとの関係は薄くなってしまうのだろうか?僕の生活は変わってしまうのだろうか?僕は趣味ややりたいこともいろいろあって……
「……」
答えが何も出ないまま、ジェイドが持っていたフォークをぎゅっと握りしめた。
・・・・・
翌日――……
「ジェイド、ちょっと良いか?」
昼休み、突然後ろから声をかけられ、ジェイドの肩が反射的に揺れた。
……トレイさん……
この前もトレイさんのことを考えていた翌日に話しかけられて同じような反応をしてしまったな、と思い出しながら、いつもの笑顔は崩さないようにしながらトレイの方を向く。
「何でしょうか?」
「えーっと……」
トレイは困ったような表情を浮かべると、「その、だな……アズールやフロイドに何か言われているか?」と問いかけた。
その問いの意味が分からず、ジェイドが眉根を寄せる。
「……何か、とは何でしょう?」
「えーっと、な……」
そう言い、トレイがキョロキョロと周りを見回すと、「放課後、ちょっと2人で話せるか?」と発する。
……2人、で……?
トレイの言っていることがすぐに理解出来ず……ジェイドが俯いて少し考える。
2人で話したい?と言うと……どういう……?
そう思うが、今の話の流れだと、アズールやフロイドに聞かれたくない話があるのだろうか、という結論をなんとか出すことが出来たことに、ジェイドが口を開いた。
「……あの2人に聞かれたくないということでしょうか?」
「出来れば……」
申し訳なさそうに言うトレイを見て、アズールやフロイドがトレイさんに何かを言ったのだろう、ということを察する。
しかし、それと同時にジェイドの頭の中には、2人で話すというワードが巡っていた。
今までは、2人で話すこともあったが、誰かが来る可能性もある場所で、他人を意識しながらの会話であった。しかし、完全に2人で、となると、今までとは違って……
「……ええ、もちろん大丈夫です。」
頭の中ではいろいろ考えながらも、気付けば自然とそう答えてしまっていた。
拒否することなんて出来ず……拒否する理由もなく、ジェイドが小さく頷いたのだった。
・・・・・
「……」
で、結局――……
周りをキョロキョロと見回すジェイド。
「あ、どこに座っても良いぞ。」
「……失礼します。」
トレイに声をかけられ、ジェイドは近くにあった大きめのソファーに座る。
2人で話すということで、場所を探したが良い場所が見つからず……結局トレイの部屋で、ということになってしまった。
ジェイドにとって、気持ちとしては嬉しい……、けれど、このままでは、自分がどう行動すれば良いか分からないという状況に陥っており……
複雑な表情を浮かべていると、「どうかしたか?」と声をかけられる。ジェイドがハッとして顔を上げた。
「あ……、いえ、何でもありません。」
否定するだけでは何か思われるかもしれない、と考えたジェイドは、「初めて別の寮の方の部屋に入ったので……、自分達の部屋とは違うなと思っていて」と、もっともらしい理由を付け足してみた。それにトレイが「ああ」と同意して頷く。
「たしかに、オクタヴィネル寮とは部屋の内装が大分違うだろうな。」
そう言い、トレイはジェイドの前のテーブルに紅茶の入ったコップを置いた。ジェイドがどうしようか頭を悩ましている間に、部屋にあったポットで紅茶を入れてくれていたらしい。
トレイの「もし良かったら」という言葉を聞き、ありがとうございます、とジェイドが呟く。
……僕は、トレイさんが紅茶を入れているのにも気付かない程、考え込んでしまっていたのか、と自分の行動に呆れていた。
「悪いな、来てもらって。」
そう言い、トレイはジェイドの隣に座ると、自分の目の前に置いてあった紅茶を飲む。ジェイドは「……いえ」と答えるが、トレイの入れてくれた紅茶を眺めることしか出来ず……手を伸ばせない。
……今コップを持てば、落としてしまいそうだ……
そんなことを考えながら、とにかく話を進めないと、と、アズールとフロイドの話ですが、何かありましたか?とトレイに向かって問いかけた。トレイがそれに頷く。
「ああ、ジェイドと何かあったのか、と聞かれて。」
「え?」
「俺自身には何も思い当たることが無かったんだけど……2人ともすごい剣幕でさ。もしかして俺、何かしてしまっていたのかな、と思って……」
トレイがそう言うと、「本人に聞くのが1番早いかなと思って」と続けた。それにジェイドが視線を落とした。
やはり、あの2人にはバレていた……ということか。直接聞かれることは無かったけれど……
まああの2人だと分かるだろうな、と思いながら、ジェイドが口を開いた。
「いえ……、僕は何も気にしていることはありませんが……」
こうなっている原因は自分にあることは分かっていて、それをトレイさんに言わない方が良いことも分かる。トレイさんは何も悪くないし、その原因を言うということは、トレイさんに告白するということで……自分の気持ちを今のトレイさんへ言うつもりもないし……
ジェイドはそう考えていると、トレイはしばらく何か考える様子を見せていたが、「あ、そういえば」と言い、言葉を続けた。
「話は変わるんだけどさ、多分ジェイドに作ろうと思っていたんだろうな、っていうお菓子のレシピが見つかったんだ。」
「え?」
突然の話題転換に、ジェイドが首を傾げた。トレイの言葉を自分の中で反復し、言っていることの意味を咀嚼する。
ええと……お菓子のレシピ?僕へのプレゼント、ということだろうか……?
そんなことを考えるジェイドに向かって、トレイが言葉を続けた。
「マドレーヌのレシピだったんだけどな。」
そう言うと、「キノコの形に焼けるように設定されていてさ」と続ける。それを聞き、ジェイドが「キノコ……」とトレイの言葉を繰り返した。
「ああ、いろいろ考えてみたんだけど……俺の周りに、ジェイド以外にキノコに関連する人がいなくてな。」
「……たしかに、この学園でキノコを育てているのは僕だけかもしれません。」
そう言うと、トレイが「それはそうだな」と笑い、言葉を続ける。
「ジェイドは、俺が今までプレゼントとか送っていなかったって言っていたけれど……、もしかして俺も裏で準備してたのかもしれない、って思って。」
「……そう、なのでしょうか……」
「多分な。」
ま、何も覚えてはいないんだけど、とトレイが笑う。
それにどう返せば良いか分からずジェイドが俯いて黙っていると、「もし、マドレーヌ食べられるなら、作っても良いか?」という言葉が聞こえてきた。
ジェイドが顔を上げてトレイを見る。
「……ええ、もちろん。」
そう言い、ありがとうございます、と続ける。
そんなジェイドの顔をジーッと見て、トレイはうーん、と唸り声をあげた。
……?何、だろうか……?
そんなことを思うジェイドに向かって、トレイが「やっぱり……何か隠し事をしているな」と小さく呟いた。それにジェイドの体が反射的に揺れる。
「っ!そ、そんなこと……」
明らかにYesの反応をしてしまったということに自分で気付くが、どう取り繕えば良いか分からず、ジェイドが目を伏せた。
そんなジェイドに対し、トレイは「あー……えっとな……」と考える様子を見せていたが、何かを決めたようにジェイドを見て口を開いた。
「俺が何も覚えていないのは悪いと思っているし、そんな状態の俺を信頼出来ないっていうのも分かるけど……」
そう言うと、トレイは少し考え、「俺はジェイドのこと、心配しているんだ」と続けた。
心配……?
トレイの最後の言葉に露骨に反応してしまう。しかし、その言葉を言った真相は分からず、ジェイドは当たり障りのない笑顔を浮かべながら口を開いた。
「ありがとうございます。でも、本当に……」
「たしかに俺は、前のジェイドのことは覚えていないけど……」
ジェイドの言葉を遮ってそう言うと、「でも、好きなのは変わらないよ」と発した。
好き、なのは、変わらない……?好き……、好きというのは……
頭の中でトレイの言葉を反芻する。
「……え、っと……?」
「お前への気持ちは同じっていうか……」
トレイはそう言って悩むと、「ま、俺自身の性格やら好みは何も変わっていないからな……前も言ったけど、俺は自分がジェイドを好きになった理由も分かるし、記憶が無くなってから、さらに好きになったよ」と続ける。
そんなトレイの言葉にジェイドの顔が一気に紅潮していく。
「そ、れは……その……」
意味のある言葉を発することが出来ない。心臓がいつもの倍……否、10倍以上の速さで動いているような感覚に陥る。
トレイさんは、記憶が無くなっても、また僕のことを……?
「ま、記憶が無くなる前の方が好きだっただろうけど。」
そう言い、トレイがジェイドを覗き込んだ。突然近付いてきたトレイに、ジェイドが視線をそらす。
え、っと……僕は、どうすれば……何をどう答えれば……?
自分のトレイへの気持ちも、トレイと同じだとは分かっているが、自分がどうしたいのか、どうなりたいのかがハッキリしない以上、言葉にしない方が良い……かもしれない……いや、でも……何も言わないというのも……
ジェイドの頭の中の思考がグルグルと回転する。
「……それにこの1ヶ月、ジェイドのことを見てきて、大分ジェイドのことも分かったし。」
トレイはそう言い、分かったつもりって言った方が正確か、と小さな声で付け足した。
「……」
「だから、ってわけではないけど……ジェイドの悩みが俺のことだったら解決したいし……もし違っていても、協力したいと思ってるよ。」
「……え、っと……」
思考が回転しすぎて、上手く止めることが出来ない。パニック状態というのはこういうことなのだろう、と頭の端にはそんな客観的な考えまで浮かんでくる。
身動きが出来ないジェイドだったが、トレイの顔がさらに近付いてきたことに硬直した。
「……ジェイド。」
「っ……」
「……顔、真っ赤。」
ふわっと笑うトレイの手がジェイドの頬を撫でる。そのトレイの表情と頬への刺激に、ジェイドの肩がビクッと跳ねた。
「ト、レイさっ……」
「ふはっ……可愛い。」
トレイの笑顔が間近にある。何故か視線がそらせない。拒否をするのであれば、すぐに顔を背けるべきであることは分かっている、のに……
どうしようもなくなったジェイドは、ぎゅっと目をつむり――……
「ッ……」
「……さすがにダメだな。」
唇が触れる直前でトレイが離れていった。
今まで自分の目の前にあった圧が無くなり、ジェイドの体から力が抜けていく。回転しすぎてショートしていた頭の回路が徐々に繋がっていき、先程のトレイの言葉が頭の中を巡る。
えっと……ダメ、とは……?
自分が拒否していると思われたのだろうか……実際、拒否はしていないし、まず拒否するような余裕も無かったけれど……とジェイドが考えていると、トレイがハハ、と乾いた笑いを漏らしながら口を開いた。
「今こういうことをすると……記憶が戻ったら、何で記憶が無い時にあんなことしたんだって、後悔しそうだと思って。」
「……後悔……」
ジェイドがトレイの言葉を繰り返して目を伏せる。そして、単純に疑問に思ったことを問いかけてみた。
「記憶が戻ったら……、この1ヶ月の記憶は無くなるのですか?」
「あーいや……、そんなことはないらしいけど。」
「それなら、後悔する、ということは無いと思いますけれど。」
ジェイドとしては、ただ自分の考えを言っただけで気付かなかった……が、トレイの立場であれば、この言葉の意味をどう捉えるかがすぐに分かり、ハッと視線をそらした。
ぼ、僕は、何を言って……
この失言を何とかしようと頭を働かせるが、自分の発言を自分で処理する前に、トレイに腕を掴まれた。そして、グイッと引き寄せられる。
「ッ……」
「……それは、この続きをやっても良いという意味で捉えて良いか?」
「あ……、そ、の……」
近くでトレイとジェイドの視線が絡んだ。今までに無いトレイの真剣な目に、ジェイドが動けなくなる。
僕は……何を言っているんだ?……でも、嘘はついていない。実際トレイさんを好きな以上、こういうことをしたい、とも思ってしまっているし、こういう状況になっているのも、嬉しい、という気持ちが大きくて……それで、僕、は…………
しばらく無言の時間が流れ――……そのまま、2人の唇が重なった。
・・・・・
数日後――……
ジェイドは、図書室に来ていた。しかし……目の前に置いてある、この前の本を見つめながらも、思い出されるのはあの日のことで……
あの日、自分のスマホが鳴っていなかったら、どうなっていたのだろう、とジェイドがきゅっと目をつむる。
「……」
トレイに何度もキスされて……それで、ソファーにそのまま押し倒された瞬間、ジェイドのスマホが鳴った。そんなスマホの音によって2人は離れることになり……
恥ずかしすぎて、その後話もちゃんと出来なくて……
そのままオクタヴィネル寮に帰り、電話をかけた張本人、アズールから指示された仕事をして、自分の部屋に戻って何も考えないようにしながら急いでベッドに入り……
「それから……」
それから数日たったが、トレイさんとは何も話していない……というか、会ってもいない。ちなみに連絡もとっていない。どういう関係なのかは不明なままだ。
自分が若干避けていたということもあったが、普通に会う機会が無かった、という方が正しいだろう。トレイが自分を避けていたか否かは分からない。
ジェイドが大きく息を吐き出して目を開ける。
「……よし。」
終わったことを考えていても仕方がない。トレイさんとの関係は今よく分からない状態だけど、それでも前に進まないと……
そう思い、図書室に来た意味を思い出す。
実は……、あの本の続きをなかなか見ることが出来ないでいた。自分の性格的に、気になったら放置しておくことは出来なかったはずなのだが、今回ばかりは恥ずかしさや……その後、いろいろあったせいで、いつもと違う感情が湧いてきて、動けないでいたのだ。
「えーっと……この本のこの辺りまで読んでいて……」
前読んでいたページを開く。
『効果が長く続く場合は、以下の状態であることが考えられる。
2日:好きのレベルがかなり強い。
3日:今すぐ結婚したいぐらい好き。
4日:一生一緒にいたいぐらい好き。
注)これ以上続く確率は低いが、可能性としてあるため下記に記載をしておく。
5日:殺したいぐらい愛している。』
そんな注意書きと5日目の文言にジェイドが体を強張らせた。
「……可能性が低い……?というか、殺したい、って……」
まず、こんな形で記載される程、珍しいことなのだろうか……?かなり激しい表現方法になってきているし……
そんなことを思いながら、読み進めたジェイドが、動きを止めた。
『注)これ以上続くことはほぼ0%に近いが、念のため6日目以降の状態も次ページに記載しておく。』
「……どういう、意味だろうか……」
手元の文を見て、ジェイドがそんな声を漏らす。
トレイさんの場合、もう余裕で6日以上になっている。でも、まずそもそも、そうなる確率自体がかなり低い、ということ……?というか、5日目でこれということは、6日目以降って……
たくさんの情報を整理するのは得意なジェイドだったが、今回は情報量の多さではなく、情報の内容が重すぎて……ジェイドの頭の中はかき乱されていた。
「……でも。」
見ないわけにはいかない。解除方法もまだ分からないし……
そう思いながら、ゆっくりとページをめくる。
『6日目以降:記憶なんて戻らなくても良いよな。結末は同じなんだから。』
読んだ瞬間、全身の鳥肌が立つ。
「け……結末……?」
うまく理解が出来ない。まず、この部分のみ、文体が違う……?しかも、以降、ということは、その後ずっと同じということで……
そして、この魔法に関する情報はこの1行で終わっており、続きが無かった。
「もしかして……、記憶は戻らない……?」
戻らなくても良い、ということは、暗に戻らないことを意味するのだろうか?
ジェイドは、そんなことを考えながら、何度も文を読み返す。しかし、もちろん情報が増えるなんてことは無く――……ジェイドは、本をパタン、と閉じた。
「……」
しばらく自分の頭の中を整理するのに時間がかかり、図書室の椅子から動けずにいた……が、ハッとして本を持って立ち上がる。
ここにいても仕方がない……
そう思い、ジェイドは本を棚に戻すと歩き出した。いつもより……足が、重い。
「……もしかして、嘘の情報?」
あの本に書いてあることは、信憑性はあるように思えたが、もしかして偽情報ということもあるのではないか、という可能性を考えるジェイド。
……その可能性もある。けれど、基本的な情報は合っていたし、参考文献や著者も疑う余地のないものだった。しかも、あの6日目以降というところも誰かに故意に書き込まれたものではなく、きちんと印刷されたものだったし……
それを考えると、嘘とは考えにくい。となると……
「あ!ジェイド!」
「っ!」
後ろから呼びかけられ、ジェイドが足を止めた。
ト、トレイさん……
もちろん声で判断が出来るが、先程の本の影響か、上手く口が動かない。しかも、数日前にあったことも頭の中に浮かび上がってきて、ジェイドはもうキャパオーバーの状態であった。
何も話すことが出来ずに固まっていると、トレイに覗き込まれる。
「……ジェイド?」
「あ……」
「大丈夫か?」
トレイの距離の近さに、ジェイドが一歩後退する。トレイもそんなジェイドを見て「悪い!驚かせたか」と言いながら一歩離れた。
それにジェイドが首を横に振る。
「あ……、いえ。すみません。」
「……なんか顔色が悪いぞ。調子、悪いのか?」
「い、いえ……!」
そう言うジェイドを見て少し考える様子を見せたトレイだったが、鞄をゴソゴソとあさって袋を取り出した。
「……これは?」
「前に言っていたマドレーヌ、焼いてきたんだけど……」
トレイがジェイドに差し出すと「食べてくれるか?」と続ける。
マドレーヌ……あ、僕に作ろうと思っていたであろうレシピが見つかったっていう……
前に話していたトレイのレシピのことを思い出し、ジェイドが頷いた。
「……いいのですか?」
「ああ。悪いな、遅くなって。」
トレイはそう言うと、「材料の1つになかなか手に入りにくいものがあってな……ある程度は記憶が無くなる前に準備してたみたいなんだけど、それに手間取ってしまって」と言って、ハハ、と笑った。
「……そう、なんですか……」
そんな珍しい食材を使っているのだろうか、と思いながらもジェイドが袋を開けて、中を見る。
たしかに、いろいろな形のキノコ形マドレーヌが入っており、純粋にすごい、とジェイドが思う。そして、それを素直に口に出すジェイド。
「すごいですね……本物そっくりです。」
「だろ?」
トレイが得意そうに笑うと、「味も保証できるぞ」と付け足す。そして、トレイが一歩近付いてきたことに、ジェイドが小さく揺れた。
えっと……?なんか、距離が、近い、というか……
先程の件で、なんとなく警戒心が強まってしまっているジェイドは、体を強張らせてトレイを見る。しかし、トレイはジェイドのそんな様子を気にしている素振りもなく……
あー、えっと……、とトレイはモゴモゴと口の中で何かを言っており……少し照れたように顔を背けると呟くように言葉を発した。
「ジェイドが良ければなんだけど……、もし時間があるなら、この後部屋に来ないか?」
「え?」
「その……良かったら、一緒に食べないかなって思って。」
トレイはそう言うと、「紅茶も出すし、ゆっくり食べられると思うんだけど」と続けた。
そんな言葉に、ジェイドの頭の中が、またかき回されていく。
これは……誘われているということ?というか、トレイさんの部屋に行くということは、この前みたいな……あの、続き、だったり……
ジェイドがそこまで考え、紅潮してくる顔を隠すように俯きながら言葉を発する。
「ええっと……時間は、その、大丈夫、でして……」
僕は何を考えているんだっ……ただお菓子を食べに来ないか、って誘われただけで……
体が熱い。口が上手く動かない。全身の力も入らなくて……
「時間、大丈夫か?それなら……」
「ええ……、是非。」
ジェイドが小さく頷く。
「……良かった。」
トレイはそう言った後、ジェイドには聞こえない程度の声で何かを小さく呟いた。それにジェイドが首を傾げる。
「……何でしょう?」
「いや、何でも無いよ。早く行こう。」
そう言って笑うトレイのポケットの中で、小さな瓶に入ったピンクの液体が揺れた。
Fin.