あなたこそわたしの「うぇ……にいちゃんん…」
クリスマスも過ぎ人もまばらな玩具売り場で、寄る辺ないかすかな泣き声が聞こえた気がしてディオンは足を止めた。
歳末を告げる壮大な喜びの賛歌が流れる店内で、おまけに子供たちの夢が詰まった楽しいばかりの箇所であるのに、不釣り合いなその声は棚の奥を行ったり来たり、うーだとかあーだとか途方に暮れたような響きを帯びてそこにあって、まだたった七つのディオンだろうと子供ながらに持ち合わせた良心に訴えかけてくる。
かき入れ時が終わった平日の昼間、店員もまばらな最中大声で助けを求めるでもなく、押し殺したまだか細い子供の湿り気を帯びたつぶやきがなんとなく気になって、自身も同じく子供であるのを脇に置いてディオンが声の聞こえた方向へ商品棚を分け入ると。
「…どうした?えーっと……ぼく?」
そこには身の丈に対して少々大きめな服に着られた細い子供が、瞳を潤ませて佇んでいた。短い黒髪に、灰緑の大きな瞳。何度か擦ってしまったのか赤くなった鼻の頭に、サクランボのようなくちびる。頬にはそばかすが小さく散っていて、ぽかんと開いた口は突然知らない人間から浴びせられた質問に答えることも出来ずにぴしりと硬直している。
頭半分くらい小さな身の丈からして、ディオンよりも三つかそこら幼いだろうか。一人でいるのは同じだが、そもそも近所だからと気ままに出歩いているディオンに対してこの子供は誰かを探してうろついているようだった。
「迷ったのか?」
「————に、にぃちゃんがぁ……っ」
「…あ、ええと」
少し膝を折って目線を合わせて問いかけるが、緊張の糸が切れたのかそれとも改めて言葉にされたことで実感がわいたのか、目の前の子供の眉根がくしゃりと寄せられ瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「はぐれたのかな?」
自分より小さな子供の扱いがよくわからないディオンはそれに一瞬気圧されたが、それでも目の前で困っている子供を見捨てる選択肢ははなから持ち合わせていなかったため、しゃがみ込んで目線をさらに下げながらあどけないその子に笑ってみせた。
困っている人は助けてあげましょうと、学校の先生も家の大人たちもそう言っていたことだしと、こちらも子供らしい無鉄砲な正義感に駆られての行動ではあったのだが、それでもなんとか目の前でしゃくりあげる男の子には効いたようで、鼻をすすりながら小さく「うん」と肯定される。
「お、おれね、にいちゃんがトイレいってくるって、それで、まってたんだけど」
「うん」
「つまんなくなって、さきにいっちゃえって……おれ、たんじょうびだし、プレゼント…もういっこ…」
うんうんと相槌を打ちながら、抽象的で途切れ途切れに話す子供の話を根気よく聞きだし、繋ぎ合わせていく。
「兄ちゃんがトイレに行ってる間に歩き回って、道がわからなくなったんだな?」
「うん…」
「それで、君は今日が誕生日で、クリスマスとは別個におもちゃを買いに来たと」
「そうだよ」
ディオンが突き詰めるとこうで、この子供が冒険心を発揮した結果とてもシンプルに迷子になったということだった。
「んんと———どうする?お店の人呼ぼうか?」
一人でうろつくディオンとしてはあまり厄介にはなりたくないのだが、やはり迷子となればアナウンスで探してもらうのが一番早い。無意識にくちびるを指で撫でつつ、何より家族の方が先に届けを出しているかもしれないから確認してもらおうとディオンが立ち上がったところ、「あの!」と遠慮を知らない存外強い力で肩を掴まれてつんのめった。
「あの、おにいさん!——い、いっしょにさがしてっ」
「う、うん…?」
おみせのひとにつれてかれたら、おれ、おこられちゃう…
振り返るとまるで捨てられた子犬のような必死な顔で引き留める子供に、頼られるのは案外悪いことではないと自尊心を大いに刺激されたディオンは思わずうなずいていた。味方ができたことがよほど嬉しかったのか、ふっくりした子供の頬が喜びに持ち上がり、溺れていた瞳に力が漲る。
「じゃあ、ここに来るまでに何か憶えてることはない?」
そうとなれば善は急げだった。ひとまず子供の手を握り、棚から離れて通路へ戻る。おおよそエリアごとに分かれた大通りまで戻ってそこからの記憶を辿れば戻れるのではないかとディオンは考えたのだが、そこはやはり迷子の子供、吹き抜けのエレベーターホールまで来たもののそうは問屋が卸さなかった。
「……おれ……わかんないぃ」
「ええ…」
勇んで来た手前、ホールの外周をぐるりとまわって二人で周囲を見渡してみたものの、繋いだ手をぎゅうと握り返して迷子は下を向いてしまった。すん、と小さく鼻を啜る音がBGMに交じる。再度くちびるに手を当てて擦りながら、どうしたものかと途方に暮れかけたところでディオンはポケットの中の玩具を思い出した。
特に興味があるわけでもなかったが、流行り物の中から適当に小銭が尽きるまで回したカプセルトイを四つほど上着の両側に無造作に突っ込んでいた中の、とりあえず手に当たった一つを掴みだして子供の目の前で振ってみる。
「うぇ?」
「よかったらあげるよ。だから泣かないで」
「あり、がと」
湿り気を帯びたもみじの手のひらがカプセルを掴んで、えへへ、と嬉しそうに矯めつ眇めつ眺めまわすのを横目にディオンはそっと胸をなでおろした。人助けって大変だなと思いながら脳内に入っている見取り図では心もとないし、まずは詳細な場内地図でも探すべきかと見まわしてみる。
「あ、これにいちゃんのしてるゲームのひとだ。きしだんちょー」
当の迷子は暢気なもので、与えられた玩具に夢中になっている間にさてどうしようかと思っていると、ふいにまた袖を引かれてディオンは思考を中断させられた。
「どうした?何か思い出したか?」
「んーん。あのね、このひとおにいさんににてるなって」
「…そうかな」
うん、と満面の笑みで頷く子供の手には、カプセルから取り出した金髪のキャラクターのキーホルダーが収まっている。
「すっごくつよくて、やさしくて、かっこいいんだよ」
おれだいすき、と宣う子供の頭を撫でてやりながら、嬉しそうな口元から覗く歯が真ん中一つ欠けてるのを見て小さいくせに意外だなとぼんやり思った。
身長から年齢を小さく見積もったが、案外一つくらいしか年が離れてないかもしれないぞとディオンは頭の中で何とはなしに子供の情報を修正するが、それにしたって言動が幼すぎないかと考えたところで、どうせこの時限りだからと感情にブレーキがかかる。深入りはしない。離れるときにつらくなることが、今までの経験上ディオンには身に染みて分かっていた。
「———あ!これ!」
「今度は何だ?」
いきなり大きな声を上げた子供に向き直り、その目が見開かれてきらきらと輝いている様に圧倒される。幼さゆえの遠慮のなさでにじり寄る子供に一瞬たじろぎながら、しかし求めていた言葉が子供の口から溢されたのは今までで一番有益な情報であった。
「おれ、これのがちゃがちゃみた!といれのまえにあった!」
「......... よし、行ってみよう」
ディオンの脳裏に施設の大まかな地図が展開され、今日歩いた範囲が反芻されていく。ここに来る前に通ったカプセルトイエリアは二つ、そのうち、手洗い場の近くに展開しているのは。
「駐車場から入ってすぐのトイレだな」
確かにそこには十数台の機械が置いてあったはずで、ディオンは再度子供と手を繋ぎ、数十分前に来た道を引き返していく。相変わらず店内には喜びをテーマとしたあの曲が流れていて、それに合わせて時折へたくそなスキップで跳ね上がりながら腕を振り回す子供に、何だか楽しくなってきてディオンもつられて足取りが軽くなった。
光を目に宿した子供からおにいさんすごいね、なんでもわかるんだねと他愛もない話が歩くうちに二三言飛んでくるものだから、そうでもないさ、家族に会えたら謝らないとと先輩ぶって応えを返す。はやくはやくと、道もわからないくせ速足で先へ先へ行こうとする無鉄砲な彼の軌道を右に左に時々修正しながら、施設の端から端、館を一つまたいで二人が五分近く歩いた、その先に。
「にいちゃん!とうさんも!」
不意にディオンが握っていた手が振り払われ、子供が全力で駆けていく。その先には子供とよく似た顔をした背の高い男が二人立っていて、年かさの方に何事か言葉をかけられつつ抱き上げられるのを見届けてからディオンはさっさと踵を返した。
「もう大丈夫だな」
一人で小さく呟く先に、背後からはごめんなさいと謝る悲鳴に近い子供の声と、心配かけてこの、と安堵を含んだ怒りの声が聞こえてくるが、ディオンは振り向かない。愛情深い家族にちゃんと見つけてもらったのだから、正義の味方は静かに去るべきなのだ。ディオン自身のことを迎えに来てくれる家族がいないこともあって、これ以上の長居は還って厄介になると解っているから少しの満足感と共に人混みの方へ歩いていく。
「あれ、……おにいさん?」
ひとしきり家族にもみくちゃにされた子供だけが、ディオンの不在に気付いてまた別の寂しさを抱えたことを知らないままに。
「——っていう丁度十六年前のその人が、俺の初恋です」
「ちょっと待て、…え、どこから突っ込めば」
二つ年下の恋人の口から語られる身に覚えが有りすぎる記憶に、ディオンは顔を手で覆い悶絶した。
「あれ、あの時の子……お前が?…テランス」
あのちいさな男の子が?椅子代わりのベッドに並んで腰かける中、目の前で甘えてのしかかってくる巨体につぶされることなく肩で張り合いながらディオンはくらくらと回りだした頭をふった。
職場近くのバーで見かけたあまりにも好みのバイトに酒の勢いでアプローチして、つきあいはじめて数カ月。まだ大学生だという、ガタイのわりに甘ったれで可愛らしい顔つき、やわらかな話し方と高めの声が魅力の彼からクリスマスはバイトがあるけれど27日に泊まりにこないかと打診があって、ケーキは兎も角遅れたクリスマスプレゼントを用意して、ついでにそろそろそういうことに持ち込むのもやぶさかでないと色々自分の身体ごと準備してやってきたディオンではあったが。
話のきっかけになればと持ち込んだ少しの酒が潤滑剤になって、いつの間にか互いの恋愛遍歴に話題が飛んだまではよかったのだ。
「あ、ひどいな。気付いてなかったんですか」
おれはぜったいあの時助けてくれた人だって、途中から確信してたのに。
「逆に聞くが、なぜ私だと思ったんだ」
「あなたの癖ですよ。考え事する時にくちびるを触るでしょう」
ほら、今だってと指摘されて無意識のうちに撫でていた下唇から指を外す。あの短時間によく憶えたなとディオンが関心していると、「俺兄弟多いし、だれかの真似っこ遊びとかよくしてたから」と応えがあった。
語られた内容をディオンが頭の中で整理すると、ゲームから飛び出してきた騎士団長のような、テランス少年曰くの「優しくて美しい年上の男の子」に手を引かれて、子供だけでは広すぎる商業施設を冒険した記憶が幼心に忘れたくない記憶として長年輝いていた事実が、ただただ横たわっていた。多少の美化はされている気がしないでもないが、事実あの出来事は幼いディオンの中に埋もれた悪くはない記憶として、こうして掘り出された今気恥ずかしさはあれど後悔は見当たらない。
ディオンがともすれば半端に緩みそうになる口元をむず痒さに耐えて引き結んでいると、アルコールで暖まった目元を潤ませて、テランスが肩を寄せてきた。その存外長いまつ毛のつくる影が瞳に降りて、ああ確かにこの色の瞳は覚えがあるようなと覗き込んでいるとそこににじむ色香に気付いてしまって、ディオンの喉がごくりと鳴る。
「その時もらったキーホルダー、まだとってあるんですよ。俺のお守りで、宝物です」
へら、と笑いの形に崩した口元からちらちら覗く舌に目を引かれていると、頬にちゅ、と音を立てて降りてくるものだからリードする気でここまでやってきたディオンとしてはたまったものではない。
「そんなの、……それに、誕生日だって…言ってくれたらちゃんと」
「だってそんな、がっつくみたいなダサい真似———できるわけないじゃないですか」
あなたに釣り合うようなおれでいたくて。格好つけたかったんですと苦笑いされて、不覚にもディオンの心臓がはねた。
多忙な両親から好きなものを買うようにと握らされたクリスマスプレゼント代わりの小遣い片手に、近所のショッピングモールの玩具売り場で幾つか流行りのカプセルトイを回し、何を選ぶでもなく時間を潰していたあの時に行きあった泣き虫の男の子。
ひとりぼっちはさみしいよなと、今よりも短く刈り上げた髪の毛と一本かけた前歯が印象的な迷子に声をかけ、泣き止むならと手持ちの玩具を手渡して。不安そうな子供をそのままにしておくのも忍びなく、幼い正義感から家族を探すために手を繋いだ、たった十分かそこらの交流しかなかったのに。
「名前を聞いてなかったこと、すごく後悔してたんです。お礼だって言いたかったし、かっこいいあなたともっとお話ししてたかった」
「…安心したんだ、手を振りほどいていく程、大好きな家族と会えたんだから」
もう、案内は必要ないだろうとその時のディオンなりの美学でその場を後にした訳だが、当時のテランスにとっては予想外の別れだったらしい。それが何の因果かこうして引き合い、今度はディオンの方が離れがたくなってしまっている。
「すまない、……今の今まで気付かなくて」
「いいんです。……ずっと、どこかで会えたらお礼をしようって思ってたんですが…生憎あの後引っ越してしまって」
そもそもディオンのようにうんと近所に住んでいたわけでもなく、転居してからは子供の足では到底たどり着けないほど離れてしまった。大学に入って一人暮らしを始める時に戻ってきたものの、その頃にはさすがのテランスも諦めかけていたところだったのに。
「でも今、こうしていられる。もうそれだけで」
額同士が触れ合い、近すぎる距離で覗き込まれたディオンの目に映るのは、灰に混ざる澄んだ緑の美しい瞳だけだった。
「あなたは、またおれを見つけてくれた…それがどんなに嬉しかったか」
緑が揺らぎ、澄んだ水面があふれ、一筋星が流れ落ちる。
「ありがとう…ディオンさん」
「…ディオンでいい」
片側だけ湿ってしまったテランスの頬を包んで、目を閉じたのを確認してディオンの方から唇をすりつける。うっすらと開かれたくちびるの中を同じ粘膜でゆるく擦って、腕が解けて背を抱きなおし、もっと近くにと幾度もくりかえす。
「……もっと、教えてくれ」
おまえのこと。テランスの首に腕を回したまま、後ろ向きに二人で倒れ込む。下敷きになったディオンがシーツに髪を散らし、全部お前にやるからと精一杯余裕がある風に装って、瞠目するテランスの肩を引き寄せて耳たぶに口を寄せた。
「あなたを、くれるの?」
「———誕生日、なんだろう?」
クリスマスとは別にプレゼントが必要だろうとあの頃の迷子が言っていた台詞をディオンがそのまま返すと、痛い程に抱きすくめられて震える吐息で名を呼ばれ、首筋に獰猛な口づけが降ってきた。