シンガポール・スリング「全員、ここに全部置いてけ。行くぞ!『MANIFESTO』」
アンコールのラスト1曲。
ステージも客席も最高潮で、肌から全身から熱が湧き上がる。
各々の激しい音が合わさって、交わり、那由多の歌が乗る。
ドラムの位置からは全体が見渡せ、全員が絶好調なのが音からも空気からも感じられ、この厚みを支えられる感覚が深幸はこの上なく気持ちが良かった。
◇
「お疲れさま」
「お疲れ様です!」
「おつかれ〜」
楽屋へ入りがてらバラバラとメンバー間で挨拶を交わした。
表情には出ないものの、那由多から文句が出ないという事は、間違いなく今日は“良かった“のだ。
「ほら那由多、汗拭きなよ」
「ふん」
深幸が差し出したタオルを奪うように那由多が受け取る。
その様子に礼音は「全く」とでも言いそうな表情でこちらを見ているが、指摘しないのは渡したのが深幸だからだろう。
賢汰との扱いの差を感じつつ、後輩の不遜な態度すら微笑ましいと思えるくらいには、深幸も出し切って清々しい気分だった。
「あれ、ケンケンは?」
「今頃挨拶回りでもしてんだろ、先に帰る準備してようぜ」
「あ、俺今日は先帰ります」
礼音は今日の出来に1番はしゃぐかと思えば、逆に那由多の小言がない分テキパキと慌ただしく着替えやら帰宅の準備を済ませている。
傍ら、そのまま帰ろうとする那由多を引き留め、着替えを促す涼の姿が微笑ましい兄弟の図のようだった。
ステージの上では常に上を目指す姿勢のメンバーも、降りれば良くも悪くもいつも通りだな、と、深幸はまるで保護者のような気持ちで彼らのやり取りを見守りながら、冷めやらぬ熱の余韻に浸っていた。
ーパタン
「あ、ケンケン。おかえり〜」
「賢汰さん、お疲れ様です!お先です!」
遅れて楽屋に戻る賢汰と入れ替わりに礼音が元気よく挨拶を放つと、賢汰が返す間もなく早々にその場を後にしていった。
珍しいその後ろ姿を見届けると、賢汰は開いていた戸を後ろ手で閉じた。
「お疲れ様。涼、那由多の着替えを手伝ってくれたんだな。ありがとう」
「このくらいお易い御用だよ、ケンケン」
「ふん、余計なお世話だ」
「でもそのまま帰ろうとしてたよ。ダメだよ、那由多」
賢汰からのお礼に笑みを浮かべる涼とは対照的に、面倒臭いと言わんばかりに那由多は眉間に皺を刻んでいる。
珍しくぼんやりとしていたせいで、着替えを済ませていないのは深幸と賢汰だけになっていた。
「涼、悪いが那由多と一緒に先に帰っていてくれ。俺達は少し残っていく」
「うん、わかったよ。那由多、一緒に帰ろう」
「チッ」
1人で帰れると言わんばかりの那由多と、相変わらず過保護な賢汰の間に涼はいい具合のクッション材だ。
特にこの後の予定はなかった深幸も、打ち合わせか車での送迎でも頼まれるのかと思いながら、一先ず着替えようと衣装のジャケットを脱ぎ、クリーニング用のハンガーへと掛けた。
那由多と涼の衣装は脱ぎっぱなしで傍のソファーへと放られており、その涼の詰めの甘さに気付いた深幸は思わず吹き出しそうになってしまった。
「えっと、深幸くんもおつかれ〜」
「あっ、はいはい、お疲れ〜」
ベースを担ぎ、さっさと楽屋を出ていく那由多の後を追いがてらいつも通りの挨拶を交わす涼の反応が深幸にはやや歯切れの悪いものに感じ、戸が閉まるまで2人の姿を見送った。
引っかかりはしたが、気のせいかもしれない。
なんせあの『宇宙人』だし。
さっさと着替えも用も済ませて帰ろうと支度を再開した深幸の耳に、『ガチャ』という金属音が届く。部屋の鍵を閉める音だ。
2人きりになった室内で音の発信源は他にはいないのだが、その張本人の賢汰は今だ楽屋の出入口前に立ち尽くし、今の今までの様子とは変わって顔を伏せていた。
戻ってきた時には気にも留めなかったが、意識をしてみれば緩やかに肩を上下させており、息も深い事に気付き、深幸は着替えを中断して歩み寄った。
「おい、賢っ…」
途端、胸ぐらを掴まれる。
布を握り締められると同時に引き寄せられ、不意打ちで勢い良く体が傾いてしまった為に咄嗟に向かいの壁へ手を着くと、同時に唇が重なった。
2人きりとはいえ、ここは楽屋だ。
鍵を閉めているとはいえ、いつ誰が来てもおかしくないというのに、この行為はいつも唐突で、しかしこの発端はそもそも深幸の提案であり、身を任せるように受け止めて目を細めた。
まあ、賢汰の事だから、その辺りもちゃっかりしてるんだろ。と。
とにかく、寧ろ絶好調過ぎる事がわかり内心安心しつつ、あぁ、今日も柔らかいな…なんて、全く我ながら呑気な感想だ。
啄むように2度3度口付けられ、顔が1度離れていく。
胸ぐらは逃がすまいと掴まれたまま、しかし賢汰の表情はというと何処か焦点が合わないようで、目の前の深幸と視線を交えてはいるものの、なにか別のものを見ているかのようだった。
「…おい、賢汰」
深幸の呼び掛けに、賢汰のピクリと肩が微かに跳ねる。
そのまま離れていかないように、今度は深幸から距離を詰めると覆い被さるように再度唇を重ねた。
自ら壁際に追い詰められてくれたおかげで、四方八方賢汰の逃げ場はなかった。
逃げる素振りも、逃げる気もないのは深幸にもわかっていた。
薄い下唇を甘噛みし、隙間から舌を差し込めば受け入れようと舌先が差し出されるが、深幸はそっと撫でるだけで離れていく。
「ッ…、深幸、」
虚ろな眼差しに光が戻り、絞り出すような声で名前を呼ばれると何とも言えない高揚感を覚える。
賢汰のターコイズには昂る熱でじわりと涙が浮かび、深幸だけを映して揺らぐ。
今度はしっかり目の前の存在を認識出来ている事を察し、深幸は挑発的に口角を持ち上げた。
「なに?たまには素直に言ったら?」
「……お前には、いつも素直でいるつもりだが」
「ったく、可愛くないな…」
でもそれは、まぁその通りなのだが。
こんなにも物欲しそうな瞳で、真っ直ぐに見つめられればどんな奴でもその気になってしまいそうだ。
賢汰はこれでいつも通りの反応をしているつもりなのだろうか。
こんなのただ欲を煽るだけなのに、もしかしたらこのトロトロに蕩けた己を自覚しているのかもしれない。
聞いたところで答える奴ではない事を知らないような、今更初々しい関係でもない。
『熱が拭えない時は、俺にぶつければいい』
あの時の目を丸くした賢汰の顔を、深幸は今でも覚えている。
勢いのまま引き寄せ、やり場のない熱で震える体を抱きしめた。
縋るようなターコイズに吸い寄せられるがまま、唇を重ねた。
良くも悪くも繕わないのを知っているからこそ、なんでこんな事を勢いで口にしてしまったのか、及んでしまったんだ、なんて後悔の念にかられてしまうかと思ったが、存外相手も乗り気で逆に面食らってしまった。
今日で何度目だろうか、気付けば賢汰からこうして仕掛けてくる事の方が多い気さえしている。
まあ、悪い提案ではなかったのかもしれない。
賢汰の眼差しは熱に濡れ、揺らぎ、互いを阻むレンズが薄らと曇っている。
何処か間抜けなのにそれ以上に唆るのは、きっと相手が賢汰であるからなのだと思う。
ふ、と笑いが零れてしまうと、痺れを切らした賢汰は再度胸ぐらを引っ張りながら背伸びをして唇に噛み付いた。
伸びるだろ、加減しろよ、と脳裏で浮かべるだけの理性を深幸はまだ保っている。
応えるように受け止め、頬を撫で下ろしていき顎を支えて舌を捩じ込んでやると、自ら捕まりに吸い付いてくる。
その反応が、いちいち煽っているのを賢汰が意識しているのかいないのかもわからない。
そこまで計算しているのなら、本当にムカつくし大した男だなと思うけど、相手が俺で良かったなとも深幸は思う。
きっとこんな事を言ったらまた笑われるだけなので、絶対口には出すまい。
静かな楽屋の空間内で2人の吐息と、舌が絡み合う度に漏れる水音が響き、抑え込むように深幸はもう片方の手を賢汰の後頭部へと回し、髪を撫でる。
指を差し込めばまだ汗で湿っていて、指先から全ての熱を吸い取られてしまうような感覚さえした。
どちらともなくゆっくりと唇が離れていくと、名残惜しそうな賢汰の眼差しに、深幸はずくんと奥底に脈打つ熱を感じた。
「ん…、はぁ、」
「っ…、どう?」
「あぁ、…良かったよ」
皮肉のない、素直な感想だった。
いつの間にか離れていた両手で深幸の頬を包み、一層濡れた瞳を細めて真っ直ぐ見つめてくる。
この姿は、他の誰にも見せられない。
(…あぁもう、本当に、素直な方がタチが悪いんだからどうしようもないんだよ)