小休止チュ、チュ、チュ。
麗らかな午後の日差しが差し込む部屋に、何とも可愛らしい音が響いている。
積み上がっている書類仕事の合間に一息いれようと、侍女に頼んで茶器を用意している間にこの人は。
「…ディオン様、あの…」
「おお、テランス」
寝台に腰掛けておかえり、と宣う彼の手には愛らしい熊のぬいぐるみ。
「何をしておいでで?」
可愛らしいのは熊よりも小首を傾げた彼自身だが。
「んー、…キスの練習?」
もこもこの鼻面に向けて、ちう、と小さな音を立てて吸い付いていたディオンは悪びれる様子もなく舌を出した。
ん?といたずらっ子の顔で微笑む彼の思惑は如何ばかりか。
「なんだテランス、羨ましいのか?」
「いえ、その」
いや正直羨ましいが。
はるか昔、ディオンの乳母として勤めていた母が小さかった自分たちに揃えて拵えてくれた2つの熊のぬいぐるみは、時を経てディオンの執務室に設えられた仮眠用の寝台に住み処を与えられた。
それらのうち、青いボタンを瞳に据えた熊を相手にディオンはさっきからせっせとラブシーンを演じている。
「折角二人きりだというのに、誰かさんが放っておくからだ」
ぎゅうとぬいぐるみを抱き締めて、上目遣いのディオンが寝台の上で口を尖らせている。
ぬいぐるみ相手に浮気をされても微笑ましい以外の何物でもないが、当の本人は案外大真面目かもしれない。
「おまけに…」
そなたときたら、寝る前のキス以外ちっとも手を出してこないではないか。
「折角、恋人同士になったのにな?」
「ぐ…」
なあ、テリ。
物言わぬ熊に鼻先を埋めて寂しそうに溢される言葉達が、小さな棘を纏って胸に突き刺さる。
じとりと恨めしそうに見つめてくる視線が痛い。
けれど言えるわけがない。
その唇に触れる度、無垢なそこを割り開いて思う様貪ってしまいたいと考えているだなんて。
就寝前の挨拶でさえ、軽く触れ合わせたそばからもっともっとと欲は膨らみ愛しさとないまぜになって、これ以上は病み上がりの御体に毒だと断腸の思いで苦労して身体を離しているのに。
想いが通じたことだけでも僥倖だと。
「職務中ですよ」
「休憩中なら【皇子】も休みだ。もちろんお前も」
ああ言えばこう言う。
ちっとも折れる気の無い【私の皇子様】に手招きされて、引いてきたワゴンを角に置きそのまま彼の隣に座り込んだ。
「ディオン…」
「…お前は、今のままで満足か?」
こちらの肩に小麦色の頭をもたせかけながら、未だぬいぐるみの後頭部に鼻を埋めた恋人が少し不安そうに呟いた。
彼の首筋から、昼過ぎにつけ直した香水が爽やかに薫る。
髪から覗いた耳の端が赤く色づくのを認めて、不覚にもドキリと心臓が跳ねた。
「あの日、沢山の言葉と共に交わした優しい口付け……私は嬉しかったのに」
そなたに欲しがって貰えて、とても幸せだったんだ。
ぽそぽそと小さな声で溢される、数週間前のあの日の記憶。
思い出す度に未だ涙があふれそうになる、あの日の。
「その節は………御体はもう…?」
「傷はとうに癒えた。なぁテランス」
見上げてくる瞳が、触れてもいないのにもうとろとろに甘い。
見つめ返すこちらの顔までのぼせてしまうような、陶然とした表情に眩暈がする。
「私は、もっとお前が欲しい」
もっとよこせ、と全身で誘うディオンに気圧されて何も言えないでいると、ふいっと顔をそらしてまたぬいぐるみと戯れだした。
「まさか、お前はこれからもお行儀のいい【おやすみのキス】しか寄越さないつもりか?」
ぷうとむくれた頬が赤い。
ああ、そんなにも焦れていらっしゃるのか。
欲しいのは私ばかりかと思っていたが、彼も正しく、同じ熱量を閉じ込めた恋する男の目をしている。
「それは…ごめん、ディオン」
これはお茶なんて入れてる場合ではない。
例え短い時間でも、彼が恋人として今までより深い触れあいを望んでくれている。
それに応えないなんて男じゃない。
ころりと後ろに倒れ込んだディオンの抱いている熊を取り上げて脇によけ、寝台に軽く乗り上げ彼の上に覆いかぶさる。
「ひとまず、今は茶よりも…甘いものがいい」
ん、と突き出された艶やかなそれを拒む理由は、もはやどこにもなかった。