とびっきりをあなたに1 <原作軸>
オリフレムの上空、羽ばたく風圧が人々や建屋に干してある洗濯物に障らないよう注意しつつ、海からの風を捉えてゆっくりと低空を飛行する。頬を切りつけるはずの寒気の刃も、顕現してエーテル伝いに鱗を纏ってしまえば左程気になるほどではない。冬の最中だというのに眼下に広がる町並みには色とりどりの飾り紐が渡され、寒さに負けじと咲き誇る花を頭に飾った子供たちがこちらを見上げて指を差していた。
「みて、バハムート!」
「すっげぇ……かっこいい~」
「ディオンさまー!」
『…ありがとう。今日の良き日に幸いあれ』
嬉しそうに追いかけてくる子供たちの上を二、三度旋回して寿ぐと、途端にきゃあ、と喜色を含んだ悲鳴がそこかしこから沸き上がりこちらの心まで軽くなっていく。
はしゃぐ子らに、礼をとる若い兵士。手を振る娼婦に、手を祈りの形に組む老人。皇都の中は【公現の祝祭】の活気に満ちている。普段は戦場を駆け、他国の兵を焼いてばかりの自分がこうして健やかに過ごす民の様子を知り、同時に兵器としての姿だろうと変わらず皆がわたしを受け入れてくれることはこの上ない喜びだった。
神話によれば、かつてグエリゴール率いる神の軍勢が原始の竜を下し大地を創造するために現世へ顕現なされた日がこの【公現日】であり、今では眷属たるドラゴンの長、バハムートがその勇姿をもって国を、民を祝福する【公現の祝祭】を催すことが習わしとなって久しい。軍部の中には戦ごとでもないのに顕現するのは如何なものかと云う意見もあるが、その雄姿をもって民を鼓舞することで結果的に軍への入隊や寄進を促す効果があると知れるや否や、表立った苦言は舌の奥に引っ込んでいった。
何より、この厳しい冬の最中に迎える祭りの喧騒を人々が楽しみにしていることを知っているから、物心ついた時からこうして毎年市中を見渡すこの瞬間をわたしは大層気に入っていた。顕現が長時間に及ぶと体に影響が生じると医師は言うが、戦と違ってただ飛ぶだけなのだから左程苦しいはずもなく。丘陵地帯をなぞり海辺の通りを見回って、最後に神皇宮の上で何度かくるくると宙返りをしたあたりで教会の鐘が鳴った。教皇の神話語りが終わり、ホワイトウィルムの麓に置かれた教会から溢れ出した信者が皆一様に【バハムート】を見上げている。
『すべてのザンブレク国民よ、女神の加護のあらんことを』
愛しいザンブレクの子らへ向けて一言発した瞬間、眼下で巻き起こる歓声に圧倒される。人々の喜びの声を聴きながら城のバルコニーをそれとなく伺うと、それらを高みから観覧なさっていた猊下がほたほたと満足そうに手を打っているところが目に入って安堵した。どうやら今年も無事に役目を務め終わったことを確認して、翼を翻し天高く上りマザークリスタルを飛び越える。
人目がないところまで行ってから高度を下げ、流石にもういいだろうと半顕現に切り替えた。人の身となった柔らかな頬に切れそうな寒さを感じつつ、消耗したエーテルを補おうと途端に鳴り響く腹の虫に苦笑して一度は離れた陸地へ向けて舵を切る。目指すはあたたかな自室の窓辺だ。
「……いた。テランス!」
目立たないようにクリスタルの下方を回り、ドレイクヘッドを望む城の外れの一区画へとそのまま飛んで、自室のバルコニーで手筈通りこちらに手を振るテランスを見つける。恋人を跳ね飛ばさない程度に減速しながら降下して、その腕めがけて突っ込んだ。
「お帰りなさいませ、ディオン様!」
「テランス!今帰った」
受け止めるよう広げられていた腕に文字通り飛び込むと、そのまま三歩ほど後ろに下がって着地の勢いを殺しながら抱きしめられる。翼と尾をエーテルに溶かしながら少し冷えた仕着せに包まれた首筋にくちびるを寄せて、互いの頬をすり合わせた。冬の太陽に照らされた陽だまりの匂いと、彼のまろやかな体臭が混ざって何とも言えない安堵感に包まれる。そのまま顔をずらして口を吸うと、一層きつく抱きしめられてくらくらした。
「ん…ぷはっ んふふ……いい子にしてたか?」
「ふふ、ええ勿論————さあ、中へ」
お身体は何ともございませんか、寒かったでしょう、お召し替えをと瞬時に従者の顔に戻ったテランスに半ば抱えられながら室内へ足を踏み入れる。祝祭の空気に充てられてとてもいい気分の中、もう少しくらいいだろうと恋人の首に手を回し構わずにテランスの頬へくちびるを這わせる傍ら、彼の器用な指が背で結ばれた紐を解き鎖帷子を緩めてくれた。
皇子から、ディオンに戻る瞬間。それをテランスの指で施されるこの時間が幸福というのだと、心の底で噛み締めた。
「そんなにくっついてらっしゃいますと、上手く脱がせられませんよ」
くつくつとこちらも楽し気に喉の奥で笑いながら、まるでダンスをしているかのような滑らかな足さばきで衣裳部屋まで運んでくれるテランスに合わせて、上半身を預けたままくるりくるりとこちらも歩調を合わせて回りながらステップを踏む。入口の手前に差し掛かり、短い旅路の仕上げに手を取られて甲にくちびるを寄せられて、その延長で至極丁寧にガントレットを引き抜かれた。そのまま肩当て、胸当て、帷子をあっという間に剥ぎ取られ、代わりに毛で織られた上等なガウンで包まれる。
「いつもそうだが、お前の手並みは魔法のようだな」
従者になってからこちら、もう十年以上も着替えを手伝ってくれているのだから手際もよくなろうとは思うが、それでも着用に聊か手間がかかるこのチェーンメイルを誰よりも静かに素早く着脱できるのは彼をおいて他にはいないだろう。
「お褒めにあずかり光栄の至り———さあ出来た」
「ああ、ありがと……うん?」
緩くベルトを結ばれたところで、たった寸の間放っておかれた腹の虫がごろごろと抗議の声を上げ、それをしゃがんだテランスの耳に拾われてしまい二人して顔を見合わせる。
「……お昼時ですし、軽食を運ばせましょう」
「、そうだな」
腹の鳴る音すら愛おしいと言わんばかりの甘ったるい顔で微笑まれ、思わずこちらの耳が熱く熟れてゆく。今更気にしても仕方がないのだが、それでもこういった現象は聞かれると少々気恥ずかしいのだから仕方がない。
その間にさっさと小姓を呼びに行ってしまったテランスの背中が目に入って、一つ大事なことを伝え忘れていたことに気が付いた。頭の切れる小姓の少年は言わなくともそうしてくれるだろうしテランスも毎年のことではあるので折れてくれるとは思うが、それでもあえて恋人の逃げ道を塞ぐために自身も追いかけて廊下に出る。まさに今から厨へ駆けていこうとする小姓をテランスの背中越しに呼び留めて、振り返るテランスをよそに食事や食器は二人分用意してくれと注文を付けた。
「……ディオン様」
心得たと気持ちのいい礼をして去っていく少年を見送ってから部屋に戻ると、我儘を咎めるような従者と目が合って、本当に真面目よなと逆に感心してしまう。
「そう堅苦しくなってくれるなテランス。行事は成功裏に終わったのだし、これから朝まではわたしとおまえ二人きりなのに」
「そうおっしゃいましても」
食事を共にするくらい、もういっそ誰に覗き見られてもわたしの命令だと突っぱねてしまえばよいだけなのに。砦や野営地、私邸にいる際のこの男はもう少し柔軟に事を片付ける質なのだが、こと城においては人目が多いせいかあくまで従者の習性が少々強めに出るようだった。
「それとも、折角の公現日の食事をわたしひとりで食せというのか」
あれを一人でつつくのはそれこそ味気ないではないかと頬を膨らませてみせると、すっかり困った顔で笑ったテランスが降参だと両手を上げた。
「わかったよ、ディオン。たしかにあれは、一人で摂る内容ではないね」
すぐさま恋人の目つきに切り替えて腕を広げた彼の胸に飛び込み、そうだろう、と肩に頬を預けて目を閉じる。食事が運ばれてくるまでのわずかな間、空腹とは別の何かを満たすためにテランスの広い胸に抱かれて彼の体温を感じながら待つことにした。
「———ああ、入ってくれ」
小姓を厨に遣いにやってさして間もなく、こつこつと、重たい扉が外側から控えめに叩かれるのに応えを返す。
名残惜しい中身体を離し、何もなかったかのようにテーブルに着くと同時に数人の女中が食器や盃、そして大きな焼き菓子を最後に配置して静かに去っていった。最後に残った小姓が二人分のワインをおっかなびっくり注ぎ分けるのを微笑ましい気持ちで眺め、さて、ここからは気を抜けないなとボトルを置いた少年を手招きする。恐らく事前の仕込み通りになっているはずだと期待して、後はどれだけ気付かれずにことを運べるだろうかとまだあどけない顔つきの小姓へ向き直った。
「ありがとう。なあ、頼みがあるのだが」
このパイを切り分けるから、適当に選んではくれまいか。食卓の中央にでんと置かれた両手で覆えるかどうかな大きさの【皇家のケーキ】を指差し尋ねてみる。
「そうだな……大きいし四つに分けるか。わたしに一つ、テランスに一つ」
「わたしがしましょうか」
寄ってきたテランスに、折角だからこれくらいは自分でしたいと席に着くよう促す。仕掛けがばれても困るので、彼には手を出さないでほしいのはここだけの話だ。
この大きく平べったい焼き菓子のフィリングには素焼きのアーモンドか干したソラマメが埋め込まれていて、それを引き当てたものは祭りの期間中宴の主人として祝福されるとともに今年一年幸運に見舞われるという。そして、切り分けられたパイのうちどのピースを誰が食べるかは、その場にいる最年少の者が目をつぶって指定するのが決まり事になっていた。
「よし、切るから後ろを向いていてくれ」
快く引き受けてくれた小姓が律儀に目を覆った状態で後ろを向いたのを確かめて、太陽の光、勝利や栄光を意味する美しい渦巻き模様の焼き目をこれまた長いナイフで切断する。四半周ほど回して、もう一度。幾重にも重ねられた生地が軽やかな音を立てて分かたれて、ふんわりと香る芳醇な香りに無意識のうちに唾液が溢れる。同時に、刃を突き立てる際の感触からどうやら当たりを一刀両断するようなへまを起こさなかった事実に安堵した。
「さて、どう配ればいいと思う」
小姓の采配を仰ぎ、手前の一切れを皿に盛ってテランスの手前に置き、その右隣のものを自分の皿に。役目を終えた小姓をほめてやって、こちらを向いたタイミングでおまえもどうだと差し出した。
「せっかくだからお上がり。祝い事は人が多い方が良い」
二年前の春から付いてくれている年若い小姓はなかなか手際がいい上、仕事の手抜かりがなく、おまけによく懐いてくれている。祝祭の間は極力身分の別なく楽しんでほしいという思いもあるし、たしかこの少年は甘いものが嫌いではなかったはずだ。
「二人では食べきれないんだ、遠慮しないで」
わたしの言葉を引き継いだテランスが更にと勧めると、出仕している子供の中で自分だけがご褒美を賜るのは気が引けると殊勝なことを言い出すので、それではこの際だと残っている皿ごとみんなで食べるように押し付けることにした。こんないかつい図体にも関わらず甘味の好きな質であるテランスをもってしても、この菓子の大きさは無理がある。
「あとのことはテランスがやってくれるから、それを持ってもう上がってしまいなさい」
食器の入っていたバスケットに【皇家のケーキ】とナイフに油紙を詰めてやり、折角だから日のあるうちに配っておいでと部屋の外まで送っていく。その暇乞いの瞬間に小姓がさりげなく意図をもってウインクするのを確認し、どうやらうまくいきそうな気配に女神の幸運がこの少年にも降り注ぐようにと祈った。彼に事前に頼んでおいて正解だったようだ。やっぱり、この子は手際がいい。
「さていただこう。いい香りだ」
何とも擽ったそうな顔でお預けを食わせているテランスを道すがらひと撫でし、ここからは恋人の時間だと意識させてから席に着く。それでも習慣としてまずは毒見とテランスが言いだす前に、自分のパイを潔く割った。美しく描かれた渦巻き模様が手持ちのナイフに小気味いい音を立てて分断され、優しい色合いのクリームがのぞく。
そもそも神皇宮の厨番の何人かは顔見知りで、こうして城に滞在する時の茶菓子や食事はその者たちに頼むのが常なので今更気にすることもないだろう。それにこの手の楽しみが含まれた料理は、思い切りよく食べてしまうくらいが丁度いいのだ。
少々困った顔でこちらを気にする心配性の恋人に大丈夫だと微笑んで、崩れやすい皮に気を配りながら一口含む。表面の軽い食感、バターの香ばしさ、クレームダマンドの芳醇なこくと甘みが舌の上で踊り、程なくして喉の奥に消えてゆく。シンプルだが飽きのこない素朴な菓子はそれでも少々甘すぎるくらいだが、目の前の男はこのくらいが好きだろうといつだって同じものを頼むのだ。
「ん、美味い。…ほらテランス」
「はい…」
「さて、今年はどうなるんだろうな」
こちらの奔放な振る舞いに観念したテランスは、まるで仕様のない方だと云うようにとろりと瞳を歪ませて手前に置かれた皿にようやっと手を伸ばした。
「おいしい……ぼく、これ好きだな」
しみじみと味わうテランスを前に切り離されたパイの中心部分をつつきながら、如何にも気をつけているように咀嚼していく。不自然にならない程度にゆっくりと、甘いものを食べる際のテランスは結構な速さで食べ進めていくのを承知の上で、自分の皿からは少しずつ。
この男も中流とはいえ貴族の出身であるうえ、幼いころ家庭教師に一緒くたにして躾けられたため基本の所作は美しく、立ち居振る舞いには無駄が少ない。それでも好物を前にした状態においてはどうしたってひとくちの目方が大きくなりがちで、まるで無邪気な子供が必死で菓子を頬張っているような様が可愛らしい。
「……ンん?———あ、これ…」
口の中が甘ったるくなったので洗い流すためにワインを流し込んで一息つくと、程なくして向かいで幸せそうにパイを咀嚼していた恋人の口からガリリと固そうな音が響いた。気付けばテランスは最後の一切れを口に放り込んだところで、どうやらその中に当たりとなるナッツか何かが入っていたのだろう。
「おお、今年もおまえが引いたか」
内心では上手くいったと拳を握りしめつつ、未だバリボリと口内の当たりを噛み砕いている恋人に近付いて横から抱き着いた。
「おめでとうテランス、グエリゴールのご加護があらんことを」
「ありがと、ディオン」
本来ならば当たりを引いた者には玩具の冠が授けられるのだが、ここは神皇のお膝元なのでそんな恐れ多いことはしない。最後のひとくちをしっかり飲み込んで、照れくさそうにはにかむテランスの額に祝福のキスを送る。パイ皮の付いた甘そうなくちびるもバターで光って美味そうだなと思って見下ろすと、ぐんと伸びあがった彼の方から押し付けられて伸ばした腕にからめとられた。
「ん、—————んぅ……」
とろりと甘い舌が軽い渋みの残った口内を探り、かき混ぜて飲み下される。もはや感じる感覚が焼き菓子の甘さか彼自身の手管による快感か判別がつかなくなるまで貪りあって、気付けば腰が抜けかけていた。酔ったわけでもないのに瞳を閉じると舌が、身体が段々ふわふわとして頭に心地よい霞がかかる。
「ふ ———ん、ディ、オン」
「————ぁ、ふ…」
ちゅる、と最後にくちびるを舐められて解放された途端頽れそうになる膝に力を入れ、椅子の背もたれに手をかけることでなんとか身体を起こしてテランスを覗き込む。ふと思いついて、飛び切り優しい瞳を覗き込んだままわたしのあるじさま、と呟いてみた。なんと素敵で、蠱惑的な響きだろう。
あるじさま、わたしの主人。
この身は国のものなれど、せめて今日のこの日だけは。
「ディオン……」
困ったような、喜んでいるような、いろいろない交ぜになった表情のテランスが見つめ返してくる。いいんだ、わかっている。ただ、でも。子供だましでもいい、神がおまえを護ってくれますように。
「……さあ、祝祭の主役はお前だテランス。なんでも願いを叶えよう」
自分の皿にはまだパイが残ってはいるが、一先ずの空腹は満ちた。今日という日はあと半分くらい残っていて、明日の朝まで急ぎの公務は入っていない。後は扉につっかえ棒でも挟んでしまえば、朝まで世界は二人きりだ。叶えるのは彼の願いだが、きっとそれは二人とも同じ形をしているだろうと確信がある。
「……ならば、あなたをとびきり甘やかしたい」
朝まで、と耳元にかすれた吐息を注ぎ込まれてとうとう踏ん張っていた足が崩れ、テランスの腹目がけて倒れ込んだ。抱きとめられた背に這う指に肌が粟立つ。
「———っ、テラ、運ん、で」
「うん……おいで、ディオン」
そのまま抱き上げられて寝室に運ばれる傍ら、結局甘えるはめになってしまったと少し反省した。せめて今日は彼を労わってやりたかったのに。それでも潤んで黒目がちにこちらを見つめるテランスを見るに、この願いもきっと本心なんだろうなと理解して首にしがみついた。
————今日の祝福を確実に与えるために小姓と厨番に相談して、焼き菓子をどう切っても外れないように当たりを四つほど埋めてもらうように頼んだのは、テランスには内緒の話。
2 <現代・記憶有>
「さて、と」
シャワーを浴びる前、温風を吐くエアコン直下に放っておいた無塩バターを必要分だけボウルに移し泡だて器を突き立てて、できる限り音を抑えつつグニャグニャとほぐして擦り交ぜていく。朝方の台所で一人、隣の部屋で未だ夢の中のディオンが起きないように作業をするのは彼が泊まりに来た翌日のルーティーンではあるのだけど、今日取り掛かるそれは特別なものだったから、尚のこと慎重に事を進めなければならない。
この日のために親や知り合いにレシピを聞いて何回か練習したし、試食もそれなりにしてきたから正直ほんの少し体重が増えた。でもそんなことを気にしてはいられない。決戦は今日なんだから。
そのため寝る前に忘れずパイシートを冷蔵庫に移しておいたし、割と寝起きが良い質の彼がちょっとやそっとじゃ起きないように昨夜は入念に抱きつぶした。自分もディオンもすべてが【昔のまま】ではないので、多少は鍛えているとはいえあのころと比べると少々薄い身体を汗みずくにしてベッドに沈む回数は【前】と比べると格段に増えていたし、そのためにかかる時間もぐっと少なくなった。
とはいえ、乾燥しがちなこの季節。喉が渇いて起きだしてこないうちに仕上げないとと、クリーム状に擦り上がったバターに砂糖を足して溶き卵を数回に分けて混ぜ、アーモンドプードルとわずかな小麦粉を合わせていく。もったり乳化したそれにラム酒で香りを付けて、絞り出し袋に手早く詰めたら少し涼しい窓際に置いて。
ここからは時間との勝負だと、エアコンを切って解凍しておいたパイシートに向き合った。フォークで穴をあけたシートの上に接着用の卵液を塗ってさっきのクレームダマンドを四角く絞り出し、その一角に陶器製のフェーブを一つ埋め込む。これをディオンに引かせることが計画のキモであるからフェーブの位置を記憶していなければならないし、なにより菓子作りに関しては素人に毛が生えた程度の自分がしくじらない様に、手間と実用性を兼ねて今日のパイは四角く作ると決めていた。
祈りと共に埋め込んだそれを覆い隠すように、甘さ控えめでディオンが好んでバケットに乗せたがるリンゴのジュース煮を上に広げてもう一枚のシートで蓋をする。余計な空気を抜きながら四片を閉じて、ナイフの先で真っ直ぐ描くのは麦の穂模様。ディオニュソスは豊穣の神だから、同じ名を持つディオンにはこの模様がふさわしい。加えて、彼の過ごす今年一年が実りあるものでありますようにと願いと共にナイフを入れた。
後は真ん中と、フェーブがある角にだけ目立たないように空気穴をあけて溶き卵を塗りつけたら一度冷蔵庫で落ち着かせて、その間にオーブンを予熱する。再度稼働し始めたエアコンの唸り声や洗い物を片付ける際のガチャガチャいう音にもディオンは反応せず、逆に心配になって部屋を覗き込んだタイミングでオーブンから予熱完了を知らせる音が鳴り響いて思わず小さく飛び上がりそうになった。
そんな挙動不審な物音にすら「んん……」と小さくむずがって寝返りを打っただけの彼に安堵して、パイをオーブンに滑り込ませて二百度で三十分。二人前サイズのあまり大きくないガレット・デ・ロワが焼き上がるまでに、今日の紅茶を選んでおくことにした。
勢いよくオーブンを開けると漂う、香ばしく焼けた砂糖とアーモンド、バターの香り。程よく膨らんだパイ皮に美しく焼き目が付いているのを確認して、壊さないようにケーキクーラーに乗せるとそれだけでぱり、と軽く美しい音が鳴った。四隅が少々跳ね上がってしまったが、これもまた愛嬌だろうと悲観はしないことにした。ボリュームだって大事だろう。神に奉ずるわけでなし。
そもそも【あの時代】を生きた記憶のある自分たちにとって、現代の宗教が及ぼす影響はさほど多くはないのだけれど。それでも多くの家庭が天におわす神を信仰するこの国において、生活の中に自然と根付いた行事に関してはむしろ積極的に楽しんでいこうという図太さがディオンの中にあるおかげで、二人で過ごす日常はいつもイベントごとに事欠かない。
基教の催しであるクリスマスの終わり、新年が明けたこの時期に催される御子の洗礼を祝う祭りで食べられるのがこのパイ菓子で、それこそこの一月中はどこのパン屋や焼き菓子屋に行っても手に入れることができる。そのだれも疑わぬ習慣が、かつて体験した冬至の幾日後に催される【公現の祝祭】と、そして同じような当たりの入った焼き菓子を二人で分け合って食べた【ぼくら】だけの記憶によってあの頃との境目を曖昧にしていく。
偶然なのか、それともどこか自分たちの知覚が及ばないところで何かが書いたシナリオなのか。けれど大事なことは今ここに俺とディオンが存在して、再び恋に落ち愛し合っていることなのでこれ以上考えても仕方がないのだけど。
「……さて、仕上げに」
グダグダといらないことを考えてしまうのは、それだけ緊張しているからでもある。アツアツのパイのてっぺんに糖水を煮詰めたシロップをざっと塗り込んだら、美しい模様も艶やかな焼き菓子の出来上がり。良く冷ました方が切り分けやすいのは確かだが、温かな焼きたてを頬張るのも格別なのでそろそろ起こしに行こうかと顔を上げたタイミングで、寝室の扉が開いて布の塊がよたよたとこちらへ歩いてきた。
夜の残り香を全身に纏った、どこかあどけない恋人の半分しか開いていない瞳がダイニングを彷徨い、カウンターを超えた所でようやく視線が交差してむにゃむにゃと小さく唇が綻ぶ様が気取ってなくて愛らしい。
「おはよう……テランス」
「おはようディオン、よく眠れた?……髪の毛すごいねぇ」
下着姿に白い毛布を雑に巻き付けただけのディオンが小麦色の髪の毛を鳥の巣のように奔放に跳ねさせて、昨晩泣き腫らして少々重たそうなまぶたを擦りつつ寄ってくるのでそのまま腕の中に囲い込む。腕まくりした肌に寝起きでふんわりと上がった彼の体温が心地よく馴染んで、頬を寄せた額はしっとりと汗で湿っていた。あっちこっちにうねっている髪の毛を手櫛でかきわけて、現れたくちびるに軽く吸いつくと背伸びをした腕が首に絡まって引き寄せられる。
「んん……何だかいい香りがするな」
「うん、ブランチにパイ焼いたんだ」
「私をベッドに置き去りにして、何をしているかと思ったら」
ありがとう、と全く咎める気配のない声で鼻同士をすり合わせるディオンを背中から抱えて、そのままあっちの壁でキスをしこっちの扉で背中をかき混ぜてとスキンシップをとりながら踊るように廊下を歩く。
「さ、食べる前にお湯浴びといで」
名残惜しそうに絡み付く長い腕を丁寧に剥がして、昨日調子に乗って吸い付いた跡も露わなディオンをひとまずさっぱりさせるべくシャワー室に押し込んだ。
「飛び切りカッコよくなっておいで」
「あはは、だがお前には負けるよ色男」
そんなに甘くていい香りさせて、食べてしまいたくなるじゃないか。そう言って上目遣いに誘う瞳に両手を上げて降参し、それを見たディオンはくつくつと上機嫌で洗い場へ消えていった。
濃厚なパイを美味しくいただくためにさっぱりとした二番摘みの茶葉をストレートで淹れ、たっぷりとそれぞれのカップに注ぐ。
湯を浴びて髪を整えたディオンがいつもの部屋着であるシャツとボトムにカーディガンを合わせた格好に着替えるのに合わせて、自分も粉だらけのエプロンを脱いで襟のある服を纏った。
「おかえり。もうできるよ」
すんすんと機嫌良く鼻を鳴らしながら戻ってきた彼の目の前であたたかなパイをざっくりと半分に割り、ほんのわずかではあるが年下の特権で仕込みのある方をディオンの皿にサーブする。
パリッと焼けたパイ生地。もったり重たそうなクリームの上に鎮座する、大振りで瑞々しい金色の果物。リンゴから染み出した汁気がわずかに溢れ出してまろやかな香りが部屋に満ち、レースカーテンから透ける陽光と相まって、なんとも長閑な空気が部屋に漂っていた。
向かいに座るディオンが紅茶を啜りながら、パイの断面を興味深そうに眺めるのに笑みが溢れる。
「アップルパイ……?でもこの模様は」
「半分あたり。ガレット・デ・ロワにリンゴの煮たやつを合わせてみたんだ」
甘すぎない方が好きでしょう?と返すと、好物の気配に途端に目の前でくう、と鳴る正直な腹の虫がディオンの空腹を知らせてくれて、彼の口元が照れくさそうに上がっていく。
「もうエピファニーか……ツリーを片付けないと」
ダイニングの隅に据えられた小ぶりのクリスマスツリーに一瞥をくれた後、でもまずは、とディオンの長い指先が添えられたカトラリーを捉え、ナイフの先端が良い音を立ててパイ皮に沈み込んでゆく。崩れるかけらをものともせずリンゴとクリームを一緒に掬ってひとくち、朝風呂で血色の良くなった彼の口に放り込まれた。
軽やかな咀嚼音。美しい所作に、一瞬遅れて満足そうに弧を描く眼差し。
「……ん、美味い」
こくん、と咽仏が上下してすぐさまもうひとくちと手が伸びる様に、どうやら眼鏡に適ったようだと安堵して手前にある自分の取り分に取り掛かった。
「リンゴがいいアクセントになってる。いくらでも入りそうだ」
普段はあまり甘いものを多くとらないディオンが嬉々としてパイを切り分けるのを微笑ましく思いながら、まずはひとくち。濃厚なアーモンドクリームの甘さと、さっぱりとしたリンゴの歯ざわり。パイから立ち昇るバターの風味と表面の軽い食感。
ざっくり大振りに割って口に入れるとこれらが渾然一体となって舌の上で混ざりあい、リンゴのせいか左程口内の水分を奪われることなく喉の奥に消えてゆく。個人的にはもう少し砂糖が多くてもいいのだけど、これだけで腹を満たすなら丁度良い甘さだった。練習通り、今日のは完璧。
「そういえばフェーブは?」
「ちゃんと入れたよ」
「ほう」
そう言ってにま、とこちらを伺う彼を敢えての笑顔で挑発する。
「お互い歯が欠けないよう気を付けて食べようね」
「互いに、か」
心底おかしい、というようにくつくつと腹を抱えた彼を目の前に、もう一度大き目のかけらを口に放った。ここまでは予定調和、バレていたってかまわない。だってかつて【その昔】、ディオン自身も同じように【ぼく】に対して色々策を講じてくれていたのだから。
「なあ、知ってたか?テランス」
笑いの発作の後半分ほど一気に食べ進めたディオンが、紅茶を両手に抱えこちらを見ていた。正確には、俺を通した背後に思い描いているのであろう、鎧をまとった【テランス】を。
「その昔、わたしはおまえに何とかして当たりを引かせようとして……厨番に我儘を言ってな」
ある年なんかどこを切ってもあたりが来るように、パイの中に複数のアーモンドを入れてもらったこともあったと懐かしそうに【我が君】が微笑む。その表情をきっかけに彼が身に纏っている厚手のカーディガンの編み目に鎖帷子がダブって見えて、遠い彼方の記憶で何度も何度も額に祝福を授けてくれたディオンの甘やかな吐息まで思い出してしまい思わず口元が緩んでしまった。
ああ、やっぱり。
「……なんとなく、知ってました」
野暮だから言わなかっただけで。ばれてたか、と小さく舌を出すあなたの優しさが嬉しくて、それを口実に寄りかかることが下手くそな彼を甘やかせることも当時の自分は喜びであった。何より、【テランス】があたりを引いたときに心底嬉しそうに破願する【ディオン】が愛おしくて。
「だって、毎年ぼくに譲ってくれていたでしょう」
「ああ。愛するおまえに何か贈りたくて、でもあの頃のわたしは何も持っていなかったから」
さくり、ディオンがもうひとかけら口に運ぶ。
「せめてその日くらいはおまえを王様にしてやろうと、それはもういろいろ手を尽くしてな」
「ええ、おかげであなたを好きなだけ甘やかすことができましたよ」
もっとも、今生に生まれてからはそんな小細工をしなくたってこの家の中ではありとあらゆる方法で愛情を確かめ甘やかしあっているのだが。あの頃の彼は皇子で、自分は一介の従者だったから。
時空を越えた答え合わせの合間に少しずつ食べ進めていると、ディオンのカトラリーがカチャンと音を立ててそれを引き当てた。
「……あ」
行儀を放り出して指先で引っ張り出したのは、陶器で出来た厚みのある指輪。フェーブを探す際マーケットで偶然見つけたそれは、目測を誤っていなければ彼の指のサイズとそう変わらないだろう。でも、あくまでそれは目印で、今日のための舞台装置にすぎない。
「ああ、今年の王様が決まったね」
「テランス…」
どこか懐かしいデザインに見えなくもない、石を模して頂点を赤く塗られたその指輪を前に仕組んだな、と云う顔のディオンへ舌を出す。
「だって、どうしてもあなたに受け取ってほしかったんだ」
ディオンだって同じでしょ、そういうと頬をさっと染めてまあ、うんと口の中でごにょごにょと呟かれた。擽ったそうにフェーブをつまんで矯めつ眇めつしているディオンを前に、キッチンから紙の王冠を取ってくるふりして立ち上がる。
「気に入った?それ」
「ああ、なかなかいい絵付けだ。筆が細かい」
私の指でも入りそうだなと児戯に興じるディオンを横目に、嵌めてあげようかと声をかけながらさりげなく尻ポケットに手を突っ込んで【それ】の存在を確かめた。
————ほんものの、宝石とプラチナで出来た指輪がここにある。
何も知らないディオンは、ああ頼む、なんて楽しそうに笑うばかりだが。サプライズなんて今更だけど、王冠のかわりに差し出したら……皇子様は笑ってくれるだろうか。
だって、もういいだろう。生まれ変わってまた出会い、一緒に過ごして早何年。俺たちにとって特別な記念日ではないけれど、きっと聖母子もグエリゴールも許して下さるに違いない。
かつて、執念ともいえる策略で彼は毎回ぼくにフェーブを授けようとしてくれて、毎年贈られる祝福を幼い頃はただ楽しみに、長じてからは恋人としての心遣いと含まれた甘えに胸をいっぱいにして、それらを享受してきた。その時もらった沢山の幸運は、きっと今の世でディオンと出会えた時に果たされたのだと思う。
だからこれからは俺たちふたりで。
互いを守り祝福し、助け合って、健やかなるときも病めるときも。
ぽかんとしている彼の足元に跪き、ポケットから取り出したベルベットの箱ごと彼の両手をとって懇願するように口づける。今年だけじゃなくて、これからずっと幸せにしたい。目元を通り越して耳まで熱いが、精一杯真摯な顔つきで見上げたディオンの瞳がまさか、と見開かれるのに合わせて口を開いて…——さあ、今度は自分から。
「ディオン、どうかイエスと言って………おれと————」
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副題
テランスに向けてせめてもの幸運を願った原作軸のディオンと、二人合わせて幸せになろうと頑張る現代軸テランスのお話。