冬に備える ガツッ、——トン、ト、ト、ト。
家の裏手に残されている腰かけ代わりの切り株に座り込み、手鉈を振りかぶりながら大きな丸太をひたすらかち割っていく。
半分、もう半分…これはまだ太いからもう一回。
もう全身至る所が石化していたため節々に少しばかり固さが残るが、去年の今頃と比較すると幾分か動きやすくなってきた身体をリハビリがてらこうして動かして、最近では家の運営にかかわる事なら少しづつ携われるようになってきた。
けれど元々細かな作業が得意かと言われればそうでもないので、街道を外れた森に分け入り獣道を進んだ末にたどり着くこの家で出来る仕事……もとい暇潰しと言えば、もっぱら掃除と薪割りと、テランスが町から仕入れてきたり隠れ家の誰がしかがストラスの足にくくりつける手紙に紛れて寄越してくれる、野菜や果樹の種を植えている小さな畑の世話ばかり。
あとは時たま買出しの折に持って帰ってくれる書物を紐解いたり、エーテル溜まりが解消されつつあるオリフレムの私邸からテランスの兄が運び出してくれた懐かしい私物を広げて、あの頃の勝ち気で傲慢だった幼い自分を心の底で慰めたり。
私をこの家に生涯の愛で縛りつけて嬉しそうにしているテランスの伸びてきた髪を指ですいたり、彼と二人で柔らかさを思い出しつつあるこの身体を昼と言わず夜と言わずたしかめてみたりと、戦事に身を浸していたつい数年前までは考えられないような穏やかな日々がわたしを包んでいた。
人里から離れた家に二人きりなのですっかり細かな月日など気にしない生活になってはいたが、最近町に下りたテランス曰く、明日からいちおう暦の上では冬に入るらしい。
道理で最近は朝晩が殊更冷えるわけだと納得して、それならさっさと今冬の薪を確保しておかないとと、付近の伐採がてら薪小屋を一杯にすることにしたわけだが。
流石に斧を振るうのはこの軋みを上げている身体ではまだ無理なので、そこは相変わらずの肉体を誇る伴侶に任せるとして。
先に乾かしておいた手頃な原木を丸太にひいて、無心に割って薪にかえていくこと早数刻。
気が付けば日が少し傾いて荒い風が木々を揺らし、どうどうと音が鳴りはじめたので流石にここまでかと立ち上がって、仕上がった薪を手引きの橇に乗せて少しずつ小屋に積んでいく。
欲張らないで、引ける重さの分だけを。
動かしにくくなった身体でも重い荷物を運べるようにと板切れに紐を結んだだけの橇ではあるが、下草が枯れ始めていい塩梅に滑ってくれるのでありがたい。
半端に出た木材は束ねて鳴子に拵えて、畑や森の境目に獣除けとして設置した方がいいだろうか。
それとも素直に炊き付けに使うべきだろうか、何事も無駄にはしたくない。
「おーい、ディオン」
大丈夫?冷えてない?
あらかた片付いた頃合いに勝手口からテランスが出てきたので、流石に空腹を思い出した胃袋が控えめにわめき始めた。
これも、つい一年前隠れ家で養生していた時にはすっかりなくしたと思っていた感覚だったが、生きようとあがく身体は正直で、元の通りとはいかないもののこうして家の周辺をうろつけるようになってからその頻度は上がっている。
「丁度いま終わった」
「わあ…たくさんありがとう。痛いとことかない?どこかぶつけたり怪我したりは」
「大事ない。大袈裟だなテランス」
心配を顔に張り付けてむう、と小さくむくれている彼の、かまどの火にあたって暖まった頬をひと撫ですると腰に手を回されて囲い込まれる。
首筋に唇を寄せてその熱を堪能していると、彼の肌や衣服に優しく懐かしい香りが沁みついていることに気付いてすうっとそのまま吸い込んだ。
よく煮込まれた、野菜と肉のあたたかな香り。
なんとなく離れがたくてそのままくっついていると、風の冷たさに眉をしかめたテランスにさっさと抱きあげられてしまったので、過保護なのもいつものこととこのまま家へ連れて帰ってもらうことにした。
かつての私邸よりもうんとささやかで、それでも二人きりでやりくりするには十分な家の中は暖かな湯気で充ちていた。
暖炉の置き火にかけられている鍋からはうまそうな香りと優しげな黄色が覗いていて、そういえばこの間テランスの兄上殿に持たされたのだと、随分大きいのをいくつか担いでかえってきたんだったなと思い出す。
そのうちのひとつをくりぬいて、中の身はこうして食卓に上がる傍ら綺麗に残された皮の部分にはろうそくが差し入れられ、青く甘い香りをまとった優しい炎が夜ごと部屋を彩っていた。
「後でミルクを足したら完成だよ」
「それは楽しみだ」
カボチャのシチューは、かつて彼の母に作り方を学んでから野営の時など廚番に頼み込んで作ってもらうこともあったほど馴染み深い。
それを、この年になって自らこしらえてみるとまた、知らない苦労や手際の悪さ、出来上がってもどこか違う風味になったりと2人して笑ってしまうこともままあった。
さて、今日のこれはいかな出来か。
少し食べ残しておいた今朝のチーズを削り入れたら旨いかもしれないと、食糧棚の扉に手を掛ける。
こうして、わたしとテランスだけの「いつもの味」が、そのうち定まっていくのだろうかと遠くない予感に胸が躍った。
記憶にあるよりもほんの少しこくのあるシチューを平らげ、寒いだろうに表での洗い物をかって出てくれた彼のためにかまどの近くであぶっていたすべらかな石をいくつか布で包み込んで、寝床の足元に放り込む。
不具の身となった私のため、何もかも一人でこなそうと躍起になっていたテランスと怒鳴り合いの喧嘩をしてある程度の譲歩をもぎ取った夏の日が遠い昔のように感じられた。
主人でも従者でもなく、ただ互いの伴侶として。
丸太を組んだ小さな家でそれでもこれだけはと組み立てた、私邸に置いてあるものと遜色ないほど広い寝台を温め、厚めの夜着にきちんと着替えてテランスと揃って床に潜り込む。
砦や首都に居た頃は快適な暖炉と習慣から下着一枚で事足りていたが、この家でそれをするには翌朝の空調に自信がなかった。
寝室の入口に移動させたカボチャのランタンが、木戸まできっちり閉じてしまった闇の中を優しく照らしている。
「憶えてるか?ほんの小さい頃、死者の日の夜にシーツをかぶってレイスの真似事をしたんだ」
「5つのときでしょ?行商のおじさんに話を聞いてさ」
幼いころのように向かい合って、一つの寝台で寝具に包まる。
あの頃と違うのは、まるで海原のように広かった寝台が育ち切った肉体のせいでいささか窮屈に感じることか。
それでも、手を伸ばせば互いにぶつかり、ふとした時にテランスの足が絡まってくる今の距離感がひどく心地よかった。
今は、朝までずっと一緒に過ごせることもわたしにとっては。
「そう。ヌヌに無理を言って、少しだけだからって古いシーツをもらって穴を開けてな」
「近所の広場にお菓子をもらいにいったんだっけ」
「……帰りがけに暗がりから犬が飛び出してきて、それに驚いたおまえが道中粗相をしたこともまだ憶えてるぞ」
「……!——恥ずかしいからそれはよしてよ……その晩ディオンもおねしょしたでしょ、お化けの夢見て」
「ん?…ああそうだった!……ふふっ、それでまたお前に庇ってもらって」
ろうそくの下でたわいもない思い出を話す。
二人で抱き合った寝床の、なんとも暖かなこと。
不意に思い立って、あの頃を真似ようと不器用にシーツを手繰りよせ頭から被ってみた。
替えられたばかりのそれは、よく干されて陽だまりの匂いがしている。
「いたずらしてやろうか?」
「なにをしてくれるの?ぼくのいとしい幽霊さん」
ここには甘味の類などありはしないのを知った上での挑発に対し、テランスの暖かな手が頬を、所々硬さの残る背を撫でて指先で慈しまれる。
眠気をほんのり乗せた灰緑色の瞳がとろりと誘うので、求められるまま彼の唇に己のものを押し付けた。
ジジッと、風もないのに炎が揺れる。
穏やかに息を継ぎながら、恋人と長く口づけている最中。
ロザリアの古い習慣では、このランタンは大きな蕪を用いて作られるのだとジョシュアが言っていたのをなぜだか思い出す。
悪しき心の死者を遠ざける、護りの炎。
冬の始まる前日の夕刻、死者は幽世から現世にわたり家族のもとをおとなうという。
……では、今ここに現れるとするならば。あなたはわたしの名前を読んで下さるのだろうか、わが父よ。
そして、あのとき探しに出てくれた隠れ家の人々に海から引き揚げられなければ、わたしは——————
「……もしも、あのままわたしが朽ち果てていたとしても、今晩だけはお前に会いに行っただろうな」
「……いたずらでもよして。言わないで、本当に」
きみに離れるよう言われてすごく怖かったんだから、あの時。もがくように抱き込まれた背が軋む。
「……、すまなかった。テランス……ごめん」
まだ、お前は私を赦してくれないんだな。
ぎりぎりと骨まで砕かんとばかりに抱きしめた腕が震えている。
後悔はいつだって、ことが起きてから生まれるものだ。
しかし、完璧ではないわたしは不意の言葉でこうしてテランスを傷つけてしまう。
そして、テランス自身はそれを諾として飲み込むのをやめた。
わたしがもしもの、あり得たかもしれない未来を口にする度こうして態度で強く否定するのは、主従である自分たちでは考えもつかなかったことだ。
「まだきみはぼくを置いてくつもりなの」
めっきり不安定になったテランスを抱き返してその頭を胸元に寄せる。
泣く子にはこれが一番と、かつて私たちを抱いてあやしてくれたひとを思い浮かべながら。
規則正しい心臓の鼓動が確かに聞こえるように耳をつけさせて、あの頃の様な丸さはなくなったが変わらずいとおしい頬をなでた。
「どこにもいかないさ…わたしはここにいる」
お前に縛られ、生かされているこの生活も多少退屈ではあるがそんなにわるいものではない。
不安からすがり付く大きな子供を抱きながら、被っていたシーツでテランスをくるんでやった。
「わたしはおまえのものだからな」
わたしもおまえも、ひどく脆くなってしまったものだ。
最早わたしはドミナントではないし、彼の不屈の中身も一度はわたしのせいで千々に引き裂かれてしまっている。
それでもいつか自身の身体が癒え、このかわいそうな男の固くなった心がほどけたとして。
ひどく傷つけてしまった彼の心を、もしもふたたび一杯に満たすことができたなら。
そのときはこの小さな巣を飛び出して、それこそどこまでも2人きり、あてもなく世界を旅してみたい。
でもそれは今ではなく、まずは迫りくる冬を前に二人だけで立ち向かうところから。
明日も畑の世話から始まり、2人がかりで洗濯をして、野の獣を狩り、共に食卓を囲み二人で互いを満たし合って。
それだけあれば、もう十分。
今のわたしたちには、ほかにいらない。
「…やはりいたずらはやめておこう。だから、甘いものをくれ」
わたし好みの、溺れてしまいそうになる位飛びっきりのやつがいい。
抱き込んだ背に軽く爪を立て、そっと首もとまでひいて官能の火をおこす。
くすんと一つ鼻をならして伸び上がってきたテランスの厚い口唇を首筋で受け止めながら、明日もまた続いていく二人きりの暮らしに想いを馳せた。