花陰に舞う パタ、タタ トン。
「————……?」
小さくタシタシとなにかを叩く音がふいに耳の中に飛び込んできて、懐かしみながら手繰っていた古い英雄譚の世界から引き戻されてしまった。思わず上げた視線が宙を彷徨う。今日も暖炉のそばに置かれた座り心地の良い長椅子に陣取って、香りのよい茶を伴に静かな部屋へ置いてきぼりにされ退屈を享受していた矢先。食料が心許なくなったからと日も明けないうちから町へ降りてしまったテランスが帰ってくるにしては早すぎるし、かといってこんな辺鄙なところにある家を訪ねてくるのなんて、かつて世話になっていたシドの隠れ家絡みの人間か、あるいは定期的に薬を届けてくれるキエルくらいではあるのだが。そうにしたって木製の扉を叩くのにこんな澄んだ軽い音はするまいよと訝しく思って、静寂を割いた音を探しがてら凝り固まった肩と首を回し家の中を一周見まわすと、再度。
「? ———ああ、窓か」
カツ、パシンと繊細な触れ方で存在を主張している庭木の枝が居間の窓に嵌ったガラスに触れ、まるで誘うように揺れている。ここに越してくるにあたり荒れ放題となっているオリフレムの私邸の庭先から慰めとして掘り起こしてきた、ミモザの小ぶりな一枝が無事に冬を越え先端に無数の蕾を蓄えているようだった。夏の間中かけて精一杯背伸びした若木は細い枝に葉ばかり茂って、寒さの嘶く中、いくら南向きに開墾したとはいえこの冬を耐えられるものかと不安になった秋の終わり。冬支度としてテランスが窓に板を打つ傍ら倒れそうな幹に不格好な支柱を施し、根元には麦藁を敷いて養生をしたはいいが春が来るまでに枯れやすまいかと懸念していたのだが杞憂だったようだ。
今日はたまたま気温が上がり日中は暖炉の薪をあまり沢山使わなくて済みそうだが、実際はついこの間からようやっと外に置いた天水桶が凍らなくなってきたところで、それでもまだ身を刺すようなにわか雨や強風が時折屋根を叩いてくるものだから、丹精込めた小さな小屋が悲鳴を上げるのをまだ明けないかと長い冬の間中ずっと気にしていたわけだが。けれどミモザの蕾が膨らむということは、いよいよ暖かな季節がやってくるということだ。
「———懐かしい」
窓の端から見え隠れしている沢山の蕾から思い出されるのは最早遠い記憶の切れ端で、幼い自分とテランスが乳母に付き添われて生家の庭を探索したある朝の光景が脳裏に走り出す。塀と垣根に囲われた柔らかな日差しの差し込む庭で、今日こそ咲かないかと見上げた葉の合間からこぼれ落ちてくる光の連なりに本で読んだ花の化身を二人で探してみたりしながら、憂いなく過ごした幼少期の思い出がこの家にも引き継がれたことを嬉しく思った。
「よし、ならば………」
きっと数日の後に開花して零れそうな黄色の花を溢れさせ窓を叩くだろう様を想像し、こんなに見える形で春が呼ぶのだからそろそろ『大丈夫』ではなかろうかと淡い期待を胸に抱く。外の寒さを理由にわたしを家から出そうとしない、過保護にしても行き過ぎている伴侶をいい加減説得すべきだろうと一人頷いた。
一年で最も暗いユールの夜を超えて二人きりで冬の巣に籠るうち、実に数十年ぶりに風邪というものをひいたわたしをテランスが部屋の中に閉じ込めて、そろそろひと月が立つ頃合いであろうか。実際のところそれなりに不調を抱えはしたものの、冬の蓄えついでだとキエルに依頼しておいた薬の類の中で、エルダーフラワーとカモミールを煮出して一匙の蜂蜜を落とした薬茶をせっせと飲んだお陰かほんの数日で熱は引いたのだ。多少残った咳も焼いたポロネギと生姜のスープの効能か、はたまたテランス特製のスパイスが入ったブランデーの湯割りが効いたのか二週間もすればおさまったというのに。唯一我儘を言うならば、消化に良いからと必ず食卓に上がり続けたマッシュポテトだけはどう味や付け合わせをかえられたとしてもしばらく見たくない心地ではあったが。家に長期間置いておける食料として大量のジャガイモを蓄えておくのは本来悪いことではないが、それにしても料理のレパートリーがそう多くはない元軍人二人の療養食なんてたかが知れているというものだ。
今更ただの人らしく寝込んで、治って、それだけのことなのに。病人のわたしよりもずっと沈痛な面持ちで看病にあたっていたテランスは、こちらが熱に魘される様を見て何か思うところがあったのだろう。症状が治まってもやれ風が冷たいだ何だと難癖をつけて、結果として用を足す以外の外出許可を貰えなくなってしまった。最初のうちはまあ、風が冷たい時分であるから心配してくれているのだろうと納得も出来た。しかし、今やわたしたちの庭はこんなにも健気に春を知らせてくれている。
やっぱり暗い季節はよろしくないと感じながら、幹の灰色に柔らかな新芽の緑が混じりだした外界を眺めて溜め息を吐く。ただの葉擦れが、雨音が、この世のものではない何かと錯覚させて臆病な恋人をひときわ頑なにさせてしまったのだから。今日だってわたしをここに閉じ込めて、それなのに彼自身は一人で街へ買い付けに出かけている。信用しているのかそうでないのか、別に足を鎖でつながれているわけではない———そしてこれを破ると厄介な泣かれ方をするのを解っていて、実際わたし自身も約束を律儀に守っている状況ではあるが。それでもこの盲愛とでもいえる呪縛をどう解いてやるべきか考えなければならないときが来たようで、やがて愛らしく綻ぶであろう窓の外の黄色を想像しながら恋人の心中に思いを馳せた。
いくら日中が暖かだろうと、日が落ちてしまえば暖炉に薪を足さなければならない程に気温が下がってくる。燃えやすいようにあらかじめ火のそばで乾かしていた薪を脇に積み直していると、慣れた間隔で表の草を踏みしめる音が聞こえてきて出迎えるべく勝手口を開けた。すっかり夕暮れも過ぎ去った中でいくつかの大きな袋をチョコボに結わえて帰ってきたテランスは、こちらの姿を認めると途端に目元を綻ばせ手綱を曳きながら小走りで向かってくる。
「ただいま、ディオン」
「ん、……おかえり」
ああ、そこにいてと言われたとおりに扉の中から首だけ覗かせると、荷下ろししやすいよう連れてこられた馬鳥のつぶらな瞳と目が合った。
「少し待ってて、荷物を下ろしてこの子に餌をあげないと」
そう言うそばから荷箱が外され、動物に荒らされないよう手際よく倉庫に運び込まれていく。貸し馬は、秩序が書き換えられたこの世界において安価で手軽な輸送手段として定着しつつあるようで、所有するには手間や金がかかるチョコボを宿や業者が餌代を含めた値段で一時だけ貸し出し、役目を終え借りた人間から餌をもらうと賢い彼らは帰巣本能に従って元の飼い主のもとへ戻っていくという仕組みだった。寝床と仲良しだった一年前ならいざ知らず、体中に散らばった石化ですら近頃はゆっくりと柔らかく解け始めているのだから買い出しくらいわたしをつれていけばよいものを。その代わりにテランスはこうして毎回わたし以外の何かを連れて街へ繰り出すのだから、詮無い事とはいえ少々もやもやした所謂嫉妬心が己の中に燻るのを自覚して思わず眉間にしわが寄った。
最後の荷物の中にはどうやらギサールの野菜が積まれていたようで、よく慣れた馬の知性を秘めた瞳が灯されたあかりの中で好物の気配にぎゅっと縮こまるのがよく見える。催促の声が響く中、癖の強い香りの葉物野菜を一巻き取り出したテランスがそれを食べやすいようにいくらか毟ってやってからチョコボの足元に置いてやり、満足そうに餌にありつくのを見届けたところで部屋の中に押し戻された。
「はい、これ」
扉を閉めたその腕で、テランスが背負っていた皮袋の中から取り出された丸くずっしりしたオレンジ色を手渡してくれる。口が開かれた袋からは小ぶりの柑橘が幾つも覗き、爽やかな香気が僅かに漂っていた。
「マンダリンをもらったんだ。たくさん買ったからおまけだって」
いま丁度季節だからね。そう言って落とされた挨拶のキスの中に彼の汗とチョコボの羽の匂い、マンダリンの芳香のほかに華やかで芳醇な香りが混じっているのを感じ取って思わずくん、と行儀悪く鼻を啜る。首筋ではない、ならばもう少し下だろうか。どこかで嗅いだ覚えのある、甘くて濃厚でほんの少し野性味のある香りが何だったか記憶の糸を手繰ろうにも押し付けられた胸板から立ち昇る恋人の匂いに上書きされてしまい、不覚にも少しくらりときた。
「あ、もしかしてチョコボ臭い?」
「いや、大丈夫だ。けれど何だか甘い香りがする」
「……? ああ、これかな。街道の横でマグノリアがきれいだったから、すこしだけ」
そう言いながら落とされた外套の下、途端に香り出すのは幼いころから知っている花のそれだった。花言葉通り崇高で威厳のある樹勢が君によく似ていると思って、と恥ずかしげもなく宣いながら差し出された小さな籠を覗き込むと、かつてクリスタルが押し込められていたそれのなかで大きな白い花弁がゆれてマグノリアの香りが鼻先ではじける。わたしに見せるためだけに手折られたシルクのような花弁から芳しさがまわりに満ち、ザンブレクでも城の付近で春先に嗅いだ香りだと懐かしさが溢れた。
「気に入ったなら、これも苗をもらってこようか」
「ありがとう。わるくはないが、それより……」
「うん?」
「いや、今はいい」
さりげなく外に続く扉を塞がれたままなので、外のチョコボを見るのをあきらめ花をかごに入れたまま寝室にもっていく。嗅げば嗅ぐほど懐かしい香りだ。開ききらずに張りをもって上を向く花びらが清廉で芳しく、そうだ、修道院の勤めの最中かごに摘んで帰ったのを修道女たちが香油にして祈りの際に身に着けていたんだと想い出した。甘く濃厚な香りは記憶を暴く。子供の無邪気な笑顔、優しかった大人たちの柔らかな微笑み、乾いて少し荒れた手のひら。
崇高で威厳、とテランスは言っていたけれど。マグノリアの花言葉のもう一つは、忍耐。こうして運ばれてくる春の香りを彼と分かち合えるならそれは幸せだ。だけれども。
「さて、どうしてやろうか……」
そういえば彼と散策することも多かったホワイトウィルムの春の庭は、遷都後打ち捨てられて久しいが一体どうなっただろうと頭の隅によぎった。
その日の眠りはぼんやりと浅く、部屋に満ちる花の香りのせいか、ずいぶん昔の夢を見た。マグノリアやミモザの咲く頃にはオリフレムの街中でカーニバルがあって、学校に上がる前、仮面をかぶって忍びながらテランスと共に街に繰り出したものだ。テランスとしっかり手をつないで、我儘を許してくれた乳母に着せてもらったほかの子供たちに紛れるようなひらひらした衣装を翻して。今にして思えば滅茶苦茶なステップを踏みながらぐるぐる、ぐるぐるとずっと二人で踊っていた。
かつて過ぎ去った春を呼ぶ祭りの最中、無邪気に踊っていたはずの自分はいつの間にか大きくなって背後の風景もあっという間に流されて変わっていく。記憶を辿る夢の中で次に行きついたのは城の中に位置する小さな庭で、満開のマグノリアの横でふわふわと花を揺らしたミモザが美しく咲き誇っていた。ホワイトウィルムの麓にある春に咲く花を集めた区画はわたしの気に入りで、若い頃のテランスとつかの間ミモザを眺めては……高い鼻をミモザに埋めてミツバチのように戯れるテランスの少年らしい笑顔に見惚れて時を過ごした。ツインサイドで忍び事をする時贔屓にしていた宿場の店先にも大ぶりのミモザが枝を広げていたのだが、わたしが焼き、引き裂き挙げ句にオリジンとして浮上した土地にはもはや残ってはおるまいと己がしでかしたことの一端であるのにとても残念に思う。
更に場面は移り変わって、海峡を望む砦の中庭にささやかに生えた『春の妖精』と呼ばれる小さな草花を踏みしめながら、書類仕事の合間に運動がてらテランスと槍を打ち合った―――聖竜騎士団を率いていたほんの数年前の記憶が自分の中に降ってくる。春になって風が穏やかになったら遠征の準備だ。来たるべき戦に備えるために。ああ、花の香はこんなにも優しいというのに、わたしたちに残った記憶は結局戦場へと帰っていく。
あとから考えればそれなりに幸福な子供ではあったが、しかし、わたしの居場所は確かに戦場であったのだ。それを理解してなお、わたしの身体が大切だと眉毛を下げるテランスも、この時期の風物詩だったが。本格的な戰支度を始める前に決まって名残を惜しむかのようにねちっこく抱かれた憶えもあるけれど、状況は厳しくともそれでも前を向いて進んでいけるようにいつでも背を押してくれたのは他でもない彼だった。
「……———、」
全ては通り過ぎた過去だと、温かな腕の中で目覚めてぼんやりと夢の続きを考える。後頭部にあたる規則正しい呼吸。主君であったわたしの起床に囚われず、春眠を貪るテランスなぞあの頃は想像できたであろうか。いつも夜明け前に部屋へ戻ってしまう彼を引き留めることなど叶わず、短い夜に息を潜めるように互いの熱を擦り付けあったあの頃。そんな彼は今やひと冬わたしを抱きつぶし、限りある食料で胃袋を満たし、最近になってやっと薬に頼らず朝まで眠る日も増えてきた。
愛しているからこそ遺して逝こうとした、あの時の行動は今思い返してもわたしにとっては最善であったと言い切れるけれど。まさかこうして砕けることも出来ずに手放した腕に舞い戻る羽目になるとは思ってもみなかった。おかげでこうして日々自分の犯した過ちと向き合い、心の奥底に刻まれた未だ血を流す伴侶の傷を見つめ、二人だけの力で互いの体を生かしあうというあの頃の傲慢な自分では考えつかないような体験をさせてもらっているのだから、人生は何があるかわからないものだ。戦で散らすつもりだったこの命を使って優しいこの男を、小さなところからでも癒してやりたい。そのためにはせめて、再び二人で真っ直ぐ立つところから始めなければ。夏のひと悶着を経て少しはましになっていた執着が、風邪一回引いただけでこのざまだった。こんな風に必死になって閉じ込めなくてもわたしは飛び散ったりしないと、テランスに思い出させるにはどうすればいいか。柔らかなマグノリアの残り香の中、再び忍び寄る眠気に身をゆだねながら胸に回された腕にそっと指を這わせた。
「なあ、テランス」
あれから数日の後。ニワチョコボの油煮にマンダリンを添えた一皿を胃の中に収めて、暖を取るために水で割った蜂蜜酒を啜っていたテランスに努めて何でもないように振舞う。今日もすっかりいい陽気で、窓から覗いているミモザの枝もふわふわと愛らしい花が風に遊ばれて揺れていた。
「なぁに、ディオン」
「去年越してくるとき、庭にミモザを植えただろう?」
「ああうん、オリフレムから持ってきた、」
ぎく、と杯を持つ手が僅かに強張り、こちらを見つめる瞳が恐怖に曇る。これから何を言い出すか解っているのか、それとも彼の中でもこの状況をどうにかしたい気持ちが少しでもあるのだとしたら。やはり今日を逃すべきではないと改めて何でもない風に微笑みかけ、穏やかさを殺さないようにゆっくりと口を開く。
「そろそろ花時じゃないか?一度表で見てみた……」
「うん……今日はじきに雨が降りそうじゃない?さっきより外が暗いよ」
「テランス……」
まるで噛みつくように言葉をかぶせて『それ以上はよしてくれ』と語外に訴えるテランスの口許が震えている。身体に刷り込まれてしまった恐怖が一瞬で彼の内を支配し、一人きりの幻覚に飲み込まれていく様はいつ見ても心が痛むがそれでも始めてしまったことを止めるわけにはいかなかった。だって、こんなにも春なのだから。いつまでも凍てつかせていては、本来の彼が悲しんでしまう。
「あなたは病み上がりなんだから、大事にしないと」
「————テランス!」
何をそんなに恐れているんだ、と尋ねると大きく肩が揺れ、立派な体躯を丸めた男は目の前で小さく小さく蹲ってしまった。思わず席を立って彼の隣に立ち、その背に腕を巻き付けて抱いてやる。
「だって、ディオン。———あなたが」
あなたがまた、ぼくを置いてどこかに行ってしまうんじゃないかって。だから、せめて安全な場所にいてほしいんだ。わなわなと震える唇で小さく絞り出すテランスの瞳は遠く、わたしを見ているようで違うものを睨みつけている。これこそが、わたしの為した正義の代償だった。愛するものを苛む孤独の呪い。その根は深く、傷口はいつも湿っていてふとしたことでこうして簡単に血を流す。わたしのために我慢と努力を重ねてきたテランスは、その実傷つきやすい泣き虫のこどもを心の中にずっと匿って生きてきたのだろう。それが、あの別離と再会を経て以来、きっかけがあれば弱った彼の心が強く出てきてしまうようだった。
ここであせってはいけないのだと、過去数回繰り返したやり取りで元凶であるわたしも学習していた。息を吸って、たっぷり五つ数えて、吐く。己の中の短気な部分をねじ伏せて、この怯え切った男をほんの少しだけ柔らかくするすべを考える。要は、置いていかれることが彼の中であのランデラの記憶に結びついているのだろう。ならば、今度こそ。
「テランス、わたしを見て。ゆっくり、聞いてくれ」
「いやだよ、きっとまたあなたはぼくの知らないうちにどこかへ行くつもりでしょう」
「かつては、な。それについては、ごめん。酷いことをした」
かぶりを振って目を閉じてしまった頑是ない恋人の頭を捕まえて、なだめるように上向かせた額と頬にくちびるを落としていく。苦しんだとしても、思い出してほしかった。この冬を迎える前、夏の間に森へ散策に出たわたしが家に戻らなかったことがあっただろうか。時折訪れる客人たちを送り出すとき、畑仕事のあと、それこそ日頃用を足した後だって、逐一雛チョコボのように後をついてくるテランスの視線を振り切ってここから逃げだそうだなんてしたことは。そんなこと、なかったはずだ。冬支度を整えながら、薪を割るわたしを許容したのはもう一度信じてみようとしてくれたからじゃないのか。
「ディオン」
「ここは、家だ。わたしとおまえの、帰る家だ」
何があったとしても、必ず帰ってくる。おまえが買い付けや出稼ぎに数日家を空けたとしても、それでもきちんとこちらに戻るように。迷子の子供にもわかりやすいように正面から向き合って、わたしに焦点を結んだのを確認したところでゆっくりとくちびるをあわせて塞いでやる。冷えて食い締めた厚いそこを割り、どうか少しでも届きますようにと祈りを込めながら幾度も啄んで熱を移した。巨大な前科があるとはいえ、風邪の後のわたしは随分とまあ、信用がないようで困ってしまう。
「それでも、心配なんだろう? ……ならば、今度は一緒に行ってくれないか」
蹲ったテランスに手を差し伸べ、きょとんとした彼の愛らしい目尻に溜まった涙を拭ってやる。そのまま両肩を捕まえて力任せに引き上げて、頼りなくさまようばかりの両腕に自ら捕まった。たとえほんの、軒先でも。まずはここから、始めればいい。マグノリアとミモザが咲いたんだ、テランス。ならば、やることは一つだろう。
「共にいこう。あの頃のように」
「え、うわっ」
ひきとめようとする手を繋いで、先手必勝。テランスの体ごと押しやり力任せで勝手口を押し開け二人そろって転げ出る。は、と見張られた瞳に光が差すのを寸の間見届けて、勢いのままに引っ張ってつかの間の晴れ間に躍り出た。
「お、っと」
「ディオン!」
「っ、すまないな」
バランスを崩しかけたこの体をうまく支えてくれたテランスを見上げて、ほら、なんともないだろうと口角を上げた。穏やかな陽光、すがすがしさを纏った風が頬を打ち、互いの伸びた髪を乱していく。ああ、やはり陽光の中で見る伴侶の顔は格別だった。たとえそれが、気をもみすぎて萎れてしまった目元と別離の思い出に血色が失せた頬であろうとも。
片手は繋いだまま、もう片手を背に回してぐっと密着する。腰がくっ付く仕草が卑猥だからと当時の社交界ではあまり人気のない庶民の踊りの形だったが、支え合うには好都合だった。
「何を、」
「カーニバルの踊りを、憶えているか?」
折角の陽気だ、あの頃のように踊ろうじゃないかと誘ってみるとおずおずと同じように背に腕を回された。こちらの意図が読めないのだろう疑問符だらけのテランスにおまけのキスを送り、体重を預ける要領で膝をごまかしながら足を踏み出すと同時にテランスが一歩下がる。槍の打ち合いでも同じように一歩踏み込むとその分下がって絶妙に嚙合わせる足さばきと同じように、押して、引いて、引っ張られ、追いかける。互いの呼気から芳醇な蜂蜜酒の香りがする。これしきで酔ったりなんてしないけれど、幼かったあの頃より上手く踊れているだろうか? 数えきれない血に染まり、白に覆われていたこの萎えた足で。いや、出来なくたって構わないのだ。今のわたしは、わたしたちは。あの頃と違って、たった一人で立ち向かわなくても、支えてくれる腕がある。ほら、わたしはここにいる。おまえと共に、ここにいる。
祝祭の音楽もないけれど、遠くで聞こえる小鳥の声とささやかな葉擦れの音を感じながら互いの心音に合わせて踊り続ける。最初はたどたどしく、続けていくうちに解けていく目元と自然と上がる笑い声を隠さないまま庭をくるくる回りながら、ゆっくりと時間をかけて太陽のもと背伸びをして誇らしげなミモザの元までたどり着いた。
「ふふふ……ああ、見てみろ」
「ええ————綺麗だね、ディオン」
まだ幹は頼りなく高さもわたしたちと同じくらいの若い樹だが、それでも健やかな枝は競うように何本も天を目指して萌えていた。生の歓びに満ち溢れた丸い花を無数につけて、重たそうに頭を垂れてわたしたちを迎えてくれる。柔らかな香りが鼻腔を擽り、春の陽気が肺に満ちる。そして、あの頃と変わらずミツバチのようにミモザの枝に鼻を潜らせる愛しい恋人が、先ほどまで飲み込まれていた恐怖を忘れて微笑んでいた。
ふと思いついてミモザの細いひと枝を手折り、テランスの髪に挿して漉き込んだ。まるでチョコボの羽飾りのようで愛らしく、されるがままの伴侶がきょとんとこちらを見ているのを感じて胸がいっぱいになる。風は強いし霙も降るような、不安定な季節だけれど。生きてきた中で確かに楽しみもあったんだ。愛しい人。
「ほら、テランス。思い出して」
ミモザの花言葉は、おもいやり。冬の太陽、愛と友情。そして、この花を誰かに贈るとき、それは『私がどれほど貴方を愛しているか、誰にも分かりはしない』という意味をもつ。ああ、温かく暗い部屋でももちろんわたしは構わない。でもやっぱり。
「陽の光は……おまえに、よく似合う」
「ディオン……」
ポロポロと溢れる涙が柔らかな日差しを集めて宝石のように輝く。また少しずつ見つけていこう。小さなおまえが得意だったように。冬は去り、春が巡る。墜ちてしまったわたしが見ることが叶わなかった風景を、隣のおまえに教えてほしい。些細なことでも、二人で眺めればきっと楽しいに違いない。
「いこう、どこまでもずっと一緒に」
さあ、手をつないで、もう一歩。
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この軸の彼らは精神的にも肉体的にも、かつての強靭さをなくしてそれでも何とか二人で互いを支え合いながら生きていこうと模索する……そんな、カッコ悪い二人が幸せを探すエンディング後のお話です。
全てが上手く行きそうに思える絶好調な日もあるでしょうし、ふとしたきっかけで傷口が開いてうずくまる日もあるでしょう。
身体の不自由も少しずつ回復し、ディオンがとことん二人きりの生活に付き合うことで『暗夜を照らす』の最後すこしだけ前向きになったテランスですが、病気などの命を脅かすようなきっかけがあればまだ……一度でも置いていかれてしまった経験から恐らく今後も……傷が痛むのではないかと思うのです。