眩暈/よたよた歩きの苦い朝 なにもかも青白いような気がしていた。まだ昇りきっていない朝日が障子紙を通り抜け、部屋を淡く染めている。百貴は見慣れているはずの自室を見つめていた。布団に横になったまま、目蓋だけを開けている。正直なところをいうといつから目覚めているのかも判然としなかった。もしかしたら空中を舞う細かな塵のきらめきに美しさを見出していたのかもしれなかった。
眠たい目蓋をふたたび閉じるのをためらっているうちにだんだんと眠気が抜けて、幻想的だったはずの部屋につまらない生活感がもどってくる。百貴は軽く息をつく。
普段なら、目覚めて初めて視界に入ってくるのは天井に敷き詰められた味も素っ気もない板のはずだ。隙間なく閉じられた障子のほうに視線が向いていた理由は背中に感じている体温にある。腰に巻き付いている他人の片腕からはすっかり力が抜け落ちていて、少し重い。だが煩わしくはなかった。いまだ眠りの中にいるらしい腕の主を起こさないよう、かけられていた布団をよけつつ慎重に身を起こす。その途中、手のひらで、なにか薄っぺらいものを押さえつけた。何の気なしに手の中を見て少し腰が引ける。
――なに逃げてんですか。
低い声が耳に蘇る。声の主は、彼自身の手に引っかかった体液を舐め取りながら笑っていた。からかうようでいて、わずかに本物の怒気が混じった、肉食のけもののうなり声。
――駄目。もっかい付き合ってください。
逆光の中でぎらついていた瞳にもう一度睨まれたみたいだ。
まとわりつく夜の気配を振り払うように、手のひらに張り付いていた避妊具の空きパッケージを引き剥がす。ふと枕元を見やると、手の中にあるものと同じく端の破れた銀色の四角いごみが畳の上にふたつも落ちていて、なんだか妙にいたたまれない。積み上がったティッシュペーパーとかぐしゃぐしゃになったタオルとか横に倒れたままの潤滑剤のボトルとか――こういったものはだいたい百貴が風呂に入っている間にきれいになくなっているのだけれど、今朝はすべてが放り出されて、明け透けのままだ。昨夜は入浴の機会どころか休憩ひとつもらえなかったのだと思い出す。今日は非番なので別にいいのだが。
音をたてないように嘆息し、つまんだままだったごみをティッシュの塊の中に放り込む。かたわらに視線を落とすと見慣れた男の見慣れない寝顔があった。薄く開いたかたちのよい唇、すっきりと通った鼻筋から吐き出される規則的な呼吸、穏やかに閉じられた目蓋。どれほど夜が深くなっても百貴の寝床では眠りにつかず、なにもかもの世話を焼いてから客室へと引っ込んでいくはずの男だった。こうして朝まで隣にいるのは本当に珍しい――いや、もしかしたら初めてではないか?
よっぽど疲れたのだろう。彼の昨夜の狼藉っぷりを思い出した百貴の目許には苦笑が浮かんだ。まったく、なにを不安がっているのやら。
淡く内側から輝くような色をしたぼさぼさの髪が頬にかかっているのをそっと指でのけてやる。数秒だけ鳴瓢の寝顔を眺めてから、百貴は寝床を抜け出した。畳の上に放り出していた着流しを拾って身体に巻き付ける。帯を締めて形を整えるときの衣擦れが、ものの少ない寝室に静かに響いた。端々に倦怠感が残っているがどうしようもない。いつもなあなあのうちに押しつける形になってしまっている片付けをして、朝飯を用意してやらねばならないだろう。
ふと、言葉になっていない声が聞こえた。
布団のほうに視線をやると、横臥していたはずの鳴瓢が仰向けに転がって腕を額に乗せていた。寝返りを打っただけかと思ったが、鳴瓢の目蓋はわずかに震え、隠れていた瞳を覗かせた。まだ夢とうつつの境にいそうな男に向かって百貴は声をかける。
「すまん。起こしたか」
「……あー、おはよう……ございます」
まるっこく輪郭のぼやけた声が朝の挨拶をつむいだ。おはよう、と返してから百貴はなるべく静かに告げる。「まだ寝ていていい。お前も今日は優先待機日じゃないだろう」
「や、そういうわけにも。あの、すみません、お布団」
「ん?」
「俺、図々しい真似してるなって」
失敗したなあ。
ぼそぼそとつぶやかれる言葉の意図が掴めず、百貴はしばらく黙った。鳴瓢は眠気をたっぷり残した瞳で天井を見上げている。彼がまだ寝ぼけているのだと気がついて、百貴は寝床に近づいた。裾をさばいて自分の寝ていたあたりに座り、指先で鳴瓢の髪を撫でてやる。
「よく眠れたか」
「……あぁ。それは。はい」
鳴瓢がまぶしげに目を細めた。
夢ひとつ見なかったです、と唇をほころばせた彼は、しかし、次の瞬間には顔を歪めた。眉が寄せられ、瞳には苦痛の色が燃え上がった。百貴は口をつぐみ、意識して腹に力をためる。猛烈な負の感情に襲われているらしい鳴瓢が声を震わせる。「百貴さん」
「なんだ」
「俺……」
瞳が腕の下に隠れた。唇が噛みしめられる。夢、みなかったです。嗚咽じみた訴えの本質を百貴は嗅ぎ取る。罪悪感のにおいだ。獄を解かれた今も夜ごとに鳴瓢を襲うという悪夢は、彼にとって命綱のようなものだ。苦痛を糧にしてなんとか生き繋いでいる男には、ふとおのれに訪れた穏やかな朝というものが分不相応に感じられているだろう。百貴は鳴瓢から視線を外して障子のほうを見た。窓の外の太陽はここまでのやりとりをしている間にしっかりと昇りきったようで、青白く部屋を染めていた光は白く明るい日差しへと変化している。
快晴の気配だ。
「今度、墓参りに行くんだろ」
つぶやくように尋ねると、ややあって、はい、と縮こまるような声が返事をした。彼が妻子を詣でる日は彼ら家族にとってなんでもない日だと決まっている。親類と顔を合わせて嫌な思いをさせたくないというのが理由だ。彼の判断に意見したい気持ちを抑え、百貴はできる限り静かに語りかける。
「ゆっくり話してくるといい。いいことも、悪いことも。お前がちゃんと生きてると、忘れていないと――知らせてこい」頬には自然と微笑みが浮かんだ。「俺も……そうだな。今年も、椋ちゃんの命日かな」
——われながら、厚顔にもほどがあるが。
百貴が鳴瓢のほうに視線をもどすと、彼もまた百貴を見上げていた。目蓋の奥で光っていた、道に迷った子供の瞳が、まばたきを何度か繰り返すことで、理性からの抑制を身につけた大人の瞳へ変わっていく。鳴瓢の表情は少し無理をした微笑みで変化を終えた。「百貴さん」手が伸びてきて百貴の袂を引く。
「ん?」
「一緒に寝てくれません?」
思考がぴたりと停止する。
怪訝な顔つきになってしまっている自覚を持ちつつ、百貴はものが散乱したままの枕元を見た。生々しい情事の痕跡を睨みつけてうなる。「朝っぱらからお前」
「や、抱きたいとかそういうのはないですって、さすがに。この流れでそれはクズでしょ。百貴さんには昨日たくさんサービスしてもらっちゃいましたし」
「思い出させるな馬鹿」
深く息をついて百貴は鳴瓢の顔を見る。わずかに下がり気味になった眉の下から明るい色の瞳がこちらを覗っている。百貴は失策を悟る――いつものことだが。無言のうちに〝だめですか〟と問いかけるこの顔にほだされなかったためしがない。眉間の皺をいっそう深くするものの、数秒後には揃えた膝を崩していた。鳴瓢が、彼の腰にかかったままの布団を持ち上げる。できた隙間にごそごそと潜り込んだ百貴の背には裸の腕がふたつ絡んだ。鳴瓢の手が満足げに後頭部を撫でていく。百貴は目を閉じる。
「朝飯は食いに出るぞ」
「了解です。どこにします?」
「いつもの喫茶店――は、木曜か。定休だな」
「その次の通りにできたバーガーショップ、何時開店でしたっけ」
「十時だ。確か」
「んじゃ、九時半までは寝ましょ……スマホ、手ぇ届きます? アラーム……」
「九時までだ。風呂に入らせろ。お前も入れ」
「ふふ。はぁい」
すっかりいつもの調子を取りもどした鳴瓢と気の置けないやりとりをして、適当な時間にアラームを設定してからスマートフォンを放り出す。
「ありがとうございます」
耳元で鳴瓢がささやく。
――俺をこうして生かしてくれて、ありがとうございます。
百貴は顔をあげないままで応える。「別に、俺のおかげじゃないさ」
せめて人生が絶望のままで終わらないようにと祈っただけだ。
百貴のわがままを叶え続ける男の鼓動は穏やかだ。
しばしのまどろみは、泣きたくなるほどあたたかかった。