仲良くなれますように「本当はオニタロウのつもりだったって言うんだ」
鬼太郎が何歳ぐらいだっただろうか。学校には行ったり行かなかったりしていた頃だ。大人しく布団に挟まって毛玉だらけの毛布を顔の上まで引き寄せていた。丸い右目だけをこちらに覗かせ、伺うように聞いてきた。「僕の名前ってなんで鬼太郎なんですか」
「また誰かにろくでもないことを言われたのか。どこのどいつだ」
鬼太郎は妖怪のことは目玉の奴に、人間のことは自分に尋ねる。こうやってわざわざ質問してくるってことは近所のクソガキに何か嫌なことでも言われたんだろう。
「そうじゃなくて」
違う、という鬼太郎の説明を聞けば子供らしい素朴な質問だった。今日読んだ本の中で赤ん坊が生まれたらしい。夫婦の間にようやく生まれた子に、夫婦は長生きの願いを込めてとてつもなく長い名前をつけたという。そこでふと気がついたらしい。自分の名前に意味はあるのかと。
妖怪は個体に名前がないことがほとんどだ。鬼太郎は特別に名前があるが、幽霊族は自分以外には目玉となった父しかいないので己の特異性は感じにくい。何の疑問もなく鬼太郎を名乗っていたが、ここにきて急に気になったらしい。
「お前を連れて帰ってきた日のことは何回か話したよな」
毛布の下で鬼太郎は小さく頷いた。あの日のことはせがまれるまま、自分も言いたい気持ちのまま、時折話して聞かせていた。目玉の奴も話してるんじゃないかと思う。なんとなく、あの雨の日のことを思い出すと、今こうして鬼太郎と目玉の奴と暮らしているのを苦しくしかし大切に思えるのだ。
「あの後、おまえに名前をつけようと何回か思ったのだけど思いつかなかったんだ。あの時の俺はおまえのことを何も知らなかったし、目玉の奴の存在も知らなかった」
卓にあった煙草の箱に手をかけ、一本引っ張り出した。
「しばらくは赤ん坊って呼んでたんだが、母さんが名前がないのは困るっつって怒り出したし、なにもないならミケにするとまで言い出した」
ライターを擦るとシュという音とともにガスの匂いが漂うがそれは一瞬、たちまち煙草の煙に置き換わる。
「困った俺は寝そべるおまえを前にうんうん唸ってみたが何も出てこない。深夜まで考えたがやはり何も決めてがない。いつの間にうたた寝していたらしいところでハッと気がつくと赤ん坊のおまえの腹に紙切れが乗っていた。千切れた半紙に汚い鉛筆書きで鬼太郎って書いてあったんだな」
ふう、と煙を吐く。あの時、驚いた自分もこうして鬼太郎を前に煙草に火をつけ、煙を吐いたな、と思い出す。
「分かると思うがあれだ。目玉の奴がこっそり名前を書いてよこしたんだな。まだ俺の前には現れていない時だったから、分からなくて不思議だったが、おまえが生まれて来た時も、連れて帰ってきてからも、不思議なことばかりだったから、名付けの紙が突然現れたことくらい朝飯前だった。墓場で生まれたおまえに相応しい強くて良い名前じゃねえかと、素直に思ったくらいだったんだよな」
そうじゃそうじゃ、と甲高い声で相槌をいれてくる奴は今日はいない。どこか出掛けているらしい。
「それで、きたろう、と俺は呼ぶことにした」
きたろう、と声に出したところで子供は瞬きをしながら大きく頷いた。口元は毛玉に隠されている。少し笑っているかもしれない。
「ところが後になって目玉と話すようになったらな」
短くなった煙草を強く吸い、苦い煙をすぐに吐き出す。灰皿に押しつけた吸い殻からジッと鈍い音がした。
「本当はオニタロウのつもりだったって言うんだ」
その方が強そうだろうって。
「でも、俺はきたろうで良かったと思ってる」
片方しかない丸い目は驚いたように見開いた。溢れそうに大きく、まん丸な可愛らしい目を。
「鬼太郎がこれから人間と妖怪の両方と仲良く豊かに暮らしていくには、人間にも馴染みがあるきたろうの方がいいだろう?漢字はちゃんと強そうなんだし」
手を伸ばし鬼太郎のひたいを撫ぜた。さらさらと気持ちがよく、賢そうな丸いひたいが好きだった。
「だからな、鬼太郎の名前は目玉の奴と俺がつけたんだ。鬼太郎が強くて人間とも妖怪とも仲良くやれるようにって」
分かったか?
尋ねると鬼太郎は目蓋をぎゅっと強くつむり、同時に強く頷いた。
「おまえ、なんで田中ゲタ吉なんて名乗ってんだ?家族なんだから水木でよかっただろ?鬼太郎の名前は目玉と俺がつけたんだぞ?」
「だからです」
「は?」
「家族じゃなくて」
「え?」
「他人というか」
「あ?」
「できれば」
「できれは?」
「こっ、こっ、こっ、こいっ、びとっ、としてっ仲良くなりたくて」
「……………は?」
戸惑う自分の頬を鬼太郎は両手でそっと包んだ。
大きな筋ばった手だった。
そうか。こいつ、もう子供じゃないんだ。