青熱脆性「……っ、」
にゃおん、という鳴き声と共に頬を滑る柔らかな感触。
特に夢を見ていた訳でもないが、現実に引き戻されれば視線の先には頬に触れた正体、飼い猫にゃんこたろうの白い尾がゆらゆら、デスク上のライトを浴び眩しく揺れる。
時計の針は午前0時を回ったところだ。
まだ微睡む意識に抗い、突っ伏していた体を起こすと、ようやく起きたのかと言わんばかりににゃんこたろうはデスクから飛び降りた。
向かう先を目で追うと、開いている部屋の戸の隙間から白は消え去る。その先に気配がなくなれば、再び部屋の中を静寂が満たした。
自分以外の住人が何をしてようが知った事ではないが、邪魔がないのは那由多にとっては都合が良かった。
「…チッ」
再生の止まっているウォークマン、無造作に散らばる白いままの楽譜。
筆が止まっていたのが確かなのは、寝起きの脳でもそれだけで十分に理解できた。
苛立ちを誤魔化すべくくしゃりと髪を掻きながら空に舌打ちした後、部屋を後にする。
暗闇に溶ける廊下の先、玄関の非常灯だけが微かに滲んでいる。リビングへ向かうだけならこの程度の暗さでも問題は無い。
-なんだ、まだ帰ってないのか。
真っ暗なリビングに着くなり、最初に過ぎったのはそれだった。
通り過ぎた部屋も、玄関も、自分が帰宅した時と何も変わった様子はなく、キッチンとリビングのライトを付けると、聞こえてくるのはスイッチのパチ、という音だけ。
水回りも綺麗に片付けられたまま、誰かが使った形跡もない。
「んにゃあ」
広いソファーの真ん中で大きな口を開けてめいっぱい伸びをする姿を捉えると、鳴き声の主は那由多へ向かって歩み寄り、足元でその身を擦り寄せてくる。
それを制するでもなく、好きにさせたまま食器棚から自分用のマグカップへ手を伸ばすと、隣に並べられたもう1つのマグカップが目に止まり、まとめて取っ手を引っ掴んで取り出した。
別になんて特別なことはない、ただのついでだ。
マグカップを2つ並べ、ケトルで湯を沸かしながら、予め挽いてあるコーヒー豆のストックを冷凍庫から取り出す。
俺の居ない時はここに入れておく、とは言われていたが、思えばそれから初めて淹れる気がする。
何故か、妙な苛立ちを覚えた。
「那由多、起きてたのか」
ソファーへ腰を落とし、淹れたコーヒーを一口啜った時だった。
二口目をつける那由多の代わりに、隣で寛いでいたにゃんこたろうが帰宅した主へ顔を出した。
「あぁ、お前もいたのか。ただいま」
「すまない、打ち合わせが長引いてしまってな」
目線だけをやれば、賢汰の鼻先と頬は微かに赤く染まっていたのが見えた。季節の変わり目とはいえ、今夜はここ暫くで1番風も冷たかった気がするが、夕方の練習後解散した時と同じ。1つ巻いただけのマフラーを解きながら僅かな身震いもしない。
帰宅早々聞いてもいない報告と忙しなく動く姿に、一旦鎮まった苛立ちが再び過ぎり那由多は舌打ちをした。
「おい」
「ん、どうした?」
「そこに座れ」
「?用があるのなら、すぐに戻るが…」
「いいから、早く座れ」
部屋に戻ろうとする賢汰をひと睨みし視線で促すと、ソファーの端へバッグを下ろし大人しく那由多の隣へ腰を沈めた。
かと思えば、促した当の本人は即座に立ち上がりキッチンへと向かっていく。
残された賢汰が向こう側で丸まるにゃんこたろうへ目をやれば、欠伸を1つ零した。テーブルの上にはマグカップが1つ、半分沈んだカットレモンが浮かび、まだ湯気の立つコーヒーの水面が微かに揺れている。
外気から遮断された事で徐々に体温を取り戻していくのと同時に、朝から動いていた体が一度腰を落ち着けてしまった事で襲ってくる疲労感を覚え、賢汰は微かに目を細めた。
コト。
戻ってきた那由多の手にはもう1つのマグカップがあり、賢汰の目の前に置くなり元いた場所へ座り直した。
それには那由多の分と同じように、カットレモンが浮かべられている。
と、片頬に暖かなものが添えられ、賢汰は目を見開いた。確かめるように、包み込むようにしてその手は登り、耳朶に触れられて肩がぴくりと跳ねた。
離れたと思えばそのまま顎を掴まれると顔だけ向かい合うよう誘導され、その先では不機嫌そうな那由多と視線が交わった。
「な、那由多…?」
「……」
触れた頬も耳も、まだ冷えていた。
当の本人は目の前では何ともないという顔をしていたが、少し触れたらこの顔だ。
何もかも見透かしたような顔をしたこいつが、動揺に瞳を揺らし、抵抗もせず、何も言わない俺の様子を窺っている。
-俺が、この顔をさせている。
その事実に、少しだけ苛立ちが治まった。
何か言いたげにしている賢汰から手を離し、那由多は自分のマグカップを持ち上げ、何事もなかったかのようにコーヒーを一口飲んだ。
「飲め、冷めんだろ」
「それと、明日は淹れて持ってこい」
促されるがまま一口だけ飲んだコーヒーは少しだけ冷めていて、それでも暖かった。
「あぁ、わかった」
一息つき、表情を緩める賢汰から返答を聞くと、那由多はマグカップを持ったまま部屋へと戻って行った。
1人残されたリビングで残りのコーヒーを飲みながら、那由多に触れられた頬へ自らの手を添える。
「熱い、な…」
触れた頬はまだ冷たいままだったが、込み上げてくる熱を確かに感じながら賢汰は呟いた。