少年時代夢はどうして肝心なところが思い出せないんだろう。最近、たぶん夏になってから見るようになった同じような夢のいちばん見たいところは、いつも陰になってよく見えなかった。もちろん思い出すのも難しい。さほど睡眠を必要としない自分は今まで夢を見ることもまれだった。それだというのにこの数カ月、繰り返し同じ人物が登場する夢を見る。なにかの妖怪かと疑ったが、特に妖気は感じない。まじないや、念力、地獄からの伝言というものでもないようだった。
だいたい夢の内容は自分にしか必要がなさそうで、他の妖怪たちには関係があるものでもない。
害があるわけでもないから放置してもいいのかもしれないけれど、ふとした瞬間に思い出し、居た堪れない心地になった。河原を叫びながら走り回りたい気持ちというか。爆走衝動に加えて、肝心なところが陰としてしか思い出せないもどかしさが加わると、更に胸が詰まり、酷い時には走りながら泣きたい気持ちになるから辟易する。
父さんに相談しようか。父さんなら何でも知っている。
だけど、この夢を父さんに相談するのは違う気がする。恥ずかしいし、なんというか、とにかく違う気がするのだ。別の人がいい。
猫娘は?猫娘は絶対だめだ。この話は猫娘に相談するどころか、こんな問題があるだなんて一毫も気取らせちゃいけない。
誰か、とおもったがてきとうな相手が思い当たらない。
「なあ鬼太郎、飯は無いのかよ。腹減っていったんもめんになりそうだぜ」
そう言って入り込んできたねずみ男につい言ってしまった。
飯ぐらい奢ってあげるから、話を聞いてくれ、って。
「それで?なんだって?悩みがあるならこの俺様が特別に初回無料で相談にのってやろう」
「べつにいいよ」
「話があるって最初に言ったのはオマエだろう?遠慮すんなって。俺とオマエの仲なんだし」
「じゃあさ、ねずみ男は夢って見る?」
「大金持ちになって毎日ご馳走と美人に囲まれる夢か?」
「そうじゃなくて、寝た時に見る夢だよ」
「いやあ、どうかねえ。まあ、そうやってわざわざ質問するってことはおまえさんは見てるんだろ?怖い夢でも見てオネショしてんのか?」
「もう赤ん坊じゃないんだからオネショなんてしないよ」
「ふーん。でも怖いんだろ?」
「怖い夢でもない。そうじゃなくて、夢の中でも寝てるんだ」
「ひとりで?」
相変わらず人の弱いところを感知する能力だけは高いな、と感じ嘆息した。
「ふたり。よく見えないけど」
へえ。ねずみ男が顎に指をかけて声を立てずに笑った。漫画ならにやり、と効果音がつく顔だ。またしょうもないことを考えているんだ。
「こいつはいけねえや。相談料が跳ね上がるぜ?なあ鬼太郎。とりあえずアイスクリームで手を打つからよ」
もちろん鬼太郎の財布だ、とねずみ男は嬉しそうに言った。ばかやろう。
「もういいよ。話は終わりだ」
「でも、困ってんだろ?鬼太郎がそこまで言うってことは、妖怪絡みじゃない。妖怪なら自分で解決するからな」
こちらの顔を覗き込むねずみ男と目をちゃんと合わせられない。図星だからだ。
「ただの夢だ。でも誰かに聞いて欲しい。だからといって親父さんは駄目だ、ときたらこの大親友の俺しかいないだろ。さ、早く言いな」
黙って顔を背けるとクスリと笑った声がした。
「じゃあ、当ててやるけど」
嘘だ。ねずみ男なんかに当てられるわけがない。
「裸だったんでショ」
口が動かない。早く違うと言わないと、ねずみ男が大喜びしてしまう。せめて首を振らないといけないのに、首だってうんともすんともいわなかった。だって当たりなのだ。
「どんな相手だったの?美人?綺麗?かわいい?」
ねずみ男のはしゃぎようは当てずっぽうの質問が的を射たからだけでなく、自分の恋話を聞けたことにもあるようだった。ふだん黄色い目がほんのりピンクに光っている。
ここは答えてはいけない、と思ったのに先ほどとは逆に首が勝手にこくりと動き、肯定した。だって綺麗な人なのだ。
「へえ……鬼太郎もやるねえ……」
顎をしきりに擦ったねずみ男は急に指を立てた。ぴんぽーん!
「でもよ。最初によく見えないって言ってたじゃねえか。なんだあ?照れ隠しか?親友に隠し事はよくねえぞ?」
「そんなんじゃない」
ようやく喋れるようになったと思ったらこれだ。思っていたよりも動揺している自分に驚いた。恥ずかしい。しかも何故だか嘘がつけない。変な術にはまったみたいだ。
このままじゃ本当に相手が誰か分かってしまうだろうか?いや、そんなはずはない。絶対に当たるはずがない。だってそもそも。
「ふーん」
訝しげに自分を見下ろすねずみ男は同時に嬉しそうでもあった。本当にろくでもない。
「あれだ!知ってる子なんだろ!顔が見えなくても分かるくらい!誰?だれだれ?猫娘?」
「違うよ。猫娘を巻き込むなよ」
これは自分でも冷静に答えられたとおもう。こんなことに猫娘を持ち出すのは彼女に失礼すぎる。
「じゃあ砂かけ婆……は流石に違うか」
「だから妖怪のみんなに迷惑をかけるのやめろよ」
「じゃあ人間か」
ニヤニヤしだしたねずみ男が嬉しそうに回転した。ねずみ男が踊ったって可愛くも楽しくもないぞ。
「わーかった!」
「分かるわけないだろ。だからみんなに迷惑かけるなって」
「分かるさ。名探偵を舐めんなよ」
偉そうに腰に手を当てて口を空に向けたねずみ男は直後に僕の顔を覗き込んできた。顔が近い。もう少しでキスしそうだし、くさい。馴染みのにおいだ。
「それさあ」
「うん」
「男だろ」
促すようにゆっくり話すねずみ男に合わせ、ゆっくりと頷いた。答えたくないのに、体が勝手に動く。
満足げに目を細めたねずみ男が舌先で唇を舐めた。
ああ、もう駄目だ。なんで分かったんだろう。
「水木の兄さんだろ」
絶対に答えたくないのに首が勝手に動く。恥ずかしくて苦しくて、でも他人に伝わったことが少しだけ嬉しくて、ぎゅっとつむった目蓋の間から涙が滲んだ。
「見えないのは本当によく見えないんだ」
「ほーん」
「でも夢なのにだんだん感覚が慣れてきて」
「身体で気づいちゃったと」
「だって」
「鬼太郎くんたらいやらしい」
さも嬉しそうに言うねずみ男がにくかった。だって本当にいやらしかったから。
「だって肩に傷があって」
「触ってるじゃない。やっぱりいやらしいでしょ」
もっと色々触ってるんじゃない?と下世話な月型の目をしてねずみ男は聞いた。うるさい。もうそれ以上聞かないでくれ。全部話したら僕は恥ずかしさで死んめしまうだろう。たぶん地獄にも行けやしない。その辺の穴の奥に沈んでしまいたい。
「夢から起きた時、大丈夫なの?」
大丈夫じゃない。大丈夫じゃないから困っていたのに、具体的に説明するのは憚られた。朝から下着を洗わない方法を聞いたらいいのか?
「鬼太郎でも恋話をする時って普通なのな」
「え?」
「照れてるし」
にやにやと嫌らしく笑いながらねずみ男は僕の耳を摘んだ。赤いんだろう。もう恥ずかしくて埋まりたい。
「話したくて仕方ないみたいだったし?」
「そ、」
んなことは、あるかもしれない。ろくでもない結果になるのが分かっていたのにねずみ男を誘ってしまったのも、嘘がつけなかったのも、結局は話したかったのだ。好きな人の話を。
「しかし本当に水木の兄さんのことが好きだったとはねえ」
それは、そこだ。なんで分かったんだろう。
いくら格好いいからって普通は育ててくれた男の人を、そんな、いや、昔から好きだったけど。そうだ。どうせなら認めてしまうのだけど昔から好きだったのだ。
夏のあの日に夢を見るまで自分でもここまで好きなんだとは思っていなかったから。
「話の続きは別料金だな」
疑問が顔に出ていたらしい。めんどくさいな。恋する自分。
「まあ、ずっと前からまるっとお見通しだったってことよ」
おまえは水木の兄やんにだけ、と呟きながらねずみ男は新しい料理を注文した。まだ食うのかよ。