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    hirameria1997

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    hirameria1997

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    ワンダーランドの海で暮らすマーメイドぬすじと、売れないベーシストぬすまるの恋物語。****注意:悲恋です****
    2023年5月のプリコンにてマーメイドぬすじが本になります!!
    こちらは収録される修正版です。他書き下ろしとして続編となる「マーメイドぬすじ・リターンズ」と「epillogue〜帰国の途中〜」が収録されます。全体の3/2程度が書き下ろしです。

    #蘭嶺
    orchidRidge
    #うた腐リ
    #ぬす
    steal

    マーメイドぬすじ『ワンダーランドの海には“上半身がぬす、下半身が魚"の未知なる生物がいるという』
     
     人魚——それは昔から言い伝えられてきた神秘的な存在。時を経ていつしか童話にもなった美しくも悲しいその物語は、長きに渡ってワンダーランドの子ぬすたちに広く親しまれています。
     
     ぬすじはまさに現代に生きる「人(ぬす)魚」でした。上半身は普通のぬすと同じで下半身は魚。……とはいっても、魚の形状をしているだけで質感はぬすの肌と変わりません。フカフカとした感触もぬすそのもの。しかし性質だけは魚にかなり近く、水辺でないと生きてはいけないのです。
     そんな特性からとても希少であり、普通のぬすとの交流はほぼない生活をしている「人魚」という種族。ぬすじ自身はというと陸の上の生活やそこで暮らす脚のあるぬすたちに興味はあるのですが、自分には縁のないものとして一線を引き、海の中でひっそりと暮らしていました。
     人魚は絶対数が少ないのであまり同種の仲間はいませんが、小さな魚たちと泳いだり、綺麗な珊瑚や貝を集めたりすることは、それはそれで楽しいものです。特に不満もありません。ですが時折水面から顔を出しては、浜辺でバーベキューをしたり、フェスで盛り上がる陸の上のぬすたちの様子を眺めて、少々羨ましくなったりもするのでした。
     
     そんなある日のことです。ぬすじの生息する海域を大きな竜巻が通過しました。潮の流れを読んで、ぬすじは事前にそのことを察知していました。しかし予想外だったのは——今回その速さがいつも以上にハイペースだったということ。
    「おさかなちゃんたち!! 逃げて!! はやく!!」
     いつも一緒に遊んでいる仲間のいきものたちを、ぬすじは得意の泳ぎで誘導します。その甲斐あってなんとか避難には成功しました。が、——
    「えっ……!? う、うわ————っ!!」
     竜巻を回避してほっとしたぬすじの目の前に現れたのは、小さな人魚なんて一飲みにしてしまうくらいの、大きな高波。
    (あっ、あっ……まって……)
     その水圧は凄まじいものでした。今まで聞いたことがないくらいの大きさで響く、ゴボゴボという音。それだけ水を飲み込んでしまっているのでしょう。自慢の泳ぎも全く歯が立ちません。唯一よかったのは、魚の性質から波に抵抗するのではなく、水流に身をまかせてしまったこと。おかげで水圧によって打たれるような痛みこそありませんでしたが、その代わりにぬすじはどんどん流されていってしまいました。次第に朦朧とする意識。なす術もなくぬすじの体は、見知らぬ砂浜に打ち上げられていたのでした。

    「……ん……あ、、」
     次にぬすじが目を覚ましたきっかけは、下半身の魚部分に感じる、チリチリとした痛みでした。
    (……っ、……)
     これは嫌な感じの痛みだと、ぬすじは本能で理解しました。人魚は過度に水分を失われてしまうと、生命活動の維持が困難になり、やがては干からびて命を落としてしまうのです。だから必要以上に陸には近づくなと、小さい頃から母親に厳しく言われていました。
     干からびてしまうなんて恐ろしいこと。ぬすじもそれは当然のこととして、大人になった今も、その言いつけを守ってきました。が……今回のこれはどう考えても、不可抗力によるアクシデントです。
    (ここ……どこ?)
     まだぼんやりとしているぬすじの目に見えたのは、真っ青な空。昨日の竜巻の余韻なんて感じさせないくらいに……いや、あれは人魚の暮らす遠くの海域のことなので、もしかしたら陸地には何の影響もなかったのかもしれません。それくらい穏やかに晴れた空と、顔の下に広がる白い砂浜でした。
    (来たこと、ないとこかも……)
     ぬすじはどちらかというと、普段たくさんのぬすが集まる浜辺を眺めていることが多かったのですが、それは無意識にひと(ぬす)恋しさからくる行動だったのかもしれません。しかしこの海岸は見慣れた賑やかな場所よりずっとひっそりとしていて、今はぬす一人いませんでした。
    (こんな場所も、あったんだ……)
     干からびかけている状況であるにも関わらず、ぬすじは世界の広さに驚きます。賑やかでこそありませんが、この場所が「とても好きだな」と感じました。しかし運が悪かったのは、ここには誰もいないということ。雲一つない空からぬすじを目掛けたように降り注ぐ日光は、容赦無くフカフカな体を乾かしていくのでした。
    「う……あ……」
     もしかしたらもう、ダメかもしれない。
     助けを見込めない今、ぴちぴちとどうにか尾鰭を動かしてみるも、それは思った以上に微かなはためきにしかなりませんでした。
     シュウシュウという水が蒸発していく音。どんどん水分が失われているのがわかります。本当にもう、最期が近いのかもしれない。薄れる意識の中、ぬすじはそれをも覚悟していました。
    (……かあちゃん、ありがとう)
     こんな結末になってしまったけれど——海の中の生活はそれなりに楽しかったし、なにより仲間の魚たちを守れてよかった。ぬすじは静かに目を閉じていきます。尾鰭をはためかせるのも止めた、その時でした。

    「おい、おまえ……なにそんなとこで寝て……」

     聞こえてきたのは、低く訝しむような声。その内容は砂浜にうつ伏せに倒れたぬすじのことを、寝ていると勘違いしているようでした。
    (もしかして……ぼく、助かる?)
     命を諦めていたところに差した一筋の光。ぬすじはなんとかその声の主に反応を示そうと、もう一度尾鰭を必死に動かしてみます。しかし力はほとんど入らず、乾燥が進んだ魚の部分は、残念なことにピクリとも動きません。
     やはり無理か……このまま寝てると思われて、ほったらかしにされちゃうのかな。
     再びぬすじの意識は遠のいていきます。ジリジリと照りつける太陽——しかしそのもっと上にある、天は彼を見放しはしませんでした。もしかしたらぬすじの運命は、この時から大きく動き始めていたのかもしれません。
    「あ……? 魚?」
     それは、ぽつりとつぶやくような声でした。
    「嘘だろ? おまえ、まさか……」
     その後に続く息を飲む音。もしかしてぼくの状況に、気がついてくれたのかもしれない——
    「に、にんぎょってやつか?!」
     願いが届いた!! 
    奇跡のような問いかけに、ぬすじは必死になって首を縦に振ります。上半身の普通のぬすと変わらない部分は、まだ微かに動かすことができました。
    (よ、よかった)
     そうこうしているうちにうつ伏せになっていた体は、ここへきてやっと反転させられました。もちろん、声の主によって。
    (——あ、)
     初めて彼と目が合った時の衝撃。あの感覚をぬすじはこの先きっと、忘れることはないでしょう。
     左右色の違う綺麗な瞳。その片方と同じ色をしたとげとげ頭。それからもちろん、すっとした二本の脚。干からびかけたこんな状況だというのに、ぬすじは一瞬うっとりと見惚れてしまいそうになりました。が……
    「おまえ、すげぇ顔色悪いじゃねぇか!!」
     ぬすじのことをじっと見てくるまっすぐな視線。その綺麗な瞳を含めた表情が、わかりやすく歪みます。
    「人魚って……そういや、昔読んだ……」

    + + +
     
     ぬすじを発見したとげとげ頭——ぬすまるは、海岸近くに住むぬすでした。ぬすまるの中でこの状況からピンと繋がったのは、彼がまだ幼い頃の記憶でした。ワンダーランドに古くから伝わる“人魚”という存在。確かに母親に童話として読み聞かせてもらったことはありますが、もちろんこんな風に相対するのは初めてです。しかし不思議と恐怖や異形のものに対する不安などは、一切感じませんでした。まるっとしたフォルムやフカフカの体が、思った以上に平和に見えたからか。いや、それ以上にこのぐったりとした栗色頭の人魚を、なんとかしてやりたいと思う気持ちが強かったのかもしれません。
    (たしか、陸に長時間いると、体が干からびて——)
     最終的には命を落としてしまうという、人魚の特性。
    それを思い出した上で再び人魚を見ると、目の前の姿はまさに今、そうなりかけている状態に見えました。加えて、
    「うっ……うみ……、へ」
     聞こえたのは微かな声。ほぼ聞き取れないような音量のそれを、ぬすまるは口の動きを見て、なんとか察します。
    「かえ……して」
     そのフレーズを最後まで聞き終わる前に、ぬすまるの体は動いていました。
    「……っくそ、、気づくのが遅れちまった!!」
     対峙してからのタイムロスを取り戻すように、急いで目の前の人魚の体を抱き抱えます。その瞬間感じたのは異常なほどの熱さ。いよいよマズイ状態だというのが、肌から伝わってきます。
    (たのむ、助かってくれ!!)
     天にも祈る気持ちで頭の中で繰り返しながら、数メートル先の波打ち際まで走りました。そこへちょうど打ち寄せてくる波。ぬすじのことを迎えに来たような海の中に委ねるように、ぬすまるは抱いた体を預けるのでした。
     
     引いていく波に乗って、ぬすじはすーっと海へ戻っていきます。ぬすまるからは一瞬、水に飲まれてしまったかのように見えました。しかし人魚のいなくなった海をしばらく眺めていると、遠くの方で尾鰭がはためくのが僅かに見えて。
    (なんとか間に合った……みてぇだな)
     それでやっと、小さな胸を撫で下ろすのでした。
     
    + + +

     干からびかけていたところを、なんとか一命を取り留めたぬすじでしたが、それ以来栗色の頭の中を巡るのは、危機から救ってくれたあのぬすのことばかり。
    (お礼が、したいな……)
     しかし会ったのはあの一度きりで、しかも朦朧とする意識の中でのこと。仮にもう一度会えたとして、きちんと彼のことを認識できる自信は、正直ありませんでした。それでも……
    (あいに、行かなくちゃ)
     ぬすじの生きてきた中で、こんなにも強く誰かのことを想ったのは、おそらく初めてのことでした。諦めかけていた命を助けられたあの出来事は、何よりも深く、深く、ぬすじの心に刻まれていたのです。
     
     一旦決意が固まると、ぬすじはすぐに行動を開始しました。目指すはあの見知らぬ砂浜。しかしいざ泳ぎを進めてみればそこは案外近くて、自分の普段の行動範囲の狭さを、こんなタイミングで自覚するハメになるのでした。
    (こんな近くにあったんだね)
     いわゆる“穴場”というやつなのかもしれません。今日もあの日と同じく、浜辺には誰もいませんでした。
    「……」
     静かに打ち寄せる波の音。ぬすじは頭だけを水面から出して、助けてくれた彼が現れないかと待ち続けていました。しかしどっぷりと日が暮れても、その日浜辺に訪れるぬすは誰もいませんでした。
    (そう簡単には会えないよね)
     もちろん一度で諦めるつもりもありません。ぬすじは来る日も来る日も、誰もいない海岸に通いました。晴れた日も、大雨で海が荒れた日も。しかしなかなかあの彼は現れてはくれません。
    だからと言ってぬすじと彼との接点は、この海岸しかないのです。他に行く場所の選択肢もありません。
    (こうやって通い続けていれば、いつかは会えるのかな)
     揺蕩う波のように、少しずつ揺らいでいく気持ち。
    (——今日も会えなかった……)
     ぬすじが海岸に通い始めてから、既に季節は数回変わっていました。
     海がオレンジ色に染まる夕暮れ時。この日も収穫は無く、ぬすじは諦めて沖の方へ引き返そうとしていました。しかし視界の隅で、何やらポテポテと動く姿があります。
    「えっ……!?」
     誰もいない海岸に現れたそのシルエット。顔を見たのは助けられたあの時だけ。しかし認識できるかどうか不安だったことが嘘のように、ぬすじにははっきりとわかりました。
     
     彼は、ぼくを助けてくれた————
     
     揺蕩っていたそこそこ海の深い部分から、ぬすじは浜辺に向かって泳ぎ出します。絶対に彼のことを見失うことがないように、顔は出したまま。
     泳いでいる間じゅう彼のことを見つめていたおかげで、気づいたことがありました。彼は背中に何かケースのようなものを背負っています。もしかしたら助けてもらったあの時も持っていたのかもしれませんが、当時は生死の境を彷徨っていたため、それに気づく余裕はありませんでした。
     ぬすじの視界の中で彼は波打ち際まで歩いてくると、大きな岩に腰掛けます。そして背負っていたケースをおろし、中から何かを取り出しました。
    (あれは……楽器?)
     ぬすじ自身も音楽は好きで、貝で作ったマラカスを鳴らしたり、魚たちと歌ったりして海の中で過ごしています。彼はどんな音を奏でるのだろう。海岸を目指して泳ぎながら、とても興味が湧いてくるのでした。
     
     ~~~~♪
     
    (あ……)
     数秒と待たずに聞こえてきた音に、ぬすじは思わず泳ぎを止めます。
    (なんだろう……この感じ)
     まっすぐで力強い声。それなのにどこか、切なさも感じさせる。歌に重なるベースの音。彼の奏でる音楽は、激しくぬすじの心を揺さぶりました。
    (すごい……すごいな……)
     プルプルと震えてしまうくらいの感激。けれどこの気持ちをなんと言い表していいのか、ぬすじにはわかりません。構えていたベースが一度おろされ、曲が終わったとわかったタイミングで、ぬすじは心のままに尾鰭をはためかせていました。
     
     パシャパシャ、パシャパシャ
     
     尾鰭が波を叩く音。それにぬすまるが気づいてくれるまで、そんなに時間はかかりませんでした。
    「おまえ、あの時の……」
     びっくりした表情をしているぬすまるのすぐ近くまで、ぬすじは泳いでいきます。彼が波打ち際にいてくれてよかった。ぬすじは陸には上がれないけれど、波が届く場所なら、浅瀬に尾鰭を浸しながら、陸で暮らすぬすとも触れ合うことができます。
    「助けてくれてありがとう」と、あの時の感謝を伝えたい——しかし、それをぬすじが口にする前に。
    「よかった。無事だったんだな」
     そう言ってほっと安心したように、ぬすまるは顔を綻ばせます。一見すると強面なのに、そうやって穏やかに笑う表情は、とても優しくて。
    「あ……えっと……」
     どくんと、大きく胸が高鳴る音。こんなことは初めてで、用意してきたはずの簡単なお礼のフレーズも、すぐに出てきてくれません。そうこうしているうちに……
    「もっと早く気づいてやれなくて、悪かったな」
    「え……?」
     一瞬何を言われているのか、わかりませんでした。しかしよくよく聞けば、『ぬすじが人魚で、干からびかけて倒れているのに気づけなかった』ことに対する謝罪らしく——ぬすじはとんでもないと、今日はよく動く頭をぶんぶんと横に振ります。
    「そんなっ!! そんなことないよっ!! 本当に……助けてくれてありがとうございました!!」
     砂浜に着くくらい、深々と頭を下げます。それからもう一つ、ぬすじには彼に伝えたいことができていました。
    「さっき弾いてたきみの曲、とってもよかった」
     大した表現ができなくて申し訳ないけれど、それでも思い出すだけで胸がじーんとする。彼の曲がもっと聞きたいと、ぬすじは素直にそう思います。
    「また、聴きにきてもいい?」
    「あ? べつに……好きにしろ」
    「いつもここで弾いてるの?」
    「……まぁな」
     ——他に弾く場所もないからな。
     
     ほとんど独り言のような、小さく呟かれた最後の言葉。ぬすじは咄嗟に反応できませんでしたが、それはさっきまであんなに素敵な歌を唄っていた本人だとは思えないくらい、寂しげで悔しそうな音をしていました。
     
     人魚の能力のひとつに、聴力の鋭さがあります。ぬすまるの歌声を聴いてから、彼があの海岸で歌っていれば、ぬすじはたとえ海底にいても気づくことができます。その能力を駆使して、ぬすじはぬすまるが歌う時はいつでも、浜辺まで泳いでいきました。時にはなんとなくぬすまるが来ることを予想して、先に波打ち際で待っていることも。そんなぬすじを見てぬすまるは、とても不思議そうな顔をして言いました。
    「おまえ……いつもくるよな」
     暇なのか? と。そんな軽口を言い合えるくらいまでの関係に、二人はこの時既になっていました。
    「暇じゃないもん」
     ぬすじも負けじと言い返します。
    「ぬすまるが歌ってると、ぼくにはすぐわかるんだよ」
    「……そう、かよ」
     ぽっと紅く染まる白い頬。それをぬすじに見られないようにと、ぬすまるは顔を横に背けるのでした。
    「それにいつか、お礼も受け取ってもらわないと……」
     ぬすまると再会してから二回目に会った時、ぬすじは両手いっぱいに“お礼の品”を抱えて、海岸へと訪れました。その内容はぬすじが海の底で集めた宝物ばかり。多くは綺麗な貝や色とりどりの珊瑚など、陸の上でも市場価値があると思われるもの。ただ、きらきら光るそれらをぬすまるの前に差し出したものの、困ったことに、彼は受け取ってくれませんでした。
    「もしかして、食べられるものの方がよかったかな……」
     ウニとか、ワカメとか。
     思いついたままごにょごにょ言うぬすじを、ぬすまるは一蹴します。
    「ばぁか。いつまでも気にしてんな」
     そう言ってポンポンと、ぬすじの栗色の部分を撫でてくれます。
    「で、でも……っ!!」
    「それ全部、おまえの大切なモンなんだろ。ちゃんとしまっとけ」
     頑なに受け取ってくれないぬすまるに根負けして、ぬすじは、今日のところは、と、広げたそれらを仕舞いました。
    お礼を渡すという目的は達成されなかったけれど、彼の言葉の優しさに、不覚にも泣きそうになってしまうのでした。
     
     何度も会うようになっていくうちに、ぬすじはぬすまるのことを少しずつ知っていきます。彼はあまり言葉の多い方ではなく、自分のことも語ろうとはしませんが、それでもぽつりぽつりと話してくれる中で、わかったことがいくつかありました。
     ぬすまるは“一応”はベーシストとして活動しているらしいのですが、実際その先行きは多難のようで……
    「おれは他のぬすとのつきあいがうまくねぇ」
     ぬすじに陸のことはよくわかりませんが、音楽の道も、才能と好きなだけではどうしようもないことがあるようです。
    「弾かせてもらえる場所もねぇしな……まぁおかげで、こんな風に自由にやらせてもらってるんだが」
     他に弾く場所がない——再会した時にぬすまるが言っていたのはそういう意味だったのかと、ぬすじはここで初めて気づきました。でも俄には信じられません。だって彼の生み出す音楽は、こんなにも素敵なのだから。
    「それでも……いつかはでけぇライブハウスを、客でいっぱいにしたいと思ってる」
    「うん!! ぬすまるなら、きっとできるよ」
     彼がぽつりと吐露した夢に、ぬすじは迷うことなく同意します。大勢のぬすたちがぬすまるの音楽を聴きたいと、ライブハウスに詰め掛ける。そんな日がきっとくる。その夢を応援したいと、ぬすじは心から思うのでした。
     
     何事も継続は力なり。ぬすじが波打ち際に聴きにいくようになってから、ぬすまるの海岸ライブの頻度も格段に増えていきました。毎日同じ時間に歌っていれば、最初はぽつりぽつりとですが、観客となるぬすの姿も増えていきます。
    (どんどん常連さんが増えていくなぁ)
     それはぬすじにしてみれば、わかりきっていたことです。
    (ぬすまるの音楽は、すごいんだから)
     お客さんが増えるにつれ、あんまり彼の近くでは見えなくなってしまいましたが、それでも大勢のぬすたちの後ろで、海の中から、ぬすまるの生の歌を聴くことができるだけで満足でした。
    それにライブが終わった後は決まって、ぬすじとふたり、波打ち際で話す時間があるのです。それはそれで、ぬすじにとってかけがえのない、大切な時間なのでした。
     今日のライブの感想やお客さんの反応をぬすまるに伝えれば、真剣な顔をしたり、時には照れたり、すごくかわいい笑顔になったり、彼は色々な表情を見せてくれます。それがぬすじにとっては、たまらなく嬉しいのです。
    「ねぇぬすまる、今日のお客さんの中にね」
     ぬすじはぬすまるの海岸ライブに集まった観客たちのことも、よく見ていました。その中に、少し前から気になるぬすがいます。
    (あの子、最近毎日きてくれるな……)
     そのぬすは栗色の頭をしたレイジ属。人魚であるぬすじ自身ともよく似ていますが、脚は当然二本あり、陸での生活をしている普通のぬすです。そのぬすはいつも胸の前でフカフカの手を合わせ、目を潤ませてぬすまるの音に聴き入っていました。
    (あの子、ぬすまるのことが……)
     ぬすじにはそのぬすの気持ちが、手にとるようにわかりました。
    (あんな顔してたら、嫌でもわかっちゃうよね)
     ちくちくと胸が痛みます。この痛みの原因を、ぬすじはこの時もう自覚していました。
    (ぼくも、ぬすまるのことが——)
     初めて抱いた、誰かを好きだと想う気持ち。ぬすまると出会ってから初めて直面する感情ばかりで、ぬすじの心は揺さぶられっぱなしですが、それでも彼の側にいたいと、ぬすじは強く思います。しかし、二本の脚を持つ陸の上のぬすたち(特に栗色のあの子)を見ては、下半身が魚の自分との違いを、どうしたって思い知らされてしまうのでした。 
    (ぼくは……陸では暮らせない)
     どうあがいてもぬすじは人魚で、それは覆せない現実でした。水に浸かっていないと、すぐに干からびてしまう特性。どんなにぬすまるの側にいたくても、会えるのはこの海岸の波が届く範囲までです。
     種族の違いは大きく、だからこそぬすじは自分の気持ちを、ぬすまるに伝えるつもりは毛頭ありませんでした。
    陸の上のぬすたちが愛する者同士で“つがい”という関係を結ぶことは、ぬすじも知識として知っていました。しかし、自分には全くもって縁のないことです。そんなこと、冗談でも考えたことはありません。それよりもただ、ぬすまるが夢に向かう姿を、側でずっと見ていたいと願っていました。
     
     ぬすまるの海岸ライブに観客が集まり始めてから、その数が倍々式に増えていくまで、そう時間はかかりませんでした。どんなに観客が集まっても当初のスタンスを崩さず、熱い歌を毎日届け続けるぬすまる。そしてライブが終わった後は、ぬすじだけに波打ち際でとても嬉しそうな顔を見せてくれるのです。
     最初の観客がぬすじだけだった頃に比べれば、今は順調そのもの。一気にスターダムを駆け上っていく彼の姿を、ぬすじは眩しそうに見つめます。
    「今度、会場を借りられることになった」
     満を辞して口を開いたぬすまるから、ぬすじがそのことを告げられたのは、星がとても綺麗な夜のことでした。月明かりで照らされる砂浜。キラキラと光る波。海面に映り込んだ星がまるで空から降ってきているようで。とても幻想的だったことを、ぬすじはよく覚えています。
    「すごい!! ついに……、ついにだね!!」
     おめでとうぬすまる。砂浜に腰を下ろした彼の横にぬすじも座っていましたが、嬉しさで尾鰭が勝手に動いてしまいます。パシャパシャと浅い波を叩き、水が跳ねて二人を濡らしました。
    「あ……っ!! ごめんちゃい、」
     嬉しくて、つい。
     ぬすまるの服を濡らしてしまったことを謝れば。
    「ばぁか。当然の結果だろ。そんなにはしゃいでんな」
     そう言ってくすぐったそうに笑うと、隣合ったぬすじの腰の部分、ぬすから魚に形状が移行する境目のところを、ぐっと抱き寄せてくれるのでした。
    「おまえが……ぬすじが、ずっと側にいてくれたからだ」
    「ぬすまる……」
    「これからもずっと、ここにいろよ」
     “ここ”と示されるのは、ぬすまるの腕の中。優しくも熱いぬすまるの言葉を一音ずつ耳に吹き込まれて。ぬすじの瞳は海の水ではない水分でいっぱいになるのでした。
     
     海岸が会場ではないぬすまるの初めてのライブ準備は、着々と進んでいきました。当日が近づいたある日、ぬすまるはいつもの海岸ライブの後に、常連の観客たちにチケットを配っていきます。ひとりひとり、相手の目を見て。
     そして渡した中のひとりには、当然栗色のあの子の姿もありました。ぬすまるから直接のチケットを渡されて、感極まったように涙ぐむ、ぬすじと同じ茶色い瞳。そのまるっとした頭をぬすまるがポンポンと撫でる様子を、ぬすじは海の中からじっと見ていました。
    「明日、行ってくるな」
     ライブを翌日に控えた夜の海岸で、ぬすまるは短く語ります。ぬすじも小さく頷いてそれに応えました。
     ぬすじの手には当然、ライブのチケットが渡されることはありませんでした。ぬすまるもわかっているのです。ぬすじが会場になんて、とても来れるはずがないことを。そしてその事実はぬすまる以上に、ぬすじ自身が理解しています。
     優しいぬすまるはぬすじに、「会場に来てほしい」とは一言も言いませんでした。何しろ出会いは陸に打ち上げられて、干からびかけているところを救われたことから始まったのです。ぬすじの体の特性を、ぬすまるは痛いくらいに理解していました。
    「明日、応援してるよ」
    「ぬすじ……」
    「だってどんなに離れてたって、ぼくにはきみの歌が聴こえるんだから」
     ライブハウスから離れたこの海岸で、遠くに聴こえる彼の歌を聴く。ほんとうにそれで、いいはずでした。
     
     ——それでよかった、はずなのに。
     
     ライブハウス公演当日。開始の時間が近づくにつれ、ぬすじの心は波立っていきます。
    (……) 
     熱気に溢れたライブハウス。ぬすまるが夢に見た、客席を埋め尽くす満員のぬすたち。彼らに向かって熱い歌を届けるぬすまる……
     ぬすまるが夢を掴む姿を、この目でずっと見ていたい。それが彼と出会ってから、彼の歌を聞いてからの、ぬすじの唯一の願いでした。
    他には何も望みません。だからどうしても、彼が夢を叶えるところを見たい。その時に一緒に会場にいたい。ぬすまるがぬすじに気づかなくていい。同じ空間の中で、他のぬすたちと共に気持ちを届けたい。 
     ぬすじは生きてきて初めて、こんなに強く願いました。
    そしてこれが、最初で最後。

     人魚はその命と引き換えに、ひとつだけ願いが叶えられると、幼い頃に母親から聞いたことがありました。しかし命と引き換えという重い条件、またそんなに大した望みなどなく生きてきたぬすじにとっては、そんな人魚の禁忌とされる特性など、遠い世界の話でした。昔そうやって願いを叶え、そして命を落とした人魚がいたと聞いたことはあります。しかしそんなに大きな願いごとってなんなのだろうと、イマイチ理解ができずにいました。
     でも、今なら痛いくらいにわかります。もしかしたらその人魚も、陸の上のぬすに儚い想いを抱いたのかもしれません。今のぬすじと、同じように。
    (……)
     あの海岸よりももっと遠くから、聴こえてくるぬすまるの歌声。リハーサル中なのかもしれません。その一曲のラストフレーズが奏でられる頃、ぬすじの決意もまた固まっていました。
     
     海の奥、光が一筋だけ差し込む深い場所。魚たちもいないひっそりとした水に包まれて、ぬすじは強く願います。
     ——ぬすまるの夢の場所に、ぼくもいきたい——
     
     その瞬間、ぬすじの小さな体を無数の泡が覆っていきます。
    「えっ、なに!? なに、これ————」
     真っ白になる目の前。
    次にぬすじが意識を取り戻した時、その体はあの砂浜にありました。そして半信半疑ではありましたが、ぬすじの魚だったはずの下半身には、陸で暮らすぬすと同じ二本の脚がしっかりと存在しています。まるでもともとそこにあったかのように。
    「……」
     ほんとになっちゃった。
     驚いたけれど、不思議と恐怖や不安のようなものは感じませんでした。今ここにあるのは、命を引き換えにして願った時と変わらない、強い決意。
    それともう一つ、ぬすじの手の中には……
    「……よかった」
     きちんと“それ”が握られていることを確認して、ぬすじは一度ゆっくりと目を閉じます。
    「——行こう」
     誰に聞かせるのでもなく、ひとり決意を口に出して。
    大きく息を吸って数秒後、もう一度開いた茶色い瞳。そこにはなんの迷いもありませんでした。
     
     陸に上がるのはもちろん初めてですが、ライブハウスまでの道のりだって、ぬすじには問題ありません。だってぬすまるの声が聞こえるから。それに導かれるままに進んでいけばいいのです。
     本来の姿は人魚であるぬすじのことを、気にするぬすは誰もいませんでした。ある店のショウウインドウに映るぬすじの姿は、二本の脚でポテポテ歩く、陸の上のぬすそのもの。しかしぬすじはそんな自分の姿を気に留めることもなく、ライブハウスだけを目指してただひたすらに歩いていきます。

     ポテポテ……

     ぬすじは別に脚がほしかった訳ではないのです。陸の上でぬすまると暮らしたいとか、そういうことでもありません。確かにチケットを直接渡されていた、栗色のあの子が羨ましいと思ったこともありました。でもぬすじの願いはそれ以上に、ぬすまるが必死に目指してきた夢を叶えるところを、この目に焼き付けたいという純粋な気持ち。ただそれだけ。
    (ここが、ライブハウス……)
     もうぬすじの人魚としての特殊能力を使わなくても、会場から漏れ聞こえてくるぬすまるの歌声。それに呼応する観客の声援、熱気。すべてがはじめてのことで、ここへきて若干緊張してしまいます。しかしぬすじはまたひとつ大きく息を吸うと、命を引き換えに手に入れた脚を、一歩前へと踏み出すのでした。
     
     ————ポテ、
     
     ガラスのドアが自動で開いていきます。カウンターに座る受付のぬすは、ぬすじを認識すると頭をぺこりと下げました。
    「こんにちは! チケットはお持ちですか?」
    「あ……」
     そう尋ねられて、ぬすじは肝心なことを失念していたと気づきました。
    (そうだ……チケット)
     ぬすじはライブに参加するのに必要な、チケットを持ち合わせていませんでした。ここへきての圧倒的な不手際。けれど……なす術がありません。
    「……」
     あまりのショックに言葉も出ません。そんなぬすじを気の毒に思ったのか、受付のぬすが声をかけてくれました。
    「あのぅ……当日券も売り切れちゃったんですけど……」
    「……はい」
    「なんとか調整すれば、追加でひと席くらいつくれるかなぁ」
    「……」
     その受付のぬすも、栗色の頭をしたレイジ属でした。今にも泣き出してしまいそうなぬすじに対して、彼はとても温かい提案をしてくれたのです。しかし——
    (ぼく、お金も持ってないや……)
     せっかくの提案。しかしそれにも応えられないことを、ぬすじはもうわかっていました。
     人魚として海で暮らしていたぬすじは、陸で暮らすぬすが使う通貨を持ち合わせてはいません。追加席で入らせてもらうにしても、当然お金がかかるはず……。タダで無理矢理入ることなんてできません。それこそぬすまるの神聖な夢の場を、汚すことになるのだから。 
    (うう……)
     込み上げてくる涙。しかし悲しい涙でこの場所を濡らしたくない。どう考えても悪いのは自分。ぬすじは張り裂けそうな気持ちをぐっと押し殺して、それならばと切り替えます。
    「これ、ぬすまるに渡してください」
     そう言って受付のぬすに差し出したのは、海底から大切にここまで持ってきたもの。カウンターの上に両手でコトリと置けば、わかりやすく受付のぬすの目が見開かれます。
    「えっ!? こ、これって……」
    「ぬすまるへの、差し入れです」
     ぬすじは涙が溢れそうになるのをぐっと堪えて、それだけを小さく伝えました。
     
     海底から持ってきたその品は、いつかもぬすまるに渡そうとしたものでした。ぬすじが小さいころから海の中で集めてきた、宝物の中の一つです。キラキラした綺麗な貝や色鮮やかな珊瑚にも負けない、一際艶やかに光る真珠。ずっと受け取ってもらえなかったこれを、ぬすじの今までの感謝の気持ちを込めて、今日ぬすまるに渡したかったのです。
    「よろしく、お願いします」
     そう言って笑うのが精一杯でした。必死で涙を堪え、顔を歪めながら、ぬすじはくるりと踵を返します。自動ドアに向かって駆け出そうとした、その時でした。
    「ちょっと!! きみ、待って!!」
     がたりと椅子が引かれる音。後ろから聞こえる慌てたような声。思わずピタリと足を止めれば。
    「こんな……高価なものをいただいて、そのまま帰すわけにはいかないよ」
     受付のぬすはカウンターから身を乗り出して、ぬすじを引き止めます。その手には即席で作られたらしい、一枚の紙が掲げられていました。
    「このままきみを帰しちゃったら、ぼくがぬすまるに怒られちゃう」
    「え……」
    「だからこれで、聴いていって」
     ね? と、ぬすじの前に差し出されたのは、丸文字で「りんじついかせき」と書かれたチケットでした。
    「あ……ありが……」
    「だめだよ~。せっかくのライブなんだから、泣かないで」
     ぬすじは自覚していませんでしたが、その頬にはついに決壊した目の縁から、涙がぽろりと溢れ落ちていたようです。
    「う、うう……」
    「ほら、もう、早くいかないと」
    「……はい」
     会場に入っていくぬすじの後ろ姿を見送りながら、あの子の涙はまるでこの真珠みたいだな、と、受付のぬすは思うのでした。
     
     ポテ、ポテ……
     重いドア開けたその瞬間から感じたのは、想像を遥かに超えた熱気でした。ぬすまるの弾くベースは、海岸ライブの時とはまた違った、閉鎖された空間ならではの音で響いています。渦となって押し寄せてくる歓声。多くのぬすがステージに向かって振るペンライトの光。そしてぬすまるの熱い歌声。
    「あ、ああ……」
     その全てを一気に受け止めてしまったら、もう。
     
     ガクガクと震える脚をなんとか進めて、ドアから一番近い最後列からステージを眺めます。この観客の中の誰よりもぬすまるから遠いけれど、いつも海の中、観客たちからずっと離れた場所で海岸ライブを観ていたぬすじからしたら、気にもなりません。そんなことよりぬすまるの音楽でひとつになったこの空間に居られることが、何よりも嬉しいのでした。
    (……すごい)
     興奮してどくどくと高鳴る心を押さえるように、胸の前で手を合わせます。
    (ぬすまるの音楽は、こんなにもみんなを惹きつける)
     ぬすまると出会えてよかった。
     こうして彼のことを直接見つめられるのは、もうきっとこれが最後。そのことはちゃんとわかっているけれど、不思議と怖さはありませんでした。あるのは本当にここへ来られてよかったということと、ぬすまるに対する感謝の気持ちだけ。ぬすまるの歌声に包まれながら、ぬすじの心は温かい感情でいっぱいになっていくのでした。
    「じゃあ、これが最後の曲な」
     ずっと続いてほしいという時間は、体感数秒の勢いで過ぎていきます。けれどぬすじはどの瞬間も聞き逃さまいと、全身で音を感じていました。しかしこの最後の一曲は、曲前のぬすまるによる紹介から、ぬすじにとって別格でした。
    「これは今日、初めてステージで歌う曲だ」
     ぬすまるが静かにそう言葉を紡げば、客席からわぁっと歓声が上がります。海岸ライブにきてくれている常連も多いのでしょう。彼らにとってもまた、ぬすまるの新曲発表は特別なものでした。
     感激のあまり啜り泣く声さえ聞こえる中、ぬすまるは静かに続けます。
    「この曲はおれのことをずっと側で見ててくれた、たいせつなやつに宛てて書いた」
     その告白に再び沸く客席。それはさっきのものよりもう一段階大きかったかもしれません。
    「でもそいつは……訳あってこの会場には来れねぇ」
     会場に響く、歌声とはまた違った、ぬすまるの声。
    「でもきっと、これから歌う曲は、あいつにも聞こえてるはずだ」

     ——どこに居てもおれの歌が聞こえるって、あいつ言ってたからな
     
     おそらく観客の誰も聞き取れないくらいの小さな声、マイクにも入らないぬすまるの呟きを、ぬすじは捉えることができました。そしてそれが誰に向けての言葉なのか、さらにこれから披露される新曲が、誰のために書かれたものなのか。
     その答えを示す矢印は、全て迷うことなく、まっすぐぬすじ自身に向いているとわかって。
    「ぬ……ぬすまる……」
     ぬすじの頬を伝う真珠のような涙は、もう止まりません。
    「じゃあいくぞ! ラスト!!」
     今日一番大きい歓声の中、生み出されていく音。ぬすまるがぬすじに宛てて書いてくれたというそのメロディを、歌詞を、ぬすじは心に刻みつけながら聴いていました。それと同時に、ぬすまると出会ってから今までの思い出が、頭の中に甦ります。

    「……ぬすまる、だいすきだよ」

     今までぬすまる自身に伝えることはおろか、ひとりの時でさえ口にしなかった素直な感情。

    「きみが本当に好きな音楽を、これからもずっと続けていけますように」
     
     最後の音が止んだところで、ぬすじは他のぬすたちより一足先に、会場を後にしました。ぬすまるの最後の挨拶を聞けないのは名残惜しいけれど、チリチリとした脚の痛みは、この状態がもう長くは続かないことをぬすじに警告していました。
    「いまの曲、すごいラブソングだったね」
    「ぬすまるが宛てて書いた相手って誰なんだろう」
     ぬすじが後にした会場で、ひそひそとそんな感想が囁かれていたことを、ぬすじ自身は知る由もありませんでした。
     
     ——ポテ……、ポテ……
     
     会場を出たぬすじは、懸命に海を目指します。チリチリとした痛みはどんどん増していき、もはや走ることもできないのですが、それでもここで倒れるわけにはいきませんでした。
    (こんなところで干からびてる姿、ぬすまるには絶対に見せられない)
     命を失うという結末は同じだけれど、こんなおめでたい日に無様な姿を見せるわけにはいかない。海の中で綺麗に消えることが、今ここまできたぬすじの、最後の使命でした。
    (あの海岸まで、もうすぐ)
     ぬすまると出会うまで知らなかったのに、いつのまにか毎日訪れるようになっていた白い砂浜。いろんな思い出の詰まったあの場所を目指して、ぬすじはもう自分のものではないような、二本の脚を進めます。
    (お願い、間に合って)
     こんな風に何度も願ってしまう自分は、欲深いのかもしれない。けれどそう強く願うことで、なんとか意識を保てている気がしました。
     
     ——ぽ……、ぽて……
     
     いつだって軽快に響くぬすの足音。自分の尾鰭では到底出すことのできないその音を伴って、ぬすまるが海の近くまで来てくれるのが好きでした。
    (ぬすまる……)
     大好きな顔を思い浮かべれば、満身創痍だけれど力が湧いてきます。ぬすじは最後の力を振り絞って脚を進めました。

    目の前に見えるオレンジに染まった夕暮れの空。この坂を降りれば、もうそこは砂浜。

    「ま……間に合った」
     穏やかに打ち寄せる波が、ぬすじを呼んでいるようでした。海を見ればなんだかとても安心して。やはり自分は陸の上のぬすとはつくりが違うんだなと、最後なのにちょっと笑ってしまうのでした。
    「ぬすまる」
     全てをやり遂げて、そして海へと戻ってきたぬすじに、思い残すことはもうありません。
    「ありがとう」
     既に感覚はほとんどない脚を水につければ、こんな浅瀬なのに、足元から泡が湧き出してきます。それは他でもなくぬすじ自身から、吹き出している泡でした。
    「……さよなら」
     ぱしゃんと波に任せた体を、あっという間に海が優しく包んでくれました。大きな水流に抱かれるようにして、ぬすじは深い場所へと戻っていきます。
     キラキラとした光と無数の泡。綺麗なものだけに包まれて、ぬすじのフカフカとした体は徐々に細かい泡となって消えていくのでした。
     
    + + +

    「おつかれっした」
     大成功だったライブを終えたぬすまるは、挨拶を終えるとすぐに海岸を目指しました。目的はもちろん、ぬすじに今日の報告と、それから最後に披露したあの曲を、ぬすじ自身に直接聞かせるため。耳の良いぬすじはおそらくリアルタイムで聴いていると思うし、そこに込められた意味もバレてしまっているだろうけれど——でもぬすじのためだけにもう一度目の前で歌いたいと、ぬすまるは思っていました。
     それにもう一つ、このライブが成功したらぬすじに渡したかったものがあるのです。
    (あいつ、ちゃんと受け取んのか……)
     つがいになったぬす同士がつける腕輪。人魚たちの間にどういうしきたりがあるのかは知りませんが、ぬすまるは自分の気持ちの証として、ぬすじに贈りたいと準備していたのでした。
    (生きる世界が違うとか、駄々こねそうだよな)
     それでも……まぁいい。きっといつかは認めさせてやる。その過程すら面倒だけど愛しくて、ぬすまるは海岸を目指します。ぬすまるの心もとっくに、ぬすじを深く愛していました。
     
     ポテポテ
     
     降り立った海岸。ここでのライブの予定のない今日は、昔のようにひっそりとしていました。「ぬすじと会った時のことを思い出すな」と、そんなことを考えながら、ぬすまるは想い人が現れるのを待ちます。しかし——当然いくら待っても、ぬすじが水の上に顔を出すことはありませんでした。
    (ぬすじ……どうした?)
     ライブが終わる時間は伝えておいたはず。その時刻はとっくに過ぎ去り、あたりはもう真っ暗になっています。
    (……うそ、だろ) 
     なんだか嫌な予感がします。こんなことは出会ってから初めてでした。ぬすじはぬすまるが砂浜に降り立つとすぐに泳いできてくれたし、ぬすまるの到着を待ち構えていることも多くあったのです。今日も絶対そうだろうと。遠くで聞いていたライブの感想を早く伝えたいと、尾鰭をはためかせて待っているとさえ思っていたのに。
    (ぬすじ……)
     ざわつく心。しかしネガティブなことは考えたくない。ぬすまるは気持ちを切り替えるようにしてベースを取り出すと、ぬすじのために作った曲をひとり奏でます。海へ向かって。ぬすじに一番近いところで、よく聞こえるように。それでも……
    「——ちくしょう、なんでだよ」
     波打つ水面に見えるのは、映り込んだ満天の星だけ。いつかぬすじと見た時はあんなに綺麗に感じたのに……
    「なぁ、どこにいてもおれの歌、聞こえんだろ?」
     だからすぐに駆けつけられるんだと、いつかのぬすじはほこほこした笑顔で、水の中から栗色の頭を出して笑っていました。
    「人魚の特技なんだって、おまえ、そう言ってたじゃねぇか」
     突きつけられた“ぬすじが来ない”という現実。しかしぬすまるはその後もずっと、声が枯れるまで、ぬすじを想って歌い続けるのでした。
     
     翌朝、ぬすまるは砂浜で目を覚まします。結局ぬすじは現れないままでした。かと言って諦めたわけではありません。ふっくらとした頬をパンと叩いて気合いを入れると、「また来る」と海へ言い残して、一度海岸を後にします。昨日のライブの後片付けが、ぬすまるには残っているのでした。
     
     再び訪れたライブハウス。カウンターには昨日と同じレイジ属のぬすが座っています。彼はぬすまるを目に留めると、「あ!」とすぐさま話しかけてきました。
    「昨日のお客さんから、きみにたくさん差し入れが届いてるよん☆」
    「あ、ああ……すんません」
     明るいそのぬすの心に、沈んでいた気持ちが若干浮上します。こっちへきて、と導かれるままについていけば、別室にはたくさんの花やプレゼントが溢れていました。
    「……すげぇ」
    「ね! でもその中でも、これ……」
     そう言って彼は部屋の奥にある金庫の前に進みます。鍵を使って開けた中から取り出し、ぬすまるに見せたのものは。
    「な……」
    「じゃーん!! すごいでしょ?」
     艶やかな一粒の真珠。しかもケースよろしく貝の中に納められたそれに、ぬすまるは見覚えがありました。
    「これ、持ってきたのって」
    「うん。遅れてきた子なんだけどね。こんなに素敵な差し入れをくれたのに、チケット持ってないなんて言うから……」
    「な……」
    「そのまま帰すわけにはいかないって思って、それで……」
     その受付のぬすの言葉を、ぬすまるは最後まで聞くことができませんでした。艶やかな真珠を持ってきたぬす、それにチケットを持っていない——思いつく中でそんな相手は、唯ひとりしかいません。
    (うそ、だろ……)
     その条件に当てはまるのは、どう考えてもあの、“ぬすじ”としか考えられませんでした。しかし彼は人魚で、陸に上がることはできないはず。それに万が一陸に上がれてライブハウスを訪れていたとして、その下半身が魚という特徴を、受付のぬすがぬすまるに伝えない訳がありません。
    (——つーことは、まさか、そんな)
     ぬすまるはワンダーランドに伝わる人魚の童話を、昔読んでいました。陸には長時間上がれないこと、干からびると命を落としてしまうこと、そして……人魚は強い願いを一つだけ、その命と引き換えに叶えることができること。
    前者の二つは既に、ぬすじ自身が証明していました。あの童話に記された内容は真実。と、いうことは、最後の一つも……

    「ぬすじ!!」

     気づけば再び、海岸に向かって走っていました。
    (おれの推測が正しければ……いや、ンなの、正しいはずがねぇ!!)
     そんな相反する思考と感情でぐちゃぐちゃになりながら、ぬすまるは必死で海を目指しました。
     
     はぁっ、はぁっ……
     
     枯れる声。靴や服が濡れるのも構わず、ぬすまるはざぶざぶと海の中へと入っていきます。こんな見通しの良い浅瀬にぬすじがいないことも、頭の中ではわかっていました。しかし、それでも一心に水の中を探し続けます。
    「ぬすじ、ぬすじ!!」
     寄せては返す波。次の波に乗ってぬすじがやって来るのではないかと、毎回期待しながら。
    「なぁ、おまえに渡したいモンが、おれもあるんだぜ……」
     昨日から肌身離さず持っている誓いの腕輪。それからぬすじが差し入れにと受付で渡したあの真珠も、今ぬすまるのポケットの中にあります。
    「てめぇだけ押し付けて逃げるなんて、そんなのずりぃじゃねぇか」
     ポケットの上から掴む、その丸い結晶。そこに込められたぬすじの想いを、痛いくらいに感じながら……ぬすまるは海へと向かって、もう何度目かともなるあの歌を、繰り返し繰り返し歌うのでした。
     
     ——どこにいたっておれの歌、聞こえんだろ?
     
     頭の中でそう強く願えば、海の遠くの方でぱしゃりと、何かが跳ねたような……。けれどそれは、近づいてくることもなく。

    目を凝らして見てもその先に広がるのは、穏やかな、どこまでも続く水面のみでした。
     
    + + +
     
     あのライブから数年後、ぬすまるはワンダーランドの中でも指折りのベーシストとして、精力的に活動していました。毎日目まぐるしいスケジュール。ライブ活動のほかメディアのインタビューなんかも目白押しです。
    「ぬすまるさん! 最近ますますすごい活躍ですね!」
     今日のインタビュアーはよく喋る栗色のぬすでした。楽屋での対談形式でインタビュアーのほかにカメラマンのぬすもいて、パシャパシャと写真を撮られています。
     
     本当にここ数年で、ぬすまるを取り巻く環境は大きく変わりました。それでもぬすまるには日課として、日々続けていることがあります。
    「ワンダーランドアリーナもいっぱいにするぬすまるさんですが、昔からの海岸ライブは、毎日続けていらっしゃるとか……」
     たいへんじゃないですか、と。インタビュアーは不思議そうな顔で聞いてきます。
    「ああ」
    「その理由を、お聞きしてもいいですか?」
     少し聞きにくそうにおずおずと尋ねてくるぬすに向かって、ぬすまるはなんのためらいもなく答えました。
    「あいつの一番近くで、聴かせてやりたいんで」
    「え……?」
     ぬすまるの回答に戸惑いの声をあげるインタビュアー。
    「それって、浜辺に集まる観客の中に、そんなお相手がいるってことですか?」
     やや食い気味に聞いてくる彼から目を逸らして、ぬすまるはふっと顔を窓の外へと向けました。目に映るのは抜けるような青空。そして街並みの奥には、同じように青い海が広がっています。

    「浜辺っつーか……海の中、だな」

     優しく目を細めて笑うぬすまるを見て、インタビュアーの頬はぽっと赤く染まります。そんな顔をされちゃったら直視できない! と、栗色の彼が視線を下げた先には、ぬすまるの腕に嵌まった腕輪が見えました。

     そしてインタビュアーからも、他の誰からも見えないけれど、ぬすまるの着たシャツの中には——あの真珠をトップにしたネックレスがその心とひとつに重なるように、フカフカな胸許で揺れているのでした。
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    Replies from the creator

    hirameria1997

    DONEワンダーランドの海で暮らすマーメイドぬすじと、売れないベーシストぬすまるの恋物語。****注意:悲恋です****
    2023年5月のプリコンにてマーメイドぬすじが本になります!!
    こちらは収録される修正版です。他書き下ろしとして続編となる「マーメイドぬすじ・リターンズ」と「epillogue〜帰国の途中〜」が収録されます。全体の3/2程度が書き下ろしです。
    マーメイドぬすじ『ワンダーランドの海には“上半身がぬす、下半身が魚"の未知なる生物がいるという』
     
     人魚——それは昔から言い伝えられてきた神秘的な存在。時を経ていつしか童話にもなった美しくも悲しいその物語は、長きに渡ってワンダーランドの子ぬすたちに広く親しまれています。
     
     ぬすじはまさに現代に生きる「人(ぬす)魚」でした。上半身は普通のぬすと同じで下半身は魚。……とはいっても、魚の形状をしているだけで質感はぬすの肌と変わりません。フカフカとした感触もぬすそのもの。しかし性質だけは魚にかなり近く、水辺でないと生きてはいけないのです。
     そんな特性からとても希少であり、普通のぬすとの交流はほぼない生活をしている「人魚」という種族。ぬすじ自身はというと陸の上の生活やそこで暮らす脚のあるぬすたちに興味はあるのですが、自分には縁のないものとして一線を引き、海の中でひっそりと暮らしていました。
    19934

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    「良かったランランいるんだね。ぼくだよ、ぼ 7567